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2009年10月

2009年10月31日 (土)

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』、森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)

 戦後間もなくの暴力団抗争や朝鮮総連と民団との対立といった話題の中で東声会の名前をよく見かけ、気になっていたので本書を手に取った。町井久之こと鄭建永(1923~2002年)の生涯を通して描かれた戦後日韓関係の裏面史である。力道山、児玉誉士夫、朴正熙政権をはじめ様々な人脈関係が見えてくるのが興味深い。

 冒頭、町井の書斎のシーンから始まるが、哲学や美術に関心を寄せる彼の内面と暴力団の親玉という世間的なイメージとのギャップが印象に残る。本当は画家になりたかったが、成り行きから“任侠”の世界に飛び込まざるを得なかったという。東声会は朝鮮総連への対抗上、東洋倫理思想を基盤に反共を旗印とした政治運動のつもりで組織したらしいが、武闘抗争で頭角をあらわすにつれて暴力団として一般に認知されてしまった。

 町井の関連企業や団体に“東亜”という言葉が入っているのが目を引く。彼は若い頃、石原莞爾の東亜連盟に共鳴していた。東亜連盟は各民族の政治的自治と対等な協力関係をスローガンとして掲げていたため朝鮮人にも信奉者が多かったことは阿部博行『石原莞爾』(法政大学出版局、2005年→こちら)で知った(町井に東亜連盟の思想を伝えた曺寧柱は、極真空手の大山倍達に空手の手ほどきをしたことでも知られている。大山も東亜連盟に参加していた)。現在の視点からは東亜連盟を全面的に肯定するのは難しいかもしれない。しかし、日本では差別を受けながらも日本名を名乗って生きざるを得なかった一方で、韓国への愛国心を両立させるという矛盾、そこに何とか一つの納得を与えようとする町井たちの葛藤の受け皿となっていた点については再考の余地があるようにも思われる。

森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』(新潮社、2008年)

 本書の大半では戦後日本における政財界の裏人脈が細かに描写される。その中で、差別、スラムといった生い立ちの原風景を起点に、チンピラから身を立てのし上がっていく許永中(1947年、大阪生まれ)の軌跡をたどる。正規のルートでは出世などおぼつかず、裏社会に活動の舞台を求めねばならなかったわけだが、「俺は悪漢ではあっても詐欺師ではない!」という彼のプライドが目を引く。許は町井久之にあこがれていたのではないかという指摘もあった。“日韓の架け橋”を夢見て、日韓間に就航するフェリー会社の社長になろうとしたあたりには町井と共通したこだわりも見出される。

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2009年10月30日 (金)

メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』

メアリ・ダグラス(塚本利明訳)『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫、2009年)

・「汚穢(ダート)とは本質的に無秩序である。絶対的汚物といったものはあり得ず、汚物とはそれを視る者の眼の中に存在するにすぎない。」…不浄とは秩序を侵すものであり、「従って汚物を排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力なのである」。つまり、汚物への忌避感や恐怖感そのものから排除しようとしているのではなく、汚物という形で眼前に表われた秩序に収斂しきれないものを、一定の形式や世界観の中で脈絡付けて統一的に理解していこうとする試みである(33~34ページ)。

・不潔に関する観念が象徴的体系である点ではヨーロッパ社会も未開社会も変わらない。現代ヨーロッパ社会において汚物は宗教性とは関係ないこと、汚物の捉え方が細菌学や公衆衛生学の知識に支えられていることでは確かに未開社会とは異なるが、「にもかかわらず、我々の汚物に関する観念がこの百五十年間の間に発生したものではないことは、明らかなのだ。我々は、汚物=回避が細菌学によって変形させられる以前の──例えば痰壷に器用に唾を吐くことが非衛生的であると考えられる以前の──汚物=回避の基礎を、分析しようとする努力をしなければならないであろう。」…「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。秩序づけとは、その秩序によって不適当な要素を排除することであるが、そのかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」→汚れとはあくまでも相対的観念なのである(102~103ページ)。汚物とは、ある体系を維持するためにそこには包含されないとみなされたものである。

・そうした象徴的観念の体系は、儀式を通して具体性を持った意味として経験される。「儀式とは事実、創造的なものである。原始的儀式における呪術は…階層的秩序に応じてそれぞれに定められた役割を果す人々を包含する調和的世界を創出するのである。原始的呪術は無意味であるどころか、まさに人生に意味を与えるものであるのだ。」(180~181ページ)

・「秩序を実現するためには、ありとあらゆる素材から一定の選択がなされ、考えられるあらゆる関係から一定の組み合わせが用いられる」。「従って無秩序とは無限定を意味し、その中にはいかなる形式も実現されてはいないけれども、無秩序のもつ形式創出の潜在的能力は無限なのである。」「我々は、無秩序が現存の秩序を破壊することは認めながら、それが潜在的創造能力をもっていることをも認識しているのだ。無秩序は危険と能力との両者を象徴しているのである。」(227ページ)
(※既存の体系から離れた無秩序の残余、そのカオティックな性質が、秩序の側からすれば危険視されると同時に、他方で新たな秩序形成の契機ともなり得る→この論点からカール・シュミットの“例外状態”の議論を連想したのだが、想像の走らせ過ぎか?)

・「穢れとはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の過程すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、始まりと成長との適切な象徴でもあるのだ。」(359~360ページ)

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2009年10月29日 (木)

ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』

ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)

 ある国民国家に属する者は誰もが同じ言葉を使わねばならない、そうした考え方が確立したのはフランス革命期であったというのはもはや通説か(たとえば、田中克彦『ことばと国家』[岩波新書、1981年]を参照)。言語と共同体との関係に焦点を合わせた本書も基本的にこの枠組みに立つが、同時にそれ以前(フランス革命以降を“近代”とするなら、それ以前の“近世”)からの言語形態や民族概念における連続的かつ複雑な因果関係に目を向ける。“共同体”や“民族”というのも定義の非常に難しい言葉だが、そこに込められた「われわれ」意識の一つの指標として機能する言語の役割を歴史的に検討していると言えるだろう。ヨーロッパ諸語を中心に豊富な具体例を盛り込みながら、多様な言語のせめぎ合いを描き出しているところが興味深い。

・ラテン語から俗語へと遷り変わるダイナミズムの描写が本書の骨格。
・ダイグロシア(社会階層的分離言語)としてのラテン語:エリートの使用、権威、特定の国の言語ではないという中立性→外交上の国際語。日常生活からの乖離感→普遍性。伝統の自覚→死者・生者をひっくるめた共同体の一員という感覚。
・宗教改革→日常語で典礼を行う→宗教領域と日常生活との距離を縮めた。
・エラスムスは文人エリートの世界に向けて意見を発表するためにラテン語を選び、ルターは普通の階層を対象にメッセージを送ろうとしたのでドイツ語を選んだ。
・正統派からの反発があったためラテン語には新しい思想や事物を表現する語彙がなく、また職人層が科学的議論に加わるようになった→学術語としてのラテン語の衰退。

・俗語の広がり→それぞれの言語において標準化が必要となった。①空間的均質性。②時代を超えた固定性(→アカデミーの設立)がないとラテン語に匹敵する権威を持ち得ない。
・「俗語の標準形とは、新たな共同体の価値を表現するものだった。その共同体とは、ラテン語の学識文化だけでなく地方の民衆的な方言文化とも異なる新興勢力であり、俗人エリート層の民族的な共同体であった。」(124ページ)
・俗語への翻訳→抽象的な表現に堪えるかどうか?

・俗語の標準語化は印刷本の登場以前から始まっていた。印刷はこうした変化の原因というよりも触媒としての役割。
・「標準語化は、意図的な言語計画に多少は負うところがあったが、国語の統一についてはいえば、印刷媒体や、宮廷や都市の興隆といった、人的な規制の及ばない力が果たしたところのほうがむしろ大きかったと言えるように思う。」(152ページ)

・ピジン語:母語話者を持たない言語で、異なる言語共同体の人々が互いのコミュニケーションのため簡略化された言語。クレオール語:そうしたピジン語が母語話者を獲得して複雑化した言語。
・近年、グローバリゼーションにおける英語の各言語への浸透が指摘されるが、地球規模における言語の混合はすでに近世には頻繁に生じていた(具体例を提示)。
・近代言語学習への関心の高まり→それは利害関係ばかりでなく、ラテン語の衰退により相互学習の必要に迫られた。

・フランス革命以降、「民族国家」生成の道具としての言語。意図的な言語政策はこれ以降。
・初頭義務教育で俗語を用いられる。「学校では、地元の共同体やその言語についてはないがしろにされ、国語と国民国家が学ばれたのである。」「言語は政治的自治の象徴、政治的戦いの武器となり、学校がその舞台になることもあった。」(237~238ページ)
・19世紀は民族主義と結び付いた言語的な純化主義運動が活発。アカデミーではなく政府が直接介入。

・翻訳では、英語経由音ではなく現地語音による表記に注意が払われている。

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2009年10月28日 (水)

喜安朗『パリ──都市統治の近代』

喜安朗『パリ──都市統治の近代』(岩波新書、2009年)

 サブタイトルから分かるように、ゆっくりカフェオレでも飲みながら、というタイプの本ではない。現在のパリの街並はナポレオン三世の時代のセーヌ県知事・オスマンによって原型が作られたわけだが、本書が描くのはそこに至るまでのいわば前史である。絶対王政からフランス革命を経て第二帝政まで、社会思想の担い手としての民衆生活史に主たる関心が置かれている。

 当初は、王権or政治権力と結び付いた中間団体としての社団(同業組合等)が一定のコントロール→人口の増加・流動化→不安定化→社団の解体→民衆レベルでアソシアシオンの生成→民衆蜂起の主体となる。19世紀半ば、パリの民衆蜂起鎮圧とアルジェリア征服とが同時進行していた(パリの貧民をアルジェリアに送って植民させる計画のあったことも指摘される)→フランス植民地帝国の首都となり、それはナポレオン三世の登場、オスマンによるパリ改造と軌を一にしていたと結ばれる。“ポリス”に焦点が合わされるが、昔は警視が街にとけこんで仲裁役のような役割を果たしていたというのはちょっと興味深い。

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2009年10月27日 (火)

レオ・T・S・チン『“日本人”化:植民地期台湾とアイデンティティ形成の政治』

Leo T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation, University of California Press, 2001

・日本の帝国主義が西欧のそれとは異なる特徴:①資本なき帝国主義。つまり、資本主義の発展段階として捉えるマルクス主義理論はあてはまらず、むしろ西欧との競争に動機付けられた側面が強い。②同じ“アジア”としての近さ。ただし、西欧との相違をあまり強調しすぎると、帝国主義としての支配形態における共通の部分が見過ごされてしまう。

・脱植民地化過程における日本人の不在:日本は敗戦によって領土を喪失したため、英・仏のように植民地独立→脱植民地化の過程を自分たちの問題として考える機会がなかった。

・植民地期台湾における民族意識:中国(大陸における民族主義の動向)、日本(植民地当局の態度)、政治思潮(リベラリズム、マルクス主義等)、運動者自身の階級的意識(郷紳層か、労働者か、総督府に妥協的か抵抗的か)などといった所与の様々な構造・要因の組み合わせによって関係依存的→条件に応じて可変的な性格を持つ→本質主義に還元し得るものではない(中国民族主義も、台湾民族主義も、それぞれ態度は異なって見えるが、民族意識を本質主義的に捉える傾向が強く、両者を批判する視点)。

・蒋渭水の発言を引用→中国人意識を持つと同時に、それは日本の植民地社会における台湾という特殊性をも意味していることを指摘→こうした意識のあり方は、自民族・他民族の二元論では捉えられない。

・“同化”と“皇民化”との相違を本書は強調:建前では内地延長主義という名目で同じ日本国民であることを標榜しつつも、実際には台湾人は差別待遇を受けており、“同化”は、差別を残したまま“日本人”になることを強要するという矛盾を覆い隠すイデオロギーとして作用した。この段階では、台湾人を“日本人”にすることは植民地当局の政策上の責任であり、そうした施策に直面して台湾人の心中には葛藤。いいかれば、複数のアイデンティティを引きずり、それらが両立していることから葛藤があった。対して、“皇民化”は、こうした複数のアイデンティティの葛藤そのものを打ち消し、“日本人”意識への単一化。この内面化は、被植民者自身によって行なわれた。身体的儀礼を通した規律も指摘される。何よりも、戦争が激化するにつれて、「日本人として生きる」のではなく「日本人として死ぬ」ことが強調された。“日本人”になることで現実の差別は克服されるという意識(とりわけ、植民地ヒエラルキーにおいて最下層に位置付けられた原住民系にこうした思いが強かった)。植民地下において、日本人か台湾人か→“皇民”、こうした形でアイデンティティ形成におけるアンビヴァレンスそのものを打ち消し、単一化を図られたところに、“皇民化”イデオロギーの植民地的抑圧を指摘。

・霧社事件をきっかけに原住民の問題が注目を浴びる→彼らに同情的な見解にも“野蛮”‐“文明”の二元的言説が表われていることを指摘。
・「呉鳳の物語」と「サヨンの鐘」:「呉鳳の物語」は、原住民=“野蛮”→日本人と漢族系を読み手として想定。対して、「サヨンの鐘」では原住民少女の犠牲的精神→漢族か原住民かは問わず、等しく太平洋戦争へ動員されていく時代背景。

・最終章では、主体の内面における葛藤というだけでなく外的・時系列的な影響で左右される様をうかがうため、呉濁流『アジアの孤児』を取り上げ、台湾・日本・中国大陸と空間的に渡り歩くところから、民族主義・植民地主義の境界を越えていく生身の動きを読み取ろうとする。

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2009年10月26日 (月)

今日マチ子『100番目の羊』『みかこさん』

 前にも書いたことあるけど、今日マチ子『センネン画報』(太田出版、2008年)が結構お気に入り。この本のもとになったブログ「今日マチ子のセンネン画報」も時折のぞいている。ふらりと書店に寄ったら、新刊で『100番目の羊』(廣済堂出版、2009年)と『みかこさん 第1巻』(講談社、2009年)が店頭の新刊平台に並んで積まれていた。迷わず購入。両方とも、女子高生の成長物語、といったところ。オビにある「胸キュン青春ストーリー」(苦笑)みたいなのはちょっと私の趣味じゃないんで、ストーリーはすっとばして、ピンポイントで絵だけ眺める。軽いノリで高校時代の日常が描かれつつ、その生活光景をほのかに捉えていく感傷的な色合いが好き。ラフだけど繊細な線、それを包み込むような淡い水色の背景が何とも言えず良い。落ち着いた透明感があるというのかな。胸がスーッとするような心地よさを感じる。

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2009年10月25日 (日)

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)

 1921年、安田財閥の総帥・安田善次郎が刺殺され、手を下した青年・朝日平吾もその場で自ら喉を切って自死した。その後に続くテロ事件の先駆けとされた事件である。本書は、この無名であった一青年の抱えていた鬱屈から、現実社会の不合理によってしわ寄せされた不遇への怨恨、承認願望の挫折といった実存的不安をすくい取り、そこに現代日本社会にも漂う世相的な不安感を重ね合わせる。赤木智弘「希望は、戦争」が執筆の動機となっているらしい。

 私の勝手な思い込みだが、政治思想史に関心を寄せる人には、大雑把に言って丸山眞男タイプと橋川文三タイプがあると思っている。丸山が高踏的、悪く言えば上から目線なのに対して、橋川は彼自身が軍国少年だったことをどのように捉え返すかという切迫した思いを動機としていたことから、ある人物の思想を検討するにも内在的な感受性まで迫ろうとした。本書も橋川の『昭和維新試論』(私も思い入れのある本で、以前にこちらで取り上げた。ちくま学芸文庫版の解説は中島岳志)を議論の手掛かりとしていることからうかがえるように、著者は明らかに橋川タイプだ。本書の視点への賛否はともかくとして、こうした切実さを持った対象への迫り方には好感を持っている。

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山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』

山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』(草思社、2009年)

 田中角栄といえば、「日本列島改造論」及びその裏面としての土建屋政治、外交面では日中国交正常化の印象が強い。対して、本書が注目するテーマは資源外交である。若き日の角栄が理化学研究所の大河内正敏と接点があったというのは意外だった。大河内の「農村の機械工業化論」が角栄の「日本列島改造論」の源流となっているらしい。角栄は理研の科学者たちの議論を横目にしながら開発主義的な感覚を身に付けた。本書では、角栄の基本的な発想としての「モノと生活」、それを支えるにエネルギー資源の確保という考え方を縦軸に据え、彼が直面せざるを得なかった国際政治が横軸に据えられる。田中角栄を外交史の観点から捉え返していくのは非常に興味深いテーマだと思う。

 石油をめぐっては親アラブに舵を切った。原子力エネルギーをめぐってはフランス・西ドイツ等のヨーロッパ勢と手を組もうとする。こうした角栄の独自外交はアメリカの癇に障る行動であった。アメリカの政権中枢と直結していた岸信介・佐藤栄作らとは異なり、角栄はキッシンジャーと正面きってわたり合う。しかしながら、資源戦略は安全保障政策と密接な関わりを持つ以上、日本はどうしても難しい立場に置かれてしまう。アメリカ側の反撃に抗しきれず、憔悴していく角栄の姿が痛々しい。アメリカは核不拡散という大義名分を掲げてヨーロッパ勢が行なおうとしていた原子力施設の売込みに抑制をかけようとするが、他方で、それは一部の国への核の集中を意味してしまうという矛盾も指摘される。

 本書とは直接には関係ない話になるが、戦争体験と戦後の高度経済成長との精神史的なつながりを浮き彫りにしてくれるようなテーマはないかという関心がある。もちろん、1940年体制とか、旧満州国における産業政策が戦後に生かされたといった議論はある。そうした政策構想上の連続性にも興味はあるが、もっと精神史的なレベルと言ったらいいのか。例えば、佐野眞一『カリスマ』で示された、不条理を嘗め尽くした戦場体験がダイエー・中内功の原点になったという視点を思い浮かべている。田中角栄も含めて、そういう感じのコンテクストで捉えられるテーマはないものか、と。漠然としたイメージしかないので、どう表現したらいいのか難しいのだが。

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2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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2009年10月23日 (金)

ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』

ジョルジュ・バタイユ(湯浅博雄訳)『宗教の理論』(ちくま学芸文庫、2002年)を読みながら抜書きメモ。

・「…動物性は直接=無媒介=即時性であり、あるいは内在性である。」(21ページ)
・「全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。」(23ページ)

・「ある意味では、世界は根本的な様式においてはまだ明確な境界のない内在性である(存在がある量としての存在の内で判明に区切られないまま流動すること、つまり私は水流の中における水流の定まることのない現存性のことを想い浮かべている)。したがって世界の内部に、一個の事物のように判明に区切られ、境界づけられたある一つの〈最高存在〉を定置することは、まず初めは貧困化することを意味するのである。」(42~43ページ)

※このあたりの感覚は、『荘子』にある〈渾沌の死〉という寓話を念頭に置いて読むと、バタイユのイメージとは必ずしもイコールとは言えないにしても、少なくとも方向性として私にはしっくりくる。同趣旨のことは、以前、大森荘蔵『流れとよどみ』『知の構築とその呪縛』に絡めてこちらに書いたことがある。

・「重要なのは連続性のある秩序から離れて、つまりそこでは諸々の資源の消尽が全て持続する必要性に服従しているような秩序から離脱して、無条件な消尽の激烈さ=暴力性へと移行することである。言いかえれば現実的な事物たちの世界の外へ、その現実性が長期間にわたる操作=作業に由来するのであって、けっして瞬間にあるのではないような世界の外へ出ること──創り出し、保存する世界(持続性のある現実の利益となるように創り出す世界)から外へ出ることが重要なのである。供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。」(63~64ページ)
・「聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが、事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し、脈絡づけようとする。しかしそうした束縛しようとする行為こそがすぐまたそれを奔騰状態へと、すなわち激烈な暴力性へと変えるのである。間断なくそれは堤防を決壊しようと脅かす。純粋な栄光としてある消尽という運動、急激で、波及しやすい運動を、生産的活動に対立させようと脅かすのである。まさしく聖なるものは、森を焼き尽くしながら破壊する炎に喩えられる。」(68ページ)

・「祝祭の真姿をどうしても認識しえないというこの宿命的な誤認のうちに、宗教の根本問題は与えられている。人間とは自らが不分明なうちにそうであるところのもの、つまり判明に区切られていない内奥性を喪失した存在、あるいはさらに拒み、投げ棄てた存在である。意識はもしその諸々の邪魔になる内容から自己をそらさなかったとしたら、最後に明晰となることはできなかったであろう。が、しかし明晰となった意識はそれ自身自らが見失ったものを探究しているのである。ただし明晰な意識がその失ったものに再接近すると、また新たに見失わねばならないのであるけれども。むろんのこと意識が見失ったものは、意識の外にあるのではない。客体=対象(オブジェ)の〔についての〕明晰な意識が自己をそらせるのは、意識それ自身の晦冥な内奥性からなのである。宗教とは、その本質は失われた内奥性を再探究することにあるのだが、結局のところ全体として自己意識であろうとする明晰な意識の努力に帰着するのである。しかしこの努力は空しい。なぜなら内奥性の〔についての〕意識とは、意識がもはや一つの操作ではないような水準、つまり操作とはその結果が持続を当然のこととして含むものであるが、そのような操作ではなくなるレヴェルにおいてしか可能でないから。」(74ページ)

・「本来なら存在しないはずのものであった媒介作用というパラドックスは、ただ単にある内的な矛盾に基づいているというだけではない。それは一般的に、現実秩序を解除することと維持することのうちに矛盾が生じるよう命じているのである。媒介作用から出発して、現実秩序は、失われた内奥性を探究する方向へと服従させられるのであるけれども、しかし内奥性と事物とが深く分離している状態をうけて、それにひき続くのは多様な形での混同なのである。つまり内奥性は──すなわちそれが救済なのであるが──、個体性という様態において、そしてまた持続の様態(操作の様態)において、まるで一個の事物であるかのようにみなされてしまうのである。…このように媒介作用による世界、かつまた救済に関わる仕事=作業による世界とは、そもそも初めからそれ自身の限界を破って横溢するように定められている。」(110~112ページ)

・「…人間が自分自身、自律的な事物に関わる人間になっていくにつれて、これまでよりもさらにいっそう自分自身から遠ざかっていく…。こうした分裂が完了すると、人間の生は決定的にある一つの運動に、つまりもはや彼が命令を下すのではなく、その結果がやがてはついに彼に恐怖を抱かせるような運動に、はっきりと委ねられてしまうのである。」(120~121ページ)

・「神的な生命は直接=無媒介的であり、瞬時なものであるが、認識は宙吊り状態とか待機などを要求する一つの操作なのである。」(127~128ページ)

・「この世界には、取るに足らない瞬間のうちに決定的に消失すること以外の目的=究極を持っているような巨大な企てなどはないのである。事物たちの世界は、それが解消されていく余剰なものとしての宇宙においてはなにものでもないのと同様に、莫大な努力もある唯一の瞬間の取るに足らなさの傍らに置かれるとなにほどでもない。」(134ページ)

※本来、区切り線など不分明な原初的世界を切り分けて、あっちとこっちの区別。他者を切り分け措定することで、自分なるものも認識→「あっち」を“超越性”として外在化。「こっち」は事物の世界→「こっち」の世界で人間は何かを求めて生産に従事(絶対に到達し得ない究極的な目的から切断されたこの世において、欲望を先送り→永遠の生産活動、というイメージは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を想起させる)→もともと無媒介的であったはずの流動的な何かが“有用性”のロジックによって目的(本来、そんなものはないんだけどね)を目指す。つまり、祝祭において消尽されるはずの激烈な暴力性による破壊→この奔騰する暴力性はどこへ行く?→バタイユは『呪われた部分』で普遍経済学なる議論を展開する。

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2009年10月22日 (木)

気まぐれに抜書き

 気まぐれに本棚をひっかきまわして、何となく出てきた本を、適当にパラパラめくって、気まぐれに抜書き。特に意味はない。意味はない、という意味はあるのかもしれないけど。

・…根本的な問いは、いかなる定型表現も不可能となるそのときから、人が沈黙のうちに世界の不条理を聴きとるそのときからしか提起されえないものだと思います。/わたしは何が認識可能かを知るためにあらゆる手立てを尽しましたが、わたしが求めたのはわたしの奥深くにある言い表しえないものなのです。わたしは世界の中のわたしですが、その世界はわたしにとっては気の遠くなるほど近づきがたいものだと認めています。というのも、わたしが世界と結ぼうとしたあらゆる絆の中に、何か克服できないものが残っており、そのことがわたしをある種の絶望にとり残すからです。

・思考の対象が至高の瞬間である場合には、思考はその対象から遠ざかってしまいます。至高のものは沈黙の領域にあり、それについて語るとすれば、それを構成している沈黙と渡り合うはめになります。それは喜劇であり、茶番です。…何であれわれわれが何かを求めている瞬間には、われわれは至高に生きているのではありません。われわれは現在の瞬間を、それに続く将来のある瞬間に従属させているのです。…

・思うに、〈知〉はわれわれを隷属させます。あらゆる〈知〉の基盤にはひとつの隷属性がある、つまり〈知〉は根底において、それぞれの瞬間が他の一瞬間ないし後に続く諸瞬間のためにしか意味をもたないような生の様態を受け入れているのです。

・われわれは限定された真理、その意味や構造がある一定の領域でものを言う真理をもっていた。けれどもわれわれは、そこからもっと先に行きたいとつねづね思いながら、わたしがいま入って行こうとしているこの夜という思念に耐えきれずにいた。この夜だけが望ましく、それに較べれば昼とは、思考の開けにひき較べたけち臭い貪欲のようなものである。

・相次いで登場する哲学者たちは、いつも負けてきたのに性懲りもなく次には勝つだろうと信じて疑わない病みつきの賭博者のようなものである。違うのはただひとつ、賭博者のほうがまだしも分別がある…という点だ。
(以上、ジョルジュ・バタイユ[西谷修訳]『非‐知』平凡社ライブラリー、1999年)

・私は、釣りあげた魚を手にとると、そのぞっとする感触に、いきなりそいつを地面へ叩きつけてうち殺すのであった。《何んと云うむごいことを… では何故釣りなどするんです。》だが自然も生物に触れるとき、つねにこうした感じを抱いているに違いない。/生物のもついやらしい感触──。さてその力は、存在へ、さらに思惟へも、拡げられよう。

・遊星が遊星であるとは無意味であるとは、また無意味であろう。

・ひとの悟りなるものは、骰子のごとくである。六が出たぞ。さあ顰め面をしてやれ。

・本心からでもない意味もない嗤いを嗤いながら、この嗤いを誰へ向けようかと考えることがある。
(以上、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年)

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2009年10月20日 (火)

『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』

ラビア・カーディル、アレクサンドラ・カヴェーリウス(水谷尚子・監修、熊河浩・訳)『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝──中国に一番憎まれている女性』(ランダムハウス講談社、2009年)

 “ウイグルの母”ラビア・カーディルからドイツ人ジャーナリストが話を聞いてまとめられた自伝。原著はドイツ語。以前に英訳版Rebiya Kadeer with Alexandra Cavelius, Dragon Fighter: One Woman’s Epic Straggle for Peace with China(Kales Press, 2009)を読んだが、日本語訳の新刊が出たので改めて手に取った。訳文はこなれていて読みやすい。原著には誤り、誇張した箇所等が散見されるそうで、それは監修者によって訂正されている。物語風の構成となっているが、文革、グルジャ事件、獄中の様子等も含め漢族優位の社会体制の中でウイグル人が置かれている深刻な状況が描かれている。彼女の生い立ちを通して、東トルキスタン現代史を知る上でも手引きとなるだろう。英訳版を読んだときには、ラビア女史が状況改善のため女性のエンパワーメントに尽力していたことに関心を持った趣旨のコメントをこちらに書いた。

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2009年10月19日 (月)

龍應台『大江大海 一九四九』

龍應台《大江大海 一九四九》天下雑誌、2009年

 先日、台北の書店をのぞいたらベストセラーとなっているようなので購入した本。

 台湾に流入した外省人のある世代では名前に“港”や“台”の一字を持つ人が多いらしい。国共内戦に敗れて難民となり、香港の収容所で生まれた子供に“港”、台湾に逃れてから生まれた子供に“台”の字をつけたのだという。台湾生まれ、外省人二世の女流作家・龍應台の名前にもそうした事情がある(ちなみに、ジャッキー・チェンの本名は陳港生という)。

 1945年に戦争が終わり、1949年に中華人民共和国が成立するまでの間、平和の息吹を味わういとまもなく、実におびただしい人々の移動があった。戦火に追われて山を越え、海を渡り、ほんのわずかのタイミングの差や判断の相違で肉親と離れ離れとなり、場合によっては死に別れてしまう。自分の力ではどうにもならない過酷な運命に翻弄された有名無名の人々の中に、著者自身の両親の姿もあった。1949年に至る混乱期にいったい何があったのか? 両親の故郷を訪ねて大陸を歩いたのを皮切りに、当時を生き延びた多くの人々から話を聞き取りながら、大文字の“正史”に現われることのなかった生身の歴史を描き出そうとしたノンフィクションである。

 1948年の長春攻囲戦で、林彪率いる人民解放軍が国民党軍や一般市民も含めて数十万単位で大量の餓死者を出したことは初めて知った。南京大虐殺やレニングラード攻囲戦は歴史の教科書に載っているのに、なぜこの大量虐殺には目をつぶるのか?と著者は疑問を投げかける。このため、本書は大陸では発禁となったらしい。

 台湾接収で上陸した国民党軍のみすぼらしい姿は、蒋介石政権の政治腐敗と重ねあわされた一つの象徴的なイメージとして語り草になっている。だが、その兵隊たちだって好きこのんでやって来たわけではない。大陸でさらわれて無理やり兵隊にさせられた、ただの庶民が多かった。家族と生き別れた彼らの苦悩にも目配りされる。幼い頃、命の恩人とも言うべきお医者さんが二・二八事件で公開処刑されるのを目の当たりにしたことを現・副総統の蕭萬長が語っているのも印象に残った。

 国民党に徴発されて国共内戦で大陸に送られた卑南(プユマ)族の老人たち。人民解放軍の捕虜となって向こうで暮らし、一人は朝鮮戦争にまで従軍した。台湾に戻ったのは1992年である。少し時間を遡れば、日本軍に徴発された高砂義勇隊のことも思い浮かぶ。それから、日本軍の軍属として捕虜収容所の看守となり(南洋ばかりでなく南京にもいた)、戦後は戦争犯罪人として有罪判決を受けた台湾人のこと。

 旧満州国の荒野から南洋諸島まで俯瞰すると途方もくれるような広がりの中で、様々な人生、しかも残酷なまでに哀しい宿命が交錯していた。スパイ容疑で母親が処刑された外省人・王澆波、父親が日本軍の軍医として戦死していたため戦後は肩身の狭い思いをした鄭宏銘。彼ら二人のエピソードをつづった後にこう結ばれる。心に秘められた言い知れぬ傷のありかは異なっても、みんな台湾人である、と。そこには、根無し草意識を抱える著者自身の想いも重ねあわされているはずだ。

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2009年10月18日 (日)

10月10日 新竹へ

【出発】
・先週、連休を使ってちょっと台湾へ。成田10:00発(日本時間)→桃園12:30過ぎに着(台湾時間)のJAL。
・今日は国慶節だからか、あちこちで青天白日旗が翻っていた。高速バスで台北駅まで出てMRTに乗り、西門駅へ。宿舎にたどり着いたのは15:00頃。西門町のど真ん中、駅を出て3分ほど、路地を少し入ったところ。立地条件が良い割りに料金は安かったが、窓のない部屋だった。寝るだけだからいいか。

【新竹へ】Photo
・新竹へ行く。台北15:30発→新竹17:02着の莒光号。一応、車内に携帯電話の使用はお控えくださいという注意書きはあるが、携帯電話の声が無遠慮にとびかう。
・車窓の風景をぼんやり眺めるのが好き。青々とした草はらに木立の光景が見えた。ふと、侯孝賢監督「冬冬の夏休み」のワンシーンを思い浮かべた。あれは苗栗が舞台だったとは思うが、風景としては続いているのだろう。Photo_6
・新竹の駅舎は日本統治期の建物を現在でも使っている(上の写真)。駅前にはイベントができる広場があり、屋台も並ぶ。線路があった。かつての軽便鉄道か何かの跡だろうか。花蓮でもかつて軽便鉄道だった線路跡をそのまま細長い公園に整備されているのを見かけたことがある。Photo_7
・まず、李澤藩美術館に足を運んだ。開館は金土日の18時までということは事前に調べてあった。李澤藩(1907~1989年)は水彩画家である。彼については以前にこちらで触れた。新竹駅から歩いて5分ほど、繁華街の大通りに面した建物の3階。かつて李の自宅のあったところらしい。他の階にはテナントが入っており、階段をのぼる途中の2階には若者向けのヘアサロン。写真で煌々と明かりがついているのがそれだ。
・芳名帳に記入して入館。アマチュア向けの賞の入選作の展覧会をやっていた。地元の美術サロンという位置付けか。李澤藩自身の作品は片付けられて数点しか見られなかった。奥の方で遺品の展示。画架や書棚、集めていた小物など。書棚は台北師範学校在学中に自分で作ったものらしい。Photo_8
・街を歩く。新竹市政府。日本統治期の新竹州庁の建物を現在でも使っている。城隍廟の方へ歩いていく。ちなみに、城隍廟とは町の守護神を祀ったところ。屋台が並んでいると聞いていたが、時間が中途半端だったせいか、人通りはあってもいわゆる活気がない。迎曦門に戻る。前に広場があり、若者のバンドが大音響を出していた。Photo_9
・新竹市立映画博物館。戦前、有楽座という映画館だったが、戦争中に爆撃を受け、修築されて国民大戯院となり、その後、打ち棄てられていたのを改装して博物館として利用されている。ミニシアターも併設されているようだ。建物の脇には、映画関連の事項を中心に新竹の歴史をまとめた年表や映画ポスターのパネル。1941年には李香蘭も来たらしい。肝心の博物館は、開館時間中のはずなのに、休息中の札がかかったまま。ひょっとして祝日だから休館なのか。仕方ないので引き返す。
・風が強く、ゴミが目に入った。雲行きは怪しく、たまに小雨がぱらつく。
・19:01発の自強号で台北に戻る。屋台でビーフンでも食べようと思っていたのに、気持ちの引かれる店が見つからず、小腹が減ったので、列車待ちの時間に駅のセブンイレブンでサンドイッチ。パッケージは日本と変わらず。パンは若干パサパサ、ハムの味が違う。列車の中で明日のスケジュールを組む。

【夜の台北】
・20時頃、台北駅に到着。MRTに乗り換えて市政府駅で下車。誠品書店信義旗艦店へ。私は台北に来たら必ずここに寄って時間をつぶす。
・いつも上の5階から順次下へ降りていく。5階は子供用品フロアだが、絵本売場をチェック。酒井駒子さんの絵本が何冊か翻訳されており、ちょっとした特集が組まれていた。
・4階は芸術フロアである。日本語コーナーも、アート・ファッション系の本が中心なので、このフロアで美術書コーナーとCDコーナーとに挟まれている。美術書コーナーの新刊平台に並んだ翻訳ものでは安藤忠雄と森山大道が目についた。
・3階は人文・社会科学フロア。ここで台湾史関連の書籍を買い込む。先日読んだばかりのJonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwanの中文版が文達峰(柯翠園訳)《禁忌的國家──台灣大歴史》というタイトルで新刊平台に積まれていた。フランツ・ファノン『地に呪われし者』の翻訳(中文タイトルをメモするのを忘れた)やファノンの評伝が新刊で出ているのも目についた。ここしばらくポストコロニアルの視点で台湾史を議論するのが定着しているようだから、そうしたところから需要があるのか。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年)は話題になっている様子なので購入。
・2階は新刊フロア。ざっとベストセラーの棚を眺めて引き上げる。
・MRTで西門駅に出て、明朝足をのばす予定の大渓行きバスの停留所を確認してから、西門町を少しブラブラ。
・腹へったなあと思いながら歩いていたら、阿宗麺線というお店の前を通りかかった。みんな店の前で立ち食い。つられて私も行列に並ぶ。一品しかないようで、すぐ順番がきた。大椀55元を注文。細麺というか、にゅうめんのような感じで、かつおだし風味、とろみのあるスープ。アツアツをレンゲですくってハフハフしながらかき込む。亭仔脚の脇の台に調味料が置いてあり、好みの味に調整してもよし。箸が欲しいなあと思いつつ、レンゲでほおばっていると、屋台を引いたおっちゃん、おばちゃんたちがワイワイ騒ぎながら目の前を走っている。どうやら、巡回パトカーが来たらしい。西門町名物、屋台と警官のいたちごっこを眺めながら麺線を平らげた。

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10月11日 大渓へ

【大渓へ】
・今日は台北近郊の大渓、三峡、桃園を回る心積もり。しかし、朝、テレビの天気予報によると、台湾北部・東部は大雨とのこと。高鉄を使って晴れていそうな台南あたりに行こうかとも迷ったが、初志貫徹。
・幸い、まだ曇り空。昨晩のうちに確認してあったバス停へ行くと、すでに大渓行きバスが留まっていて運転手さんは寝ていた。8時頃になっておもむろにドアを開けてくれたので乗車。持参したガイドブックには終点まで103元となっていたが、念のため運転手さんに確認したら105元とのこと。運賃箱にお金を入れると、行先を記した札をくれた。これは降車時に返す。
・私は、中国語の文章なら多少は読めるが、基本的に聞き取りもしゃべりも出来ない。コンパクト辞書を携行し、必要になった時すぐに目的地名のピンインを調べて(注音符号は分からない)、誤解のないように繁体字でメモに記して見せながら口に出す。数字ぐらいなら聞き取れる。
・東呉大学城中キャンパス脇の貴陽街停留所から出て、萬華、板橋、土城、三峡を経て大渓に行くルート。ほぼ2時間かかった。萬華を通ったとき黄氏家廟というのを見かけた。少女作家・黄氏鳳姿の一族の関係か。
・萬華から板橋、土城までずっと繁華街が途切れることなく続き、土城を過ぎたあたりから丘陵が近くに迫ってきて台北盆地が終わるのをうかがわせる。それにつれて道路沿いに並ぶ建物の丈が1,2階ほどの低さになってきた。経由した三峡はかなりの繁華街だったが、ここを除けば畑や林の広がる中をひた走る田舎道。
・途中乗ってきたおじさん二人組みがやたらと甲高くしゃべるのが車中に響き、しばらくして降車。明らかに北京語ではなかった。あれは台湾語(ホーロー語)か、それとも客家語か。
・大渓に到着。ガイドブックには、小さい街なのでバスターミナルを起点に動けば迷うことはないという趣旨のことが書かれていたのだが、その肝心のバスターミナルがどうやら工事中で、離れた所の臨時停留所で降ろされた。最初はそんな事情など分からず、ガイドブックの略図通りに歩こうとしても、街路が明らかに異なる。自分がどこにいるのか分からず焦った。その上、雨も降ってきた。苛立ちが募り、日本に帰ったらガイドブックの出版元にクレームをつけてやる!と毒づく。そのガイドブックは雨水を吸ってブクブクにふくれあがり、邪魔なので必要なページを思いっきりビリッと破り取る。晴れていたら、たとえ迷ってもおおらかでいられるのだが。20分ほどさまよっているうちに商店街に出て、ようやく街の構造と方角の見当がついた。位置関係さえ把握できればこっちのもの、気持ちに余裕が出てくる。Photo_10
・老街(オールド・ストリート)は後で歩くことにして、まず大渓公園へ。この公園は日本統治期には神社だったらしい。大きな川岸の崖の上。独楽の記念碑があった。この町には一時期、台湾の大富豪として知られる林本源の一族がいて、大陸から大工を呼び寄せ、彼らが閑な時間に独楽をつくったという由縁があるらしい。近くには、地面の大きく丸いくぼみにベンチのしつらえられた野外ステージ。日本統治期の相撲場跡で、戦後は池になっていたところ、メンテナンスが大変で、野外ステージ風にしたという。
・隣に蒋公之家なる施設があった。蒋介石の別荘だったらしい。現在は文化センターになっている。Photo_11
・さらに歩いて、武徳殿の前に出た。日本統治期の剣道場を改装して、今でも公共施設として利用されている。裏手には崩れかかった日本式家屋があった。背後に崖が迫り、武徳殿を挟んで両脇に大渓児童中心と大渓鎮立図書館がある。旅先で図書館を見つけるとついつい入りたくなってしまう性分である。3階が書庫。日本の田舎の小ぢんまりとした公立図書館と、たたずまいというか空気がそっくり。2階が閲覧室。中高生くらいの子たちが静かに勉強している。今日は日曜日。台湾の受験競争は厳しいと聞く。入口あたりでは、携帯電話で長話をしている女の子の姿。Photo_12
・武徳殿の向かいには写真のような日本家屋もあった。
・老街を歩く。赤レンガの建物の整然とした並び、意外とレトロモダンな構えに風情がある。魚や野菜を売るお店が亭仔脚からはみ出し、買い出しのおっちゃん、おばちゃんがわやわやとざわついている。人がひしめく中をスクーターがかいくぐって通るので危なっかしい。食べ物や玩具など土産物を売る屋台のような店が軒を連ねる区画では若いグループや子連れの家族などが楽しげに買い食いしながら歩いている。活気がある。今日は日曜日だから近隣から日帰り観光で来ているのかもしれない。なぜかキナコ餅を売っているお店に行列ができていた。貼紙を見ると、どうやらテレビで紹介されたらしい。Photo_14
・さて、引き上げて次の目的地の三峡に行きたいのだが、バスターミナルが工事中なので、どこからバスに乗ったらよいものやら分からない。グルグル歩き回りながら、バスが行きかう大通りに出た。バス会社の交通整理員と思しきおじさんにと尋ねたら、言葉は分からないが身振りで教えてくれて、反対車線に行くと三峡行きの臨時停留所を見つけた。雨に滲んだ手書きの行先表示を確認したちょうどその時にバスが来た。飛び乗って、運転手さんに三峡老街までの運賃を確認。

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10月11日 三峡へ

【三峡へ】
・三峡老街の停留所の近くまで来たら、運転手さんが身振りでここだと教えてくれた。下車。ひなびた田舎町を想像していたのだが、予期に反して、商店街を人が行きかい、道路には自動車が渋滞するかなりの繁華街だった。
・あらかじめ地図で確認してあった李梅樹教授紀念文物館へ。普通のマンションの6階にあり、エレベーター脇の机の前に座っていた老人(管理人?)に声をかけてから上へのぼった。郷土の昆虫学者(?)関係の展示と併設で、どうやら篤志の個人経営の紀念館らしく、日曜日は開館のはずだが、扉はびっちり閉まっていた。仕方ない、引き返す。老人に「謝謝」と言って出て行ったとき、背後から声がかかったが、一瞬、「再見」と言われたのかと思って、そのまま建物を出た。出た瞬間に頭で反芻したら「在嗎?」と言われたのだと思い当たる。そうか、入る時何やらゴニョゴニョ言われたのは、「誰もいないかもしれないよ」ということだったのか。Photo_29
・川沿いに歩き、清水祖師廟へ。大渓ではメインの観光スポットである。かつて清代に建立された廟堂だったが、いつしか廃れてしまい、戦後、郷土の画家・李梅樹が中心になって再建された。Photo_30
・一部には旧台湾神宮の鳥居が使われているらしいのだが、どれだろう? 中心の堂宇の柱が古びた感じだから、これか。他の柱にも精巧なレリーフが刻み込まれていた。壁面には花鳥風月が細い線で綿密に刻まれている。李梅樹をはじめ名のある画家たちの手になる。長年月をかけて造営が続けられたことから台湾のサグラダ・ファミリアと呼ぶ人もいるらしい。 Photo_16
・大きな川にかかる橋を渡って、李梅樹紀念館へ行く(先ほどの文物館とは異なる)。大きなマンションの一階。洋画家・李梅樹(1902~1983年)の作品を展示する美術館である。
・李梅樹は三峡の生まれ。台北師範学校を卒業してから公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていたが、その後、石川欽一郎の教えを受ける。28歳の時に東京美術学校に入学、岡田三郎助などに師事、卒業後は画家として身を立てる。戦後は大学教授のほか県議会議員なども務めた。清水祖師廟再建は彼のライフワークとして知られている。
・入館者数人を相手に解説をしているガイドのおじさんから声をかけられ、私が戸惑った表情をしているのを見て取ると、日本語で「日本の方ですか? こちらへいらっしゃい」と招いてくれて、台湾人観光客相手に北京語、私相手に日本語と交互に言葉を使い分けながら解説してくれた。とりわけ、遠近法の視覚に及ぼす効果が巧みに使われていることを懇切丁寧に説明してくれた。館内の床に足跡マークがあって、これは何だろう?と気になっていたのだが、一つの絵でも視点を変えると見え方も変わってくる、その位置表示だった。
・油絵である。リアルな描写で、渓流で洗濯をする家人の肖像やミレーの農民画を意識した作品などが印象的だった。1946年製作の三人の孫の並んだ肖像像の前で、ガイドさんがお札を出して孫文の肖像を見せる。三人のうち真ん中の子の年齢が一番高い、つまり「山」の字→「中山」を示すらしい。
・ガイドさんから「どこに住んでますか? 台北? 新竹?」と尋ねられた。どうやら日本企業の台湾駐在員が休日に日帰り旅行に来たものと思われたようだ。日本からの観光客が一人でわざわざここまで来るのは珍しいのだろう。
・展示された遺品の中には、石川欽一郎の書簡のほか、梅原龍三郎・藤島武二らも三峡に来たことがあったらしく、案内してくれたことへのお礼状があった。
・李梅樹の作品と年譜がまとまった本を1冊購入して出る。清水祖師廟の彫刻解説の冊子をいただいたので、もう一度参観。Photo_17
・三峡歴史文物館に行く。日本統治期の役場を郷土資料館として再利用している。1階には石細工の展示。2階には三峡の歴史解説。三峡は染料、樟脳、茶葉の産地・集積地としてかつて栄え、川を利用した船運のほか、日本統治期には桃園方面から軽便鉄道もつながっていたらしい。
・三峡という地名の起源をさかのぼると、もともとタイヤル(泰雅)族の言葉に由来して、その発音を聞いた漢人開拓者が三角湧と表記。閔南語系の発音ではsa-kak-engとなり、これが日本人の耳には「サンキョウ」と聞こえたため「三峡」と改名。この漢字表記は戦後も継続されて北京語で「san(1)xia(2)」と発音されている。ただし、地元の人は「三角湧」という表記に愛着を持っているとのこと。多民族・多言語国家ならではの歴史の重層性が明瞭にうかがえて興味深い。
・三峡老街の模型が展示されていた。展示パネルを見ると、三角湧の支庁長を務めた達脇良太郎という人が街並みの整備に尽力してくれたおかげであると評価されていた。Photo_18
・その三峡老街へ行った。バスを降りた所は普通の商店街だったが、民権路をもっと奥に進み、清水祖師廟の脇のところから赤レンガ造りの古びた風格の建物が整然と並んでいる。写真が入口、手前の建物に「三角湧老街」と彫り込まれているのが見える。大渓よりも観光地らしい喧騒だ。雨が降っていても、亭仔脚の下を歩けば気にならない。食べ物屋におもちゃ屋、土産物屋。みんなお店をひやかしながら進むのでノロノロ歩きになる。
・芳ばしい香りに引かれて、康喜軒金牛角なるパンを買った。形はクロワッサンのようだが、しっかりした歯ごたえでバターの濃厚な味。これはうまい。どうやら三峡名物になっているらしい。歩いていると、たとえばおばあさんが揚げパンを揚げている屋台も見かけたから、ああいう感じの屋台の出世頭のようなお店なのだろう。私は台湾のこういうデニッシュ系の菓子パンが好き。

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10月11日 桃園へ

【桃園へ】
・次の目的地の桃園までバスに乗るつもりなのだが、例によってどこで乗ったらいいのか分からない。探しながら歩いていたら、いつの間にか三峡の次の停留所まで来てしまった。時刻表を見ると、すでに行ったばかり。次は30分以上待たねばならない。雨降りは人を苛立たせる。タクシーでも拾おうと思いながら、三峡の繁華街の方へ戻っていくと、前方に停車中のバスの行先表示が桃園となっている。走れ! 列の最後の人が運賃箱にお金を入れたちょうどその時に駆け込み、運転手さんに運賃を確認。とりあえず最前列に座ってポケットの小銭を探り、交差点の赤信号で運転手さんに声をかけてお金を運賃箱に入れ、行先札を受け取った。
・後から乗ってきたおばさんが私の隣に座り、話しかけてきた。私の戸惑った表情を見ると、そのおばさんも変な顔をして、通路を隔てた反対側の人に話しかけ、見ていると、小銭に両替してもらっていた。台湾のバスには両替機はなく、運転手さんも両替をしてくれない。乗客同士で両替し合う光景をよく見かける。
・バスは鶯歌を経由。陶器の街として知られている。
・三峡から桃園まで1時間くらいだろうか。駅近くにたどり着く前にバスは停まり、運転手さんがここで降りろと乗客に指示していた。桃園の中心部はデパート等も立ち並ぶそれなりの大都市で、道路は渋滞、確かに歩いた方が早そうだ。桃園駅前には蒋介石の銅像が建っていた。Photo_24
・駅前でタクシーを拾い、忠烈祠へ行くよう指示。随分と乱暴な運転をするにいちゃんで、目的地に着いたら帰りのために待ってもらうつもりだったが、やめた。
・忠烈祠にたどり着いたのは夕方5時頃。国民党軍の戦死者・殉職者・革命烈士が祀られている。日本統治期の桃園神社である。日本の神社は戦後になって国民党の忠烈祠に転用されたケースが多い。たとえば、台北の護国神社、宜蘭の宜蘭神社などを私は見に行ったことがある。社殿は解体されているのが普通だが、桃園神社は日本時代の社殿がそのまま使われて現存している台湾では唯一の例らしい。Photo_26
・石段のふもとでタクシーを下ろしてもらった。神社前の石塔には名前を書き換えられた痕跡がある。「奉献」と書かれた石台もあり、石階段の急な傾斜は明らかに神社を思わせる。のぼる。Photo_27
・石灯籠が並ぶ参道の正面に社殿が構えられている。丈の高い椰子の木との対比が独特だ。4時半で閉門とのことで、奥には入れない。境内を歩く。若い男女がコスプレの撮影会をやっていたらしく、ワイワイと機材を片付けている。蚊に刺されたのもいかにも神社らしい風情に感じた。初秋の夕方、台湾にいるとは思えない不思議な空間。
・下の写真はおそらくかつての社務所。現在は管理事務所として使われているようだ。Photo_23
・来るとき、近くの大きな病院の前にバス停が見えたので、そこまで歩いていく途中、タクシーが通りかかったので乗った。
・桃園駅前は夕方の交通ラッシュ。警官が出て交通整理をしていた。車が動かない中を、一人の青年が道路を横切った。それを見咎めた警官が「戻れ!」と制止したが、言うことを聞かない彼を思い切り突き飛ばした。私の乗っているタクシーのすぐ横だった。彼は道に倒れて動かない。交差点の反対側にいた警官が何人か寄ってきた。若い婦警さんが心配そうにオロオロして助け起こそうとするのだが、他の警官たちは「やめとけ、やめとけ」という感じ。雰囲気からするとどうも顔見知りらしく、「死んだふりしているだけだから構うな」という態度で放置。後姿なのでよく見えなかったが、南方系の顔立ちをした青年だった。
・駅前に出ると、同様に肌が浅黒く目鼻立ちが明らかに南方系の青年たちのグループをよく見かけた。台湾の漢族系はもちろん、原住民系とも違うような気がする。桃園・新竹のあたりは工業地帯で、東南アジアから出稼ぎ労働者が来ているという話を何かで読んだ覚えがある。そうした人たちが日曜日に町へ繰り出してきているということか。先ほどの警官の態度を見ると、日常的にトラブルをおこしているのか、彼らに対する一種の差別感情でもあるのか。

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10月11日 夜の台北

【夜の台北】
・桃園駅から区間快速に乗って台北まで約1時間。ずっと混んでいた。
・歩きづめで疲れたし、言葉が分からないからストレスも少々たまっているし、買い食いばかりでまともな食事はしていないかったし、がっつり食いたいと思って鼎泰豊へ。本店は混んでいるから忠孝敦化店に行く。行列してはいたが、お一人様席は空いていたようで、すぐに案内された。ここは日本語が通じるからラク。食うぞ、とばかりに注文すると、「量がかなりあって一人では食べ切れませんよ」と一々注意を受ける。そのことは織り込み済みで、とにかくたくさん食いたかったのだが、助言に従って注文をしぼる。小籠包、炒飯、スーラー湯の小、台湾ビール。
・忠孝敦化站の大通りから裏手に入った通りには結構色々なレストランが並んでいる。酔い覚ましがてら歩き、誠品書店敦南店へ。ここは24時間営業。棚をゆっくり見ながら選書、何冊か買い込む。なぜか松本清張生誕百周年記念特集と大江健三郎特集が目立った。
・まだ夜の八時。このまま宿舎に戻るのももったいないので、夜の台北散策へ。MRT台北駅で地上に出て、台湾博物館やライトアップされた総統府(旧台湾総督府)などを見ながらかつての“城内”を南下する。“城内”は南北を普通に歩いてだいたい30分程度。中山堂(旧台北公会堂)の脇を通って西門町へ。イベント開催中の西門紅楼をぐるっと回って、萬華の方向へ足を向ける。徐々に人通りがさびしくなってきた。女性に道を尋ねられたが、私が視線を泳がせると、分からないものと判断したようで、目の前にあったコンビニに入っていった。
・青山宮の前にさしかかった。通りがかりの若い人が廟堂に向かって深々とお辞儀していたので、私もそれに倣い、手を合わせて深く一礼。『民俗台湾』の池田敏雄がこの青山宮に一時期下宿していたことは最近知ったばかりだ。
・さらに進むと、華西街観光夜市のアーケードに出る。他の夜市と違ってここの特徴は、いかがわしいお店がちらほら目立つこと。横道にそれるとスナック、バーといった感じの飲み屋街になっている。陽気にカラオケを唄う声が聞こえてきた。夜9時過ぎ、北の入口の方は閑散としていたが、龍山寺方向の道と交差するあたりは人があふれかえって活気がある。尼さんが何人か買い物をしているのを見かけた。
・十字路の龍山寺に通じる東西方向の活気とは対照的に暗い南方向へと華西街をさらに進む。女性たちがたむろしている。おそらく、売春街。薄着に濃い化粧、みんなかなり年増。きれいな人はいない。横道に入って店に視線を向けると、奥に個室が並んでいて、入り口脇の待合席に客とおぼしき男性が座っている。女性が寄ってきて声をかけられ、無言で手を振って歩いていくと、背後から悪態をつく声が浴びせられた。治安は良くない雰囲気なので足早に立ち去った。Photo_22
・龍山寺の境内に入った。夜中まで参詣できるようだ。人々がお線香を振る姿をしばし眺める。外壁に彫刻や銘文が刻まれており、何となく眺めていたら、尾崎秀眞の揮毫を見つけた。尾崎秀実・秀樹兄弟の父、漢学者である。日本の台湾占領にあたり、漢詩文の教養のある人物がいないと侮られるとのことで招かれたらしい。以前、『台湾時報 総目次』で戦争中の項目を調べていたら、尾崎秀眞の肩書きが「無職業」となっていたのを思い出した。ゾルゲ事件で息子が処刑されて、秀眞は謹慎中という事情。尾崎秀樹は当時中学生だったが、兄が処刑されたので肩身が狭く、自分の将来もおしまいだと悲観。どうやって暮らしていこうか、医学標本室の整理係でもしながらひっそり隠れて生きていこうと考えて、父の紹介で台北帝国大学医学部の金関丈夫の研究室を訪れた、と回想していた。
・龍山寺駅からMRTに乗って西門町に戻る。若者が闊歩する繁華街をぶらぶら歩き、映画街へ。24時間営業のシネコンが並ぶ。予告の看板やヴィジョンを眺める。「風聲 the message」なる映画はどうやら抗日戦争ものらしい。「原子小金剛」は「鉄腕アトム」。CG映画化されるなんて知らなかった。「福音戦士」は「エヴァンゲリヲン」。16日から公開。西門町の大型ヴィジョンにシンジくんや綾波レイなどが映し出されていた。どうでもいいが、MRT西門町駅に降りる階段脇にアディダスの広告がでかでかと貼り出されており、ジャージ姿の楊丞琳という女の子がかわいくて、通りかかるたびについつい見とれてしまった。ほっぺのほくろがチャームポイント。

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10月12日 帰国

【最終日・台北】
・朝8:00頃に宿舎を出て、MRT中山站近くの台湾料理店・青葉餐廳へ行く、が、依然として改装中のまま。近くの仮店舗へ行っても営業時間は11:00~となっている。一昨年に来たときは朝8:00からやっていたのだが。
・午前中の目的地、台湾大学近くの書店へ行くことにして、ラッシュ時のMRTに戻るのは面倒なので、タクシーを拾う。分かりやすいだろうと思って台湾大学と指示を出したのだが、ゲートが見えてきたので小銭を探している最中にずんずん奥まで入って行ってしまった。ついでだからキャンパス内を散策。正門から図書館まで続く椰子並木が壮観。9時10分、キーンコーンカーンコーンというチャイムは日本で聴くのと同じ音。学生たちはスクーター、自転車、徒歩と様々に足を速めている。雨模様なので、親に車で送ってもらっている子も見かけた。
・正門から出て大通りを渡り、さらに路地に入った。基本的に住宅街の雰囲気(たまに、古い日本式家屋も見かける)の中、喫茶店や食堂などお店もちらほら見かける一帯に、南天書局と台湾e店がある。両方とも台湾史関連の専門書を揃えている。南天書局は史料復刻や学術書出版もしており、レジの向こう側がパソコンに向かう人たちのいる部屋になっていたから編集部か。台湾e店は台湾独立派色が濃い。
・それぞれ棚をくまなく見て、関心のあるテーマの本を、持って帰れる範囲内に取捨選択しながら購入。台湾では植民地統治期の日本語文献も覆刻されていて、そのうち池田敏雄『台湾の家庭生活』(南天書局)を購入。『民俗台湾』(全8巻、南天書局)は迷った末に断念。黄栄燦という人に興味を持って(→こちらを参照)、横地剛『南天之虹』という本を探していたのだが、その中文版(陸平舟訳、人間出版社、2002年)を見つけ、購入。邱函妮『湾生・風土・立石鐵臣』(雄獅図書、2004年)という本は、立石鐵臣(→こちらを参照)の作品や当時の写真などカラー図版を豊富に盛り込んだ伝記で、私が欲しかった『台湾畫冊』も小型版ながら収録されており、掘り出し物だった。それから、『日治時期的台北』(国家図書館、2007年)には当時の写真や絵葉書がテーマ別に並べられており、興味深い。
・じっくり眺めていて、ふと時計をみたら、もう11時半。本のつまった袋をぶら下げて両手がふさがって重いのでタクシーを拾い、宿舎へ直行。トランクに本を詰め込んで、バタバタと慌しくチェックアウト。MRT西門站から台北站に出て、高速バスに乗って桃園国際空港へ。

【帰国】
・カウンターで航空券を受け取って、時間に少し余裕があり、朝食抜きだったので空港内の食堂で食事。注文口に並び、座席番号を尋ねられたので、確認のためにちょっと4,5歩ばかり外れたら、後ろに並んでいたじいちゃんたちがすぐに殺到して「台湾ビールはあるかい?」みたいな感じに口々にワヤワヤ、係のお姉ちゃんが「並んでお待ちください」と制止していた。なんか一昔前の日本の農協さんみたいでほほ笑ましい。
・台湾へ行くのにJALを使ったのは初めてなのだが、4つの言語で機内アナウンスが流れた。日本語、英語、北京語までは分かったが、4つ目の言葉が聞き慣れない。おそらく台湾語(ホーロー語)だろうと思いつつ、スチュワーデスさんに尋ねたら、やはりそうだった。そのスチュワーデスさんは台湾人で(きれいな人に意図的に声をかけるところが私のいやらしいところだ)、若い世代は北京語に慣れているが、台湾語アナウンスは年配の人向けとのこと。北京語は4声であるのに対して台湾語は8声。「時々、あなたの台湾語は違うなんて言われてしまいます」と苦笑いしていた。さっき空港で出くわした農協さんのようなじいちゃん・ばあちゃん向けか。チャイナエアラインでも台湾語アナウンスは流れていたっけ? 気にかけていなかったので覚えていない。
・行きの飛行機では、早起きして眠たかったので、白ワイン飲みながらボーっとして、「サマーウォーズ」をやっていたのでぼんやり眺めていた。評判の良い映画だった気がするが、つまらなくはないにせよ、そんなに絶賛するほどでもなかったぞ。
・帰りの飛行機では、なぜかやたらと喉がかわいていたのでビールを飲みながら、柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫)をゆっくり読んだ。“民芸”を、特殊に技巧的な美として見るのではない。有名無名、多くの人々が孜々として積み重ねてきた営み、そこにおいて、人間の意志的な努力と大きな意味での自然とが調和のとれているところに美を見出す。一言でいえば、不自然でないこと。土地により、民族により、それぞれの生い育った環境や伝統に応じて独自の美がある。植民地化=同化政策はそうした美を破壊するものであった。有名な「朝鮮の友に贈る書」では、「私には教化とか同化という考えが如何に醜く、如何に愚かな態度に見えるであろう。私はかかる言葉を日鮮の辞書から削り去りたい」と記しているが、皇民化政策が進められる戦争中、『民俗台湾』同人が柳を台湾に招いたのは、こうした柳の考え方に共鳴するところがあったからであろう。
・台湾時間14:40頃に少し遅れて出発したが、日本時間18:30頃、定刻通りに着陸。京成スカイライナーを初めて使って帰った。

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2009年10月16日 (金)

陳翠蓮『台湾人の抵抗とアイデンティティ 1920~1950年』

陳翠蓮《台灣人的抵抗與認同 一九二〇~一九五〇》遠流出版、2008年

 日本による植民地支配において、日本国民であるはずなのに日本人ではないとして差別を受けた経験が共有され、台湾という範囲内で「日本人ではない」→「台湾は台湾人の台湾である」という意識が生み出された。この“想像された共同体”(ベネディクト・アンダーソン)意識が日本の統治が終わってからも継続し、戦後も目に見えない形で作用したという論点を本書は示す。また、植民地支配は日本/台湾=抑圧/被抑圧という単純な図式にまとめられるものでもなく、近代化の方向としての西洋、同族意識・祖国意識の拠り所としての中国といった要因も絡まり、西洋─日本─台湾─中国という複層的な連関の中で葛藤があったことも指摘される。

 従来の議論では、抑圧/抵抗という二項対立的な図式の中で民族運動を捉える傾向が強かった。それに対して、これまで不徹底とみなされてきた台湾文化協会の台湾議会設置請願運動についても、台湾人意識が明瞭に打ち出されていたことに注目される。大正デモクラシーの気運も利用して、自由・平等・人間の尊厳・法治主義といった近代的理念を目指すようになっていた。文化協会の活動の背景には、台湾社会全体の文明化という問題意識があった。とりわけ文化普及のための言語が問題となるが、漢字白話文かローマ字台湾文かという議論(つまり、たとえ口語であっても北京語は台湾の一般民衆になじみがない。しかし、ローマ字で台湾語を表記しようにも、漢字以外の文字には抵抗感があって普及せず)にも“台湾”アイデンティティをめぐる揺らぎが見えてくる。

 本書では、謝春木、黄旺成、呉濁流、鍾理和の中国体験も検討される。だいたいにおいて彼らは、第一に近代文明という指標から中国社会の後進性に気付く一方で、第二に同族意識・祖国意識から、これは帝国主義のせいだ、と同情的な見解を示していた。差異に気付きつつも、将来は中国と一緒になるべきだと考えていた。

 やがて日本の敗戦で植民地支配が終わり、国民党がやって来た。当初、台湾の人々は中華民国への“復帰”を歓迎した。同時に、彼らは台湾人自身による自治を望んでおり、それは近代的理念に基づくものであるはずだった。しかし、国民党政府は「台湾人は日本によって奴隷化教育を受けてきた」と差別視、有無を言わさず“中国化”政策を推し進めた(こうした偏見によって、台湾人自身による高等教育機関を目指した延平学院が挫折したケースも本書で取り上げられる)。プライドを傷つけられた台湾人は、これを再植民地化と受け止めた。かつて日本人に対して向けられた「台湾は台湾人の台湾である」という主張が、今度は中華民国に対して向けられた。こうしたギャップが二・二八事件で爆発する。支配/被支配の関係が意識形態そのものまで従属化された点でポストコロニアルの議論も援用される。

 なお、二・二八事件を近代化の差による文化衝突と捉える議論については、日本植民地近代化論=日本統治肯定論につながりかねない。だが、これはあくまでも、戦後中華民国政府による再植民地に対する反発→日本統治期への高評価という形で表われた抗争論述としての性格が強い点にも注意を促している。

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2009年10月 9日 (金)

「空気人形」

「空気人形」

 「私は心を持ってしまいました」──ある日、ダッチワイフの顔に表情が宿った。ご主人様の束縛から逃れるように街へさまよい出た“彼女”は、レンタルビデオ店で出会った青年に恋をする。“彼女”の恋の行方と悲劇、そして、街ですれ違う、心に何か満たされないものを抱えている人々の姿。

 「心が空虚」であるという戸惑いは、現代社会論に結び付けて論じられるべきテーマであるのはもちろんだし、私自身も関心はあるけれど、ただし、そこにこだわり過ぎても陳腐なような気がする。変に意味付けなどしないで、この「空虚な私」というモチーフも舞台設定上の道具立てと割り切ってしまう方が私にはしっくりくる。ペ・ドゥナのメイド服が似合うあどけない顔立ちも、肌のなめらかな肢体も、まさに精巧な人形のように整った美しさがある。空気が抜かれ、吹き込まれる時の悶えるような表情、足が上がり胸が反っていく微妙な動きがまたなまめかしい。「心を持ったお人形さんの世界発見」というおとぎ話の実写化と受け止めれば、彼女のぎこちない動作と言葉、そこに表われた戸惑いや嬉しさといった感情の動きをいとおしく見守りたい気持ちになってくる。

 もし「空虚な私」というテーマにどうしても引き付けるならば、自分が空虚であることを逃げずに直視し、開き直った視点で周囲を見渡せば、どんなに色褪せてつまらなく、時には汚らしく見えたこの世界にも、みずみずしい驚きや美しさが満ちている、そうした寓話に仕上がっていると言えるだろう。

 巨大マンションの林立し始めた、街並の変化しつつある東京の下町が舞台。街並をさり気なく映し出すカメラワークが私は好きだ。そこにかぶさる音楽の、ミニマリズム的に無機質で大げさな昂ぶりは抑えつつ、それでも静かな感傷を滲み出すメロディーがうまく映像にはまっている。「ん? 聞き覚えのあるメロディーだな、ひょっとしたら…」と思いながらエンドクレジットを確認したら、やっぱり音楽はworld’s end girlfriend。私の大好きなアーティストだ。以前、こちらにちょっと書いたこともあるが、CDは全部持っている。メジャーなところで出くわすことが滅多にないので意外だった。

 好きと言えば、寺島進、オダギリ・ジョー、余貴美子、星野真理と私のひいきにしている役者さんたちがチョイ役で出ているのも私としてはポイントが高い。どうでもいいが、最後の方、バースデイの拍手のシーンが、エヴァンゲリオン・テレビ版の最終回、シンジ君が登場人物みんなから拍手を受けて「ボクはここにいてもいいんだ!」というあのシーンとかぶった。

 是枝裕和監督の第一作「幻の光」を観たのはまだ学生の頃だった。確か、渋谷のシネ・アミューズ(今は名前が変わっている)の開館第一弾だったはずだ。それ以来、是枝監督の作品はほとんどリアルタイムで観ている(ただし、「花よりもなほ」は未見)。

【データ】
監督・脚本・編集:是枝裕和
原作:業田良家
出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、余貴美子、岩松了、星野真理、寺島進、オダギリ・ジョー、富司純子、高橋昌也、他
2009年/116分
(2009年10月8日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2009年10月 8日 (木)

ウィーン世紀末展

 「ウィーン・ミュージアム所蔵 クリムト、シーレ ウィーン世紀末」展。ウィーン分離派を中心にその前後も含めて、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカをはじめとした多数の画家たちの作品を展示。作曲家アルノルト・シェーンベルクの絵もあった。会場は日本橋・髙島屋8階展示場。昼過ぎ、職場を抜け出して行ったら、台風のおかげだろうか、ガラガラ。落ち着いて観られて嬉しい。

 お目当てはクリムト。生々しいのだけど現実的な存在感を感じさせない、あの不思議な女性像が好き。展覧会のポスターにもなっているパラス・アテネ像などものすごい迫力、だけど、金の胸当て(伝アガメムノンの出土品を思い起こすデザイン)のあっかんべーは何でしょう? クリムトというと金地(金屏風を思わせる)の背景が独特だけど、彼よりも前の時代に描かれた、やはり金地にシンボリックなモチーフを配置したイコンのような教訓画も展示されていた。28歳で早逝した弟エルンスト・クリムトの作品もいくつか展示されており、祈る幼女像はかわいらしくて目を引いた。

 分離派というと、反逆児の集団のようなイメージがあったけど、あくまでも既存の画壇では自分たちの表現ができないから別の発表場所を立ち上げたということであって、フランツ・ヨーゼフ帝も臨席したというのが意外だった。そのシーンを描いた絵も展示されている。それから、ウィーン工房が日常生活のちょっとした場面にも芸術を広めようと、日用品のデザインやポスター、絵ハガキを製作していたことに興味。

 エゴン・シーレはやはり痛々しい。自我への病的なまでのこだわりをグロテスクに表現した人物像は、観ているだけで疲れる。他の画家さんが森の静けさや夕焼けの美しさを描いた風景画を見て頭を休める。

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2009年10月 7日 (水)

近代化をめぐって何となくメモ

 先日、植民地統治期台湾において多くの弟子を育てた水彩画家・石川欽一郎を取り上げた(→こちら)。その人柄が台湾人生徒たちから慕われただけでなく、イギリス紳士風の雰囲気に好感を持たれたというところから、何となく以下の雑感。

 日本による植民地支配には、①西洋を基準とした“文明化”と②皇民化運動に顕著な“日本化”と二つのベクトルがあった。総督府は医療や産業インフラ等の近代化政策を進めると同時に、日本語や神社崇拝等を強制した。他方で、台湾人側も、日本を通して“普遍的”≒西欧的な先進文化へアクセスしようとすると同時に、日本優位の差別的でありながら同化を標榜する総督府の政策に反感を持っていた。このあたりには様々に複雑なロジックが絡まりあっており、解きほぐすのが難しい。

 たとえば、台湾総督府の堂々たる威容には、日本の圧倒的な力を現地人に見せつける意図と同時に、その威厳を示すに西洋風建築を用いるという後発型帝国主義国家独特のねじれがうかがえる。

 そもそも日本は近代化にあたり、たとえば福沢諭吉が『文明論之概略』で「文明─半開─未開」という図式を示したように、日本の独立保持のためにこの図式に沿って伝統社会の克服=近代化≒西洋化を進めた。抽象的な“近代”などあり得ず、その具体化として欧米社会がモデルとして目指された。それは手段なのか、目的なのか? さらには、明治期日本において欧化か?国粋か?という議論が沸騰し、こうした葛藤は現在に至るも近代日本思想史を最も特徴付けるテーマとなっている。

 また、台湾と同様に日本の植民地支配を受けていた朝鮮半島において、李光洙は伝統社会の停滞性を批判、停滞性克服=近代化のために日本化を進めるべきだと「民族改造論」を発表した(彼についてはこちらで触れた)。李光洙は進化論の影響を受け、優勝劣敗の法則により弱小民族が敗亡するのは仕方ないと考えていたらしい。彼が目指したのは、目的としての日本化だったのか(この場合、“親日派”という謗りは免れない)、それとも朝鮮民族生き残りのための手段としての日本化だったのか? 難しい問題である。

 で、石川欽一郎をきっかけに何をつらつら考えたのかというと、台湾人生徒たちは石川の背後に“日本”ではなく、実は“西洋”(≒先進文明への憧憬)を見ていたのではないか?ということ。彼らは西洋文明に直接触れることが難しく、日本を通してアクセスするしかなかった。しかし、“日本経由の近代化≒西洋化”は、日本語を媒介として西欧の先進文明にアクセスできると同時に、日本語を使うこと自体によって、自覚的にせよ無自覚的にせよ、日本文化に取り込まれてしまうおそれがあった。

 今、たまたま、陳翠蓮《台灣人的抵抗與認同》(遠流出版、2008年)という本を読んでいて、日本に留学した蔡培火たち台湾知識青年が、「西洋─日本─台湾」という三層構造の中で台湾は最底辺にあると捉えて葛藤したという指摘があったので(73頁)、ふと以上のことを思い浮かべた次第。

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2009年10月 6日 (火)

立石鐵臣のこと

 立石鐵臣(1905~1980)の『台湾畫冊』(台北縣立文化中心、1996年)という本をパラパラ眺めたことがある。1996年に台北で開催された「立石鐵臣画伯紀念展」に合わせて刊行された画集である。1962年の署名入り。立石を引き立ててくれた美術評論家・福島繁太郎に捧げたものらしい。台湾での思い出を絵物語にまとめている。

 前半部分には庶民の生活光景や民具を題材とした画文が多い。かつて『民俗台湾』で「台湾民俗図絵」として連載されたものである。立石は金関丈夫、池田敏雄、松山虔三、国分直一、中村哲らと共に『民俗台湾』の編集に携わっていた。連載時は白黒の木版画だったが、『台湾畫冊』では水彩画に描き直されている。

 赤、黄、緑、青とモザイクのようにくっきりした色遣い、とりわけ赤レンガ家屋の色合いが鮮やかだ。素朴で力強く、しかしのびやかに描かれた線は、必ずしも写実的ではないのだが、どこか人々の雰囲気をしのばせる温もりがある。立石は台北帝国大学理農学部嘱託として昆虫の標本画を描いていて、細密画はもともと得意ではあるが、見た目の正確さよりも感じ取ったものをこのような筆致で描き出しているのか。ただし、大雑把そうに見えても、たとえばお店の描写などは細部までしっかりと描きこまれている。

 『台湾畫冊』の後半は、日本の敗戦後も留用という形で台湾に残留して暮らした日々を描いている。編訳館での仕事ぶりや、お向かいに越してきた中国人軍人との交流。立石と付き合いのあった画家・南風原朝光の兄で医師の南風原朝保が引き揚げることになり、携行できる荷物に制限があったため家財道具を置いていかねばならず、立石がその売りさばきを引き受けたシーンもある。当時、日本人の引き揚げに伴ってにわか仕立ての“骨董市”があちこちに現われ、結構掘り出し物が安く入手できたことはよく聞く。立石が日本人形を「安いよ、安いよ」と売ったあと、見ていた日本婦人が寄ってきて「あれは私が作った人形です」と言われ、随分と後味の悪い思いをしたとも記している。

 金関丈夫は、南風原朝保やジョージ・H・カーなどの仲間たちと連れ立ってこうした“骨董市”を見て回ったことを回想している(金関丈夫「カーの思い出」『琉球民俗誌』法政大学出版局、1978年)。いずれ置いていかねばならないのが分かってはいても、ついつい買ってしまったそうだ。なお、南風原朝保はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年→こちら)。ジョージ・H・カーは『裏切られた台湾』(川平朝清監修、蕭成美訳、同時代社、2006年)の著者である(→こちら)。

 立石は1948年12月5日に日本へと引き揚げた。日本人引揚者としてはほとんど最後の船だったらしい。基隆の港を船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったという。立石は「日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記す。前年、1947年には二・二八事件が起こっており、日本人留用者が煽動したと疑われて帰国が早まったとも言われている。

 留用された日本人の生活を描いた“絵物語”としては、他に金関丈夫の筆になる「国分先生行状絵巻」(金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]所収)なんてものもある(→こちら)。立石にしても金関にしても、深刻ぶらずユーモアたっぷり。

 立石については、謝里法「立石鐵臣展により想起される幾つかの問題」、森美根子「立石鐵臣の世界」(共に『台湾畫冊』解説編所収)、森美根子「台湾を愛した画家たち(23)(24) 立石鐵臣(前・後編)」(『アジアレポート』348・349号、2004年10月、2005年3月)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)を参照。

 立石は父親が総督府の事務官だった関係から台北に生まれ、7歳のとき日本へ渡った。絵が好きだったので川端画学校で学び、さらに岸田劉生、梅原龍三郎に師事。生まれ故郷である台湾を描きたいという思いを募らせ、再び台湾に渡る。1934年には台湾人を中心とした台陽美術協会の創立メンバーとなり、翌年には西川満主宰の創作版画会にも参加。造本・装丁に凝りに凝った愛書家として知られる西川の本の多くは立石が手がけた。そして、金関・池田らの『民俗台湾』の主力メンバーとなり、台湾各地の民俗調査に積極的に赴いた。『民俗台湾』についてはこちらを参照のこと。

 戦後の立石の画風は抽象的な幻想画へと一変したらしい。晩年は美学校で細密画を教えるかたわら、昆虫や魚を描く図鑑類の仕事をしていたという。

 台湾の美術史家・謝里法は、たとえ日本人であっても台湾という土地で作品を描いたならば“台湾美術”とみなすべきこと、「台展」などの制度から外れたアウトサイダーも認めるべきだといった理由を挙げて立石を評価している。

 立石鐵臣についてのドキュメンタリーを制作している方からメールをいただき、結局、私はお役に立てず心苦しく感じているのだが、完成を楽しみに期待している次第。

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2009年10月 5日 (月)

李澤藩と石川欽一郎

 一昨年、台北の故宮博物院を訪れたとき、たまたま「風城風采──李澤藩百歳紀念畫展」というタイトルの展覧会も開催されていた。メインの展示室にはいつものように観光客がごった返し、特に豚の角煮や白菜の宝石のあたりは中国語や日本語、韓国語に英語まで飛び交う喧騒のただ中に居るだけで頭が痛くなってくる。対して、こちらまで流れてくる人はほとんどいなかった。

 李澤藩(1907~1989)生誕百周年の催しだが、この人のことを私は知らなかった。水彩画である。台湾や旅行先の日本、ヨーロッパの風景を描いた、淡くしっとりとした色彩が印象的だった。湖水や木々、建物の輪郭が煙るようにぼやけ、そのどことなくミスティックな感傷は、観ていて心静かに落ち着ける感じがした。

 後で調べたところ、李遠哲の父親であることを知った。李遠哲は台湾人として初めてノーベル賞(化学)を受賞、李登輝・陳水扁両政権で中央研究院長を務めた。彼が2000年総統選挙で陳水扁支持を表明して一つの流れを作ったことは記憶していた。

 李澤藩は新竹の生まれ、日本統治期の台北師範学校を卒業後、自らも作品を描き続けながら、故郷・新竹でずっと教鞭をとっていた。作風は地味だとみなされたらしいが、水墨画や戦後盛んになった抽象画の技法も取り込もうとするなど積極的な姿勢も持っていた。彼については李澤藩美術館ホームページの他、森美根子「台湾を愛した画家たち⑩李澤藩」(『アジアレポート』335号、2002年3月)、黄桂蘭「風城風采──李澤藩的絵画芸術」(『故宮文物』第295期、2007年10月)を参照した。

 李澤藩を水彩画へと誘ったのが、当時、台北師範学校の美術教師であった石川欽一郎(1871~1945)である。私はこの石川の名前も、「風城風采」展会場にあった李澤藩の略歴を示したパネルで初めて見た。日本での知名度は低いが、昨日取り上げた李欽賢『台灣美術之旅』(雄獅図書、2007年)も含め、台湾に西洋画を初めて紹介して多くの弟子を育成した点で台湾美術史を語る上では外せない人物と位置付けられている。

 石川については立花義彰編著『日本の水彩画12 石川欽一郎』(第一法規、1989年)、中村義一「石川欽一郎と塩月桃甫──日本近代美術史における植民地美術の問題」(『京都教育大学紀要A人文・社会』76号、1990年3月)、荘正徳「石川欽一郎と台湾の近代美術教育」(『造形美術教育研究』第6号、1993年)、森美根子「台湾を愛した画家たち⑲⑳石川欽一郎(前・後編)」(『アジアレポート』344・345号、2003年9・11月)を参照。

 石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入る。職場の後輩には石井柏亭がいた。独学で水彩画を描く。英語に堪能だったので陸軍参謀本部の通訳官となり、1907年に台湾へ赴任、通訳官と兼務で国語学校(後の師範学校)で美術を教える。台湾には1907~1916年、1924~1932年と二度滞在。この間に育てた弟子で主だった名前を挙げると、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎、等々。わけ隔てなく台湾人とも接したので生徒からは慕われ、教官に義務付けられていた官服は着用せず背広に蝶ネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

 台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染んだ台湾の人々にとって新鮮だったらしい。石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、“郷土意識”“台湾意識”を強調する論者からは台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されているようだ(石川自身の意図がそこにあったかどうかはともかく)。

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2009年10月 4日 (日)

李欽賢『台湾美術の旅』

李欽賢《台灣美術之旅》雄獅図書、2007年

 以前、台北の書店をひやかしていたら、美術書コーナーの新刊平台に積まれていたので購入した本。

 十七世紀、ヨーロッパ人がやって来てから現代に至るまで、台湾美術を彩る様々な群像を取り上げながら描き出された通史。時系列や分野別に無味乾燥に並べるのではなく、それぞれの美術家が育ち、あるいは活躍した土地との結び付きを重視、時間・空間、二つの軸によって“台湾美術の旅”が構成される。

 冒頭、ポルトガル人の航海者がFormosa=華麗島と呼んだというエピソードから説き起こされる。台湾人としての郷土意識・本土意識の高まりという時代思潮が本書の背後にうかがえるが、そればかりでなく、風土との関わりを通して美術家たちそれぞれの感性のありかが具体的に、ヴィヴィッドに示されるので、実感をもって読み進めることができた。作品や当時の写真などカラー図版も豊富。台湾美術史の入門としてなかなか良い本だと思う。

 大陸からの漢人渡来者によって中国画の伝統が定着。日本による植民地支配が始まったばかりの頃は日本人側にも中国の書画に詳しい人がいたので在来の知識人との交流があった。林朝英の水墨画は尾崎秀眞によって見出されている。その後、台湾縦貫鉄道の開通によって台湾全土の近代化が推し進められたが、鉄道から離れた鹿港には漢人文化の伝統が濃厚に残ったという。

 日本統治期の教育制度によって西洋画が本格的に導入される。本書全十章のうち、第二~七章までがこの時代に割かれている。とりわけ、イギリス風の水彩画家で台北師範学校で教鞭をとった石川欽一郎の名前が頻繁に出てくる。1920~30年代は台湾において新文化運動が盛り上がった時期である。石川は学校の内外を問わず、近代知識を渇求する青年たちに西洋画を伝え、後年、台湾美術を牽引することになる多くの画家に影響を与えたという。石川の最初の弟子で家業を継いで実業家となった倪蒋懐が台湾の美術界を財政的に支援、東京に留学した美術学生たちに仕送りもしていた。1927年に台湾美術展覧会(台展)、1934年には台湾人を中心に台陽美術協会が設立され、美術を志す人々の求心力として働いた。

 石川の他には、フォービズムの鹽月桃甫、日本画の郷原古統、木下静涯といった日本人も見える。台湾人も日本人も、洋画か日本画かを問わず、台湾の風土の美しさを描いた。美術史の見直しが郷土意識・本土意識の高まりと連動するのはそうしたところによるのだろう(戦後の国民党政権下の教育では、大陸のことは教えても台湾のことはあまり取り上げられなかった)。なお、戦後、中華民国となってからも「国画」という名目で日本画を描く人がいたが、それは「国画」ではないとして排除され、「膠彩画」と呼ばれるようになった。

 台北のモダンな街並を闊歩する人々を撮った写真家の鄧南光、台湾人画家が注意を払わなかった庶民生活に目を向けて『民俗台湾』に「台湾民俗図絵」を連載した立石鐵臣の存在も目を引く。立石は台陽美術協会の発起人に唯一の日本人として名前を連ねている。

 戦後は国民政府の移転と共に中国画が主流となり、アメリカから前衛美術も流入した。1970年代以降の郷土文学論争の中で台湾美術の見直しも始まった。

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ジョナサン・マンソープ『許されざる国:台湾の歴史』

Jonathan Manthorpe, Forbidden Nation: A History of Taiwan, Palgrabe Macmillan, 2009

 先史時代、海賊跋扈の時代、オランダ統治期、鄭氏政権、清朝、台湾民主国、日本統治期、国民党政権、アメリカ・中国の思惑の絡んだ冷戦期における複雑な立場も絡めて現代政治に至るまでの台湾の通史を描き出している。叙述は読みやすく、たとえて言うなら中公新書の『物語~の歴史』シリーズのような感じ。論調は民主派・本土派に同情的である。著者はカナダのジャーナリストらしい。日本語文献は使えないようで日本統治期についての記述は薄いが、全体としてはよくまとまっている(台湾の親日傾向については、差別はあったが近代化が進められたこと、清朝・国民党と比べて統治が合理的で腐敗はなかったことが挙げられており、通説の範囲内)。

 2004年総統選挙における陳水扁狙撃事件から説き起こされるあたりはいかにもジャーナリストらしい書き方だ。海峡両岸の緊張関係の中で“台湾意識”の行方を探るところに関心のあることが示される。エピローグでは、2008年総統選挙を踏まえ、事実上独立しているが中国を刺激したくないという考え方が国民の間で主流となっている中、国民党の馬英九が“台湾意識”を無視できない一方で、民進党もアイデンティティ・ポリティクスの行き過ぎではアピールできないことが指摘される。

 近代以前の歴史であっても、政治的立場によって捉え方が異なってくることがある。例えば、先史時代において台湾への最初に来住者は何者だったのか。南方から舟で流されてきたのか、それとも大陸から海峡を渡ってきたのか? いずれの遺跡も見つかっているのだが、日本の学者は南方系を強調し、中国の学者は大陸渡来を強調すると本書では指摘される(ただし、大陸渡来系の遺跡の存在を最初に指摘したのは金関丈夫・国分直一であったことには注意を喚起しておく)。こうした見解の相違が最も鮮明になるのが鄭成功の位置付けである。海峡両岸の双方とも、オランダ=ヨーロッパ帝国主義を駆逐した英雄という点で評価が一致する。国民党が明朝復興の大義を掲げて大陸反攻の機会をうかがっていた点で蒋介石になぞらえるのに対し、台湾独立派にとっては鄭氏政権の下で台湾の本格的な開発が進められた点で台湾人アイデンティティのシンボルとみなされる。日本統治期においては鄭成功の母親が日本人であったことが強調され、神格化された。

 歴史をはるか振り返るときでも、そこに現在の価値意識が投影される点で「あらゆる歴史は現代史である」と喝破したのはベネディット・クローチェであった。歴史の捉え方と現代政治とは連動しており、陳水扁が死に物狂いで支持をかき集めようとしたとき、二・二八事件の記憶を動員したことはひときわ目立った(ただし、いまや白色テロを知らない世代が有権者となりつつある)。その点では、欧米人によって距離をもって書かれた歴史書も、当事者ではないからこそ一読の価値があるだろう。日本人の場合には植民地支配の問題があり、それを否定するにせよ、肯定するにせよ、ナーバスになってどうしても過剰な意識を持ちやすい。

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