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2009年9月

2009年9月29日 (火)

陶晶孫のこと

 先日、用事があって千葉県市川を訪れた折、郭沫若記念館があるのを知って立ち寄った。郭沫若は蒋介石に追われて、1928年、日本へ亡命、村松梢風の紹介で市川に居を構えたのだという。日中戦争勃発後は、日本人である妻・をとみを残して中国へ戻った。彼の旧家を復元・移築して記念館として整備されている。

 をとみの妹みさをと結婚したのが、郭の九州帝国大学医学部での友人・陶晶孫である。最近、金関丈夫のことを調べていたら、陶の名前もたまたま出てきたばかりだったので気になった。日本の敗戦直後の1946年、陶は台北帝国大学の後身・台湾大学医学院に衛生学科教授兼熱帯医学研究所長として赴任、留用されていた金関とも親しく付き合ったことが金関のエッセイに記されていた(たしか『孤燈の夢』に収録されていたと思うが、図書館で借りて読んで、いま手元にないので確認できない)。同じく衛生学者の杜聡明とも交流があったはずだ。

 陶は大学で医学教育に打ち込むが、二・二八事件や続く国民党による白色テロの暗い影は身近に迫っていた。1949年、大陸で中華人民共和国が成立、義兄・郭沫若がその要職に就いたため、陶自身も特務警察のブラックリストに載ったことを知る。1950年、日本へ亡命、市川に落ち着いた。倉石武四郎の招聘で東大文学部講師となったが、1952年、病死。死後、彼の日本語の文章を集めて『日本への遺書』(新版、東方書店、1995年)が刊行された。簡潔で、どこかユーモラスな筆致が人柄をしのばせる。

 陶晶孫は1897年、中国・無錫に生まれ、1906年、父に従って来日、東京・神田の錦華小学校、府立一中、一高、九州帝国大学医学部、東北帝国大学理学部に学ぶ。医学者として身を立てるが、文学にも造詣が深く、1921年には郭沫若らの創造社に加わった。

 厳安生『陶晶孫 その数奇な生涯──もう一つの中国人留学精神史』(岩波書店、2009年)は、陶晶孫を軸に郭沫若や郁達夫も絡め、大正教養主義の真っ只中に多感な青春期を送った中国人留学生の精神形成を描いている。彼らはいわゆる“旧制高校”的スノビズムに浸る中でヨーロッパ志向の高い教養を身につけた。彼らの文学活動の背後に、新中国建設という意気込みだけでなく、文学青年たちの同人誌ブームや大正生命主義などを読み取る指摘が興味深い。雑誌『創造』というタイトルも、確かにベルグソン『創造的進化』を想起させる。

 陶は1929年に中国へ戻る。上海の東南医学院に勤めたが、大学とは名ばかりの実態に失意、“魔都”上海の喧騒に耽溺する。文章を書き、プロレタリア演劇を立ち上げ、尾崎秀実やアグネス・スメドレーなどとも交流。1930年からは上海自然科学研究所に入った。そこでの陶の生活ぶりは佐伯修『上海自然科学研究所──科学者たちの日中戦争』(宝島社、1995年)に見える。この本は上海自然科学研究所に関わった日中の多彩な人物群像を詳しく調べ上げており、意外な人的つながりも見えてきたりしてとても面白い。できれば索引があればありがたかった。

 郭沫若記念館のガイドの方と話していて、陶晶孫の名前を出したら、彼の家は近くにあって、「子孫の方が暮らしていますよ、だいたいこの辺りです」と地図で教えてくれた。駅まで戻る途中である。風景はだいぶ変わっているはずだが、彼の歩いたと思しき道を私もそぞろ歩いた。

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2009年9月28日 (月)

連温卿について

 先日、『民俗台湾』のバックナンバーをパラパラ拾い読みしていたら、連温卿「台湾民族性の一考察」という論文が目に付いた。全6回、第4号(昭和16年10月)から第11号(昭和17年5月)まで断続的に連載されている。なぜ目に付いたかと言うと、他の論文・報告・随筆と比べて文体が異質だったから。生産手段、剰余価値といった用語、あの独特に生硬な論理立て、明らかにマルクス主義である。連温卿という名前は台湾議会設置請願運動で目にした記憶はあった(たとえば、若林正丈『台湾抗日運動史研究』増補版、研文出版、2001年)。『民俗台湾』掲載号の筆者紹介には「台湾籾殻灰販売組合常務理事、在大稲埕」とある。

 連温卿という人の概略については戴國煇「台湾抗日左派指導者連温卿とその稿本」(『史苑』第35巻第2号、1975年3月)、伊藤幹彦「台湾社会主義思想史──連温卿の政治思想」(『南島史学』第60号、2002年11月)を参照した。

 連温卿は台北出身(生年については、若林書では1893年、wikipediaでは1894年、伊藤論文では1895年となっている。没年は1957年)。公学校卒業以上の学歴はない。エスペラント協会に入ってから社会問題に関心を抱くようになり、台北在住のエスペランティスト山口小静の紹介で山川均・菊栄夫妻との交流が始まった。台湾議会設置請願の運動母体となった台湾文化協会でも活動。林献堂・蔡培火らの改良主義派、蒋渭水らの民主主義派とも一線を画し、王敏川と共に社会主義派の中心となる。林、蒋らの脱退・分裂によって社会主義派が文化協会を乗っ取るが、連もイデオロギー闘争(福本イズムvs.山川イズム)に敗れて、1929年に除名された。

 沖縄出身のエスペランティスト比嘉春潮は、エロシェンコの手記を送ったのをきっかけに連温卿と親しく付き合うようになったと記している(『沖縄の歳月──自伝的回想から』中公新書、1969年、102‐103ページ。本書ではR氏となっている)。山川菊栄『おんな二代の記』(平凡社・東洋文庫、1972年)にも、山口小静の思い出と共に連についての記述がある(248‐251、342‐354ページ)。山口からの手紙が引用されており、彼女は特高から「内地人がエスペラントをやる分には構わないが、台湾人がやれば反日的とみなす」と言われたらしい。山川均「植民政策下の台湾」(初出『改造』1926年5月号)という論文は連の資料提供に基づいて執筆されたという(『山川均全集第七巻』勁草書房、1966年、258ページ)。

 早逝した山口小静の追悼文を山川均が書いており、所収の『山川均全集第五巻』に山口と連の二人が並んだ写真も掲載されている(200ページ)。山口という人は、細身で勝気な表情をした実に凛々しい女性だ。父親は台湾神宮の神官であった。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)在学中に社会主義運動と関わり、にらまれていたが、病気で退学、台北に帰郷。小学校の教師をしながらエスペラント運動に従事していたが、無理がたたって23歳で病死した。

 さて、『民俗台湾』掲載の「台湾民族性の一考察」の話に戻る。経済的発展段階によってオランダ統治期以来の台湾史を把握する趣旨の論文なのだが、清代の台湾封鎖政策によって大陸との経済的連携から離れた、従って、台湾への移住者は中国人ではあっても、「生活の異変を通じて新たなる民族の意識を昂揚し、把握し、共通化ならしめるとともに、経済的独立を築いてゆくのであった」という論点が目を引く。同様の論旨は他の民俗学的な考察でも一貫している。「牽手考」(『民俗台湾』第26号、昭和18年8月)は妻を意味する「牽手」という言葉の語源的な考察、「媳婦及び養女の慣習について」(『民俗台湾』第29号、昭和18年11月)は妻にする前提で幼女をもらい受ける習俗について考察しているのだが、いずれも清代の台湾封鎖政策が移住男性の結婚難をもたらし、平埔族との婚姻が進んだことが背景にあると指摘する。台湾の経済的独立、漢族の平埔族との混血・習俗的混淆、こうした論点は台湾人としての民族的独自性を強調する方向につながる。

 社会主義運動に挫折して民族学・民俗学に向かった人は珍しくない。たとえば、石田英一郎、橋浦泰雄といった名前が思い浮かぶ。『民俗台湾』に寄稿した台湾人の顔触れにも、連温卿のほか、プロレタリア文学で知られる楊逵がいた。連温卿の場合には、マルクス主義に基づいて日本の帝国主義を批判すると同時に、台湾の経済史的・民俗学的考察を通して台湾独立論につながる議論を示していた点にも興味がひかれる。

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2009年9月27日 (日)

金関丈夫『龍山寺の曹老人』

 戦後間もなく、天皇制の呪縛から解き放たれたのを機に、日本民族起源論が活発になった。江上波夫、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の座談が有名だが、こうした一連の議論の中で金関丈夫の名前も見えたことが、私の金関についての第一印象であった。本職は解剖学だが、京大で清野謙次から人類学、浜田青陵から考古学の手ほどきも受けている。ヨーロッパ留学を経て、台北帝国大学医学部に赴任、森於菟(鴎外の長男)と共に解剖学教室の設立にあたった。以前に岡書院発行の民族学・考古学雑誌『ドルメン』の編集に関わった経験もあり、池田敏雄から『民俗台湾』創刊の相談を受けたときには、肩のこらない学術雑誌という趣旨で『ドルメン』をモデルにするよう提案している。

 金関のジャンルを越えた教養の幅広さはよく知られている。彼の著作で入手しやすいのは『木馬と石牛』(岩波文庫、1996年)であろうか。小さい頃からの文学好きで、古今東西の説話・伝説の類を比較考証するこの本にも、やわらかい学術エッセイとしての軽妙な筆さばきが冴えている。

 日本の敗戦後、金関は留用されて肩書きは台湾大学教授となった。これからどうなるものやら、と日本人がみな浮き足立つ中、金関は「こんなときこそ勉強するのが一番だ、それがイヤなら小説でも読むことだな」と話していたらしい(池田敏雄「敗戦日記」『台湾近現代史研究』第4号)。そうした不安な状況下に書いた連作探偵小説が『龍山寺の曹老人』である(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)。探偵小説好きが昂じて自ら執筆した医学者としては他に木々高太郎(林髞)も思い浮かぶ。金関は戦争中に『船中の殺人』も出版している(私は未見)。探偵小説に詳しい評論家の尾崎秀樹は当時、台北の中学生で、父・秀真(ほつま)の紹介で金関の研究室を訪問したこともあり、『船中の殺人』を買って読んだことを回想している(『えとのす』第21号)。なお、金関は林熊生というペンネームを用い、西川満主宰の『文藝台湾』同人名簿にもこの名前で載っている。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけだが、物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。推理をめぐらす時は眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通している。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたら、うかがい知れぬ智慧を秘めているのかもしれない、という着想があったのだろうか。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じにしめくくられるのもセオリー通り。心霊写真や霊媒(台湾の関三姑)といった道具立ては、心霊現象に関心を寄せていたコナン・ドイルを連想させる。金関のことだから、しっかり読んでいたはずだ。

 『民俗台湾』第29号(昭和18年11月)では、媳婦仔の特集が組まれている。息子の嫁にする前提で他家から幼女をもらい受け、事実上、奴隷働きさせる習俗である。連作中の一篇「観音利生記」は媳婦仔の少女を救い出す話だ。

 民俗採集は社会的慣習のありのままを記述するというだけでなく、その慣習にはらまれた不合理な要素も際立たせる。少女作家・黄氏鳳姿は萬華の習俗を作文につづりながら、自分の身辺の中世的に暗い部分が目に付いて、書くのをやめたいと思ったところ、池田敏雄から説得されたことを回想している(池田鳳姿「『民俗台湾』の時代」、復刻版『民俗台湾』第五巻[南天書局、1998年]所収)。植民地社会における習俗のマイナス面の改善を図ることは“文明化”なのか、それとも“植民地化”なのかという議論はなかなか難しいところだ。“文明化”という大義名分の下、政策当局者の統治合理化という思惑による強制に転化するおそれが常にある一方で、気付いてしまったものを放っておくわけにもいかない。ただし、『民俗台湾』の編集スタンスとしては、“皇民化”という形での台湾社会に対する日本文化の不合理な押し付けに反対しており、媳婦仔のようなマイナス面に向けられた視線にはある種のヒューマニズムが動機として息づいていたことには留意しておく必要があるだろう。『龍山寺の曹老人』は娯楽小説ではあるが、台湾生活の中での見聞が織り込まれている点でも興味深い。

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2009年9月26日 (土)

入田春彦という人

 楊逵(1905~85年)「新聞配達夫」(『日本統治期台湾文学台湾人作家作品集第一巻』[緑蔭書房、1999年]所収)という小説に目を通したことがある。向学心はあるが貧しい台湾人少年、右も左も分からぬ東京で学資を稼ぐために新聞配達店に飛び込んだが、店主の狡猾なやり口で身ぐるみはがされてしまう、という話。1934年に『文芸評論』賞を受賞、日本の文壇で認められたほか、中国語にも翻訳され、台湾人によるプロレタリア文学の代表作とされる。楊逵自身、東京で苦学し、職を転々としたことがあるので、そうした中で味わった体験がこの小説に織り込まれているのだろう。

 なお、当時、台湾人で上級学校へ進学・留学するのは富裕層にほぼ限られていて、楊逵のように苦学した人は珍しいと言われる。邱永漢「濁水渓」にも、東京で女の子から“台湾のプリンス”という眼差しを受けるシーンがあった。楊逵は東京で労働運動に身を投じたが、朝鮮人はそれなりに多数いても、台湾人はほとんどいなかったという(楊逵・戴國煇・若林正丈「台湾老社会運動家の思い出と展望」『台湾近現代史研究』第5号、1984年12月)。このインタビューで戴國煇が、当時の台湾人には日本人の尻馬に乗って朝鮮人を馬鹿にする風潮がありましたね、と水を向けると、楊逵は労働運動の内部ではそういう差別をするような雰囲気はなかったと回想している。「新聞配達夫」にも、同じく虐げられている者同士として日本人労働者とも連帯する気分が記されている。

 「新聞配達夫」を読み、是非作者と会って話をしたいとやって来たのが入田春彦(にゅうた・はるひこ、1909~38年)である。借金に首の回らない楊逵の苦境を知って百円を用立ててくれた。以降、家族ぐるみの付き合いが続く。以下の記述は張季琳「楊逵の魯迅受容──台湾人プロレタリア作家と総督府日本人警察官の交友」(『アジア遊学』第25号、2001年3月)を参照した。

 入田は台中勤務の警察官であったが、たいした給料でもなく、百円を出すというのはよほどの気持ちによるのだろう。もともとセンシティヴな文学気質の人で、文芸誌や新聞の文芸欄によく投稿していた。彼が「新聞配達夫」のどこに感動したのかはよく分からない。根がヒューマニストであるから、植民地の警察という抑圧機構の歯車となり、その中で翻弄されている不本意な憂鬱を重ね合わせたのだろうか。

 1938年、入田は警察を辞めさせられて三ヵ月後、アパートの自室で自殺した。左翼運動との関わりが失職の理由だったらしい。台中警察の問題について内部告発を準備していたのだという推測もある。遺書や日記には芥川的なメランコリーが記されていた。

 台湾に身寄りのない入田の遺骨は楊逵が引き取り、蔵書も引き継いだ。多くの文学書の中に改造社版『大魯迅全集』全七巻もあった。当時、台湾で魯迅は禁書扱いで、それを持ち込めたのは日本人警察官としての特権だったとも言える。楊逵は入田の蔵書を通して魯迅作品を本格的に読み込むことができた。なお、戦後の国民党政権下、楊逵は逮捕されて緑島監獄に送られているが、特務警察の追及が厳しくなったときに入田の蔵書は手放さざるを得なかったという。

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2009年9月25日 (金)

黄栄燦という人

 「恐怖的検査──台湾二二八事件」という木版画は私も何かで見た覚えがある。作者は黄栄燦という人。重慶出身の美術家である。1945年、日本の敗戦、国民政府の進駐という状況の中で台湾にやって来た。二・二八事件というと本省人対外省人の対立構図が強調されるが、目撃したその凄惨なあり様を作品として残したのも外省人であったことは記憶しておいていいだろう。

 以下の記述は、黄英哲「台湾における木版画家黄栄燦の足跡(1945-1952):魯迅思想伝播の一形態として」(『アジア遊学』第25号、2001年3月)、陳藻香「濱田隼雄のヒューマニティ:「黄榮燦君」と「木刻画」」(『天理臺灣學會年報』第七号、1998年6月)を参照した。黄栄燦については横地剛『南天の虹』という本もあるらしいが、入手できておらず未見。

 黄栄燦は1916年の生まれ。はっきりとしたことは分からないが、魯迅の木版画運動に学んだ人だという。魯迅が木版画に深い関心を寄せていたことは内山嘉吉・奈良和夫『魯迅と木刻』(研文出版、1981年)を参照(ただし、本書に黄栄燦の名前は出てこない)。魯迅は木版画ではなく敢えて「木刻」という表現を用いた。木版を刻むという能動的行為に着目し、思想表現としての役割を意識したからだろうか。魯迅が関心を持った理由としては、木版はもともと中国起源だが西欧・日本を経て里帰りした芸術だと考えたこと、識字率の低い民衆に連環図画の普及を意図していたこと、忙しい中でもわずかな時間で製作できる簡便性、などが挙げられる。なお、本書には、成城学園で小学生に美術を教えていた内山嘉吉が、夏休み、上海の兄・完造のもとに滞在中、魯迅から請われて中国の美術学生相手に木版画の基礎を教えた経緯が記されている。

 魯迅の流れを汲むリベラリストは大陸では蒋介石から弾圧を受けていたため、新天地に希望を託す思いで台湾にやって来た人々がいたらしい。黄栄燦も抗日戦争を経て、ジャーナリスト、文化工作担当者という身分で来台。その頃留用されていた日本の文化人とも交流した。

 日本の敗戦を迎え、無為な生活を送る中でも何か文化的な活動をしようと西川満が『文藝台湾』の仲間だった濱田隼雄と相談して制作座という劇団を立ち上げていた。舞台をしつらえた西川の自宅には日本人ばかりでなく中国人も観に集まって来たらしい。その中に黄栄燦もいた。西川、濱田らは話がはずむ中で黄が版画に関心を持っていることを知り、画家の立石鉄臣を紹介した。黄が立石と一緒に池田敏雄の自宅にもよく訪れていたことは池田の「敗戦日記」に見える(『台湾近現代史研究』第四号)。池田は黄のことを「だいぶ進歩的な思想を持つ人のようだ」と記している。池田が編集実務を担っていた『民俗台湾』の発行元、東都書籍は東寧書局と名前を変えていたが、黄は池田の紹介でこれを買収、新創造社を立ち上げる。

 陳藻香論文では濱田の記した黄栄燦の人物像が紹介される。互いに言葉の分からない二人が、歩きながら道に文字を刻んで筆談するシーンが印象的だ。朝早くにやって来て「早々! 早々!」と声をかけるので、彼のことを濱田の子供たちは「チャオチャオさん」と呼んでいたという。ある日、濱田が「あなたのお子さんは?」と尋ねると、黄は言いにくそうに、重慶で生死不明であることを答える。濱田は日本軍による重慶爆撃に思い至る。彼自身、もともと社会主義思想に共鳴していたものの、戦時中は皇民化政策に沿った言論活動を展開、一時は戦犯指名の噂まで流れたこともある。濱田の自責の戸惑いを見て取った黄はニコニコした表情でただちに「これも運命だから仕方ない。それに、戦争では日本人にも多くの犠牲者が出た」という趣旨のことを筆談紙に書いて寄こした。台湾進駐の国民党軍のみすぼらしい姿を見て、日本人には軽侮の念が、台湾人には失望感が広がっていた。そうした中、濱田が黄栄燦の人となりを知って、はじめて日本の敗北を実感したという心理的な機微の移り変わりが興味深い。

 濱田は1946年4月に日本へ引き揚げた。翌年、二・二八事件がおこり、それが外省人に対する本省人の暴動であることを伝え聞いて、「黄君は大丈夫だろうか? 文化人だから標的にはされないだろうが…」と心配している。黄栄燦は本省人の標的にはされなかったものの、戒厳令下、新創造社は閉鎖されてしまう。教職に就いたが、続く国民党による白色テロの中で逮捕され、1952年、処刑された。

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2009年9月21日 (月)

『民俗台湾』の評価をめぐって

 植民地統治期台湾における広い意味での人類学的調査の経緯を大雑把にまとめると、第一に、後藤新平の発案による旧慣調査から始まる。統治を実効的ならしめるにはまず実態をありのままに把握する必要があるという政策立案上のプラグマティックな発想が背景にあり、後藤の「ヒラメの眼をタイの眼にすることはできない」という言葉は有名だろう。漢族系社会の調査が中心であり、織田萬・岡松参太郎など法律専門家の名前が見えるのが特徴である。山地の原住民系社会にはまだ警察による実効支配が及んでいなかったが、第二段階として、そこに先鞭をつけた伊能嘉矩、鳥居龍蔵、移川子之蔵(台北帝国大学、土俗・人種学)、浅井惠倫(台北帝国大学、言語学)、鹿野忠雄などが続く。こちらは純粋に学術志向で、政策的思惑とのつながりは薄い。ところで、この間、漢族系社会の民俗調査は進んでおらず、第三段階として、その空白を埋めるべく金関丈夫(台北帝国大学、解剖学)・池田敏雄らを中心に『民俗台湾』が創刊された(1941年)。なお、西川満の『文芸台湾』にも民俗部門があり、当初は池田・黄得時・楊雲萍などの名前も見えたが、こちらはむしろ文学志向に偏っていたため池田らは離れていく。

 1930年代後半から皇民化運動が始まり、さらに戦時体制一色となるにつれて台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという焦燥感が『民俗台湾』の動機としてあった。その点では皇民化運動には批判的であり、編集実務を取り仕切っていた池田の身辺には特高の影もちらついていたらしい。それでも存続できたのは、当局から言質をとられないよう誌面構成に苦心していたこと、金関の台北帝国大学教授という官の権威を前面に立てたこと、総督府側にガス抜きの思惑があったかもしれないことも指摘できるだろうか。台湾人からの寄稿も募り、調査者=日本人、被調査者=台湾人という対峙的構図ではなく、台湾人自らによる調査を促したことも特筆される。後に池田敏雄夫人となる少女作家・黄氏鳳姿が一例だが、病躯を押して『民俗台湾』に寄稿し続けた黄連發という人の執念も目を引く。

 『民俗台湾』同人の自己評価はどうであったか。たとえば、中村哲(台北帝国大学、憲法学・政治学)は「『民俗台湾』というものは、政府側の天皇信仰を民間祭祀に代って押しつけようとしたことに反対したのです。それで、この雑誌が土着文化や土地のナショナリズムのはけ口になった。そういうつもりで私はやった。金関さんもひろいヒューマニズムを意識していた」と語っている(座談会「中村先生を囲んで」『沖縄文化研究』第16号、1990年3月)。池田敏雄は「わざわざ民俗資料の蒐集記録をいいたてたのは、当時台湾人の伝統文化をすべて否定し、破壊して日本化を強制しようとする総督府の皇民化政策と、これを支持する風潮に対する批判があってのことであった。したがって『民俗台湾』は、総督府当局からみれば、皇民化運動と相いれないものであり、決して歓迎すべき雑誌ではなかったのである」と記す(池田敏雄「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』第四号、1982年10月)。さらに池田は、台湾人の同人であった黄得時(戦後、台湾大学教授)の次の回想を引用している。「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」(同上)。

 なお、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍(戦後、台湾大学教授)が「冷たい」と非難するという一悶着があり、後述する戦後の『民俗台湾』批判ではこの一件が必ず取り上げられる。しかし、皇民化運動という時代的空気の中、当局から言質を取られないよう多少は筆も曲げねばならなかった事情を忖度せねばならないし、その後、非難したはずの楊自身も『民俗台湾』に寄稿している。楊の故郷・士林の特集が組まれて楊はホスト役として『民俗台湾』関係者を招待している。彼らは個人的に面識があったわけだから、誌面には表われないところで話し合って双方の納得は得られていたと考えるのが自然だろう。戦後になって楊は「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」と記している(『えとのす』第21号、1983年7月)。

 1990年代後半以降、『民俗台湾』に批判的な論考が現われ始める。嚆矢を成すのが川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)である。『民俗台湾』掲載の柳田國男を囲む座談会における柳田の発言から、日本を軸とした中央‐周縁のネットワークの中で植民地民俗学を構想する意図を読み取る。その上で、出席者の一人である金関にはレイシズム的な発想があった、『民俗台湾』は『文芸台湾』と同種のエキゾティシズムに惑溺していた、と論じている(なお、本書で示された視点への賛否はともかく、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野で捉えて議論の一つのたたき台を提示している点ではやはり労作だと私は思っている)。

 小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』──民俗調査と優生政策」(篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』[柏書房、2001年]所収)も金関には解剖学者としての優生思想があったと指摘、その政策的思惑を台湾人寄稿者はおろか池田・国分など良心派日本人にすら隠していたのだ、と論じている。日本の植民地統治における優生思想批判の意図は理解できるのだが、そこに金関を結び付ける論理立てがあまりにも強引すぎる(小熊論文の推測の強引さについては後述の坂野論文も注で指摘している)。金関の趣意書に「冷たさ」を嗅ぎ取った楊雲萍の直観は正確だったと言うのだが、楊自身がその発言を撤回していることは前述の通りである。台湾人寄稿者は利用されただけ、という言い方がされるが、たとえば病死した黄連發への金関による追悼文には彼への尊敬の気持ちが出ていて、少なくとも私はそのような断定にためらいを感ずる。なお、『民俗台湾』が台湾漢族のナショナル・アイデンティティ確認の機能を果たしたという指摘は、先に引用した中村哲の発言と符合している。ただし、小熊は「意図せざる結果だった」と消極的な位置付けに弱めているのだが。

 坂野徹「漢化・日本化・文明化──植民地統治下台湾における人類学研究」(『思想』第949号、2003年5月)は科学史の立場から「他者」を「文明化」する人類学者の態度に着目する。たとえば日本による植民地化以前、原住民に対しては「生蕃」「熟蕃」と華夷秩序に基づく区分けがなされていたが、それに代わって全島レベルで「文明化」さらには「皇民化」が進められた。それは、普遍的な「文明化」なのか、それとも特殊な「日本化」だったのか?と問題提起をする。『民俗台湾』については、「文明化」理念の中に「皇民化」=他者への植民地化暴力がはらまれている矛盾を隠蔽したと指摘する。

 どんなに客観性を標榜したとしても、観察する者/観察される者という非対称的な関係性そのものがある種の権力性・暴力性を帯びてしまう。そこに無自覚であってはならないと反省を促した点でポスト・コロニアルの議論は有益な視点を示している。ただし、『民俗台湾』をめぐってこれまで提起されてきた「大東亜民族学」の序列意識、植民地統治における優生思想、「文明化」言説に内在する「植民地化」、それぞれ考えねばならない論点ではあるのは確かなのだが、どれもテーマ設定初めにありきで、当事者の生身の葛藤が無視されるきらいがある。川村、小熊、坂野論文のいずれもが『民俗台湾』創刊趣意書に対して楊雲萍が「冷たい」と反発したことを取り上げているのだが、彼らの議論の進め方そのものにも欠席裁判の冷たさ、傲慢さをどうしても感じてしまう。

 川村書を読んだ国分直一は「『民俗台湾』の運動はなんであったか──川村湊氏の所見をめぐって」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を寄稿した。そこには師匠として尊敬する金関が不当に貶められているという苛立ちが行間からにじみ出ているが、実直な性格の国分はそれをあらわにはしない。むしろ注目すべきなのは、上下の優劣関係のない東アジアの比較民俗学を目指すべきだという川村の主張に共感を示しているところだ。国境を越えた広がりを持つ先史文化の民族考古学的探求に一生を捧げた国分の問題意識がまさにそこにあったからに他ならない。

 呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編著『台湾の「大東亜戦争」──文学・メディア・文化』[東京大学出版会、2002年]所収)は、『民俗台湾』に台湾の伝統習俗消滅への危機意識、それを記録しようという熱意のあったことを確認し、国分の川村への反論も当然だとする。他方で、それは皇民化政策の時局的転換のすき間をぬって登場し得たものであったと指摘。川村が「大東亜民俗学」と問題提起をした以上、これを避けて通ることはできないと結ぶ。

 ある学知的構造は一人の人間の主観的な情熱によって容易に動かせるものではない。その中に組み込まれた者は、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、構造的加害者として一律に断罪されねばならないのだろうか? 三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐるこれまでの議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかける。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には共感できる。総じて三尾論文の視点が私には最も説得的に感じられた。

〔追記〕『民俗台湾』の全体像を知りたい場合は(復刻されているのでこれを読むのが一番なのはもちろんだが、私も時間がとれないのですべて熟読したわけではない)、陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)がよくまとまっている。第一部では寄稿された論文・随筆のすべてを検討した上で全体的な傾向や特徴が論点ごとに整理され、第二部は編集の中心となった金関丈夫、池田敏雄、立石鉄臣、中村哲、国分直一の人物論となっている。日本語で書かれているが、台北の出版社なので入手が面倒かもしれない。

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2009年9月20日 (日)

移川子之蔵という人

 移川子之蔵という名前を見てすぐにピンとくる人はどれくらいいるだろうか。台北帝国大学土俗・人種学講座の創設者である。私は学生のころ考古学に関心があったこともあって名前くらいは見覚えがあったが、勝手に“いがわ・しのぞう”などと読んでいた。正確には“うつしかわ・ねのぞう”と読む。ところが、本人はローマ字でサインするときUTSURIKAWAと書いたという。アメリカ留学中、日本から来る書簡の宛名がたいていUTSURIKAWAとなっており、それを見たアメリカ人からもそう呼ばれて、何となく定着してしまったらしい。細かいことにはこだわらない、おおらかな人だったようだ。

 おおらかと言えば、こんなエピソードもある。東大で開催された第一回人類学会・民族学会連合大会で特別講演を行なったとき、所定時間を平気で1時間以上もオーバーした。題目は「未開民族における時の観念について」。身を以て実例を示したのかと語り草にもなった。とにかく時間を守らない人で、講義には遅刻するし、列車にも乗り遅れる。原稿の締切も守らないし、その上じっくり考えて書くタイプなので、業績の割には刊行された論文点数は少ない。飄々とした人格なので、それでも許されていた。

 移川の事蹟については、馬淵東一「移川先生の追憶」(『馬淵東一著作集第三巻』[社会思想社、1974年]所収、初出は『民族学研究』第十二巻第二号、1947年)、宮本延人「私の台湾紀」第一~十六回(『松前文庫』第三十~四十五号)、国分直一「移川子之蔵──南方民族文化研究のパイオニア」(綾部恒雄編著『文化人類学群像[3]日本編』[アカデミア出版会、1988年]所収)を参照した。宮本は慶應義塾大学での教え子で移川の台北帝国大学赴任にあたり助手として同行(戦後は東海大学名誉教授)、馬淵は台北帝国大学での唯一の弟子である(戦後は東京都立大学名誉教授)。

 移川は1884年、福島県で生まれ、中学卒業後、アメリカに留学。イリノイ大学、シカゴ大学、ハーバード大学で学ぶ。当初の志望は美術・建築だったが、民族学・人類学に変更した。「僕はイマジネーションが多すぎるせいか、自分の設計した建築は倒れそうな気がして」と語っていたらしい。ハーバードでは南太平洋の民族文化の専門家として名高いディクソン(Roland B. Dixon)の指導により“Some Aspects of Decorative Art of Indonesia”で博士号を取得(この博士論文には後年もしばしば手を入れて推敲を重ねていたらしいが、公刊はされなかった)、ハーバードの海外留学生として東南アジア・東インドに派遣された。

 1919年に帰国したが、当時の日本には人類学で職はない。東京商科大学で英語を教えていたが、総長の福田徳三が訪米中に移川の評判を聞いて慌てて彼を教授にしたというエピソードを宮本は記している。慶應で人類学の講義を持ったが、1928年、台北帝国大学設立にあたり、土俗・人種学講座の教授として赴任する。

 土俗・人種学とは聞き慣れない表現だが、移川は自らの講座名を英語でInstitute of Ethnologyと表記した。“民族”学というと台湾の民族運動を連想させるから総督府に忌避されたという噂のあったことを馬淵は記しているが、移川は名前などどうでもいいと気にしていなかった様子である。台北帝国大学に人類学の講座が設置されたのはもちろん総督府に植民地政策の意図があったからだが、移川自身は純粋に学究肌の人で、政治的なこととは没交渉だったようだ。当初は形質人類学など自然科学分野もカバーせねばならなかったが、森於菟・金関丈夫らによって医学部に解剖学講座が設けられて移川たちは人文分野に専念できるようになった。隣接分野としては言語学の小川尚義、浅井惠倫もいたほか、学外だが鹿野忠雄も調査にしばしば同行した。

 移川は具合の悪い片足を引きずりながらも宮本・馬淵らを連れて積極的に原住民社会のフィールドワークに出かけた。台湾西岸の漢族系社会と比べて東岸の原住民社会は極めて多種多様であること、部族の系譜や移動歴を古老が詳しく記憶していることに驚き、彼らの語りを記録・整理、『高砂族系統所属の研究』にまとめた。調査行の様子は宮本の回想録に具体的に記されており、なかなか興味深く読んだ。移川たちの関心は台湾原住民と南洋民族とのつながりに重きが置かれていたが、他方で、中国大陸の江南先史文化との関わりについては積極的な発言はなかったと国分は指摘している。

 日本の敗戦後、移川は日本に引き揚げ、土俗・人種学講座は台湾大学文学院考古人類系に引き継がれた。1948年に教授としてやって来た李済は安陽(殷墟)の発掘にも携わった著名な考古学者だが、彼の博士論文「中国人の形成」もハーバード大学のディクソンから指導を受けており、移川とはいわば同門であったと記している(李済[国分直一訳]『安陽発掘』新日本教育図書、1982年)。留用という形で台湾大学に残っていた国分は、李済が「これがハーバードの先輩、プロフェッサー・ウツリカワのミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを傍らで聞いた。移川はいまどうしているのか?と尋ねられたが、国分も日本の様子は分からない。戦後の混乱の中、すでに移川は1947年に病死しており、国分もそのことを知らなかった。

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2009年9月19日 (土)

国分直一のこと

 国分直一『台湾の民俗』(岩崎美術社、1968年)、金関丈夫・国分直一共著『台湾考古誌』(法政大学出版局、1979年)を手に取った。前者は主に農漁村などを歩き回ったフィールドノートをもとに漢族や平埔族の民俗について、後者には台湾在留中の発掘調査をもとにまとめた論文が収録されている。台湾の先史文化を考える上で南方系の要素を強調する向きが強かったが、石包丁、黒陶、石鏃などの出土例を踏まえて大陸文化とのつながりを指摘している点に特徴がある。

 『台湾考古誌』はもちろん学術書だが、目を引くのは巻頭のカラー図版。題して「国分先生行状絵巻」。金関の筆になる。たとえば、こんなシーンがある。先史時代の生活光景を大壁画にする企画で、作画担当の立石鉄臣はモデルがいないと描けないと言い、仕方なく国分が裸になって弓矢を持ったり、木を伐ったり。酒飲みの松山和尚につかまっているシーンもあるが、写真家の松山虔三のことか。国分の遠慮がちな性格をからかいながらユーモラスに描かれた絵巻である。日付は1948年10月、国分の妻と娘宛て。国分も金関も留用という形で日本の敗戦後も台湾に残されており、先に帰国した国分の家族を安心させるために金関が描いて送ったのである。

 国分直一は1908年、東京に生まれ、その年のうちに父親が台湾の高雄に転勤したため、台湾で育った。旧制台北高校の一年上級にいた鹿野忠雄(山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』[平凡社、1992年]を取り上げたことがある→こちら)からの影響で民族学に関心を寄せる。京都帝国大学史学科を卒業、左翼思想に傾いていたため当局からにらまれ、逃げるように台湾に戻って台南高等女学校に勤務。その頃台南一中で教鞭をとっていた前嶋信次(東洋史、後にイスラム史の権威)や郷土史家の石陽睢と共に歴史・民俗調査を行なう。1943年、台北高等師範学校に移り、台北帝国大学医学部の金関丈夫を師と仰ぎ、『民俗台湾』にも積極的に参加した。その時のことを回想して、皇民化運動には批判的意図を持っていたこと、台湾の研究を大陸、とりわけ華南との関連につなげていこうと考えていたことなどを記している(「中村哲先生と『民俗台湾』の運動」『沖縄文化研究』第16号、1990年)。戦争中もアメリカ軍の空襲をかいくぐりながら学生たちと一緒に発掘活動に従事したことは『台湾考古誌』に記されている。

 敗戦後は留用されて編訳館に勤務(他に言語学の浅井惠倫、民俗学の池田敏雄なども)。さらに台湾大学文学院副教授となって、爆撃を受けた大学の標本を整理、考古学の講義も行なって、戦後において台湾考古学の牽引役となる宋文薫(台湾大学名誉教授)などを育成した。また、大陸から来た李済、董作賓らとも交流。1949年8月に帰国。

 戦後になっても国分は視野をさらに広げ、環東シナ海の文化的重層を掘り起こすべく80代を過ぎても旺盛に活動した。物質文化を時間・空間を超えて包括的に把握しようというのが国分の関心のあり方だが、角南聡一郎「日本植民地時代台湾における物質文化研究の軌跡」(『台湾原住民研究』第9号、2005年)は、考古学的に実測図を採用して科学的・客観的な解釈を試みたと評価、他方で、民俗学的調査では実測図を使わず従来通り写真や絵図を用いるという相違があったことを指摘。また、植民地における日本人移民の物質文化研究の先鞭を付けたとも評価する。

 なお、国分の事跡については陳艶紅「国分直一と《民俗台湾》」(財団法人交流協会、2001年)、木下尚子「國分直一がのこしたもの」(『古代文化』第58巻第1号、2006年)を参照した。国分の回想録は『遠い空』という本にまとめられているらしいが、私は未読。

 川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が『民俗台湾』とその指導者とされた金関丈夫に批判の矛先を向けているのを読んで、国分は誤解も甚だしいと居たたまれない気持ちに駆られ、「『民俗台湾』の運動はなんであったか」(『月刊しにか』第8巻第2号、1997年2月)を書いた。エキゾティシズム趣味の西川満が主宰する『文芸台湾』でも確かに民俗をテーマとした記事が見られるが『民俗台湾』とは性格が異なること、国分自身などは台系社会をより理解するためにむしろリアリズムの張文環が主宰する『台湾文学』に親しんだこと、などを記している(三誌の違いについてはこちらで触れた)。師として尊敬していた金関への強い思い入れが行間からにじみ出ているが、遠慮がちな性格の国分らしく筆致は控えめだ。それどころか、どこにも中心を置かない新しい比較民俗学を川村が提唱しているところには共感を表明している。東アジア圏の国境を越えた民族考古学をフィールドとする国分の問題意識がまさにそこにあるからだが、彼の学徒としての実直さがよくうかがわれる。

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2009年9月15日 (火)

西川満『わが越えし幾山河』

 西川満の年譜的自伝『わが越えし幾山河』(人間の星社、1983年)を国会図書館で拾い読みしながら、台湾時代を中心にとったメモ。

・1910年、3歳のとき、父が基隆の秋山炭鉱(祖父の弟・秋山義一が経営)に招かれたため台湾へ渡る。
・台北の樺山小学校で菊田一夫と同級。
・台北高校受験に2度失敗し、19歳で基隆の税関吏となる。しかし、文学への想いが断ち切れず、早稲田大学に入る。仏文学を専攻。吉江喬松、西條八十、山内義雄などを知る。卒業論文は「アルチュル・ランボオ」。
・父親の影響もあったのかもしれないが、小中学生くらいの頃から日蓮主義、とりわけ田中智学に傾倒していた。東京遊学中に田中智学の国柱会へ入会、田中の息子である里見岸雄の思想にも共鳴し、国体科学連盟の設立に参加。
・1933年、大学卒業(26歳)。就職難の時代。「吉江喬松博士から、地方主義文学のために一生をささげよ、との教えをいただき、台湾へ帰る決意を固めた」(17頁)。山内からは台北帝国大学の矢野峰人と島田謹二への紹介状を書いてもらった。
・「同じ台北の旧い街でも、艋舺にはあまり興味がもてない。それは純然たるシナ風の街だからである。大稲埕には異国人が住んでいたので、東洋と西洋の混淆が見られ、それがたまらなくわたしには魅力だったのだ」(18頁)。
・総督府の建築家・井出薫の紹介で、台湾日日新報社の河村徹社長に会い、無試験で入社。ちょうど河村が台湾愛書会を創立したばかりの頃だったので、機関誌『愛書』の編集を担当。また、『台湾日日新報』の文芸欄を復活。
・1934年9月、媽祖書房を創設、雑誌『媽祖』を刊行。奥付に媽祖(天上聖母)の略伝を漢文で付す。素材・造本には凝り、限定番号入りで少部数。異国情緒を喜ぶ反響が大きい。
・1939年(32歳)12月、発行元の台湾詩人協会を自宅に置いて詩誌『華麗島』を創刊。北原政吉、長崎浩、本田晴光、石田道雄(まど・みちお)、新垣宏一、竹内実次、万波おしえ、池田敏雄、邱炳南(邱永漢)などの名前があがる。さらに1940年1月、『文藝台湾』へと発展。目次レイアウトは全く同じで、両誌の継続性を強調。
・『文藝台湾』創刊に際して官民有力者の名前を列ねたのは「官僚にあらずんば人間にあらずという風潮の土地」ではその方が芽が育ちやすいと思ったからだ、寄付金などはもらっていないし、御用雑誌などではなかったという趣旨を強調。
・西川が豪華本をつくっていた日孝山房に集う五人組について当時の戯文。「私版日孝山房の面々如何にと問はるれば、お江戸帰りの名人気質、烟草の煙を吐くごとに、板木一枚彫りあげる、左ぎつちよで名も高い、油絵画家の立石鉄臣君。身は山陰の海風を、浴びて屋号も出西屋、「台湾風土記」が縁となり、艋舺楼に入りびたる、民俗趣味の池田敏雄君。金が蛇より嫌ひにて、浮世離れた阿里山の、原生林に身を投じ、羽化登仙と洒落たがる、南画専門の大賀湘雲君。待つた俺等も宵越しの、金を費ふは大嫌ひ、絵筆はもてど義理人情心得たりと見得切って、侠気に生きる日本画家宮田弥太郎君。さてどん尻に控へしは、もつて生まれた凝り性が、とかく出世の邪魔となり、骨を折つては叱られる、傘屋の小僧の再生と、自他共に許したる、本気違ひの西川満」(32頁)。
・1942年10月27日、大東亜文学者大会出席のため東京へ。西川の他に龍瑛宗、濱田隼雄、張文環。
・台湾出版文化株式会社の社長は父親であり、これは西川の『台湾縦貫鉄道』を出版するためにつくられた会社。
・1944年12月、父・西川純が死去。1945年1月、父のあとをついで昭和炭業社の社長となり、樹林の昭和炭鉱を経営する。
・日本の敗戦後、総督府情報課の人から、戦犯名簿を作らねばならないので台湾文化の最高責任者として西川と濱田隼雄の名前を挙げた、と言われた。
・弟子らしい弟子はいなかったが、内弟子といってもいい人として、台南の葉石濤と桃園の林秋興の二人の名前を挙げている。林は二・二八事件で命を落したという。
・1946年4月7日に引き揚げ。
・強制退去処分を受けそうになった王育徳の裁判に尽力。
・年譜を見ていると、戦後も旺盛に執筆活動に勤しんでいた様子。占い(算命学)に凝って事務所を開いたり、天后会なる宗教団体も主宰した。その機関誌『アンドロメダ』に連載された年譜がこの自伝であり、人間の星社は機関誌発行元。戦後の動向については詳しく読まなかったのだが、宗教団体名に天后→天上聖母(媽祖)が意識されているのが興味深い。

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2009年9月14日 (月)

邱永漢の初期の作品

 邱永漢といっても金儲け指南のビジネス書という印象しか私にはなかった。かつて直木賞受賞作家であったことは何となく知ってはいたものの、それが「香港」(昭和三十年下半期、外国籍としては初めての受賞)という作品であったこと、この作品の背景には邱自身が台湾独立運動に関わって亡命せざるを得なかった青春期の苦い影が落ちていることを私が知ったのはつい最近のことである。

 邱永漢は1924年、台南の生まれ。父親は地元ではそこそこの有力者であったらしい。本名は邱炳南といい、1940年創刊の『文藝台湾』同人名簿にもすでにこの名前が見える。当時はまだ台北高等学校に在学中であった。その後、東京帝国大学経済学部に進学、日本の敗戦後は台湾に戻ったが、1947年の二・二八事件など白色テロの激化に伴って香港へ亡命、ここで商売を始めて1950年代以降は日本とも頻繁に行き来しながら活躍。後に国民党政権とは妥協する。

 『邱永漢短編小説傑作選 見えない国境線』(新潮社、1994年)所収の作品をいくつか通読した。

 「密入国者の手記」(1954年)のモデルは台湾語の言語学的研究で有名な王育徳である。彼が国民党政権のお尋ね者となっているにもかかわらず日本から強制退去されそうな立場にあったところ、邱永漢が世論に訴えるべく王の主張を小説という形式でまとめて、西川満の紹介により長谷川伸が主宰する『大衆文芸』誌に掲載。

 「検察官」(1955年)のモデルは王育徳の兄、東京帝国大学法科出身で検察官となった王育霖である。台湾にいる日本人警察官の横暴への憤りから彼らを取り締まる側になろうと検察官となった正義漢だが、日本の敗戦で台湾に帰国後、新来の支配者である国民党政権の腐敗を摘発、かえって恨みを買って二・二八事件のどさくさで殺害されてしまった。なお、王育霖の名前も『文藝台湾』同人名簿(だったか?)で見かけた覚えがある。

 「客死」(初出未詳)。日本統治期から台湾民族運動穏健派の指導者として声望の高い林献堂は国民党政権への反発から日本へ亡命した。林を慕いつつも彼の現実的な政治態度は妥協的だと危惧する若き活動家の情熱と日本での客死、それを目の当たりにした林の心情を描く。

 「濁水渓」(1954年)と「刺竹」(1956年)は邱永漢の自伝的な側面が強いのであろうか。戦争中、台北・東京での学生生活、日本の敗戦による世情の変転、そして二・二八事件の残酷な混乱を描く。敗戦をきっかけに日本人への侮蔑意識が芽生えたことを観察し、日本人への憎悪に共感しつつも、階層構造を逆転させるだけでは問題は何も変わらないと指摘。ロイドというアメリカ人が出てくるが、モデルはジョージ・H・カーだろう。「刺竹」では、二・二八事件で友人知己が逮捕されたり殺されたりしたにもかかわらず自分だけ助かったことへの罪意識が描かれている。

 「長すぎた戦争」(1957年)。台湾の友人から聞いた話にヒントを得たらしい。国民党は台湾人からも徴兵することに決めたのだが、入営する台湾人たちの行動様式が戦争中の日本の軍隊生活そっくりそのままで、大陸から来た上官たちとのギャップを半ばユーモラスに描く。経済力のある台湾人によって翻弄される貧しく帰る故郷もない外省人の分隊長、彼の姿にはどこか悲哀が漂う。

 「香港」は前述の通り直木賞受賞作。邱永漢はほとんど無一文に近い状態で台湾から香港へ逃げてきた。生きていくためにはインテリの自意識や理想などかなぐり捨てて、とにかく金だけを手づるに這い上がらねばならない、そうした弱肉強食のカオスの中で去来する様々な思惑を描き出す。作中で師匠とも言うべき役回りの老李は「君は軽蔑するだろうが、ユダヤ人は自分らの国を滅ぼされても、けっこうこの地上に、生き残った。…国を失い、民族から見離されながら、いまだにユダヤ人にもなりきれないでいる自分を笑いたまえ」と発言し、これをきっかけに故郷台湾の風景と国民党の白色テロを思い浮かべるシーンが続く。邱永漢の独立運動の敗残者としての苦い思いと彼のあからさまなまでの金儲け主義とがどん底の実体験を媒介として結び付いていたことがうかがえる。

 邱永漢のアイデンティティと文学作品との関わり方については、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年)や丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社、2000年)などが論じている。

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2009年9月13日 (日)

「九月に降る風」

「九月に降る風」

 1996年、台北南郊の新竹。風の強さとビーフンで有名な町だ。高校(台湾では高級中学というのか)に通う九人の少年少女。学年は違うがいつもつるんで授業をさぼる男子七人組。そのリーダー格であるイェンの浮気に気をもむ恋人のユンと、一年生なのに不良グループと遊びまわる同級生のことを心配しているペイシンの少女二人。

 羽目をはずして騒ぎまわり、先生に叱られても無邪気でいられた日々。しかし、いくつかの事件をきっかけに、居心地の良かった仲間意識はほころび始める。保身のための裏切り、卑怯だと分かってはいてもどうにもならない弱さ、遠い大人の世界のことだと思っていたそうしたみにくさが自分たちの中にもきざしていることに愕然となり、こみ上げてくる切ない怒りをどこに向ければいいのかも分からず彼らは戸惑うばかり。青春の終わったことを知った。実際にあったという黒社会の絡んだプロ野球の賭博事件についてのニュース報道が時折はさみこまれるが、当時の時代的空気を示すと同時に、少年たちのあこがれへの幻滅と青春の終わりとが象徴的に重ねあわされているのだろう。

 静かに落ち着いたカメラアングルで映し出される学校や街並の光景のみずみずしい色合いは感傷的なノスタルジーを呼び起こす。明らかに日本ではないのだが、どこか日本でもあり得るなあと思わせる微妙なパラレルワールド感はこの種の台湾映画を観ているといつも感じてしまうところだ。少年少女の心情の揺れが丁寧にこまやかにすくい取って描き出され、やわなあまっちょろさには流されていないので、ストーリーには共感的に入り込めた。

 トム・リン(林書宇)監督はエドワード・ヤン「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)から強い影響を受けているとのことで、オマージュとしてその映像も使いたかったそうだが、権利関係の問題が難しく、代わって侯孝賢「恋恋風塵」(1989年)のワンシーンが流れる。台湾の青春映画の系譜としては、「青春神話」(ツァイ・ミンリャン監督、1992年)、「藍色夏恋」(イー・ツーイェン監督、2002年)、「花蓮の夏」(レスト・チェン監督、2006年)なども思い浮かぶ。

【データ】
原題:九降風
監督・脚本:トム・リン
台湾/2008年/107分
(2009年9月12日、シネマート新宿にて)

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2009年9月12日 (土)

「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

 行き詰って編集者にせっつかれている漫画家が目前の現実から逃避するように少女時代を振り返る。──海の見える田舎町、貧しい生活の中、周りの大人たちを見て、半ば当然のように半ばあきらめたように「自分もああなるのかな」と漠然と思いながら、それでも自分の道はきっとあるはずだともがいていた日々。バスに乗ったり、自転車に乗ったり、遠くへ行くシーンの開放感にそうした感傷が重ねあわされる。

 原作は西原理恵子。人間が業として抱えているとしか言いようのない汚らしく醜い猥雑さの中でもほのかに浮かび上がってくる切なさ、しんみりした哀愁、それが西原作品の魅力だと思っている。この映画の場合、演じている女の子たちがみんな結構かわいいので「貧乏!」「汚い!」と言っても全然ピンとこない。生きていく悲哀をそのまま残酷にさらけ出すストーリーのどぎつさを西原さんの雑な絵柄はうまくやわらげているのだが、その微妙な勘所を映像で表現するのはなかなか難しそうだ。脚本は原作を踏まえて構成されてはいるが、少女時代をいとおしく振り返るノスタルジックな眼差しそのものにテーマが置かれている点でむしろ別な作品だと割り切って観る方がいいかもしれない。

 なお、西原作品については、「西原理恵子『ぼくんち』」「西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』、他」「最近読んだマンガ」でそれぞれ取り上げたことがある。

【データ】
監督・脚本:森岡利行
原作:西原理恵子『女の子ものがたり』(小学館)
出演:深津絵里、大後寿々花、福士誠治、波瑠、高山侑子、森迫永依、板尾創路、奥貫薫、風吹ジュン、他
2009年/110分
(2009年9月11日レイトショー、角川シネマ新宿にて)

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2009年9月11日 (金)

『文藝台湾』と『台湾文学』と『民俗台湾』

 西川満をどのように評価するかは別として、日本統治期における台湾文化の最大の立役者の一人であることは間違いないだろう。早大在学時の恩師・吉江喬松から「地方主義文学に生きよ」と言われ、台湾日日新報に勤務するかたわら自ら著述・出版に精力的に取り組んだ。とりわけ造本・装幀へのこだわりはいまだに稀覯書マニアの間でよく知られている。

 西川は台湾文芸界の水準向上、中央文壇に従属した辺境ではなく独自色を持たせることを目指し、全島レベルでの組織化へと動いた。1939年9月に台湾詩人協会を設立して詩誌『華麗島』を創刊、さらに1940年1月には台湾文芸家協会へと発展的に再編し、『華麗島』は『文藝台湾』として台湾随一の文芸総合雑誌となる。この際、台北帝国大学や台湾総督府とつながりをつけたり、東京の著名文化人を賛助員として多数リストアップするなど雑誌の権威付けにも力を注いでいる。なお、『文藝台湾』をめぐる経緯については、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』(五柳書院、1995年)、同「日本時代の台湾文壇と大政翼賛運動に関する一考察」(『横浜国立大学留学生センター紀要』2、1995年)、中島利郎「日本統治期台湾文学研究:日本人作家の抬頭──西川満と「台湾詩人協会」の成立」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』44、2005年)、同「日本統治期台湾文学研究:「台湾文芸家協会」の成立と『文芸台湾』──西川満「南方の烽火」から」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』45、2006年2月)、同「日本統治期台湾文学研究 西川満論」(『岐阜聖徳学園大学紀要・外国語学部編』46、2007年2月)などを参照のこと。

 『文藝台湾』には台湾の民俗的な事象への関心もうかがえる。西川は池田敏雄と共著で『華麗島民話集』(日孝山房、1940年)を出すなど民俗的なものへの関心を持ち、掘り起こしに努めたのは確かだが、後述するようにそのスタンスは池田とはだいぶ異なる。西川の文学観には耽美的な傾向が濃厚で、エキゾチシズムの対象として台湾をとらえる傾向があった。その点が佐藤春夫から評価されたり、『文藝台湾』の事実上の分裂後も台北大国大学の文学者・矢野峰人や島田謹二から支持を受けたわけだが、他方で、台湾人自身には表層的で自分たちへの理解が十分ではないという不満を抱かせたのではないか。

 それから、台湾における読者人口から考えてそれほどの部数を売りさばけるわけでもなく、資産家の息子であった西川が私財を投じていた。当然ながら、西川個人の色合いが強くなってくる。西川の一種の貴族的態度に反感を持つ同人も多かったらしく、張文環は「有閑マダム的なままごとでもしているようで我慢が出来ない」と記している(張文環「雑誌『台湾文学』の誕生」『台湾近現代史研究』第2号、1979年8月)。

 こうした次第で1942年には分裂していき、戦争中という時世もあって、『文藝台湾』は皇民化運動に協力的な方向へと進む。ただし、西川の活動は日本人・台湾人を問わず作品発表の場を提供したこと、台湾に愛着を抱き、たとえエキゾチシズムが目的ではあっても台湾土着の独自性に注目したことについては一定の評価がある(たとえば、フェイ・阮・クリーマン[林ゆう子訳]『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年)。

 台北放送局の文芸部長であった中山侑が自分たちで文芸雑誌を出そうと言い出したのをきっかけに同調者が集まり、1942年5月27日に張文環が中心となって啓文社を興して『台湾文学』が創刊された。弁護士の陳逸松が資金を出し、蒋渭川(蒋渭水の弟)が経営する日光堂書店が販売を引き受けた(ただし、蒋渭川とはその後もめたらしい)。読者層の大半は台湾人が占め、分裂騒ぎが一種のゴシップネタとなったせいもあるのかもしれないが、一時は『文藝台湾』をしのぐ勢いを見せた。台北帝国大学の中でも『文藝台湾』に好意的な矢野・島田に対して、中村哲(憲法学・政治学)や工藤好美(英文学)などは『台湾文学』を支持した。張は西川から新雑誌創刊をやめるよう直談判を受けたと記しているが、別の所ではそれは誤解だとも発言しているらしい(中島利郎「忘れられた作家たち・一 「西川満」覚書:西川満研究の現況」『聖徳学園岐阜教育大学国語国文学』12、1993年3月)。必ずしも絶交したというわけでもなさそうだ。

 張文環の作品を私は未読だが、リアリズムに立つ作風だそうで、龍瑛宗は田園生活の習俗描写にたけている作家だと評している。耽美的幻想趣味の西川とは文学的にも方向性は異なる。戦後は執筆の使用言語として日本語から中国語への転換がうまくいかず、会社員・銀行員等として生計を立て、定年後は日月潭の観光ホテルの支配人となった。晩年には再び日本語で小説を書き上げている。

 張文環の『台湾文学』立ち上げにあたり、龍瑛宗はその話を知らされず、西川の『文藝台湾』に残留する形になった。その折の孤独感を「『文藝台湾』と『台湾文藝』」(『台湾近現代史研究』第3号、1981年1月)につづっている。龍は客家であるため他の台湾人作家たちが閩南語で話し合っている席に出ても言葉が分からず、もともと内気な性格でもあったため無口になってしまう。だから『台湾文学』にも誘われなかったのだろう、という。客家であることについて張文環から差別的な発言を受けたことも記されている。張は性格的にそういう発言をするタイプではないため「満清時代の分類械闘がいまだに尾を引いているんだな」と驚いたようだ。一言で“台湾人”といっても一枚岩ではなかったことがうかがわれる。

 『台湾文学』グループの『文藝台湾』からの分裂騒動とほぼ同じ頃、1942年7月に『民俗台湾』が創刊された。池田敏雄が台北帝国大学の金関丈夫(解剖学・人類学)を訪ね、民俗学の雑誌を出したい旨を相談したところ、金関は岡書院発行の『ドルメン』のような雑誌にしたらいいと提案。金関を代表として、絵やカットは立石鉄臣(当時、台北帝国大学医学部で解剖画を描いていたらしい)、写真は松山虔三(プロレタリア写真家同盟に入っていたが、徴兵忌避で台湾に来て台北帝国大学の土俗人種学教室で写真のアルバイトをしていたという)、編集実務は池田が取り仕切ることになり、中村哲(専門は憲法学・政治学だが柳田國男と関係あり)や国分直一(考古学)らも積極的に協力、台湾全島から寄稿を募った。販売は三省堂系の東都書籍が引き受けた。『台湾文学』分裂時のような騒動はなかったようだが、『文藝台湾』の民俗部門理事としてあがっていた池田、楊雲萍、黄得時の三人の名前は消える。

 台湾の民俗的なものへ目を向けた点で池田は西川と共通しているが、やはり気質的なところが大きく相違する。西川は台北の下町とも言うべき萬華には興味がなく、東洋文化と西洋文化とが混じりあった趣のある大稲埕の方が好きだったと回想しているが、対して池田は萬華の庶民生活にこそ関心を寄せ、後に結婚する黄氏鳳姿の実家を拠点に隈なく歩き回っていた。

 総督府による同化政策によって台湾伝統の習俗が消えつつある、それを何とか記録しておかねばならないという問題意識を『民俗台湾』は持っており、投書欄「乱弾」では金関が「金鶏」、池田が「黄鶏」という変名で皇民化運動を諷刺している。そのため総督府からにらまれていた。戦争末期に池田も立石も応召されたのはそのためであろうか。日本人が運営する雑誌であったため人種偏見的なものもあったのではないかと勘繰る向きもあろうが、戦後、同人として参加していた楊雲萍や黄得時はそうした気配は全くなかったと断言している。川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)は日本を中心とした同心円的な民俗学の構想の中で辺境化する試みとして『民俗台湾』についても位置付けているが、池田たちの意図を汲み取っていないと呉密察(台湾大学)は批判している(呉「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」、藤井省三・黄英哲・垂水千恵編『台湾の「大東亜戦争」』東京大学出版会、2002年)。『民俗台湾』をめぐる具体的な経緯については『台湾近現代史研究』第4号(池田敏雄氏追悼記念特集、1982年10月)を参照のこと。

 台湾も戦時体制一色に染まりつつある中、『文藝台湾』と『台湾文学』の両誌が自主的に解消するという形式で、1944年に台湾文学奉公会(台湾文芸家協会の再編された組織)から『台湾文藝』が刊行される。編集委員は『台湾文学』出身の張文環以外はすべて日本人で占められた。『民俗台湾』は池田・立石らが応召されても金関の編集によって何とか続けられたが、印刷所が爆撃を受けたため物理的に刊行できなくなってしまった。

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2009年9月 8日 (火)

中村佑介『Blue』、他

 書店の美術書コーナーをぶらぶらしていたら目に入った新刊、中村佑介『Blue』(飛鳥新社、2009年→アマゾンの画像はこちら)。見たことのある絵柄だと思ったら、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、2006年→こちらでコメントした)のカバーを描いていた人だ(アマゾンの画像はこちら)。

 見本をパラパラめくったら、これがもう私のツボに思いっきりはまってしまい、ただちに衝動買い。くっきりと明瞭な線にカラフルな色使いはポスター画と言ったらいいのか、くどさは全然なくてすっきりした透明感がある。適切な表現が見つからないんだけど、おさげ髪でセーラー服の少女のレトロモダンなイメージを今現在の感覚で描くとこうなるのかなあ、とそんな感じのところが好きですね。

 『夜は短し~』は実はジャケ買いした。このカバーデザインも『Blue』に収録されている。主人公の天真爛漫な黒髪の美少女の雰囲気にピッタリで結構好きだった。マンガ版も書店で見かけたことがあるけど、表紙を見る限りイメージとしてどうもしっくりこない。

 ついでというわけでもないけど、絵本・イラストの専門誌『MOE』10月号も購入。こちらは酒井駒子さんの特集が組まれていたんで。酒井さんの絵については以前にも何度か触れたことがあるが(→『イラストレーション』No.177(2009年5月号)『酒井駒子 小さな世界』)、黒を基調に輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる構図が好き。暗い=愁い、というわけでは必ずしもなくて、しっとりと静かに抑えた情感がにじみ出てくるのが際立っていると言ったらいいのかな。酒井さんの絵も最初の出会いはジャケ買いで、world'send girlfriend「The Lie Lay Land」というCDだった。絵本ももちろん良いんだけど、書籍等の装画が私は好きで、そういうのをまとめた画集を出して欲しいと願っています。

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本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』

本田由紀『「家庭教育」の隘路──子育てに強迫される母親たち』(勁草書房、2008年)

・市場メカニズムにより経済的・社会的機能の効率化→中間組織・共同体の弱体化→秩序維持の規範強化という流れの中で、「家庭教育が重要」という言説により、子供・若者を社会化する上での家庭・親の責任を強調する風潮→かえって問題をこじらせてしまうという疑問から、インタビュー調査や統計分析により実証的研究。
・「勉強」によって習得可能なものよりも内面的・人格的特性が「選抜」の重要な要因→内面性涵養の場として「家庭教育」が重視される。しかし、社会階層によって家庭の質的相違→教育に有用な資源を持つ階層の自己正当化、格差再生産の可能性、それが「自己責任」言説で処理されてしまう問題。
・社会階層→子育てのあり方、中3時点の成績、最終学歴、雇用形態、収入へと重層的な連鎖→家庭教育を通した再生産のメカニズム。
・子育てには必ずしも正解はないが、様々に「理想」を語る家庭教育論の氾濫→高い要求水準→母親は暗中模索、自信喪失、ストレス、子育てからの撤退。母親自身の自己実現と子育てとの両立の苦心。
・コミュニケーション能力、ポジティブ志向:ポスト近代型能力→家庭教育で左右される度合いが大きい(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会──ハイパーメリトクラシー化のなかで』NTT出版、2005年)。子育てのあり方としても、「きっちり」→学力、「のびのび」→ポスト近代型能力の二つの要素があって、その二つの間で母親に葛藤あり。社会階層との対応度合いは「きっちり」で顕著だが、高階層の母親は「のびのび」にも積極的な傾向。
・教育態度の点で、日本では、海外のように中産階級対労働者階級という明確な断層は見られないが、連続的なグラデーション型の格差。
・家庭教育を媒介とした格差再生産の構図が認められる→だからといって家庭に直接介入できるわけではなく、子供世代に及ぼす影響を、いかに家庭外の制度で軽減するかという問題意識。

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2009年9月 7日 (月)

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』、ヴァン・ジョーンズ『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』

寺島実郎・飯田哲也・NHK取材班『グリーン・ニューディール──環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版生活人新書、2009年)

・NHKの番組で取り上げられたテーマをまとめた内容。特にアメリカでの取り組みを紹介。
・太陽光発電、風力発電、電気自動車など化石燃料に頼らない技術を紹介。自然エネルギーによる電力供給は小規模・分散型で不安定だが、IT技術によって発電量を把握・コントロールするスマート・グリッドが注目される。
・ブッシュ政権は京都議定書から離脱。しかし、州レベルでは環境政策への取り組みがあり、そうした動きをオバマ政権は取り込んだ。オバマ政権は、化石燃料依存から脱却するエネルギー構造転換への投資を雇用創出(例えば、戸別にソーラー・パネル設置・メンテナンス、風力・潮力発電所の建設、断熱化工事など)に結び付けるグリーン・エコノミー政策を推進。
・産業政策と環境政策とでは意見がぶつかりやすいが、その両立を目指す。

ヴァン・ジョーンズ(土方奈美訳)『グリーン・ニューディール──グリーンカラー・ジョブが環境と経済を救う』(東洋経済新報社、2009年)

・著者のヴァン・ジョーンズの名前は上掲NHK取材班の本にも出てくるが、アメリカの著名な社会活動家。オバマ政権のアドバイザーとしてホワイトハウス入りしたらしい。
・本書の主張の一番の特色は、エコの不平等、環境による人種差別という問題意識だろう。劣悪な居住環境、ジャンクフード等による不健康、ハリケーン・カトリーナの被害は黒人や貧困層に集中した。従来の環境運動は富裕層の余暇活動的な側面があった。彼らは生活に困っていないので、熱帯雨林の消滅やホッキョクグマの溺死など外の地球環境問題に関心を寄せる余裕がある。身近な環境問題にも目を向けて、一般の人々全体の生活水準を高めるため、エコ・エリート主義を超えてエコ・ポピュリズムへという問題意識。ただし、両者を対立関係で捉えるのではなく、立場の異なる者同士が協力すべきという視点。マイノリティーや貧困層もグリーンカラー・エコノミーの運動に巻き込んでいく必要を主張。環境政策+経済政策+社会政策というトータルな視点。
・生活に直結する環境問題→エネルギーだけでなく、食物、水、ゴミ、輸送インフラなど様々な問題。
・グリーン投資によって創出される雇用:グリーン・ジョブ→職業訓練→貧困層の生活上の自立につなげる。
・フランクリン・ローズヴェルト政権がニューディールで経済危機を切り抜けたように、グリーンカラー・エコノミー政策でも整合性のとれた包括的プログラムによって官民ともに社会全体で問題解決を図る→政府のリーダーシップが必要。

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2009年9月 6日 (日)

出張で福岡へ

・9月の第1週は出張で福岡へ。遊びじゃないから時間が取れないのは当然だが、到着初日に2時間ほど、用事が終わって飛行機が出るまでに4~5時間ほど空いたので、自分のために効率活用。

・羽田~福岡間の航路。窓際の席、快晴で下界がきれいに見下ろせた。太平洋岸・瀬戸内沿岸、いわゆる太平洋ベルトの上空を飛んでいたので、富士山、名古屋、琵琶湖、京都、大阪、神戸、広島、下関…と主要スポットが一つ一つ確認できた。まさに地図帳通り。人文地理学の知識があれば色々なことが読み取れるのだろうなと思いつつ窓にずっとへばりついていた。航空写真を読み解くという趣旨で宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫)という本があったな。広島上空からは、原爆ドーム前のエノラゲイが原爆投下の目印にしたT字型橋もはっきり見えて、64年前にまさにここできのこ雲があがったのかと思うと複雑な気分。

・福岡市博物館。地下鉄西新(にしじん)駅下車、徒歩で15分ほどはかかった。修猷館高校や西南学院大学の前を通り、途中、「長谷川町子・サザエさん発案の地」なる碑文も見かけた。博物館の建物は比較的新しい。館内には通史的な展示。日本史の教科書で有名な「漢委奴国王」の金印が目玉。イメージしていたのより割合と小さく感じた。玄洋社記念館が去年閉館され、その収蔵品がこちらの福岡市博物館に移管されたらしいので、関係する展示はないかどうか受付の人に尋ねたところ、まだ資料の整理が終わっていないらしく、少なくとも現時点では玄洋社関連の展示はない、とのこと。展示はなかなか充実しており、じっくり見ていきたいところだったが、時間なし。20分ほどで急いで回って退館。かわりに図録を2冊購入。

・紀伊国屋書店福岡本店の郷土出版コーナーへ行き、読売新聞西部本社編『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』(海鳥社)を購入。福岡市内の玄洋社関連の史跡の位置を示した地図が掲載されていたが、見て回る時間的余裕はなし。

・九州国立博物館。西鉄で天神駅から大宰府駅まで乗り換え含めて25分ほど。下車後、徒歩10分。太宰府天満宮のすぐ近くにある。開館は2005年、4つの国立博物館のうちで最も新しい。これで4つの国博を制覇(京都国博と奈良国博は今までにそれぞれ2回ずつ行ったことがある。東京国博は毎年2回以上は行く)。ちょうど興福寺阿修羅展を開催中。随分と行列ができており、私が到着したのは夕方の4時頃だが、その時点で待ち時間80分というプラカードが見えた。私は平常展示だけ見る。阿修羅展から流れてきた人でにぎわっていた。大広間を小部屋が取り囲むという形の展示室。他の3つの国博に比べると展示資料の数は少ないが、九州の土地柄を意識して、アジアとの対外交流の窓口というテーマを打ち出し、これに従って展示配列に大きなストーリーが組み立てられているのがここの特色。石器・土器・稲作文化における大陸との関係、仏教美術、遣唐使(積荷に触ることができる)、元寇(モンゴル軍の船の碇があった)、キリシタンと南蛮文化、オランダとの通商(東オランダ会社の通貨やオランダ船の船首にあったエラスムス像があった)、江戸時代における中国文化の影響、朝鮮通信使(対馬の宗氏の印章があった)、開国など。資料映像も工夫されていて、私が行った時には敦煌の石窟群、南蛮屏風などのテーマで上映されていた。ミュージアムショップで『「海の道、アジアの路」ビジュアルガイド Asiage』(九州国立博物館)と『いにしえの旅 増補版 九州国立博物館収蔵品精選図録』(西日本新聞社)を購入。

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2009年9月 1日 (火)

「花と兵隊」

「花と兵隊」

 無謀なインパール作戦に従軍、敗戦後、動機はそれぞれだが帰国を拒み、そのまま六十余年タイ・ビルマに残った日本人たち。ブラジル移民の息子で日本へ帰ったところ徴兵された人。沖縄出身で、戦後、沖縄の惨禍を知り、親族も大半が死んでしまった人。自動車部隊出身で修理が得意であるとか、衛生兵出身とか、技術によって現地の人の信頼を得ている人が多いのが目立った。中国語が得意なので中国人になりすました人。戦後に進出してきた日本商社の代理人になった人。敗戦直後は日本兵への敵対心もあり、そこに現地の民族的対立も絡まり、ビルマ人の反日感情から逃れてカレン人に匿われたというケースもある。夫人が姉妹で近所に暮らしているのに、決して日本語で会話しない二人。理由は語られないが、逃亡生活の苦労から、現地の人に疑われないようにという暗黙の配慮なのか。

 未帰還兵たちは齢九十を超えようとしている。幸いなことに、登場する彼らはみな良い伴侶に恵まれ、中には大家族に見守られながら息を引き取った人もいる。とっつきにくそうな老人が、亡くなった妻の若き日の写真にじっと見入る姿が印象的だ。彼らなりに充足した人生を送ることができたのか、ふとそんな安心感も覚えるシーンである。

 緑鮮やかな南国の風景の中、彼らのたたずまいはのんびりしているようにも見えるが、戦争の影はいつまでも引きずっている。戦地での人肉食のシンガポールの中国人虐殺の経験を語る老人。「分かるか、分かるか?」と念を押しながら、どうせ分からないだろう、と言いたげな表情も浮かぶ。あるいは、「それは話せない」と表情は穏やかなままボソッとつぶやく人。老人なので耳が遠くなっているだろうし、普段は使わない日本語なので、途切れ途切れの短い断片的な語り。饒舌ではないからこそ、一語一語に込めた感情的な強さと、語りたくないつらさとがにじみ出てくる。

 不運に死んでいった人たちの話も時折混じる。ある老人は、兵隊たちの骨を拾い、慰霊塔を建てた。無念を語る機会を得られないまま倒れた人たちのこと、彼らの心情を私は想像すらできないことに、胸がざわつくようなもどかしさがよぎる。

【データ】
監督:松林要樹
2009年/106分
(2009年8月30日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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