« 国分直一のこと | トップページ | 『民俗台湾』の評価をめぐって »

2009年9月20日 (日)

移川子之蔵という人

 移川子之蔵という名前を見てすぐにピンとくる人はどれくらいいるだろうか。台北帝国大学土俗・人種学講座の創設者である。私は学生のころ考古学に関心があったこともあって名前くらいは見覚えがあったが、勝手に“いがわ・しのぞう”などと読んでいた。正確には“うつしかわ・ねのぞう”と読む。ところが、本人はローマ字でサインするときUTSURIKAWAと書いたという。アメリカ留学中、日本から来る書簡の宛名がたいていUTSURIKAWAとなっており、それを見たアメリカ人からもそう呼ばれて、何となく定着してしまったらしい。細かいことにはこだわらない、おおらかな人だったようだ。

 おおらかと言えば、こんなエピソードもある。東大で開催された第一回人類学会・民族学会連合大会で特別講演を行なったとき、所定時間を平気で1時間以上もオーバーした。題目は「未開民族における時の観念について」。身を以て実例を示したのかと語り草にもなった。とにかく時間を守らない人で、講義には遅刻するし、列車にも乗り遅れる。原稿の締切も守らないし、その上じっくり考えて書くタイプなので、業績の割には刊行された論文点数は少ない。飄々とした人格なので、それでも許されていた。

 移川の事蹟については、馬淵東一「移川先生の追憶」(『馬淵東一著作集第三巻』[社会思想社、1974年]所収、初出は『民族学研究』第十二巻第二号、1947年)、宮本延人「私の台湾紀」第一~十六回(『松前文庫』第三十~四十五号)、国分直一「移川子之蔵──南方民族文化研究のパイオニア」(綾部恒雄編著『文化人類学群像[3]日本編』[アカデミア出版会、1988年]所収)を参照した。宮本は慶應義塾大学での教え子で移川の台北帝国大学赴任にあたり助手として同行(戦後は東海大学名誉教授)、馬淵は台北帝国大学での唯一の弟子である(戦後は東京都立大学名誉教授)。

 移川は1884年、福島県で生まれ、中学卒業後、アメリカに留学。イリノイ大学、シカゴ大学、ハーバード大学で学ぶ。当初の志望は美術・建築だったが、民族学・人類学に変更した。「僕はイマジネーションが多すぎるせいか、自分の設計した建築は倒れそうな気がして」と語っていたらしい。ハーバードでは南太平洋の民族文化の専門家として名高いディクソン(Roland B. Dixon)の指導により“Some Aspects of Decorative Art of Indonesia”で博士号を取得(この博士論文には後年もしばしば手を入れて推敲を重ねていたらしいが、公刊はされなかった)、ハーバードの海外留学生として東南アジア・東インドに派遣された。

 1919年に帰国したが、当時の日本には人類学で職はない。東京商科大学で英語を教えていたが、総長の福田徳三が訪米中に移川の評判を聞いて慌てて彼を教授にしたというエピソードを宮本は記している。慶應で人類学の講義を持ったが、1928年、台北帝国大学設立にあたり、土俗・人種学講座の教授として赴任する。

 土俗・人種学とは聞き慣れない表現だが、移川は自らの講座名を英語でInstitute of Ethnologyと表記した。“民族”学というと台湾の民族運動を連想させるから総督府に忌避されたという噂のあったことを馬淵は記しているが、移川は名前などどうでもいいと気にしていなかった様子である。台北帝国大学に人類学の講座が設置されたのはもちろん総督府に植民地政策の意図があったからだが、移川自身は純粋に学究肌の人で、政治的なこととは没交渉だったようだ。当初は形質人類学など自然科学分野もカバーせねばならなかったが、森於菟・金関丈夫らによって医学部に解剖学講座が設けられて移川たちは人文分野に専念できるようになった。隣接分野としては言語学の小川尚義、浅井惠倫もいたほか、学外だが鹿野忠雄も調査にしばしば同行した。

 移川は具合の悪い片足を引きずりながらも宮本・馬淵らを連れて積極的に原住民社会のフィールドワークに出かけた。台湾西岸の漢族系社会と比べて東岸の原住民社会は極めて多種多様であること、部族の系譜や移動歴を古老が詳しく記憶していることに驚き、彼らの語りを記録・整理、『高砂族系統所属の研究』にまとめた。調査行の様子は宮本の回想録に具体的に記されており、なかなか興味深く読んだ。移川たちの関心は台湾原住民と南洋民族とのつながりに重きが置かれていたが、他方で、中国大陸の江南先史文化との関わりについては積極的な発言はなかったと国分は指摘している。

 日本の敗戦後、移川は日本に引き揚げ、土俗・人種学講座は台湾大学文学院考古人類系に引き継がれた。1948年に教授としてやって来た李済は安陽(殷墟)の発掘にも携わった著名な考古学者だが、彼の博士論文「中国人の形成」もハーバード大学のディクソンから指導を受けており、移川とはいわば同門であったと記している(李済[国分直一訳]『安陽発掘』新日本教育図書、1982年)。留用という形で台湾大学に残っていた国分は、李済が「これがハーバードの先輩、プロフェッサー・ウツリカワのミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを傍らで聞いた。移川はいまどうしているのか?と尋ねられたが、国分も日本の様子は分からない。戦後の混乱の中、すでに移川は1947年に病死しており、国分もそのことを知らなかった。

|

« 国分直一のこと | トップページ | 『民俗台湾』の評価をめぐって »

人物」カテゴリの記事

台湾」カテゴリの記事

歴史・民俗・考古」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/46260042

この記事へのトラックバック一覧です: 移川子之蔵という人:

« 国分直一のこと | トップページ | 『民俗台湾』の評価をめぐって »