渡辺京二『北一輝』
渡辺京二『北一輝』(ちくま学芸文庫、2007年)
日本の近現代史で最も注目を浴びるトピックの一つは二・二六事件であろう。軍国主義批判の義務感からか、さもなくば革命幻想のロマンティシズムをかきたてられるせいか、秦郁彦が“二・二六産業”と呼んだように玉石混淆おびただしい刊行物が量産されている。しかしながら、このクーデター未遂の理論的支柱とされた北一輝の思想については意外と誤解も多い(そもそも、事件を起こした青年将校たち自身が理解していたかどうか疑問である)。このように関心が高い割りには、北の主著である『国体論及び純正社会主義』にきちんと目を通した人は少ないとも言われる。確かに、正直言って読みづらい。文体が晦渋というだけでなく、北は独学の人であるため、基礎概念から手作りで、そこに誤読の余地があるのかもしれない。裏返せば、彼の思索のオリジナリティーと解することもできる。
例えば、彼は自らの立場を「社会民主主義」と言う。しかし、現在使われている語感とは明らかに異なる。大雑把に言ってしまうと、社会主義=人々の有機的な共同体としての一体感→国家主義であり、民主主義=各自の個としての自覚に基づく社会→個人主義・自由主義。ただし、個人の共同体への犠牲的奉仕を強いるのは「偏局的社会主義」であり、個人の放恣を許すのは「偏局的個人主義」であるに過ぎず、この両者をアウフヘーベン(という表現を北は使わないが、本書は彼のロジックにヘーゲル的弁証法を見出している)→「社会民主主義」ということになる。現代における福祉的配分政策としての社会民主主義は、北の観点からすればパターナリスティックな専制支配に堕するとして斥けられることになる。北が目指していたのは、国家という共同社会を通して、その構成員たる一人一人が自らの可能性を最大限に追求していくことであった。「彼は精神の可能性をはばまれるのが、いやなのであった。そして、衆人の魂がそこでは高くはばたけると信じたからこそ、彼は社会主義社会を求めた。彼には、類的存在としての人間は、過去のすべての遺産をとりこみながら、より高きへと展開するものというイメージがあった」と本書は指摘する(130ページ)。私の場合、自由と秩序は、両者の折衷ではなくいかに同時的に両立できるのかという政治哲学的テーマを独自に模索した人物として関心がある。
こうした社会実現のため、彼は明治維新に続く「第二革命」を模索、その際に結集軸となるのが「天皇」である。ただし、ここでも北は独自のロジックを展開する。ヨーロッパでは市民革命→君主権の制限→個人の権利拡大という筋道をたどった。ところで、日本の天皇はヨーロッパの君主とは異なる。京都に逼塞していた天皇を国民の方こそが拾い上げてやって維新のシンボルに仕立て上げたに過ぎず、支配者としての実体はない。つまり、北独自のロジックで天皇機関説をとっている。『国体論及び純正社会主義』で天皇を「土人部落の酋長」呼ばわりしていること、二・二六事件後、処刑されるにあたり、西田税から「天皇陛下万歳と唱えましょうか」と問われたとき「それには及ぶまい」と答えたことはよく知られている。こうしたあたりからも、北自身の思考構造はいわゆる右翼や青年将校たちとは明らかに異なっていたことが分かる。
「観世音首を回らせば即ち夜叉王」と言うような、ある種の理想主義とマキャヴェリズムとが並存したところ、大川周明が“魔王”と評したごとく常人道徳を超えた確信的な凄味、こうしたパーソナリティーも北という男に不思議と目を引き付けられるところだ。
北については、右翼は右翼の立場から、左翼は左翼の立場から、それぞれの思惑が先に立ってほめたりけなしたりする。当たり前の人物だったらそれでも簡単に料理できるかもしれない。しかし、北のように理論的にも、パーソナリティーとしても、独特な凄味=オリジナリティーを持った思想家の場合、そういった図式的な理解は全く無効である。本書は、日本独自のコミューン思想をたどるという著者なりの明確な意図を抱きつつ、このように難しい北という人間を出来るだけ内在的に把握しようと努めている点で、数ある北一輝論の中でも第一等に読まれるべき本だと思う。(なお、北一輝研究では松本健一の蓄積ももちろん無視できない。ただし、松本さんのお書きになるものに私は敬意を持ってはいるが、良い勘所を示しても表面をなぞって終わってしまい、どうしてもっと深く掘り下げてくれないのだろう?と隔靴掻痒のもどかしさを感じることがしばしばある。)
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コメント
コメントこそしないものの、いつもブログを拝見させていただいています。その膨大な読書量と知識にはいつも驚かされるばかりです。
私自身が、大学で社会学をかじったこともあり、ギデンズ等の著作に関する意見や理解を参考にさせていただいています。
今回は、渡辺京二の『北一輝』をテーマにしていますが、この著作は私も講義の関係で読んだことがあります。
文中にもあるように、北一輝の評伝やその思想の紹介に関しては、松本健一氏の手になるものが主流であるようですが、私が北に関する文献として初めて手にとったのは、渡辺京二による『北一輝』でした。
「本書は、日本独自のコミューン思想をたどるという著者なりの明確な意図を抱きつつ、このように難しい北という人間を出来るだけ内在的に把握しようと努めている点で、数ある北一輝論の中でも第一等に読まれるべき本だと思う」というご意見にはとても共感します。
私は本書を読んだ時に、『北一輝』については松本氏の著作を読まずとも、この一冊で足りるのでは、とおこがましくも一人合点してしまいました。
そしてそのように私が判断したのは、渡辺氏が北の思想を紹介するにとどまらず、その人間性に迫り、肉感的に北を描き上げたことに由来するのではないかと思います。読んだ当時は「作品」としての完成度に、とても感心したのを覚えています。
著者が北の生地である佐渡を訪ね、北の墓が存在しないことを知り、「北一輝はついに墓すらも立たなかった男なのだ」と述べる序章には、グイグイと引き込まれてしまいました。
当初の読書の目的は、北の思想を理解するということだったのですが、それをなおざりにして北という人間にズルズルと惹きつけられてしまった感があります。
今回の書評は、改めて私の北に関する知識を考え直すきっかけともなりました。自由と秩序をいかに同時的に両立させるかという問題は、北という人間の生き方そのものにコミットしたテーマなのではないかと思います。
自身が社会から逸脱したアウトサイダーとしての気質を持っていながら、その生涯を社会やその変革に関わる思想に傾けようとする努力からは、右に行こうすれば、左から反骨が肉を喰い破って飛び出すような独特な凄みがあります。
北独自の天皇機関説を考えるにあたっても、まず思い浮かんでくるのは、「ぼくは支那に生まれていたら、天子になっていたよ」という傲岸不遜とも思える言葉です。天皇よ、錯覚するな。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬといわんばかりの口調は、北自身の強烈な自意識とも関係があるのではないでしょうか。
松本清張をして、「張り扇の音」がすると揶揄させた名調子、紙面が燃え上がるような文体を思うとき、この人にとって思想とは何だったのだろうという疑問にも突きあたります。北にとって思想は、自己を表現するための手段の一つに過ぎなかったのではないかとすら思えてくるのです。何かを信奉するには、自己に対する信仰に篤すぎる。魔王とすら呼ばれた強烈な人格と、詩的とも言える理想主義的な思想は、青年を惹きつけるのに十分な危険性を孕んでいます。私自身も、北のそういった側面に惹きつけられるのが先で、その思想や政治史における解釈は後づけだったと言えます。
今回、記事を読んで、渡辺氏の『北一輝』を改めて読み直そうという気になりました。きっかけを与えていただいたことを感謝します。(話しは変わりますが、私には、北一輝と大杉栄がいつもダブって見えます。両人ともトリックスターとしての要素を多分に持っているからでしょうか。同じ場所に立っていながら、まったく別の方向を見ている気がします。あるいはその逆でしょうか。今後私がその思想に取り組んでみたいと思わせる魅力を持った二人です。)
投稿: Gildas | 2009年8月11日 (火) 03時32分
Gildas様、丁寧なコメントを頂きまして、いたみいります。
私のは書評なんていうのもおこがましい、その時々のメモに過ぎないので恐縮してしまいますが、それはともかく。
>魔王とすら呼ばれた強烈な人格と、詩的とも言える理想主義的な思想は、青年を惹きつけるのに十分な危険性を孕んでいます。私自身も、北のそういった側面に惹きつけられるのが先で、その思想や政治史における解釈は後づけだったと言えます。
とおっしゃるところは私も全く同感です。彼の何とも“妖しい”パーソナリティーと思想的な真摯さとが肉感的に結び付いて、その全体が醸し出すオーラというのは、否定・肯定というレベル以前に引き付けられます。渡辺さんのこの本はそれをよく描き出していますよね。
北と大杉栄とがトリックスター的存在としてダブって見えるというお話は興味深いです。大杉は北とは違ってだいぶ陽性ですが、表面的なレトリックを剥ぎ取ってみると、感性的に何か共通したものが見えてきそうな感じは確かにします。面白そうです。
投稿: トゥルバドゥール | 2009年8月11日 (火) 10時33分