ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』
ジョルジュ・バタイユ(湯浅博雄訳)『宗教の理論』(ちくま学芸文庫、2002年)を読みながら抜書きメモ。
・「…動物性は直接=無媒介=即時性であり、あるいは内在性である。」(21ページ)
・「全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。」(23ページ)
・「ある意味では、世界は根本的な様式においてはまだ明確な境界のない内在性である(存在がある量としての存在の内で判明に区切られないまま流動すること、つまり私は水流の中における水流の定まることのない現存性のことを想い浮かべている)。したがって世界の内部に、一個の事物のように判明に区切られ、境界づけられたある一つの〈最高存在〉を定置することは、まず初めは貧困化することを意味するのである。」(42~43ページ)
※このあたりの感覚は、『荘子』にある〈渾沌の死〉という寓話を念頭に置いて読むと、バタイユのイメージとは必ずしもイコールとは言えないにしても、少なくとも方向性として私にはしっくりくる。同趣旨のことは、以前、大森荘蔵『流れとよどみ』『知の構築とその呪縛』に絡めてこちらに書いたことがある。
・「重要なのは連続性のある秩序から離れて、つまりそこでは諸々の資源の消尽が全て持続する必要性に服従しているような秩序から離脱して、無条件な消尽の激烈さ=暴力性へと移行することである。言いかえれば現実的な事物たちの世界の外へ、その現実性が長期間にわたる操作=作業に由来するのであって、けっして瞬間にあるのではないような世界の外へ出ること──創り出し、保存する世界(持続性のある現実の利益となるように創り出す世界)から外へ出ることが重要なのである。供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。」(63~64ページ)
・「聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが、事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し、脈絡づけようとする。しかしそうした束縛しようとする行為こそがすぐまたそれを奔騰状態へと、すなわち激烈な暴力性へと変えるのである。間断なくそれは堤防を決壊しようと脅かす。純粋な栄光としてある消尽という運動、急激で、波及しやすい運動を、生産的活動に対立させようと脅かすのである。まさしく聖なるものは、森を焼き尽くしながら破壊する炎に喩えられる。」(68ページ)
・「祝祭の真姿をどうしても認識しえないというこの宿命的な誤認のうちに、宗教の根本問題は与えられている。人間とは自らが不分明なうちにそうであるところのもの、つまり判明に区切られていない内奥性を喪失した存在、あるいはさらに拒み、投げ棄てた存在である。意識はもしその諸々の邪魔になる内容から自己をそらさなかったとしたら、最後に明晰となることはできなかったであろう。が、しかし明晰となった意識はそれ自身自らが見失ったものを探究しているのである。ただし明晰な意識がその失ったものに再接近すると、また新たに見失わねばならないのであるけれども。むろんのこと意識が見失ったものは、意識の外にあるのではない。客体=対象(オブジェ)の〔についての〕明晰な意識が自己をそらせるのは、意識それ自身の晦冥な内奥性からなのである。宗教とは、その本質は失われた内奥性を再探究することにあるのだが、結局のところ全体として自己意識であろうとする明晰な意識の努力に帰着するのである。しかしこの努力は空しい。なぜなら内奥性の〔についての〕意識とは、意識がもはや一つの操作ではないような水準、つまり操作とはその結果が持続を当然のこととして含むものであるが、そのような操作ではなくなるレヴェルにおいてしか可能でないから。」(74ページ)
・「本来なら存在しないはずのものであった媒介作用というパラドックスは、ただ単にある内的な矛盾に基づいているというだけではない。それは一般的に、現実秩序を解除することと維持することのうちに矛盾が生じるよう命じているのである。媒介作用から出発して、現実秩序は、失われた内奥性を探究する方向へと服従させられるのであるけれども、しかし内奥性と事物とが深く分離している状態をうけて、それにひき続くのは多様な形での混同なのである。つまり内奥性は──すなわちそれが救済なのであるが──、個体性という様態において、そしてまた持続の様態(操作の様態)において、まるで一個の事物であるかのようにみなされてしまうのである。…このように媒介作用による世界、かつまた救済に関わる仕事=作業による世界とは、そもそも初めからそれ自身の限界を破って横溢するように定められている。」(110~112ページ)
・「…人間が自分自身、自律的な事物に関わる人間になっていくにつれて、これまでよりもさらにいっそう自分自身から遠ざかっていく…。こうした分裂が完了すると、人間の生は決定的にある一つの運動に、つまりもはや彼が命令を下すのではなく、その結果がやがてはついに彼に恐怖を抱かせるような運動に、はっきりと委ねられてしまうのである。」(120~121ページ)
・「神的な生命は直接=無媒介的であり、瞬時なものであるが、認識は宙吊り状態とか待機などを要求する一つの操作なのである。」(127~128ページ)
・「この世界には、取るに足らない瞬間のうちに決定的に消失すること以外の目的=究極を持っているような巨大な企てなどはないのである。事物たちの世界は、それが解消されていく余剰なものとしての宇宙においてはなにものでもないのと同様に、莫大な努力もある唯一の瞬間の取るに足らなさの傍らに置かれるとなにほどでもない。」(134ページ)
※本来、区切り線など不分明な原初的世界を切り分けて、あっちとこっちの区別。他者を切り分け措定することで、自分なるものも認識→「あっち」を“超越性”として外在化。「こっち」は事物の世界→「こっち」の世界で人間は何かを求めて生産に従事(絶対に到達し得ない究極的な目的から切断されたこの世において、欲望を先送り→永遠の生産活動、というイメージは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を想起させる)→もともと無媒介的であったはずの流動的な何かが“有用性”のロジックによって目的(本来、そんなものはないんだけどね)を目指す。つまり、祝祭において消尽されるはずの激烈な暴力性による破壊→この奔騰する暴力性はどこへ行く?→バタイユは『呪われた部分』で普遍経済学なる議論を展開する。
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