植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。
1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。
『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。
なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。
1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。
小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。
坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。
どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。
川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。
呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。
ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。
〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。
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