李澤藩と石川欽一郎
一昨年、台北の故宮博物院を訪れたとき、たまたま「風城風采──李澤藩百歳紀念畫展」というタイトルの展覧会も開催されていた。メインの展示室にはいつものように観光客がごった返し、特に豚の角煮や白菜の宝石のあたりは中国語や日本語、韓国語に英語まで飛び交う喧騒のただ中に居るだけで頭が痛くなってくる。対して、こちらまで流れてくる人はほとんどいなかった。
李澤藩(1907~1989)生誕百周年の催しだが、この人のことを私は知らなかった。水彩画である。台湾や旅行先の日本、ヨーロッパの風景を描いた、淡くしっとりとした色彩が印象的だった。湖水や木々、建物の輪郭が煙るようにぼやけ、そのどことなくミスティックな感傷は、観ていて心静かに落ち着ける感じがした。
後で調べたところ、李遠哲の父親であることを知った。李遠哲は台湾人として初めてノーベル賞(化学)を受賞、李登輝・陳水扁両政権で中央研究院長を務めた。彼が2000年総統選挙で陳水扁支持を表明して一つの流れを作ったことは記憶していた。
李澤藩は新竹の生まれ、日本統治期の台北師範学校を卒業後、自らも作品を描き続けながら、故郷・新竹でずっと教鞭をとっていた。作風は地味だとみなされたらしいが、水墨画や戦後盛んになった抽象画の技法も取り込もうとするなど積極的な姿勢も持っていた。彼については李澤藩美術館ホームページの他、森美根子「台湾を愛した画家たち⑩李澤藩」(『アジアレポート』335号、2002年3月)、黄桂蘭「風城風采──李澤藩的絵画芸術」(『故宮文物』第295期、2007年10月)を参照した。
李澤藩を水彩画へと誘ったのが、当時、台北師範学校の美術教師であった石川欽一郎(1871~1945)である。私はこの石川の名前も、「風城風采」展会場にあった李澤藩の略歴を示したパネルで初めて見た。日本での知名度は低いが、昨日取り上げた李欽賢『台灣美術之旅』(雄獅図書、2007年)も含め、台湾に西洋画を初めて紹介して多くの弟子を育成した点で台湾美術史を語る上では外せない人物と位置付けられている。
石川については立花義彰編著『日本の水彩画12 石川欽一郎』(第一法規、1989年)、中村義一「石川欽一郎と塩月桃甫──日本近代美術史における植民地美術の問題」(『京都教育大学紀要A人文・社会』76号、1990年3月)、荘正徳「石川欽一郎と台湾の近代美術教育」(『造形美術教育研究』第6号、1993年)、森美根子「台湾を愛した画家たち⑲⑳石川欽一郎(前・後編)」(『アジアレポート』344・345号、2003年9・11月)を参照。
石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入る。職場の後輩には石井柏亭がいた。独学で水彩画を描く。英語に堪能だったので陸軍参謀本部の通訳官となり、1907年に台湾へ赴任、通訳官と兼務で国語学校(後の師範学校)で美術を教える。台湾には1907~1916年、1924~1932年と二度滞在。この間に育てた弟子で主だった名前を挙げると、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎、等々。わけ隔てなく台湾人とも接したので生徒からは慕われ、教官に義務付けられていた官服は着用せず背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。
台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染んだ台湾の人々にとって新鮮だったらしい。石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、“郷土意識”“台湾意識”を強調する論者からは台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されているようだ(石川自身の意図がそこにあったかどうかはともかく)。
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