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2009年9月14日 (月)

邱永漢の初期の作品

 邱永漢といっても金儲け指南のビジネス書という印象しか私にはなかった。かつて直木賞受賞作家であったことは何となく知ってはいたものの、それが「香港」(昭和三十年下半期、外国籍としては初めての受賞)という作品であったこと、この作品の背景には邱自身が台湾独立運動に関わって亡命せざるを得なかった青春期の苦い影が落ちていることを私が知ったのはつい最近のことである。

 邱永漢は1924年、台南の生まれ。父親は地元ではそこそこの有力者であったらしい。本名は邱炳南といい、1940年創刊の『文藝台湾』同人名簿にもすでにこの名前が見える。当時はまだ台北高等学校に在学中であった。その後、東京帝国大学経済学部に進学、日本の敗戦後は台湾に戻ったが、1947年の二・二八事件など白色テロの激化に伴って香港へ亡命、ここで商売を始めて1950年代以降は日本とも頻繁に行き来しながら活躍。後に国民党政権とは妥協する。

 『邱永漢短編小説傑作選 見えない国境線』(新潮社、1994年)所収の作品をいくつか通読した。

 「密入国者の手記」(1954年)のモデルは台湾語の言語学的研究で有名な王育徳である。彼が国民党政権のお尋ね者となっているにもかかわらず日本から強制退去されそうな立場にあったところ、邱永漢が世論に訴えるべく王の主張を小説という形式でまとめて、西川満の紹介により長谷川伸が主宰する『大衆文芸』誌に掲載。

 「検察官」(1955年)のモデルは王育徳の兄、東京帝国大学法科出身で検察官となった王育霖である。台湾にいる日本人警察官の横暴への憤りから彼らを取り締まる側になろうと検察官となった正義漢だが、日本の敗戦で台湾に帰国後、新来の支配者である国民党政権の腐敗を摘発、かえって恨みを買って二・二八事件のどさくさで殺害されてしまった。なお、王育霖の名前も『文藝台湾』同人名簿(だったか?)で見かけた覚えがある。

 「客死」(初出未詳)。日本統治期から台湾民族運動穏健派の指導者として声望の高い林献堂は国民党政権への反発から日本へ亡命した。林を慕いつつも彼の現実的な政治態度は妥協的だと危惧する若き活動家の情熱と日本での客死、それを目の当たりにした林の心情を描く。

 「濁水渓」(1954年)と「刺竹」(1956年)は邱永漢の自伝的な側面が強いのであろうか。戦争中、台北・東京での学生生活、日本の敗戦による世情の変転、そして二・二八事件の残酷な混乱を描く。敗戦をきっかけに日本人への侮蔑意識が芽生えたことを観察し、日本人への憎悪に共感しつつも、階層構造を逆転させるだけでは問題は何も変わらないと指摘。ロイドというアメリカ人が出てくるが、モデルはジョージ・H・カーだろう。「刺竹」では、二・二八事件で友人知己が逮捕されたり殺されたりしたにもかかわらず自分だけ助かったことへの罪意識が描かれている。

 「長すぎた戦争」(1957年)。台湾の友人から聞いた話にヒントを得たらしい。国民党は台湾人からも徴兵することに決めたのだが、入営する台湾人たちの行動様式が戦争中の日本の軍隊生活そっくりそのままで、大陸から来た上官たちとのギャップを半ばユーモラスに描く。経済力のある台湾人によって翻弄される貧しく帰る故郷もない外省人の分隊長、彼の姿にはどこか悲哀が漂う。

 「香港」は前述の通り直木賞受賞作。邱永漢はほとんど無一文に近い状態で台湾から香港へ逃げてきた。生きていくためにはインテリの自意識や理想などかなぐり捨てて、とにかく金だけを手づるに這い上がらねばならない、そうした弱肉強食のカオスの中で去来する様々な思惑を描き出す。作中で師匠とも言うべき役回りの老李は「君は軽蔑するだろうが、ユダヤ人は自分らの国を滅ぼされても、けっこうこの地上に、生き残った。…国を失い、民族から見離されながら、いまだにユダヤ人にもなりきれないでいる自分を笑いたまえ」と発言し、これをきっかけに故郷台湾の風景と国民党の白色テロを思い浮かべるシーンが続く。邱永漢の独立運動の敗残者としての苦い思いと彼のあからさまなまでの金儲け主義とがどん底の実体験を媒介として結び付いていたことがうかがえる。

 邱永漢のアイデンティティと文学作品との関わり方については、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年)や丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社、2000年)などが論じている。

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