石牟礼道子『苦海浄土』
石牟礼道子『苦海浄土──わが水俣病』(講談社文庫、1972年)、『苦海浄土・第二部 神々の村』(藤原書店、2006年)を手に取った。時々勘違いしている人がいるけれど、石牟礼さんはいわゆる社会運動家とは違う。文章を素直に読めば分かるが、ある種の生硬さとは無縁の人である。
詩人の相貌には、山川草木に息づく霊魂のささやきを言葉に移しかえていく、そうしたいわば巫女としての面持ちが浮かぶ。石牟礼さんがまさしくそうだ。同じ水俣の風土に馴染んだ者として、水俣病患者に降りかかった苦難を目の当たりにし、言葉にはならぬかそけきうめきを我が身に受け止め、形を与え、リズムを与え、表現として紡ぎ出していく。うめきそのものが表現を求める。彼女の筆を通して語られつつも、媒介者としての言葉はもはや彼女のものではない。だから、“正しい”ことを語る語り口がともすれば帯びやすいこぶしを振り上げるようなおごりたかぶりは微塵もない。うめきそのものなのだから、彼女もまたそれを受苦せざるを得ず、そしてただひたむきにうめきのたどる道行きを共にたどる。
人びとの思いが、水俣の土地の言葉でつづられる。その肉感的な生々しさが胸を打つ(ただし、この作品を編集者として世に送り出した渡辺京二氏の解説によると、必ずしも正確な聞き書きではないらしい)。国家や経済社会が押し付けた所業への呪詛も込められつつ、同時に、それへの抗議として一つの政治的ロジックにまとめあげようとする人びと、もちろん、動機は良心的ではあるのだが、そうした人たちへの微妙なわだかまりもまた、ほんの時折ではあるにしても筆先ににじむ。
近代文明、知識人(水俣の人たちは東京の役人や政治家を指して「東大アタマ」と表現していた)、彼らの使う言葉によって、皮膚感覚からにじみ出た限りない切迫感が周縁化されてしまっているという違和感。大文字の〈近代〉に対する、土に根ざした声を以てする異議申し立てという構図は今さら陳腐に堕するかもしれないが、水俣病患者のうめき声を通した、概念でもなく、正義でもなく、言語以前に立ち上る根源的な問いかけ、それを見事に表現し得ているのは、ただひとえに石牟礼さんの時には不器用にすら思える誠実さ以外の何ものでもない。
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