気まぐれに抜書き
気まぐれに本棚をひっかきまわして、何となく出てきた本を、適当にパラパラめくって、気まぐれに抜書き。特に意味はない。意味はない、という意味はあるのかもしれないけど。
・…根本的な問いは、いかなる定型表現も不可能となるそのときから、人が沈黙のうちに世界の不条理を聴きとるそのときからしか提起されえないものだと思います。/わたしは何が認識可能かを知るためにあらゆる手立てを尽しましたが、わたしが求めたのはわたしの奥深くにある言い表しえないものなのです。わたしは世界の中のわたしですが、その世界はわたしにとっては気の遠くなるほど近づきがたいものだと認めています。というのも、わたしが世界と結ぼうとしたあらゆる絆の中に、何か克服できないものが残っており、そのことがわたしをある種の絶望にとり残すからです。
・思考の対象が至高の瞬間である場合には、思考はその対象から遠ざかってしまいます。至高のものは沈黙の領域にあり、それについて語るとすれば、それを構成している沈黙と渡り合うはめになります。それは喜劇であり、茶番です。…何であれわれわれが何かを求めている瞬間には、われわれは至高に生きているのではありません。われわれは現在の瞬間を、それに続く将来のある瞬間に従属させているのです。…
・思うに、〈知〉はわれわれを隷属させます。あらゆる〈知〉の基盤にはひとつの隷属性がある、つまり〈知〉は根底において、それぞれの瞬間が他の一瞬間ないし後に続く諸瞬間のためにしか意味をもたないような生の様態を受け入れているのです。
・われわれは限定された真理、その意味や構造がある一定の領域でものを言う真理をもっていた。けれどもわれわれは、そこからもっと先に行きたいとつねづね思いながら、わたしがいま入って行こうとしているこの夜という思念に耐えきれずにいた。この夜だけが望ましく、それに較べれば昼とは、思考の開けにひき較べたけち臭い貪欲のようなものである。
・相次いで登場する哲学者たちは、いつも負けてきたのに性懲りもなく次には勝つだろうと信じて疑わない病みつきの賭博者のようなものである。違うのはただひとつ、賭博者のほうがまだしも分別がある…という点だ。
(以上、ジョルジュ・バタイユ[西谷修訳]『非‐知』平凡社ライブラリー、1999年)
・私は、釣りあげた魚を手にとると、そのぞっとする感触に、いきなりそいつを地面へ叩きつけてうち殺すのであった。《何んと云うむごいことを… では何故釣りなどするんです。》だが自然も生物に触れるとき、つねにこうした感じを抱いているに違いない。/生物のもついやらしい感触──。さてその力は、存在へ、さらに思惟へも、拡げられよう。
・遊星が遊星であるとは無意味であるとは、また無意味であろう。
・ひとの悟りなるものは、骰子のごとくである。六が出たぞ。さあ顰め面をしてやれ。
・本心からでもない意味もない嗤いを嗤いながら、この嗤いを誰へ向けようかと考えることがある。
(以上、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年)
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