戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。
以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。
なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。
謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。
1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。
1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。
同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)
日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。
謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。
“漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。
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