立石鐵臣のこと
立石鐵臣(1905~1980)の『台湾畫冊』(台北縣立文化中心、1996年)という本をパラパラ眺めたことがある。1996年に台北で開催された「立石鐵臣画伯紀念展」に合わせて刊行された画集である。1962年の署名入り。立石を引き立ててくれた美術評論家・福島繁太郎に捧げたものらしい。台湾での思い出を絵物語にまとめている。
前半部分には庶民の生活光景や民具を題材とした画文が多い。かつて『民俗台湾』で「台湾民俗図絵」として連載されたものである。立石は金関丈夫、池田敏雄、松山虔三、国分直一、中村哲らと共に『民俗台湾』の編集に携わっていた。連載時は白黒の木版画だったが、『台湾畫冊』では水彩画に描き直されている。
赤、黄、緑、青とモザイクのようにくっきりした色遣い、とりわけ赤レンガ家屋の色合いが鮮やかだ。素朴で力強く、しかしのびやかに描かれた線は、必ずしも写実的ではないのだが、どこか人々の雰囲気をしのばせる温もりがある。立石は台北帝国大学理農学部嘱託として昆虫の標本画を描いていて、細密画はもともと得意ではあるが、見た目の正確さよりも感じ取ったものをこのような筆致で描き出しているのか。ただし、大雑把そうに見えても、たとえばお店の描写などは細部までしっかりと描きこまれている。
『台湾畫冊』の後半は、日本の敗戦後も留用という形で台湾に残留して暮らした日々を描いている。編訳館での仕事ぶりや、お向かいに越してきた中国人軍人との交流。立石と付き合いのあった画家・南風原朝光の兄で医師の南風原朝保が引き揚げることになり、携行できる荷物に制限があったため家財道具を置いていかねばならず、立石がその売りさばきを引き受けたシーンもある。当時、日本人の引き揚げに伴ってにわか仕立ての“骨董市”があちこちに現われ、結構掘り出し物が安く入手できたことはよく聞く。立石が日本人形を「安いよ、安いよ」と売ったあと、見ていた日本婦人が寄ってきて「あれは私が作った人形です」と言われ、随分と後味の悪い思いをしたとも記している。
金関丈夫は、南風原朝保やジョージ・H・カーなどの仲間たちと連れ立ってこうした“骨董市”を見て回ったことを回想している(金関丈夫「カーの思い出」『琉球民俗誌』法政大学出版局、1978年)。いずれ置いていかねばならないのが分かってはいても、ついつい買ってしまったそうだ。なお、南風原朝保はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年→こちら)。ジョージ・H・カーは『裏切られた台湾』(川平朝清監修、蕭成美訳、同時代社、2006年)の著者である(→こちら)。
立石は1948年12月5日に日本へと引き揚げた。日本人引揚者としてはほとんど最後の船だったらしい。基隆の港を船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったという。立石は「日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記す。前年、1947年には二・二八事件が起こっており、日本人留用者が煽動したと疑われて帰国が早まったとも言われている。
留用された日本人の生活を描いた“絵物語”としては、他に金関丈夫の筆になる「国分先生行状絵巻」(金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]所収)なんてものもある(→こちら)。立石にしても金関にしても、深刻ぶらずユーモアたっぷり。
立石については、謝里法「立石鐵臣展により想起される幾つかの問題」、森美根子「立石鐵臣の世界」(共に『台湾畫冊』解説編所収)、森美根子「台湾を愛した画家たち(23)(24) 立石鐵臣(前・後編)」(『アジアレポート』348・349号、2004年10月、2005年3月)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)を参照。
立石は父親が総督府の事務官だった関係から台北に生まれ、7歳のとき日本へ渡った。絵が好きだったので川端画学校で学び、さらに岸田劉生、梅原龍三郎に師事。生まれ故郷である台湾を描きたいという思いを募らせ、再び台湾に渡る。1934年には台湾人を中心とした台陽美術協会の創立メンバーとなり、翌年には西川満主宰の創作版画会にも参加。造本・装丁に凝りに凝った愛書家として知られる西川の本の多くは立石が手がけた。そして、金関・池田らの『民俗台湾』の主力メンバーとなり、台湾各地の民俗調査に積極的に赴いた。『民俗台湾』についてはこちらを参照のこと。
戦後の立石の画風は抽象的な幻想画へと一変したらしい。晩年は美学校で細密画を教えるかたわら、昆虫や魚を描く図鑑類の仕事をしていたという。
台湾の美術史家・謝里法は、たとえ日本人であっても台湾という土地で作品を描いたならば“台湾美術”とみなすべきこと、「台展」などの制度から外れたアウトサイダーも認めるべきだといった理由を挙げて立石を評価している。
立石鐵臣についてのドキュメンタリーを制作している方からメールをいただき、結局、私はお役に立てず心苦しく感じているのだが、完成を楽しみに期待している次第。
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