メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』
メアリ・ダグラス(塚本利明訳)『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫、2009年)
・「汚穢(ダート)とは本質的に無秩序である。絶対的汚物といったものはあり得ず、汚物とはそれを視る者の眼の中に存在するにすぎない。」…不浄とは秩序を侵すものであり、「従って汚物を排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力なのである」。つまり、汚物への忌避感や恐怖感そのものから排除しようとしているのではなく、汚物という形で眼前に表われた秩序に収斂しきれないものを、一定の形式や世界観の中で脈絡付けて統一的に理解していこうとする試みである(33~34ページ)。
・不潔に関する観念が象徴的体系である点ではヨーロッパ社会も未開社会も変わらない。現代ヨーロッパ社会において汚物は宗教性とは関係ないこと、汚物の捉え方が細菌学や公衆衛生学の知識に支えられていることでは確かに未開社会とは異なるが、「にもかかわらず、我々の汚物に関する観念がこの百五十年間の間に発生したものではないことは、明らかなのだ。我々は、汚物=回避が細菌学によって変形させられる以前の──例えば痰壷に器用に唾を吐くことが非衛生的であると考えられる以前の──汚物=回避の基礎を、分析しようとする努力をしなければならないであろう。」…「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。秩序づけとは、その秩序によって不適当な要素を排除することであるが、そのかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」→汚れとはあくまでも相対的観念なのである(102~103ページ)。汚物とは、ある体系を維持するためにそこには包含されないとみなされたものである。
・そうした象徴的観念の体系は、儀式を通して具体性を持った意味として経験される。「儀式とは事実、創造的なものである。原始的儀式における呪術は…階層的秩序に応じてそれぞれに定められた役割を果す人々を包含する調和的世界を創出するのである。原始的呪術は無意味であるどころか、まさに人生に意味を与えるものであるのだ。」(180~181ページ)
・「秩序を実現するためには、ありとあらゆる素材から一定の選択がなされ、考えられるあらゆる関係から一定の組み合わせが用いられる」。「従って無秩序とは無限定を意味し、その中にはいかなる形式も実現されてはいないけれども、無秩序のもつ形式創出の潜在的能力は無限なのである。」「我々は、無秩序が現存の秩序を破壊することは認めながら、それが潜在的創造能力をもっていることをも認識しているのだ。無秩序は危険と能力との両者を象徴しているのである。」(227ページ)
(※既存の体系から離れた無秩序の残余、そのカオティックな性質が、秩序の側からすれば危険視されると同時に、他方で新たな秩序形成の契機ともなり得る→この論点からカール・シュミットの“例外状態”の議論を連想したのだが、想像の走らせ過ぎか?)
・「穢れとはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の過程すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、始まりと成長との適切な象徴でもあるのだ。」(359~360ページ)
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