金関丈夫『龍山寺の曹老人』
戦後間もなく、天皇制の呪縛から解き放たれたのを機に、日本民族起源論が活発になった。江上波夫、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の座談が有名だが、こうした一連の議論の中で金関丈夫の名前も見えたことが、私の金関についての第一印象であった。本職は解剖学だが、京大で清野謙次から人類学、浜田青陵から考古学の手ほどきも受けている。ヨーロッパ留学を経て、台北帝国大学医学部に赴任、森於菟(鴎外の長男)と共に解剖学教室の設立にあたった。以前に岡書院発行の民族学・考古学雑誌『ドルメン』の編集に関わった経験もあり、池田敏雄から『民俗台湾』創刊の相談を受けたときには、肩のこらない学術雑誌という趣旨で『ドルメン』をモデルにするよう提案している。
金関のジャンルを越えた教養の幅広さはよく知られている。彼の著作で入手しやすいのは『木馬と石牛』(岩波文庫、1996年)であろうか。小さい頃からの文学好きで、古今東西の説話・伝説の類を比較考証するこの本にも、やわらかい学術エッセイとしての軽妙な筆さばきが冴えている。
日本の敗戦後、金関は留用されて肩書きは台湾大学教授となった。これからどうなるものやら、と日本人がみな浮き足立つ中、金関は「こんなときこそ勉強するのが一番だ、それがイヤなら小説でも読むことだな」と話していたらしい(池田敏雄「敗戦日記」『台湾近現代史研究』第4号)。そうした不安な状況下に書いた連作探偵小説が『龍山寺の曹老人』である(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)。探偵小説好きが昂じて自ら執筆した医学者としては他に木々高太郎(林髞)も思い浮かぶ。金関は戦争中に『船中の殺人』も出版している(私は未見)。探偵小説に詳しい評論家の尾崎秀樹は当時、台北の中学生で、父・秀真(ほつま)の紹介で金関の研究室を訪問したこともあり、『船中の殺人』を買って読んだことを回想している(『えとのす』第21号)。なお、金関は林熊生というペンネームを用い、西川満主宰の『文藝台湾』同人名簿にもこの名前で載っている。
龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけだが、物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。推理をめぐらす時は眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通している。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたら、うかがい知れぬ智慧を秘めているのかもしれない、という着想があったのだろうか。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じにしめくくられるのもセオリー通り。心霊写真や霊媒(台湾の関三姑)といった道具立ては、心霊現象に関心を寄せていたコナン・ドイルを連想させる。金関のことだから、しっかり読んでいたはずだ。
『民俗台湾』第29号(昭和18年11月)では、媳婦仔の特集が組まれている。息子の嫁にする前提で他家から幼女をもらい受け、事実上、奴隷働きさせる習俗である。連作中の一篇「観音利生記」は媳婦仔の少女を救い出す話だ。
民俗採集は社会的慣習のありのままを記述するというだけでなく、その慣習にはらまれた不合理な要素も際立たせる。少女作家・黄氏鳳姿は萬華の習俗を作文につづりながら、自分の身辺の中世的に暗い部分が目に付いて、書くのをやめたいと思ったところ、池田敏雄から説得されたことを回想している(池田鳳姿「『民俗台湾』の時代」、復刻版『民俗台湾』第五巻[南天書局、1998年]所収)。植民地社会における習俗のマイナス面の改善を図ることは“文明化”なのか、それとも“植民地化”なのかという議論はなかなか難しいところだ。“文明化”という大義名分の下、政策当局者の統治合理化という思惑による強制に転化するおそれが常にある一方で、気付いてしまったものを放っておくわけにもいかない。ただし、『民俗台湾』の編集スタンスとしては、“皇民化”という形での台湾社会に対する日本文化の不合理な押し付けに反対しており、媳婦仔のようなマイナス面に向けられた視線にはある種のヒューマニズムが動機として息づいていたことには留意しておく必要があるだろう。『龍山寺の曹老人』は娯楽小説ではあるが、台湾生活の中での見聞が織り込まれている点でも興味深い。
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