『文藝台湾』と『台湾文学』と『民俗台湾』
西川満をどのように評価するかは別として、日本統治期における台湾文化の最大の立役者の一人であることは間違いないだろう。早大在学時の恩師・吉江喬松から「地方主義文学に生きよ」と言われ、台湾日日新報に勤務するかたわら自ら著述・出版に精力的に取り組んだ。とりわけ造本・装幀へのこだわりはいまだに稀覯書マニアの間でよく知られている。
西川は台湾文芸界の水準向上、中央文壇に従属した辺境ではなく独自色を持たせることを目指し、全島レベルでの組織化へと動いた。1939年9月に台湾詩人協会を設立して詩誌『華麗島』を創刊、さらに1940年1月には台湾文芸家協会へと発展的に再編し、『華麗島』は『文藝台湾』として台湾随一の文芸総合雑誌となる。この際、台北帝国大学や台湾総督府とつながりをつけたり、東京の著名文化人を賛助員として多数リストアップするなど雑誌の権威付けにも力を注いでいる。なお、『文藝台湾』をめぐる経緯については、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』(五柳書院、1995年)、同「日本時代の台湾文壇と大政翼賛運動に関する一考察」(『横浜国立大学留学生センター紀要』2、1995年)、中島利郎「日本統治期台湾文学研究:日本人作家の抬頭──西川満と「台湾詩人協会」の成立」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』44、2005年)、同「日本統治期台湾文学研究:「台湾文芸家協会」の成立と『文芸台湾』──西川満「南方の烽火」から」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』45、2006年2月)、同「日本統治期台湾文学研究 西川満論」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』46、2007年2月)などを参照のこと。
『文藝台湾』には台湾の民俗的な事象への関心もうかがえる。西川は池田敏雄と共著で『華麗島民話集』(日孝山房、1940年)を出すなど民俗的なものへの関心を持ち、掘り起こしに努めたのは確かだが、後述するようにそのスタンスは池田とはだいぶ異なる。西川の文学観には耽美的な傾向が濃厚で、エキゾチシズムの対象として台湾をとらえる傾向があった。その点が佐藤春夫から評価されたり、『文藝台湾』の事実上の分裂後も台北大国大学の文学者・矢野峰人や島田謹二から支持を受けたわけだが、他方で、台湾人自身には表層的で自分たちへの理解が十分ではないという不満を抱かせたのではないか。
それから、台湾における読者人口から考えてそれほどの部数を売りさばけるわけでもなく、資産家の息子であった西川が私財を投じていた。当然ながら、西川個人の色合いが強くなってくる。西川の一種の貴族的態度に反感を持つ同人も多かったらしく、張文環は「有閑マダム的なままごとでもしているようで我慢が出来ない」と記している(張文環「雑誌『台湾文学』の誕生」『台湾近現代史研究』第2号、1979年8月)。
こうした次第で1942年には分裂していき、戦争中という時世もあって、『文藝台湾』は皇民化運動に協力的な方向へと進む。ただし、西川の活動は日本人・台湾人を問わず作品発表の場を提供したこと、台湾に愛着を抱き、たとえエキゾチシズムが目的ではあっても台湾土着の独自性に注目したことについては一定の評価がある(たとえば、フェイ・阮・クリーマン[林ゆう子訳]『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年)。
台北放送局の文芸部長であった中山侑が自分たちで文芸雑誌を出そうと言い出したのをきっかけに同調者が集まり、1942年5月27日に張文環が中心となって啓文社を興して『台湾文学』が創刊された。弁護士の陳逸松が資金を出し、蒋渭川(蒋渭水の弟)が経営する日光堂書店が販売を引き受けた(ただし、蒋渭川とはその後もめたらしい)。読者層の大半は台湾人が占め、分裂騒ぎが一種のゴシップネタとなったせいもあるのかもしれないが、一時は『文藝台湾』をしのぐ勢いを見せた。台北帝国大学の中でも『文藝台湾』に好意的な矢野・島田に対して、中村哲(憲法学・政治学)や工藤好美(英文学)などは『台湾文学』を支持した。張は西川から新雑誌創刊をやめるよう直談判を受けたと記しているが、別の所ではそれは誤解だとも発言しているらしい(中島利郎「忘れられた作家たち・一 「西川満」覚書:西川満研究の現況」『聖徳学園岐阜教育大学国語国文学』12、1993年3月)。必ずしも絶交したというわけでもなさそうだ。
張文環の作品を私は未読だが、リアリズムに立つ作風だそうで、龍瑛宗は田園生活の習俗描写にたけている作家だと評している。耽美的幻想趣味の西川とは文学的にも方向性は異なる。戦後は執筆の使用言語として日本語から中国語への転換がうまくいかず、会社員・銀行員等として生計を立て、定年後は日月潭の観光ホテルの支配人となった。晩年には再び日本語で小説を書き上げている。
張文環の『台湾文学』立ち上げにあたり、龍瑛宗はその話を知らされず、西川の『文藝台湾』に残留する形になった。その折の孤独感を「『文藝台湾』と『台湾文藝』」(『台湾近現代史研究』第3号、1981年1月)につづっている。龍は客家であるため他の台湾人作家たちが閩南語で話し合っている席に出ても言葉が分からず、もともと内気な性格でもあったため無口になってしまう。だから『台湾文学』にも誘われなかったのだろう、という。客家であることについて張文環から差別的な発言を受けたことも記されている。張は性格的にそういう発言をするタイプではないため「満清時代の分類械闘がいまだに尾を引いているんだな」と驚いたようだ。一言で“台湾人”といっても一枚岩ではなかったことがうかがわれる。
『台湾文学』グループの『文藝台湾』からの分裂騒動とほぼ同じ頃、1942年7月に『民俗台湾』が創刊された。池田敏雄が台北帝国大学の金関丈夫(解剖学・人類学)を訪ね、民俗学の雑誌を出したい旨を相談したところ、金関は岡書院発行の『ドルメン』のような雑誌にしたらいいと提案。金関を代表として、絵やカットは立石鉄臣(当時、台北帝国大学医学部で解剖画を描いていたらしい)、写真は松山虔三(プロレタリア写真家同盟に入っていたが、徴兵忌避で台湾に来て台北帝国大学の土俗人種学教室で写真のアルバイトをしていたという)、編集実務は池田が取り仕切ることになり、中村哲(専門は憲法学・政治学だが柳田國男と関係あり)や国分直一(考古学)らも積極的に協力、台湾全島から寄稿を募った。販売は三省堂系の東都書籍が引き受けた。『台湾文学』分裂時のような騒動はなかったようだが、『文藝台湾』の民俗部門理事としてあがっていた池田、楊雲萍、黄得時の三人の名前は消える。
台湾の民俗的なものへ目を向けた点で池田は西川と共通しているが、やはり気質的なところが大きく相違する。西川は台北の下町とも言うべき萬華には興味がなく、東洋文化と西洋文化とが混じりあった趣のある大稲埕の方が好きだったと回想しているが、対して池田は萬華の庶民生活にこそ関心を寄せ、後に結婚する黄氏鳳姿の実家を拠点に隈なく歩き回っていた。
総督府による同化政策によって台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという問題意識を『民俗台湾』は持っており、投書欄「乱弾」では金関が「金鶏」、池田が「黄鶏」という変名で皇民化運動を諷刺している。そのため総督府からにらまれていた。戦争末期に池田も立石も応召されたのはそのためであろうか。日本人が運営する雑誌であったため人種偏見的なものもあったのではないかと勘繰る向きもあろうが、戦後、同人として参加していた楊雲萍や黄得時はそうした気配は全くなかったと断言している。川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)は日本を中心とした同心円的な民俗学の構想の中で辺境化する試みとして『民俗台湾』についても位置付けているが、池田たちの意図を汲み取っていないと呉密察(台湾大学)は批判している(呉「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」、藤井省三・黄英哲・垂水千恵編『台湾の「大東亜戦争」』東京大学出版会、2002年)。『民俗台湾』をめぐる具体的な経緯については『台湾近現代史研究』第4号(池田敏雄氏追悼記念特集、1982年10月)を参照のこと。
台湾も戦時体制一色に染まりつつある中、『文藝台湾』と『台湾文学』の両誌が自主的に解消するという形式で、1944年に台湾文学奉公会(台湾文芸家協会の再編された組織)から『台湾文藝』が刊行される。編集委員は『台湾文学』出身の張文環以外はすべて日本人で占められた。『民俗台湾』は池田・立石らが応召されても金関の編集によって何とか続けられたが、印刷所が爆撃を受けたため物理的に刊行できなくなってしまった。
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