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2009年8月

2009年8月30日 (日)

ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚』『代議士の誕生』

ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚──日本と暮らして四五年』(日経BP社、2008年)。

 1960年代、語学留学で東京へ来て以来、日本と付き合い続けながら感じたこと、考えたことを振り返る。西荻窪に下宿、もともと魚介類は好きではなかったが、大衆食堂で食べた鯖や秋刀魚が舌に馴染んだという味わい深いエピソードでつづられる出だしがなかなか良い感じだ。社会科学者としての視点から日本社会の価値観の変化という現実に政治が対応できていないことを指摘する一方で、来日したばかりの頃に知った親切で穏やかな日本への愛惜の念も時折ほのかににじむ。地域研究というのはこういうウェットな感性があってはじめて成り立つものだとつくづく感じる。

 “ドブ板”で選挙民のニーズに敏感な党人派と政策立案に長けた官僚派が互いに協力・牽制しあいながら調整のバランスをとってきたことが自民党政治成功の要因だが、こうした調整メカニズムが機能不全に陥っている、日本独自の政党政治の伝統を生かしながらいかに「説得する政治」を構築できるかが課題だと指摘する。自分には不合理で理解できないことであっても、それを安易に文化論に結び付けて逃げてしまうのは良くないという指摘も大切なことだと思う。

 ジェラルド・カーティス『代議士の誕生──日本式選挙運動の研究』(山岡清二訳、サイマル出版会、改版1979年)はもはや日本の政治文化論として古典。自民党新人代議士の選挙運動に密着して、文化人類学的なフィールドワークによって日本の“草の根”政治の分析を試みた博士論文である。本書で分析されている後援会や地方政治家を通した政治家個人への人間関係による集票システムは、『政治と秋刀魚』でも指摘されているように、すでに崩れている。選挙というイベントからは、その社会における人間関係や組織のあり方、それらに通底する価値観が浮かび上がってくる。日本社会の価値観の変化を考える際の参照基準として選挙を位置付けるという観点から読み直してみると、現代なりに面白い論点も浮かび上がってくるのではないか。

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2009年8月29日 (土)

リチャード・J・サミュエルズ『日本防衛の大戦略──富国強兵からゴルディロックス・コンセンサスまで』

リチャード・J・サミュエルズ(白石隆監訳、中西真雄美訳)『日本防衛の大戦略──富国強兵からゴルディロックス・コンセンサスまで』(日本経済新聞出版社、2009年)

 大陸戦略か、海洋戦略か。軍事力か、経済力か。アジアか、ヨーロッパか。大国か、小国か──。議論の手始めとして、近代日本の外交方針をめぐる様々な思想潮流が類型的に整理され、局面に応じてこれまで三つのコンセンサスにまとまったことがあると指摘される。第一に、追いつき追い越せ型の明治コンセンサス=富国強兵。第二に、帝国主義のロジックに乗った近衛コンセンサス=「東亜新秩序」。第三に、アメリカとの同盟を戦略的に選び取ることで軽軍備・経済発展を可能にした吉田ドクトリン。近代日本の対外構想をトータルな見取図として提示し、その枠内において現代の日本が直面している外交的課題を位置づける。思想史的に不正確な箇所もあるが、外交方針をめぐる対立図式の分析にあたって理念型を設定したものと割り切って読めばいいだろう。

 戦後日本の安全保障論争では国際環境への顧慮よりも国内的要因の方が大きな作用を示し、とりわけ平和主義の発言力が強かった。しかし、吉田ドクトリンは、この平和主義世論を口実として保守勢力内の自主防衛論を抑制しつつ、冷戦へ巻き込まれるのを避けて経済中心の政策を実質的に進めるという絶妙なバランス感覚を示した(内閣法制局の憲法解釈による抑制や、防衛庁への他省官僚出向という形での文民統制など制度的側面も指摘される)。本書はこうしたところに日本の戦略文化におけるプラグマティックな連続性を見出す。

 日本の外交戦略に底流するプラグマティックな流れを踏まえ、また、日本国内で防衛論議へのタブーが消えつつあり、対米同盟依存がアメリカの世界戦略に巻き込まれかねない危険と中国の台頭という状況を見据え、次に現われるであろう第四のコンセンサスを「ゴルディロックス・コンセンサス」と呼ぶ。それは各方面にリスク・ヘッジしながら、極端にハードでもソフトでもなく、アジアにも欧米にも偏り過ぎない外交戦略だという。一見、新鮮味に欠ける当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、最も賢明であり、かつ高度な駆け引きの求められる路線であろう。なお、ゴルディロックスとは、「三匹の熊」という童話に登場する女の子の名前で、適度な均衡状態のたとえによく使われる。訳書にこの表現について注がないのは不親切だ。

 なお、戦後日本外交のプラグマティックな自主性に着目した議論としては、添谷芳秀『日本の「ミドル・パワー」外交──戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)も良書である。以前、こちらで取り上げた。

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ヴィーリ・ミリマノフ『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』

ヴィーリ・ミリマノフ(桑野隆訳)『ロシア・アヴァンギャルドと20世紀の美的革命』(未来社、2001年)

・本文中に登場する作品について100点のカラー図版が巻末に収録されており、ロシア・アヴァンギャルド美術史の簡潔な入門書として手頃な本。
・ロシア・アヴァンギャルド芸術の前時代との質的な転換点は1914年前後に求められるという。ちょうど第一次世界大戦が始まり、帝政ロシアとソ連体制との狭間に華ひらいた束の間の時代。西欧における世紀末芸術と軌を一にしているが、本書は同時発生というよりも西欧からの影響が先にあったと考えている。
・マレーヴィチのスプレマチズム→無対象芸術。あらゆる従属、あらゆるイデオロギーからの解放→社会的平等の極致という意図。
・同時に、スプレマチズムは合理主義的な未来の世界秩序というプロジェクトを芸術において具体化しようとしていた。背景には、全能の科学というイメージに基づくユートピア志向。科学信仰のオカルト的表現としてはフョードロフの〈共同事業〉の哲学も想起される。(さらに言うと、レーニン廟のミイラもオカルト的だ。当時のロシア知識人のオカルト志向はよく指摘されるところだが、ロシアにおける“科学的社会主義”なるものもこうした背景から理解する必要がありそうだ。)
・ただし、ロシア・アヴァンギャルドのユートピア志向と政治権力としてのユートピア志向とでは大きなギャップあり。訳者によるあとがき論文「ロシア・アヴァンギャルドの実相と虚構」によると、スターリニズム的“全体性”志向の源流としてロシア・アヴァンギャルドを捉える議論があるそうだが、知的遊戯としては興味深いにしても議論としては恣意的で成り立たないと指摘。
・このあとがき論文にロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズムとの対立点が次のようにリストアップされている。
ロシア・アヴァンギャルド:①異化、デフォルメ ②難解にされた形式 ③グロテスク、反遠近法、ザーウミ等の例としての民衆芸術 ④芸術特有の約束事 ⑤プラカード性、時事評論性 ⑥構成 ⑦反心理主義
社会主義リアリズム:①古典的な理想 ②単純さ ③単純明快さとしての民衆性・人民性 ④美的イリュージョン ⑤モニュメンタルな一般化 ⑥有機的テーマ性 ⑦心理主義、リアリズム

 なお、去年、渋谷の文化村ミュージアムで開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見に行った時のコメントはこちら

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2009年8月28日 (金)

金子淳一『昭和激流 四元義隆の生涯』

金子淳一『昭和激流 四元義隆の生涯』(新潮社、2009年)

 近衛文麿や鈴木貫太郎から細川護熙まで歴代総理と関係を持ち、“総理の指南役”とも呼ばれた四元義隆。東京帝国大学中退後、井上日召に師事、いわゆる血盟団事件では牧野伸顕を狙ったが、果たせないまま逮捕された(なお、“血盟団”というのは警察がつけた呼び名で、四元は嫌がっている)。戦後は田中清玄の後を受けて三幸建設工業社長。著者は四元に私淑した弟子筋の人で、四元に対しては思い入れたっぷりだが、時代背景の認識には特に偏りは見られない。

 四元と同様に“総理の指南役”と呼ばれた人物として安岡正篤の名前も思い浮かぶが、血盟団事件は安岡の密告によって失敗したとも言われている。四元は日召と出会う前に安岡の金鶏学院に出入りしていたこともあるが、安岡の東洋哲学なんていうのは所詮“ハサミと糊”に過ぎないと手厳しい。四元は戦後保守政界の要人たちとの付き合いもあったが、田中角栄については金銭亡者と毛嫌いしていた。

 以前、『一人一殺──井上日召自伝』(日本週報社、1953年)に目を通したことがある。日召の若き日々の精神的彷徨に、そもそも自分はなぜここに存在するのかという哲学的煩悶の見られるのが印象的だった。大陸浪人、出家、国家主義運動という動き方には、その表面的なキナ臭さとは裏腹に、言語以前の確信を求めようという日召自身のもがきが底流していたようにも思われる。日召にしても、四元にしても、己を滅して見えてくる存在論的な何かの確信、私心のないひたむきな純粋さ、そういったところに人を見る際の判断基準を置いており、主義主張の是非は本質的な問題と考えていない。四元が戦時中に「平泉澄の皇国史観なんて嘘だ、共産党員だって国を思う気持ちは同じだ」と発言したり、宮沢賢治が好きでよく読み聞かせていたというのも肯ける。もちろん、純粋さ志向(右の方々お好みの表現だと“至誠”と言うべきか)が、受け止めようによっては主観主義に落ち込みかねないのは危なっかしいところではあるが。

 先日、ドイツ赤軍を描いた映画「バーダー・マインホフ」を取り上げた(→こちら)。ああいう輩は大嫌いだという趣旨のことを書いたので、お前は同じテロリストでも右翼に甘くて左翼に厳しい、と受け止められるかもしれないが、そういう問題ではない。ドイツ赤軍の英雄主義的な自己顕示欲の強さからうかがわれる人間としての浅はかさが鼻についてたまらないということ。獄中での振る舞いなど対照的だ。四元は静かに座禅を組み、勉強し、治安維持法で捕まった同囚の共産主義者とも話をしてその言い分も知った。ドイツ赤軍の受刑者は権利ばかり要求し、主義主張の政治メッセージを書きなぐり、要求が容れられなければ騒いで恫喝していた。彼らの行動に“純粋さ”など感じられない。従って、軽蔑の対象以外の何物でもない。ちなみに、日本赤軍の重信房子の父親が井上日召の門下生だったことはよく知られている。

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2009年8月27日 (木)

松田康博編著『NSC 国家安全保障会議──危機管理・安保政策統合メカニズムの比較研究』

松田康博編著『NSC 国家安全保障会議──危機管理・安保政策統合メカニズムの比較研究』(彩流社、2009年)

 政府内において安全保障政策の総合的企画・立案・調整を担当する組織部門の比較研究をテーマとした論文集。アメリカのNSC(National Security Council、国家安全保障会議)が代表的だが、他に韓国、台湾、ロシア、中国、シンガポール、イギリス、日本を取り上げる(ただし、中国には該当する組織部門がなく、安全保障政策形成過程を示すことで比較対照)。それぞれの制度や設立経緯を紹介するだけでなく、運用上の問題にも目配りしている。執筆陣は防衛省防衛研究所の関係者が中心だが、純粋に学術的な内容。Ivo H. Daalder and I. M. Destler, In the Shadow of the Oval Office: Profiles of the National Security Advisers and the Presidents They Served─From JFK to George W. Bush(Simon & Schuster, 2009)という本を読んでいたのだが(途中まで読んでほったらかしだが)、たまたま本書を見かけ、この辺のことをよく知らないので勉強のため手に取った次第。関心を持った点をいくつかメモ書き。

・大統領直属という性格から、法的・制度的な裏付けのないケースが多い。
・研究者などの民間人を政治任用しているケースが多い。また、組織肥大化の傾向あり。
・制度的な問題もあるが、どんな制度であっても、人的要因によってその運用が左右される。
・アメリカの現在のNSCの特徴は、In the Shadow of the Oval Officeでも指摘されているが、チームワーク重視と非公然活動の抑制。かつてニクソン政権の安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーが国務長官を無視して華々しい外交成果を挙げたが、カーター政権のブレジンスキー補佐官は国務長官と対立して外交活動が頓挫→補佐官は省庁間の誠実な仲介者としてチームワーク作りを行なうことが重要な任務と期待されるようになった。キッシンジャー型の独断専行を嫌ったレーガン政権においてNSCの存在感は低下→表舞台ではない所でNSCが勝手に非公然活動→イラン・コントラ事件→NSCの建て直し、という経緯あり。(なお、In the Shadow of the Oval Officeの著者による要約がForeign  Affairs, January/February 2009に掲載されており、こちらを読めば歴代補佐官の活動を通してアメリカのNSCの歴史が概観できる。着実な調整活動によって政策決定上のリーダーシップを発揮した例としてパパ・ブッシュ政権のスコウクロフト補佐官が高く評価されていた。)
・韓国は金大中・盧武鉉の対北朝鮮“太陽政策”、台湾は中国からの圧力が多元化するようになった→軍事対決というだけでなく、接触・交渉も含めて総合的な安保政策を立案する必要からNSC型組織を重視。
・安保政策を立案する上では、様々な政策分野を一元的に統合する強力なリーダーシップが理想的。その補佐として企画立案・関係省庁の調整にあたるのがNSCの役割。当然ながら、大統領の権限強化が目指されるため、独走しないように常にアカウンタビリティーが必要。
・中国はかつての毛沢東独裁のトラウマがあるため集団指導体制を取っている→NSC型組織を現時点では持っていない。安保政策は中央軍事委員会で決定されており、国家次元で意思統一が図られているのか不透明だと指摘。
・イギリスは議院内閣制だが歴史的に政府・与党一体化しており、首相のリーダーシップがもともと強い。政府・与党(自民党)二元体制の日本とは異なる。
(※なお、民主党のマニフェストを見ると国家戦略局なるものを創設するらしいが、NSCを目指しているということか? そう言えば、安倍政権の時にも日本版NSCを作ろうという動きがあったな)

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2009年8月26日 (水)

有馬哲夫『アレン・ダレス──原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』

有馬哲夫『アレン・ダレス──原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』(講談社、2009年)

 アイゼンハワー政権で国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスの弟で、自身もCIA長官となったアレン・ダレス。若い頃のキャリアは国務省から始まっているが、辞職して弁護士法人に入った。第二次世界大戦が始まると、ほとんどボランティア的に戦略情報局(OSS、戦後のCIAの母体)へ参加、金融問題担当大統領特別代表という肩書きでインテリジェンス合戦真っ只中のスイスへ赴任する。本書は、第二次世界大戦におけるインテリジェンス活動をアレン・ダレスの視点から描き出す。学術的なクオリティーを備えた政治裏面史だが、駆け引きのせめぎ合いにはドラマのような緊張感があってなかなか読ませる。

 スイスには多彩な人物群像がうごめいていた。OSSと協力関係にあったMI6、ユダヤ人協会、国際決済銀行の人脈、動機も様々な民間人。ユングとも接触し、ナチス指導者の精神分析を聞いたりしている。反ナチスの立場をとるカナリス提督が統括するドイツ国防軍の情報部員とも接触、ヒトラー暗殺未遂事件でこのルートが途絶えると、今度はイタリア北部駐留ドイツ軍の降伏を狙ったサンライズ作戦。カウンター・パートナーである親衛隊幹部ヴォルフはヒトラー、ヒムラーたち相手に綱渡り。日本側とは、岡本清福陸軍中将をはじめとしたスイス駐在武官、公使の加瀬俊一、横浜正金銀行の北村孝治郎・吉村侃といった人脈とパイプを持つ。

 ドイツ、日本の敗色が濃くなるにつれて、局面はすでに米ソ間の戦後における勢力争いへと移っていた。アメリカの原爆投下、ソ連の対日参戦はこうした思惑の中で決定されている。アメリカ政府中枢においては、トルーマン大統領をはじめハード・ピース派がソ連に対する軍事的優位を誇示するため日本への原爆投下を急いでいた。対して、ソフト・ピース派のグルー国務次官(元駐日大使)やアレン・ダレスたちは、戦後のソ連に対する牽制のため日本の国力を温存して反共の防波堤にすべきと考えており、原爆投下には反対、日本軍の組織的降伏をスムーズに進めるため天皇制も残すべきと主張していた。ソフト・ピース派はダレスたちのルートを使って日本に対し、無条件降伏とはあくまでも軍事的なものであり、戦後も日本の主権は認める、従って天皇制も維持される、とほのめかすメッセージを送った。しかし、日本からの反応は芳しくない。グルー、ダレスらの努力もむなしく、原爆は投下された。ただし、天皇制存置のメッセージが伝わったからこそ、日本側でポツダム宣言受諾が可能となった。

 インテリジェンス活動とは、単に戦略的優位に立つために情報収集するというレベルにとどまらない。戦争状態にある以上、公式見解として言うことはできないが、破滅的な結果を双方とも回避するために様々な裏のメッセージを発する。それを受け止め損ねない、つまり裏のメッセージを正確にキャッチボールできる能力が肝心な局面で不可欠となる。原爆投下はその失敗であったし、ポツダム宣言受諾の決断がなければ日本はさらなる破滅を迎えたかもしれない。

 アレン・ダレスの培った対日インテリジェンス人脈は戦後も続く。それは戦後政治を動かす秘かな力となったが、本書とは別のテーマとなる。人脈的に戦中・戦後と連続性があるため、ダレスの戦中の活動については努めて秘匿されてきたらしい。

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2009年8月25日 (火)

佐野眞一『小泉政権──非情の歳月』『凡宰伝』『新 忘れられた日本人』、他

 佐野眞一『小泉政権──非情の歳月』(文春文庫、2006年)。異形の秘書官・飯島勲、外相に任命されたものの更迭された田中真紀子、姉で日常的な采配を振るう小泉信子、こうした三人を通して小泉の人物像を間接的に浮き彫りにしていく構成。かなり厳しい家庭環境からはいあがった飯島勲という人のバイタリティーに驚く一方で、ガードの極めて高い田中家、小泉家をすき間から垣間見た印象はちょっと尋常ではない。肝心なテーマであるはずの小泉純一郎へのインタビューはなく(小泉家の閉鎖性はインタビューを受け付けない)、小泉の描き方がいまいちピンとこなくて、佐野さんの作品にしてはもの足りない。

 小泉純一郎、田中真紀子などマスコミでもてはやされる政治家の人物像が魅力に乏しいのに対して、悪役扱いされた方にかえって人情味ある苦労人がいることに時々驚くことがある。例えば、魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2006年)によって抵抗勢力の首魁のような印象があった野中という人を見る眼が完全に変わったし、佐藤優の書くもので鈴木宗男の意外な側面に驚いたりもした。

 悪口を書かれるかもしれないのに敢えて取材に積極的に協力する姿勢を見せたのが小渕恵三である。佐野眞一『凡宰伝』(文春文庫、2003年)。この人も悪役とまでは言わないが、在任中はずっとバカにされ続けていた。しかし、彼自身がバカにされていることを知っており、自らを戯画化さえしてみせた。バカにされていれば警戒はされない、それを逆手に取って相手の懐に飛び込んでいくというしたたかさが小渕の侮れないところである。気配りの小渕ではあるが、性格的な芯はかなりきつい。「自分は凡人だから、とにかく一つのことに一生懸命になるしかない」という発言は当時の新聞記事で読んだ覚えがあった。凡人であっても、そのことを自覚して、むしろ凡人であることに徹して意識的に努力すれば“非凡”であり得る、この不思議な逆説が興味深い。大学受験に失敗して浪人中、太宰治の研究をしていたというのが意外だった。

 佐野眞一『新 忘れられた日本人』(毎日新聞社、2009年)。佐野さんがこれまで取材してきた中で強烈な印象が忘れ難い人物群像を点描する。タイトルはもちろん、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984年)を意識しており、そのいわば現代版という自負があるようだ。これは私も好きな本だが、宮本の描く庶民の姿は美しすぎるという感想をもらす人もいるし、民俗学的な聞き書きというよりは、私はむしろ登場人物の魅力にひかれて文学作品のように読んだ覚えがある。単に昔のことを記録するというのではなく、人々の息づかいが文章に写しこまれているという意味で。良いとか悪いとかいう価値判断を超えた次元で、各人各様の生き様があるものだとつくづく思う。そうした迫力を見極めていく眼力が佐野さんの作品の魅力だと思っている。本書の中でで興味を持った人物が見つかれば、それを手がかりに佐野さんの他の著作を手に取ってみるとまた奥行きが広がっていくだろう。

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2009年8月24日 (月)

ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』、大石学『江戸の外交戦略』

 私が小中学生くらいの頃の歴史教科書には、江戸時代を鎖国で特徴付ける記述が普通だったように思う。長崎の出島や朝鮮通信使は例外扱いされた。しかし、この“例外”という表現が曲者で、当時でも海外との外交ルートはこの時代に独特な形ではあっても確固としてあったというのが現在では通説となっている。具体的には、松前氏を通して蝦夷、対馬の宗氏を通して朝鮮、薩摩の島津氏を通して琉球、長崎の出島ではオランダ東インド会社、唐人屋敷では中国商人、という“四つの口”。これらは“例外”だったのではなく、幕府の外交方針として窓口に指定されていたのである。そこには、中華的華夷秩序から離脱した、“日本型華夷観念”を見出すこともできる。

 ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史第9巻、小学館、2008年)は、当時の記録・説話類の分析、とりわけ図像学的な知見をもとに、当時の日本人の対外認識を読み解いていくところが非常に面白い。たとえば、ヒゲの変遷。江戸時代の国内統制政策→ヒゲと総髪をシンボルとした浪人たちを取り締まり→月代・髻・ヒゲなしという日本人の身体的特徴が定着。他方、清では漢人にも辮髪を強制、ヒゲはあり→髪の形とヒゲが“唐人”の特徴として図像的にも認識される。さらに“毛唐人”という表現にもつながる。また、富士山遠望奇譚から対外認識を読み取っていくところも興味深い。

 大石学『江戸の外交戦略』(角川選書、2009年)は、海外との接触をシャットアウトしたのではなく、国家が国民の出入国を管理・制限する体制として“鎖国”を把握。国内・対外関係の両面における安定維持を図っていた点で“国民国家”形成過程にあったと位置づける。こうした観点に基づき秀吉の朝鮮出兵から幕末に至るまでの外交的対応を概観し、“鎖国”体制においても海外の文化を摂取・成熟させていたことを指摘する。

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2009年8月23日 (日)

ETV特集「シリーズ戦争とラジオ(2) 日米電波戦争」

ETV特集「シリーズ戦争とラジオ(2) 日米電波戦争」

・アメリカ国立公文書館で発見された、太平洋戦争中にアメリカで傍受されていたラジオ・トウキョウの記録。ベアーテ・シロタも傍受に動員されていた。
・東京ローズの蓮っ葉な感じのディスクジョッキー→単純な戦意高揚宣伝よりも、東京ローズのくだけた口調の方がアメリカ兵の郷愁を誘って一定の効果あり。
・アメリカ側スポークスマンのザカライアス海軍大佐による放送と、日本側の同盟通信・井上勇による応答→日米双方の意図の探りあい。具体的には、「無条件降伏」とは言っても、その中での「条件」は何か? アメリカ側には大西洋憲章を基礎とする意向があるのを知り、日本側も対応を検討できた。
・日本は、どんなに被害があっても常に「軽微」と表現していたが、原爆投下後、その残虐性を強調する対外放送。
・8月10日の夜、ラジオ・トウキョウは、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾の用意あり、と放送。8月11日には世界中に知れ渡る。
・ザカライアスは日本滞在経験があり、高松宮の訪米時には三ヶ月間随行した。番組のメインテーマではないが、戦争終結にあたり、アメリカ側における知日派の存在が大きな和役割を果したことを改めて考えさせられた。例えば、平川祐弘『平和の海と戦いの海』(講談社学術文庫)や五百頭旗真『日米開戦と戦後日本』(講談社学術文庫)なども参照のこと。

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「縞模様のパジャマの少年」

「縞模様のパジャマの少年」

 街にカギ十字がはためく戦時下のドイツ。緊迫した空気が漂うが、子供たちは相変わらず元気にはしゃいで飛び回っている。お父さんの転勤が急遽決まり、友達と離れ離れにならねばならないブルーノは不満顔。新しいおうちは退屈なので裏庭から冒険に出ると、川を渡った向こうに鉄条網で囲われた“農園”があった。ブルーノはそこにいた同い年の少年と仲良くなる。だけど、この“農園”、どこか様子が変だ。みんな縞模様のパジャマみたいな服を着せられて、態度も怯えたようにオドオドしている。高くそびえる煙突から時折吹き出す煙はものすごく嫌な臭い──。お父さんはここの“所長”をしているらしい。制服に付けられた徽章はゲシュタポのドクロマークである。

 家に出入りする中尉はユダヤ人の囚人につらくあたる。彼の父親はナチスに反対して国外亡命したという。彼の冷たい無表情も、ユダヤ人への暴力も、反ナチスの父親を持ったことで自分も破滅するかもしれないという恐怖心に由来する、一種の“抑圧の移譲”であろうか。

 ブルーノの無邪気さに偏見はなく、だからこそユダヤ人の少年とも友達になれた。だが、彼の無邪気さは同時に、ホロコーストの事実を知っている後世の我々の眼には時に残酷にも映る。所長邸の用役に来ているユダヤ人元医師の無念、ブルーノの何気ない一言を聞いて、絶望と悔しさとで表情が悲しく歪むシーンが忘れられない。この映画の結末をここで明かすわけにはいかない。ただ、純真さは同時に無知でもあり、その無知こそが事態を破滅に追い込みかねない、この映画の結末はそうした一つの寓話としてほのめかされているようにも思われる。

【データ】
監督・脚本:マーク・ハーマン
2008年/イギリス・アメリカ/95分
(2009年8月22日、恵比寿ガーデンシネマにて)

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東京都写真美術館「ジョルジュ・ビゴー展──碧眼の浮世絵師が斬る明治」「心の眼──稲越功一の写真」

「ジョルジュ・ビゴー展──碧眼の浮世絵師が斬る明治」

 横浜開港150周年記念で日本近代を振り返るイベントが今年は多いが、この企画もそうした一つであろうか。明治期日本にやって来て、江戸期の風俗が近代へと移り変わる様を観察、風刺画を描いたフランス人画家ジョルジュ・ビゴーの展覧会。来日前の水彩画、離日後の仕事も含め、彼の画業をトータルに展示。日本生活に慣れてからの作品には「美好(びこう)画」という署名を見かける。下岡蓮杖の人物写真、磐梯山噴火、日清戦争など当時の写真も展示して対照させる試みが面白い。

「心の眼──稲越功一の写真」

 今年の2月に逝去された写真家・稲越功一の作品を総まとめ的に展示。稲越功一という名前は知ってはいたが、作品を意識して見たのは今回が初めて。風景も、その中にある人物も、どっしり構えて撮ったというよりもその時時の思いのままの目線で切り取った感じか。モノクロで、遠景にかすみがかった構図で撮った写真がいくつか私の好きな感じで印象的だった。それから、下町の路地裏を中心に撮った『記憶都市』も興味がひかれて、写真集を改めて手に取ってみたいと思った。
(いずれも、恵比寿ガーデンプレイス、東京都写真美術館にて)

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2009年8月22日 (土)

「宇宙へ。」

「宇宙(そら)へ。」

 ロケット打ち上げの炎と噴煙には独特に激しい厳かさがある。映画が始まって間もなく、打ち上げに失敗したロケットの爆発シーンが立て続けに映し出される。その後も、有人宇宙飛行、宇宙遊泳、月面着陸、スペースシャトルと成功が続くものの、そうした華々しさの陰で目の当たりにされた訓練中の爆発事故、チャレンジャー号の打ち上げ失敗、そして帰還途上にあったコロンビア号の空中分解といった大惨事。文字通り死と隣り合わせの冒険に敢えて飛び立った宇宙飛行士たち。NASAが記録していた映像を編集してアメリカの宇宙開発の歴史をまとめたドキュメンタリーである。

 自らの命を代償にしてでももこの眼で確認したかった宇宙の姿、未知なるもの。静けさを湛えた月のゴツゴツした地平に、漆黒の闇の中からくっきりと浮かび上がった地球の青さ──。もはや写真や映像で見慣れたシーンではあっても、科学者や宇宙飛行士たちの命がけの奮闘を念頭に置いて見ると目頭が熱くなってきて、その印象はひときわ鮮やかだ。ハッブル望遠鏡に映し出された、計算を絶した時空の果てからやって来た星々の光線。宇宙のはるかな深淵に、振り返って我ながら陳腐とは思いつつも、永遠と有限という哲学的テーマが頭をよぎる。だが、あの映像を目の前にしている時には不思議とそれが陳腐には感じられなかった。胸に清涼感があふれてくる。凄絶におそろしく、そのおそれが美しい。命を棄ててでも見たいと切迫した思いを募らせるのは果たしてこれか。

 記録映像をつなぎ合わせただけだが、ドラマとして張りつめた緊張感が全体に漲っている。ドキュメンタリーを観てこんなにワクワクドキドキしたのは久しぶりだ。オーケストラのバックミュージックが雰囲気を盛り上げていたし、ナレーションを務める宮迫博之の渋いバリトン・ヴォイスもなかなか様になっていた。

【データ】
原題:Rocket Men
監督:リチャード・デイル
翻訳・演出:寺本彩
翻訳監修:毛利衛
日本版ナレーション:宮迫博之
2009年/イギリス/98分
(2009年8月21日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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2009年8月20日 (木)

8月某日 仙台(松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」)

(承前)
◇第五日
【キーワード】松島、「古代カルタゴとローマ」展、慶長遣欧使節団、魯迅「藤野先生」

・初めて松島へ行った。地下化された仙石線の始発はあおば通駅、ここから松島海岸駅まで約30分。東北本線と絡まりあっており、松島という駅もあるので、要注意。
・所要時間約40分の湾内遊覧船。ほのかな潮風とディーゼルオイルの混じった匂いが何となく昭和の観光地という旅情をかきたてて、良い。
・松島では牡蠣の養殖など水産物が豊富。土産物屋の並ぶ中の食堂に入る。刺身の盛り合わせ、生牡蠣、生ウニ、ホヤ。魚介類はあまり好きではないのだが、旅先でそういう野暮は言わない。佐渡と庄内ではとにかく動き続けて疲れたので、仙台ではゆっくりするつもり。まだ11時前だがビールを飲む。ガラス戸の脇に座って外を眺め、昭和の観光地らしい雰囲気の中でボーっとしていると、このまったり感が良い。

・午後、仙台駅から仙台市内の観光名所をめぐるループバスを利用。乗り降り自由の一日乗車券600円。観光施設の割引もあり。
・仙台城のふもとに仙台市博物館。ちょうど「チュニジア世界遺産 古代カルタゴとローマ」展を開催中、本日最終日。まるで私を待っていてくれたようだ。なお、10月には東京の大丸ミュージアムでも開催されるらしい。
・チュニジアにおけるカルタゴ遺跡、及びポエニ戦争で壊滅後、ローマによって再建された遺跡の両方にまつわる展示。
・学生のとき、名目上ではあったが一応古代オリエント考古学のゼミに所属していたので(他分野に関心が移ったので全く出席しなかったが)、こうした分野は今でも気になる。
・高校世界史レベルの話だが、フェニキア人はもともと地中海東岸のシドンとティルスに拠点を置いて海洋交易で活躍、その言語は地中海世界の共通語の一つとなり、文字はアルファベットのルーツとなった。現在のチュニジアのあたりに新たな拠点として築かれた植民都市がカルタゴ。フェニキア語で“新しい町”という意味らしい。ちなみに、後にハンニバルがイベリア半島を征服して、こちらはカルタゴ・ノヴァと呼ばれた。“ノヴァ”はラテン語で“新しい”という意味だから、つまり“新しい新しい町”ということになるのか。
・遺物や、そこにモチーフとして表現されている神話・伝説→フェニキア文化にエジプト、ギリシア、ローマの要素が絡まりあっているのが見えてきて面白い。遺跡風景の写真を見ていると、行ってみたいなあ、という気持ちにかられる。
・参考文献としては松谷健二『カルタゴ興亡史』(中公文庫)、他にフローベールの小説『サランボー』も思い浮かぶ。まさか東北を旅行してカルタゴに出会うとは思っていなかったので、復習まではさすがに手が回っていなかった。

・常設展示。仙台藩・伊達家にまつわる展示が中心。墓所に納められていた遺骨をもとに復元された伊達政宗の胸像もある。奥羽越列藩同盟の取りまとめ役となり、後に処刑された玉虫左太夫の書簡なども展示。
・林子平はもともと江戸の生まれだが、姉が仙台藩主の側室となった関係で仙台に来た。不遇な部屋住み。寛政三奇人の一人。肖像画を見ると性格きつそう。ロシアへの防備を主張して発禁処分を受けた『海国兵談』の原本・写本なども展示。
・目玉の一つは、支倉常長と慶長遣欧使節団に関する展示だろう。太平洋を渡ってメキシコとの貿易を望む伊達政宗の意向もあり、キリスト教布教という名目で、バチカンにスペインとの仲介をお願いするのが目的。将来品の一つ、ローマで描かれた支倉常長の肖像画は、日本人を描いた最も古い油絵だとされている。帰国時にはキリシタン弾圧が始まっており、支倉は不遇のうちに死去。使節団の案内役となった宣教師ルイス・ソテロは日本へ再潜入したものの捕まって火炙りにされた。帰りがけに慶長遣欧使節展示資料を一冊購入。
・解説ボランティアの名札をかけたおじいさんがいたので、「仙台にも陸軍幼年学校があったらしいですが、どのあたりですか?」と質問。「ええ、ありました、ありました。三神峰(みかみね)というところで、今は桜の名所です。駅からバスで40分くらいかかります。」「碑文のようなものはありますか?」「いや、何もないですよ。あそこは、桜の名所ということと、それから貝塚が見つかってますので、そういうものだけですね。幼年学校の痕跡は何もないですねえ。お役に立てなくて申し訳ないです。それにしても、陸軍幼年学校なんて、あなたよく知ってますねえ。」私がお礼を言って離れてからも、解説ボランティア見習い風のもう一人の女性にこの話題を説明していた。石原莞爾が仙台の陸軍幼年学校にいたので、行けるようであれば足を運ぼうかとも思っていたが、遠い上に何もなさそうなので断念。

・仙台市博物館の裏手に、魯迅、阿部次郎、支倉常長、伊達政宗などに関する記念碑あり。
・坂道を登って、青葉城資料展示館。お城の姿を再現したCGを上映しているが、特に寄るほどのものではない。政宗は徳川家からの疑惑を慮って天守閣を建てなかったことはよく知られている。
・護国神社。8月15日に合わせて戦艦の展示などをしているようだが、素通り。

・ループバスに乗って、仙台駅を過ぎ、晩翠草堂へ。英文学者で旧制二高教授だった土井晩翠の晩年の住まい。もともと住んでいた家は空襲で焼け出され、見かねたかつての教え子たちがここを建てて寄贈、余生を過ごしたという。病没時に横たわっていたベッドも残されている。土井晩翠というと思い出すことふたつ。ひとつ。普通は「どい」と読ませるが、かつては「つちい」と読んでいたこと。ふたつ。仙台に晩翠軒?なる食堂があって、そこに土井晩翠が食事に来ている時に二高の学生が居合わせると、店の主人を呼ぶのにわざと「おい、晩翠!」と声を上げたとかいう話。何で読んだのか忘れた。どうでもいいことだが。
・晩翠草堂から歩いて東北大学キャンパスへ。この近辺はかつて武家屋敷の並んでいた区域らしい。先ほどループバスで通りかかったとき、裁判所脇に原田甲斐屋敷跡という立て札を見かけた。山本周五郎『樅ノ木は残った』(新潮文庫)を読んだのは中学生の頃だったか、初めて読んだ山本作品である。

・東北大学キャンパスから道を挟んだ向かい側にぼろい二階家がある。魯迅の下宿先だった建物である。写真に撮った。それから、キャンパス内、かつて彼の留学していた仙台医学専門学校(現在、東北大学医学部)があった所に魯迅の胸像がある。
・仙台、魯迅とくれば、必然的に思い浮かぶ作品は「藤野先生」。医学専門学校での恩師、藤野厳九郎。右も左も分からぬ一留学生のために、魯迅がとった講義ノートに毎週黙々と赤字添削を続けてくれた思い出。異国から来た魯迅個人のためであると同時に、その彼を通して、これから近代化を進めなければならない新生中国のためという明治人らしい武骨な情熱。日清・日露戦争を経て一等国日本という自意識が裏返って中国人への蔑視感情となって露わになっていた時代。魯迅もいやな思いをしたことはこの「藤野先生」にも記されているが、そうした中だからこそ、不器用な藤野先生の寡黙さが際立つ。
・キャンパス内には二高の教室建物も残されていた。
・近くに阿部次郎記念館というのがあるが、晩翠草堂でもらった仙台文学マップをみると日曜休館となっているので行かない。阿部は東北帝国大学教授だった。

・東北大学近くの古本屋を何軒かひやかしながら仙台駅方向へ歩く。小腹が減ったので、駅構内の鮨屋でつまむ。それから駅前のジュンク堂書店(2店舗ある)をぶらぶら見て回って、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を購入。
・新幹線で帰る。駅弁売場ではらこ飯弁当。アラでとっただし汁でご飯と鮭の切り身を一緒に炊き込み、そこへイクラをふりかけ、つけ合わせに辛味の味噌。酒のおつまみとしても良い感じで、ワンカップの地酒も買い込んで呑む。ほろ酔い加減で『腕白小僧がいた』をパラパラとめくり、ちょうど読み終わった頃に東京駅着。22:30頃。

・まとめ、と言うほどのことはないが、旅行の理由付けを適当に。
・北一輝は佐渡の生まれ、石原莞爾と大川周明は庄内の生まれ、仙台は魯迅ゆかりの地ということで、北日本に潜むアジア主義の水脈を掘り起こす旅、とでもしましょうか。ついでに言うと、中村屋の相馬黒光は仙台の生まれ。土井晩翠と二高の同僚だったドイツ文学者の登張竹風とが一緒に写っている写真を晩翠草堂で見かけたが、登張は後に旧満洲国・建国大学教授となる。奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられて仙台に身を寄せた輪王寺宮公現法親王は維新後、北白川宮家を継いで能久親王となり、日清戦争後、下関条約で日本に割譲された台湾への遠征軍司令官となり、台湾で病没、台湾神宮に祀られた。全部こじつけちゃう(笑)
・庄内と仙台は奥羽越列藩同盟つながり。
・佐渡と庄内の酒田は日本海交易ルートの拠点、とりわけ酒田は北前船で有名。仙台(正確には月の浦)からは慶長遣欧使節団が派遣された。そして、仙台市博物館で開催されていた「古代カルタゴとローマ」展。こちらは海洋文明つながり、ということで。

(了)

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2009年8月19日 (水)

8月某日 庄内(2)(大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟)

(承前)
◇第四日
【キーワード】大川周明、石原莞爾、文明開化、護国神社、奥羽越列藩同盟

・前日はレンタカーを利用して遠隔地を回ったので、本日は酒田・鶴岡の市街地を回る予定。酒田駅前の観光案内所でレンタサイクル。案内所のおじいさんに、石原莞爾・大川周明にまつわる場所が市内にないか?と尋ねたら、しばらく考えて、光丘文庫に行って聞いてみなさい、と教えてくれた。
・酒田市立資料館。土門拳生誕百周年に合わせて写真展。やはり子どもの写真が中心。この資料館近くに土門の生家跡がある。2階では酒田市に関する通史的な展示。
・海の方向へ行き、山居倉庫。明治期に入って、旧藩主の酒井家や菅実秀らによって殖産興業のためつくられた倉庫群。庄内米歴史資料館もあるが、時間的な余裕がないので素通り。庄内藩は、城のある鶴岡が政治の中心とすれば、港町として栄えた酒田は経済の中心。北前船による江戸や大坂を結んだ流通ルートの要で、東回り航路・西回り航路の拠点となっていた。
・酒田は、映画「おくりびと」のロケ地となり、これも町おこしの材料に使われている。このシーンはここで撮影されたと示す観光用看板が市内のあちこちにある。古びてなかなか風格のある建物もあり、映画に使いたくなる気持ちは分かる。実はこの映画、観よう観ようと思いつつ、まだ観ていない。話題になると観る気が失せてしまう天邪鬼なもので。

・光丘文庫へ行く。酒田市立の市史編纂所のような位置付けか。酒田の豪商・本間光丘が学問振興の施設を作ろうとしたが許可がおりず、その子孫が明治になって光丘を記念して建てたという。本間氏は、戊辰戦争に際して最新鋭の銃器を購入して庄内藩へ献上したり、敗戦後、酒井氏が会津へ転封という話が出た際、明治新政府に献金をしてやめさせたりと庄内藩の政治にも密接につながっていた。なお、佐渡にも本間氏がいたが、祖先をたどれば庄内の本間氏ともつながりがあるらしい。
・事務室へ行き、応対に出てくれた学芸員の方に、大川周明の墓の場所を尋ねた。だいたいの場所は教えてくださった。ただし、大川家の私的な場所なので、遺族の方は、はっきりとは言わなかったけれどもあまり公にはしたくないような様子だったという。
・話の流れで色々と教えてくださった。最近、若い人でも大川周明・石原莞爾がらみで来館する人が多いらしい。「どういうわけか、大川周明や石原莞爾の人気がまた出てきているんですよね。保守回帰の傾向とつながりがあるのでしょうか。とくに、石原のカリスマ的なところに惹かれる人が多いのかもしれません。ただ、変な受け売りとかバイアスをかけて見るのは好ましくありません。興味を持つなら、彼らの書いたものをじかに手に取って読んでみて、色々な人の話を聞いて、自分自身の眼で掴み取って欲しい。ネオナチみたいのに利用されるのはまずい。むかしとはもう世代が違うし、バイアスを取り去って読み直してみれば、色々と可能性はあるはずです。」私も全く同感。「そういえば、大川や石原について最近たくさん本が出ていますよね。たとえば、佐藤優氏とか…。」と話をふったら、「ええ、佐藤さんもいらっしゃって、ここにある大川の蔵書を調べていかれましたよ。」
・光丘文庫は、大川家とは何らかの接点を持っているようだが、石原莞爾については「あちらは独立してやってるんですよね」とおっしゃるのが印象に残った。戦後になっても東亜連盟の信奉者が独自の活動をしているということか。
・大川と石原は、二人ともアジア主義者であること、戦時下において反東条英機の立場に立ったことなど共通点もあり、二人の間に何らかの交流があったのは確かなのだが、その証拠となる資料が意外と見つからない、とも指摘された。
・大川周明・石原莞爾の蔵書はここに寄贈・委託されている。ガラス戸付本棚に並べられており、背表紙を眺めることができる。二人とも読書の幅が広い。「大川はやはり学者なんですよね。」「二人とももっとくだけた本も読んでいたはずなんですが、ここにはないんですよ。」石原の蔵書はドイツ留学中に買い込んだ洋書が多い。大川がコーラン研究に使った本も並んでいる。ある一冊を指して「この本には“東条の馬鹿”って書き込みがあるんですよ」と笑う。逐一眺めていきたいところだが、ちょっと時間が迫っているので辞去する。「何か資料調べの必要がありましたらご連絡ください」と声をかけていただいた。
・光丘文庫の近くにある大川周明顕彰碑を写真に撮る。
・敗戦時、石原莞爾は酒田の北の遊佐にいた。東京裁判で証人喚問されることになったが、体の具合がよくないので、酒田市内の商工会議所に特別臨時出張法廷が開設され、石原はリヤカーに乗って運ばれてきた。「満州事変を起こしたのは自分だ、自分を戦犯として裁かないのはおかしい」と主張したことは有名。当時の商工会議所の建物は現在はなく、NTTの道路をはさんだ向かい側にあるセブンイレブンのあたりにあったと光丘文庫で教えてもらったので、そこまで足を運ぶ。
・酒田駅前まで戻り、レンタサイクルを返却。カギを渡す際、観光案内所の先ほどのおじいさんが思い出したように声をかけてくれた。「酒田の北の方に石原莞爾のお墓があるんですが、行きましたか? …そうですか、行きましたか。あの辺りには信奉者がたくさんおったんですよ。私の若い頃も身近にいましたよ、東亜連盟の人が。今はもういませんけどねえ。」世代がかわって、後を継ぐ人がもういないということですか?「うーん、というよりも、石原さんは鶴岡の人ですからね、酒田とはもともと縁はなかったんですよ。」そういえば、藤沢周平の自伝的エッセイでも、東亜連盟は唐突に現われた、という書き方をしていた記憶がある。石原が庄内に帰郷して、彼のカリスマ的な迫力に多くの人々が集まって、彼の死と共にその火は小さくなったということか。
・タクシーに乗って、大川周明の生家近くまで行く。西荒瀬小学校が目印。顕彰碑のようなものがあるらしいが、見つからない。田んぼが広がるただ中、鳥海山が美しく見える所だ。

・酒田駅12:10発の普通列車に乗って鶴岡へ。駅前の土産物店でだだちゃ豆の混ぜご飯弁当を買って昼食を済ます。田んぼの中を走るローカル列車、車窓の風景をぼんやりと眺める。鶴岡までは30分ほど。
・鶴岡も酒田と同様、市街中心部とJRの駅とは離れている。観光案内所で道を尋ねたら、歩いてもそれほど時間はかからない様子なので、観光マップをもらって歩き始める。途中、高山樗牛生誕地という立て札を見つけた。目的地の致道博物館まで30分もかからなかった。
・鶴岡城のすぐ前、致道博物館。お隣には酒井という表札のかかった豪邸があったが、旧藩主家か。
・旧藩主の隠居屋敷や明治に入って高橋兼吉によって立てられた洋風建築、農家などを利用して歴史・民俗などの幅広い展示。充実している。
・高橋兼吉は鶴岡の大工の棟梁。横浜で修行した際に洋風建築を学んだらしい。他にも寺社建築も手がけており、ジャンルは幅広い。伝統技術のしっかりした蓄積があれば、外来の技術もその勘所をたちどころにつかんで接ぎ木できる。そうした高橋のような技術者が日本各地にいたことが、文明開化の成功の一つの要因だったように思える。司馬遼太郎の何という小説だったか、確か宇和島の鍛冶職人が見本を見ながら試行錯誤して蒸気機関?を作り上げた話があったように記憶している。読んだのはかなり以前なのでタイトル等を思い出せない。
・酒田の沖合い、飛島の洞窟遺跡の再現模型が目を引いた。子どもを含めた男女の遺骨が発掘されている。埋葬されたのか、特殊な死因があるのか、分からないという。地元では“テキの洞窟”と呼び習わされている所らしい。何やら陰惨なエピソードを想像させる。
・鶴岡城内の大宝館。鶴岡ゆかりの人々にまつわる展示。高山樗牛の生家の一部が中に移築されている。裏手に藤沢周平文学館があるが、現在は改装のため休館中。なお、鶴岡市内ではあちこちに藤沢周平文学碑がある。

・大宝館の受付の人に尋ねて「石原莞爾生誕之地」という碑文を見に行く。護国神社の境内にある。生まれたのは鶴岡市内だが、ここではない。陸軍の軍人だから護国神社が選ばれたのだろう。
・石碑を写真に収めていたらズドドーンというすさまじい音が響いてきた。公園広場へ行くと人だかり、火縄銃の斉射をしている。今日は大名行列のイベント開催ということで、観客だけでなく、古式ゆかしい衣装を身にまとったエキストラが公園近辺にあふれかえっている。
・今日は8月15日。護国神社に“英霊”への参拝を呼びかける幟がはためているものの、人影はない。護国神社は、いわば靖国神社の支店である。靖国神社は戦死者を神として祀る場所であるが、もとをたどれば戊辰戦争で戦死した官軍兵士を祀ったのが起源である。ところで、庄内藩は会津藩と同様に朝敵とされていた。だから、参拝者が少ないのか。
・余談だが、台湾にあった護国神社は、現在、忠烈祠として国民党軍兵士を祀っている。戦前の日本軍部と蒋介石時代の国民党軍事政権との性格的な共通性を連想させる。
・お城近くの鶴岡カトリック教会。天主堂と大書された門構えが和風なのが面白い。ここは明治時代からあるはずだ。庄内中学在学中の大川周明がここへフランス語を習いに来ていた。

・鶴岡駅へ戻り、バスターミナルへ。ターミナルビル内の書店で星亮一『奥羽越列藩同盟──東日本政府樹立の夢』(中公新書)を買い、仙台行き高速バスの車中で読み始める。本書は、奥羽越列藩同盟を守旧的な佐幕派ではなく、政権を独占しようとする薩長に対し、統一後日本におけるもう一つ別の政権構想を示した異議申し立てと捉えなおす。会津藩への苛酷な処分は公正さを欠く、それでは統一後日本の和を保てないという問題意識。公義所に各藩の代表者が詰める→一種の連邦制とすら思える。仙台藩の玉虫左太夫は咸臨丸で渡米経験があり、彼は議会制民主主義のことを知っていた。ただし、列藩同盟相互の連絡体制の不備、政治的駆け引きのまずさから綻びが出て敗退。仙台藩の玉虫、米沢藩の雲井龍雄らは人身御供のように処刑されてしまう。武士だけが戦って農民たちから遊離していた藩がある一方で、庄内藩は農民兵・町民兵も組織、酒田の豪商・本間家は莫大な資金援助により最新鋭の武器を購入、上下一体の組織体制を整えたことが強さを発揮したというのが興味深い。
・庄内から東北を横断する形で仙台へ。出羽三山をはじめ山並みがはるかにつづき、高速道路はいくつかの盆地のへりを通る。夕暮れ時、夕霞というのか、盆地にうっすらとかかる靄にあかね色の光が染まっている光景が、胸がホッとするような美しさ。
・夜19:00頃に仙台着。宿泊先に荷物を下ろしてから、繁華街の国分町をふらつき、適当な店に入って牛タン定食で夕飯。

(続く)

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8月某日 庄内(1)(石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』)

(承前)
◇第三日
【キーワード】石原莞爾、阿部次郎、清河八郎、土門拳、西郷隆盛、藤沢周平、森敦『月山』

・酒田駅前でレンタカーを借り、庄内平野を一巡する予定。朝8:00出発。
・庄内平野の北の端、飽海郡遊佐町。道を尋ねながら石原莞爾の墓所へ。新しく開通したと思しきバイパス国道脇から小高い丘への坂道を上がったところにある。木立の中にひらけた広場。
・晩年の石原は、東亜連盟の有志と共にこの近辺で東亜連盟推奨の農法によって開拓を行なっていた。墓所もかつて開拓地だったところにある。大きな土饅頭、「永久平和」と刻んだ石原の顕彰碑、同志の墓碑などがある。番小屋のようなプレハブの建物があり、中に入ると、東亜連盟関係者によるパンフレット類が置かれている。ただし、誰もいない。振替用紙が置いてあり、持って行ったら後で振り込んでくださいという形式。野菜の無人販売を思い起こす。何冊か購入する。むかし石原が使っていたという椅子が置いてあり、それに腰掛けて芳名帳に記入。
・石原たちが開拓を行なっていた頃は何もない山里だったのだろう。現在、山を大きな国道バイパスが貫通して、行きかう車が排気ガスを出し、音を立てて通り過ぎていく。西の方、道路の反対側の先は浜辺で、現在は海水浴場となっている。大音声でがなり立てる有線放送の音楽がここまで聞こえてくる。それらの騒音が松林の中で静かに鳴く虫の声と混ざり合って、ちょっと不思議な感慨にひたる。
・庄内で放浪生活をしていた森敦の文章に、遊佐には朝鮮人が多い、という一節があった。石原の東亜連盟は各民族の政治的独立という主張も掲げていたので、朝鮮人の信奉者も多かったらしいので(→こちらを参照)、この近辺で一緒に開拓をしていたのだろうか。

・酒田市松山へ行く。ここは庄内藩の支藩・松山藩の中心で、かつて城があったところには新しくてきれいな松山文化伝承館が建っている。大手門も残されている。
・近くに阿部次郎記念館。生家が記念館として保存されている。阿部家は学者一家だったようだ。一番有名なのは哲学者で漱石門下の次郎。彼にまつわる展示も多数あるが、弟である生物学者の襄(のぼる)の方が地元酒田に根を張って活動していたので慕われていたらしい。
・阿部次郎といえば『三太郎の日記』。旧制高校的教養主義の代表選手。ただし、理想を語ったり、難解な用語を弄んだりするのは、所詮、エリートとしての鼻持ちならない自意識過剰な特権意識に過ぎず、ああいうスノビズムはまるっきり無意味だと思っているので、私は読む気すらおこらない。
・阿部次郎は写真嫌いで有名だったらしいが、同郷の土門拳にだけは快く撮影してもらったという。
・松山文化伝承館。松山藩の歴史の展示。戊辰戦争のとき、松山藩は本藩の庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に参加。家老の松森胤保は、官軍側にいた知己との交友もあって巧みに敗戦処理をしたらしい。松森は学者としての功績も高いそうだ。歴史の大事件の中でも、地域ごとに色々とエピソードがあるのは面白い。
・藤沢周平の小説を読んでいると、お家騒動に支藩の存在が絡む話があるが、庄内藩にとってのこの松山藩の存在がモデルになっているのか。

・庄内町歴史民俗資料館。明治時代、鶴岡の大工棟梁・高橋兼吉によって建てられた群役所を資料館として活用。館内の時間が堆積した古びた風情、こぢんまりとしてはいるが手作り感のある展示、こういう郷土博物館は中にいるだけで気持ちがホッとする。すぐ隣に北楯神社。治水に功績のあった最上家の家臣・北楯利長を祀っている。

・同じ庄内町の、清河八郎記念館。清河八郎を祀った清河神社の境内。初代館長は藤沢周平の小学校での恩師だった人で、宮司も兼務していたという。清河の生涯を紹介する展示のほか、神社に奉納された山岡鉄舟の書「漸近自然」、高橋泥舟の書「仙世界」、頭山満の書「尊皇攘夷」などもあった。
・受付にいたおばさんが色々と説明してくれた。清河の生家である斎藤家は素封家だが、農地解放で土地を失い、一族はみな東京へ行ってしまって、ここ清河の地に縁者はいないという。清河の妹の孫にあたる斎藤清明という人が東京帝国大学で大川周明の同級生だったが、若くして病死。この人は自分で清河八郎の評伝を書くつもりで史料を集めていたが、志はかなわず、その史料を預かった大川が清河の評伝を書き上げた。大川は巣鴨プリズンを出獄後、帰郷のたびに正装して清河神社に参拝していたという。
・なお、藤沢周平も、恩師の集めた史料をもとに清河を主人公とした歴史小説『回天の門』(文春文庫)を書き上げている。
・また、斎藤清明の妹(つまり、清河の妹の孫娘)は柴田錬三郎の夫人。年上の姉さん女房、神田で古本屋を経営し、まだ学生だった柴錬と結婚、彼を作家として育て上げた。自由奔放な女傑タイプで、雰囲気として岡本かの子に似ていたという。気性の激しさはやはり清河八郎の血筋なんでしょうかね、と記念館のおばさんは語ってくれた。

・酒田市内方面に戻る。青々と田んぼが広がる中をかっ飛ばすのは気持ちがいい。風力発電用の大きな風車が壮観。庄内は風の強い地域らしい。
・土門拳記念酒田市立写真資料館。土門拳は5歳で東京に行ってしまったが、もともとは酒田の出身。市内には土門拳生誕地を示す立て札もある。庄内では土門姓の表札をよく見かけた。こちらでは珍しくない苗字のようだ。土門拳は酒田市名誉市民第一号。
・彼を記念した写真美術館で、建物はモダンできれい。今年は土門拳生誕百周年ということで、彼と仲の良かった華道の勅使河原蒼風、グラフィックデザイナーの亀倉雄策との三人展を開催中。勅使河原は前衛的な生け花。亀倉は東京オリンピックのポスターデザインで有名か。土門拳の子供好きは有名で、彼については東京下町の子供たち、筑豊の子供たちを中心とした展示。
・帰りの新幹線で、土門拳『腕白小僧がいた』(小学館文庫)を眺めた。『筑豊のこどもたち』『るみえちゃんはお父さんが死んだ』をはじめ、子供たちを撮った写真に土門のエッセイを合わせて編集された本。筑豊の炭鉱、過酷な労働環境、閉山による失業、貧しさ、こういった問題を写真で伝えようという思いが確固としてある。でも、そういった社会派的動機ばかりではない。楽しければ笑顔、つらければ憂い顔、そういった感情の動きが素直に出てくる子供たちの表情、感情そのものを写真の中に写し取っていく。例えば、るみえちゃんの憂いを帯びた眼差し、けなげに美しい、美しいからこそ切なく、胸を打つ。悲惨なたたずまいに美しさを感じるのは不謹慎かもしれないが、しかし、メッセージ的な意味を構築された写真よりも、哀しいならその哀しみそのもの、感情の動きそのものが放つオーラの方がはるかに見る者の心を捉える。

・土門拳写真資料館のある飯森山公園に南洲神社もある。西郷隆盛を祀った神社。
・庄内藩は奥羽越列藩同盟の中核戦力の一つとして活躍したので、戊辰戦争では朝敵とされてしまう。しかし、官軍側の最高指揮官としてやって来た西郷隆盛は、庄内藩側の面子を立てる寛大な対応をしたため、その人柄が庄内藩士から慕われた(長岡では、官軍の岩村某が高飛車な態度を取ったため、河井継之助が徹底抗戦へ追い込まれたのとは対照的である)。
・幕末維新期に庄内藩の舵取りを担い、明治に入ってからも殖産興業に尽力した菅実秀は、若い藩士を連れて、征韓論で下野して鹿児島に戻っていた西郷を訪問。この際、若い庄内藩士2名が私学校に留学、西南戦争にも従軍して戦死。
・その後、菅を中心に西郷の言行録をまとめたのが『西郷南洲遺訓集』である。薩摩人ではなく、戊辰戦争で敗者となった庄内人が作ったという次第。神社で無料で配布されている。

・鶴岡市街地の脇を通り過ぎて、湯田川温泉へ。藤沢周平が師範学校を出て初めて教鞭を取った小学校がここの湯田川小学校である。
・たみや旅館へ行く。大川周明がここへよく来たらしく、彼からの書簡がこちらにあると何かで読んだ。声をかけ、出てきたおやじさんに尋ねたが、返答はぶっきらぼう。湯治だけも可能なようなので、500円払ってひと汗ながす。
・さらに車を走らせて、藤沢周平生誕地へ。細い田舎道に入る。家はもちろん残っておらず、更地になっているが、そこに生誕地を示す大きな石碑が建てられていた。
・ふと思ったのだが、これが近代以前の時代だったら、藤沢神社でも建てられていたかもしれない。ある人物や出来事に、人々が何かかけがえのないものを感じ、その記憶を土地と結び付けて後世まで語り継ごうとした時に社が建てられているのかな、そんな印象を私は抱いている。
・すぐ近くを高架のバイパス国道が走っている。少し離れた山の斜面が崩れて赤茶けた土肌が露呈している。藤沢の自伝的エッセイで、生家跡を訪れた折にこの露呈した土肌を見かけたことが記されていたように記憶している。今ではちらほら木が生え始めている。
・私には全く縁もゆかりもない土地。しかし、自分には関係のない土地でも、そこなりに生活が息づいているという当たり前のことを見て歩きたいという気持ちがある。極論すればどこでもいいのだが、何か目的地を設定しないと、出かける口実にならない。つまり、私にとって藤沢周平の生家が目的なのではなく、それを口実として、普段なら通りかかる必然性のない場所へ行く。それだけのこと。目的地が目的なのではなく、歩きながらぼんやりとあたりを見回すこと自体が楽しい。

・月山の入口とでも言おうか、注連寺。出羽三山はかつて女人禁制だったが、この注連寺まではOK、それで女性はここから出羽三山を拝み、男性はここから出発する、そうした拠点としての役割を果たしたお寺らしい。廃仏毀釈で出羽三山が神社となり、ここは廃れた。
・森敦の小説『月山』の舞台はここ注連寺。昭和の初期、ここは破れ寺で堂守じいさんが一人いるだけ、そこへ放浪生活をしていた森が転がり込むという話。冬は雪に閉ざされるが、そうした中でも近隣の人々も集い、泥臭く不可思議な猥雑さを醸しだす。境内に森敦の記念碑がある。
・本堂参観の終了時間は17時だが、16時50分頃に私は飛び込み、「まだ大丈夫ですか?」と声をかけた。おばさんが出てきて、「ええ、大丈夫ですけど、お一人ですか? ここは初めてですよね。…しょうがない、説明するか」とブツブツ。解説はきちんとまとまっているけれど、いかにも面倒くさそうな態度。そんなに面倒ならもういいよ、と思ったが、黙って聞く。相槌もうたない。
・本堂内には鉄門海上人の即身仏が安置されている。森敦『月山』に、お寺の名物がなくなったから、じさまが行倒れ人の死体から内臓を取り出し、座禅を組ませた格好で燻製にしてミイラを作ったという話を聞くシーンがある。本当かウソかは分からないが、その気色悪さがやたら印象に残っている。森敦がこんなこと書いてましたよね、とおばさんに話をふろうかとも思ったが、面倒くさいからやめた。
・昨晩読んだばかりの『月山』の小説世界に、いま自分が立っているというのが不思議な気分だが、あまり実感がない。道路が整備されているから、いつでも誰でもここには来られる。すぐ近くには高速道路も走っている。距離的には確かに山奥ではあるが、普通にアクセス可能→観光地として平板化、ベンヤミン的にアウラなんて表現を使うのが適切かどうか分からないが、雪に閉ざされ、余所者を寄せ付けないからこそ醸し出された猥雑な雰囲気は、もはや再現不可能なのだろう。

・湯野浜温泉を経由して、日本海を見ながら酒田市内へと戻る。途中、メロンの直売所をあちこちで見かけた。
・酒田駅前にたどり着いたのが夕方19:00頃。古い町はどこもそうだが、鉄道の路線は後から敷設されたわけだから、市の中心部とJRの駅とは離れているケースが多い。明日の偵察を兼ねて、市街地へと歩く。灯篭祭りをやっていた。お盆だから、帰省した家族も迎えてにぎやかにやろうという気持ちもあるのか。酒田の中心街をブラブラ歩いて一周しても二時間かからない程度。これなら自転車で十分回れる。
・酒田駅前のホテルに泊まっているので駅前に戻ったが、夕食をとろうにも目ぼしいお店は全部閉まっている。今日は一日中車で走りづめで、食事もコンビニで買ったおにぎり1個のみ。何とか名物に近いものをとこだわって、だだちゃ豆のご当地おにぎり。駅前にはコンビニすらないので困ったが、幸い食堂的なラーメン屋が一軒やっていたので飛び込む。店内のテレビでは「火垂るの墓」が映っていた。メシ食いながら観る映画じゃないよなあ…。

(続く)

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2009年8月18日 (火)

8月某日 佐渡(2)(郷土博物館、土田杏村、北一輝、本間雅晴)

(承前)

◇第二日
【キーワード】郷土博物館、土田杏村、北一輝、本間雅晴

・両津港のレンタカー案内所に行って予約していた車を借り出し、ドライブ開始。
・海沿いの道路を北上。海と山とが迫っており、ところどころ小さな漁村がへばりついている。走りやすい道路で、車の通行量も少なく、ついスピードを出してしまう。朝から曇り空だったが、佐渡島北端を回るあたりでたたきつけるように強い雨風に変わった。岩肌がゴツゴツと険しく、波も高く、これぞ日本海!と妙にワクワクしてしまった。グルッと西海岸に回り込み、相川に着いた。ここまで、ほぼ2時間。
・昨日、バスで通った佐渡金山方面へ進路を変え、大佐渡スカイラインに入る。濃霧が立ち込めて視界不良、3~4メートル先は全く見えない。スピードを落とし、ライトを点灯。
・やがて防衛省管轄のエリアに入った。重量車両の通過も可能にするためか、道路の舗装はがっしりとしている。比較的新しい感じだ。自衛隊のレーダーがあると聞いた。北朝鮮のミサイルを想定した防空システムの一環であろう。
・国仲平野の中ほどに降りた。平野部に来ると、曇天だが小雨がパラつく程度。

・順徳上皇ゆかりの黒木御所へ行く。佐渡を訪れた俳人・歌人の文学碑がたくさんあった。すぐ近くに金井歴史民俗資料館という看板のぼろい建物があったが、やっていない。休館というのではなく、そもそも人の手が入らなくなって久しいという感じの廃れ具合。
・日蓮ゆかりの妙照寺。
・お昼時。昨日、タクシーの運転手さんから、「佐渡では回転寿司に行ってみなさい。安くておいしいよ」と言われ、教えてもらったお店が近くなので行った。行列。地元でも評判の店らしい。一時間ほど待たされたが、満足。
・順徳上皇の王子・姫の墓所をまわる。いずれも田んぼの真ん中にひっそりとたたずんでいた。大佐渡山脈を望むと、山の頂には雲がたなびいている。あそこから降りてきたわけだ。屏風のように連なる山並みを背景に田んぼの広がる風景は、とても島とは思えない。
・阿仏坊妙宣寺。日得上人の開基。日得は、流されてきた順徳上皇に仕える北面の武士だったらしいが、後に日蓮に帰依。五重塔が目玉。現在の場所はもともと本間氏の居城の雑多城(そうたじょう)だったが、佐渡が上杉景勝の軍勢に占領された際、阿仏坊をここへ移転させたという。直江兼続が奉納したという槍の穂先がドラマ「天地人」に合わせて公開されていた。正中の変で流された日野資朝の墓もある。資朝は本間氏によって誅殺されたらしい。
・日蓮ゆかりの根本寺もまわる。

・新穂歴史民俗資料館。民俗資料のほか、織物や人形(文弥人形、説経人形、のろま人形)の展示が目を引く。都から流されてきた文化人が多かったせいか、佐渡は他所に比べて人形劇や能などの芸能が著しく盛んだった。
・土田麦僊・杏村の兄弟はここ新穂の出身。ある事情があって、土田杏村についても調べようと考えていたのだが、未着手。戦前、文化主義の思想家として知られていたが、40代で病死している。農村での自治的な民衆教育機関として組織された信濃自由大学に関わっていたので、てっきり信州の人だとばかり思い込んでいたのだが、佐渡の出身だと知ったのはつい最近のこと。彼の晩年の著作『現代世相論』の生原稿が展示されている。館の職員の方にことわった上でデジカメに収めた。
・近くの新穂小学校に土田麦僊・杏村兄弟を記念したレリーフがある。

・両津郷土博物館。ここは大きくてきれいな建物だ。民俗資料、考古資料、自然史と一通りそろっているが、とりわけ漁撈関係の展示が充実している。佐渡島の位置からして当然に漁業が中心だし、海洋交易の一つの拠点であったろうことも想像に難くない。
・歴史展示の終わりの方には、北一輝と本間雅晴にまつわる展示。北一輝の色々な意味で有名な『霊告日記』。北が見た夢を二二六事件の時まで毎日スズ夫人が書き留めたもので、『霊告日記』という呼び方は松本健一氏による。清書された原本が展示されており、開かれたページは、順徳上皇によるお告げのくだり。
・本間雅晴の「愛国心」と大書された掛け軸。佐渡には本間姓が多いが、彼もそうした一族の出身か。文学的素養の深い軍人として知られたが、戦後、B級戦犯として処刑された。旧制中学出身で陸軍士官学校に進んだ一期生である。角田房子『いっさい夢にござ候』(中公文庫)を参照のこと。

・両津港でレンタカーを返し、ジェットフォイルに乗船して新潟へ戻る。特急いなほ号で酒田へ。海側の窓際に座れたが、もう夜なので車窓の風景を眺められなかったのが心残り。駅の売店で買った新潟の地ビールを飲み、お米でつくられた新潟チップスをかじりながら、庄内平野での行動プランを練り、それから森敦『月山・鳥海山』(文春文庫)を読む。

(続く)

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8月某日 佐渡(1)(佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝)

◇第一日
【キーワード】佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝

・23:30新宿駅前発の夜行高速バス→5:30新潟駅前着。夜行バスはやはり疲れる。満席、乗客のほとんどは20代、ひょっとしたら10代かとも思われる若さ。30代の私が最高齢だったろう。
・早朝で路線バスが出ていないので、両津港行きの高速船が出る新潟港まで歩く。
・7:00新潟港発の高速船ジェットフォイルに乗船(早朝往復割引で購入)→8:00両津港着。ジェットフォイルというのはどのような構造なのか知らないが、船内アナウンスによると、水中翼だけ海中であとの船体は海面上に浮揚して時速80キロ前後で高速航行。以前、浮上してきたクジラと衝突して怪我人が出た事故があった、クジラの浮上は予測できないのでシートベルトを着用してください、とのこと。

・まず、佐渡金山に行くことにして、両津港からバスに乗車。路線バス一日乗車券(1,500円)を購入。佐渡島は北の大佐渡山脈、南の小佐渡山脈に挟まれる形で東西に国仲平野が広がっていて、そこを約1時間かけて横切る。観光客ばかりでなく、お彼岸なので、お花を抱え、お供え物を包んだ風呂敷を手にした人々がところどころで降りていった。佐渡島西岸北寄りの相川で下車。佐渡金山へはここで乗り換えだが、次のバスが来るまで2時間近くあるので、相川近辺を散策。
・相川は海沿いの小さな港町。かつては佐渡金山から海へ出る玄関口として江戸時代には佐渡奉行所が置かれた。佐渡島はもともと金銀など鉱産物が産出することで知られていたが、大金脈としてのいわゆる佐渡金山が発見されたのは1601年、江戸時代に入ってからのこと。佐渡は全島天領で、佐渡奉行所は金山だけでなく島の行政も管轄。歴代の奉行は頻々と交代して300人以上を数え(奉行が島の経済力を握って実力を持ってしまうのを防ぐためだろうか)、赴任した人の中には大久保長安、荻原重秀、川路聖謨といった名前も見える。相川の街並みも賑わって一時期は人口5万人にも達したという。その面影は現在ではほとんどうかがえない。
・佐渡奉行所は海を臨む高台にある。商店街を抜けて、急な階段坂道を上る。途中、江戸時代の刑場跡を通りかかる。近くに、戦前に建てられたと思しきモダンな木造建築あり。
・佐渡奉行所は遺構の上に当時の建物を再現。小判製造等の作業は奉行所で行なわれていたそうで、その関連で金の精錬から鋳造までの過程に関する展示室が敷地内にある。解説員による精錬作業の実演も行なわれていたが、見ていくには時間が足りなかったので、次の目的地である相川郷土博物館の場所だけ尋ねて移動。

・明治維新後、佐渡金山は明治新政府直営となったが、その後、三菱に払い下げられた。その管理施設だった建物が相川郷土博物館となっている。鉱山関係の資料や郷土の民具等を展示。相川には金山労働者向けの遊郭があったそうで、そこで働く女性たちに関する展示が目を引いた。心中にまつわる話が色々と伝わっているらしい。
・各地にある郷土博物館の、手作り感のある展示、何よりも、ほこりっぽくすえた匂いの漂う空気が何とも言えずかぐわしくて好き。展示資料の詳細は分からなくても、ぼんやりと眺め、匂いをかいで、この雰囲気に浸り込むこと自体が旅の醍醐味の一つだと思っている。
・相川郷土博物館は隣の有田八郎記念館と接続している。有田の生地は佐渡南部の真野らしいが、佐渡出身の名士という位置付け。有田八郎は外交官、戦前に平沼騏一郎・米内光政内閣で外務大臣を務め、戦後は革新陣営から東京都知事選挙に立候補したこともある。三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルにされて訴訟を起こしたことでも知られている。
・博物館前の崖際には浮遊選鉱場の廃墟がそびえている。見上げると壮観だ。ふもとにやはり管理施設だった建物があり、その中で明治期の金山の様子が撮影された写真の展示。

・相川のバス停に戻り、バスに乗って佐渡金山へ。
・佐渡金山は宗太夫坑と道遊坑の二つを見学できる。坑道にはその掘削の指揮を取る山師の名前がつけられている。坑道の内部はひんやり、平均気温は13度くらいで一定、酒作りに最適とのことで、酒の貯蔵庫もあった。
・宗太夫坑は江戸時代の坑道で所要30分ほど。中では蝋人形で金山掘り作業を再現。縦横様々な方向に掘り進めているので排水の工夫が重要で、水上輪というアルキメデスの原理を応用した揚水方法が目を引いた。
・道遊坑は明治以降にも掘り進められており所要40分ほど。道遊坑には運搬用トロッコの線路が引かれ、坑道の外にはディーゼル機関なども置かれている。近代以前と以後、両方の鉱山技術を比較できる。
・昔から鉱山技術は佐渡島の普段の生活技術にも応用されていたこと、労働者が全国各地から集まってきたので、たとえば江戸の新しいファッションなども入ってきていたというのも興味深い。
・囚人の他に無宿人(各自の事情で住所不定というだけで、罪は犯していない)も江戸から送られてきて、過酷な労働環境で亡くなった無宿人の慰霊碑もある。
・外に出ると、道遊の割戸というのが景観上の目印になっている。その手前には、明治新政府の初代の佐渡鉱山局長となった大島高任にちなむ高任神社というのがあった。彼は岩倉使節団のメンバーとしてヨーロッパで鉱山を視察、帰国後は鉱山学者として著名になった人物らしい。
・神社があって、木々の生い茂った山から海の眺望が広がるというロケーション、今年の5月に訪れた台湾の金瓜山の風景を思い浮かべた(→こちら)。相川の遊郭が残っていれば、それが九分に相当するという感じだ。
・見学後、次のバスが来るまで時間がある。バスの本数が少なくて接続が悪い。佐渡金山の受付窓口の人からタクシー会社の電話番号を教えてもらって呼び出した。待っている間、売店で売っていた金箔がけソフトクリームをなめる。タクシーで次の目的地の佐渡歴史伝説館に移動。運転手さんが佐渡の地勢や名物について色々と話してくれた。

・相川から再びバス通りに沿って南下。途中、真野のあたり住宅が建ち並ぶ一画を通過した際、運転手さんが一軒の家を指して、「あれが、曽我ひとみさんのお宅ですよ」と教えてくれた。さらに進むと一軒のお店があり、「あそこに雑貨店があるでしょう、あそこで買い物した帰りに拉致されたんですよ。このあたりは全然寂しくないでしょ、人もたくさん住んでいる地域なんですけどねえ」。この道路と並行してすぐ裏手に浜辺がある。そこから曽我さんは北朝鮮へ連れ去られた。まだ帰国できていないお母さんの救出を呼びかけるポスターが何枚かあたりに貼ってあった。
・「順徳上皇関連の遺跡も回るつもりで、歴史伝説館から歩いていく」と話したら、運転手さんは「あそこまで遠いよ。…しょうがない、かわいそうだからついでに連れてってあげるか」とメーターを止めて、順徳上皇が葬られたとされる真野御陵まで往復してくれた(感謝!) 写真だけ撮る。佐渡初日は様子見のつもりでバス・徒歩中心に旅程を組み立てていたが、実際に動き始めると地図で見た印象とは異なってかなり広い島だ。「歩きじゃ無理ですよ」とタクシーの運転手さんから言われた。そういえば、佐渡奉行所で受付のおばさんに相川郷土博物館の場所を尋ねたときも「若いとやっぱり体力あるのねえ」と感心されたが、こういうことなのかと今さら納得。
・佐渡歴史伝説館は、電動人形劇で佐渡に伝わる歴史的背景や伝説、具体的には順徳上皇、日蓮、世阿弥など佐渡に流された人々や、鶴の恩返し、安寿と厨子王、佐渡おけさといった昔話を再現。
・タクシーの運転手さんに言われて初めて気付いたのだが、佐渡歴史伝説館の“名物”は土産物コーナーでおせんべいを売っているチャールズ・ジェンキンスさん。曽我ひとみさんのご主人である。そういえば、佐渡のどこかで売り子のアルバイトをしていると聞いた覚えはあったが、ここだったのか。居合わせたおばさんグループと店員さんのやり取り、「ジェンキンスさんはいないんですか?」「いま、休憩で食事に出てるんですよ。あと15分くらいで戻ると思いますけど、お急ぎでしたら呼んできますよ」。一緒に記念撮影OKらしい。売り場には、旅情報番組のタレントと一緒に写った写真が何枚か張り出され、その中に横田さん夫妻や飯塚繁雄さんと一緒の写真も混じっていた。私は待たずに立ち去った。見世物パンダにしてしまうようで、何だか気がとがめるようなわだかまりが胸中にわきおこってきたから。

・佐渡歴史伝説館を出て歩く。近くに、山本悌二郎の顕彰碑があった。有田八郎の実兄、政友会の代議士で、田中義一・犬養毅内閣で農林大臣を務めた。二人ともこの真野の生まれらしい。大通り沿いに山本家の実家の跡もあり、その近くには幕末期の蘭学者・医学者として知られる司馬凌海の生家を示す碑もあった。司馬凌海は司馬遼太郎『胡蝶の夢』に登場する。先ほど通りかかった曽我さん宅の前を通って、佐渡博物館へ。歩いて30分以上はかかった。
・佐渡博物館。佐渡島に関する自然史、考古学、歴史の展示がある。佐渡ゆかりの人々の一覧表があって、松尾芭蕉をはじめ色々な文学者が渡って来ているのを知る。戦国時代までは佐渡島内部でも色々な勢力が競い合っていたらしく、あちこちで城郭跡も発掘されている。有力なのは本間氏だが、もとの来歴は相模国だという。佐渡全体が統一されるのは、豊臣秀吉の命令を受けて上杉景勝が直江兼続らの軍勢を派遣してからのこと。関が原の戦いの後は徳川家の天領となる。金銀鉱山に関する展示の資料を購入。常設展示として土田麦僊の素描画が集められているはずなのだが、この日は陶磁器の特別展をやっていて、見られず。受付の人に両津港行きバスの時間を教えてもらって、時間に合わせて館を出た。

・来た時とは違ったルートをたどるバスに乗った。車窓の風景を眺めるのも旅の目的の一つなのだが、深夜バスではあまり眠れず、炎天下でかなり歩いたので、必然的にウトウト。
・あらかじめ北一輝関連の場所をマッピングしておいたので、両津港の近くまでさしかかったところで下車。両津市湊の商店街、生家がまだ残っているが、所有者はもう関係ないらしい。並ぶお店はほとんどやっていない。お盆だからというのではなく、もう閉店してしばらく経つ感じである。ただ、人の気配はするので、商店街風の住宅街という印象。
・歩いて3分ほどの若宮八幡神社の境内に、北一輝・昤吉兄弟の顕彰碑。銘文は安岡正篤による。安岡と北一輝がそんなに親しかったとも思えないが、国家主義運動つながりで戦後の生き残りは安岡くらいだからか。神社の隣には北兄弟も通っていた両津小学校がある。
・北家の菩提寺だった勝広寺も歩いてすぐの所にあるので訪れた。境内で作業をしていた若い男性に北一輝の墓の場所を尋ねたら、1キロくらい離れたところに墓地があって、ちょっと分かりづらいかもしれない、とのこと。「車でいらっしゃったんですか?」「いえ、歩いて行くつもりです。」「じゃあ、車で連れて行ってあげますよ」とおっしゃってくださった。申し訳ないので固辞したのだが、すぐ車を動かしてきてくれたので、お言葉に甘えることにした。
・住職の息子さんだという。車中で色々とお話をしてくださった。北一輝は法華経を熱心に唱えていたから日蓮宗という印象を持たれやすいが、こちらのお寺は浄土真宗である。一輝の母親のリクという人が信仰熱心で寺によく来ていたこと、昭和初期に本堂を建て替えた時に屋根瓦の半分以上は一輝が寄進してくれたこと、自分は会ったことはないけれど松本健一さんがよく訪ねていらっしゃったと先代から聞いている、といったことをうかがった。「ただ、北一輝で町おこしをしようにも、観光で来る皆さんは知らないんですよねえ」
・緑鮮やかな田んぼが一面に広がる中を道は進み、やがて勝広寺の墓苑が見えてきた。この中に北一輝の墓もある。確か、東京から分骨されているはずだ。お寺の若主人によると「当時の住職が頼まれてお骨を東京まで取りに行ったんですよ」。佐渡に北家の縁戚はいるが、墓参に来る身内はもういないらしい。
・すでに夕刻、空から降り注ぐ陽光は薄紫色になっている。山並みと田んぼの青々とした緑と混ざって、あたりは淡い哀愁を帯びた色に染まっている。「良いところでしょう。人里 離れて淋しそうに感じる人もいるかもしれませんが、ここで草むしりとかしてますとね、気持ちが落ち着くんですよね」と若主人。帰りの車中で「北一輝さんは、ひょっとしたらこの狭いところから飛び出したかったのかもしれないな、そんな感じもします」としみじみつぶやいておられたのも印象に残った。

・途中で車から降ろしていただき、両津の街を歩く。立ち止まって地図を見ていたら、近所の人が「どちらまでいらっしゃるんですか?」と尋ねてくれる。タクシーの運転手さんにしても、勝広寺の若主人にしても、人情の濃やかな島だとつくづく感じ入る。
・どこで夕食をとろうかと物色しながら歩いていたら、いつの間にか両津港の船着きターミナルに出た。タクシーの運転手さんから、島の中心は西岸の方で、両津にはあまりお店はないと聞いていた。ターミナルの上の食堂に行って、イカと長藻の丼もの、それから地ビールを注文。
・宿泊先に連絡して送迎車を出してもらい、チェックインは19時過ぎ。ターミナルの土産物屋で買ったワンカップの地酒二銘柄を部屋で飲み比べる。テレビをつけたら「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」をやっていて、つい見てしまった。私は麻生久美子ファン。それから、藤沢周平『三谷清左右衛門残日録』(文春文庫)をめくり、いつしか眠り込んでいた。清酒呑んで藤沢周平というのもジジくさいな(笑)

(続く)

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2009年8月11日 (火)

…というわけで、藤沢周平

 お盆休みを利用して佐渡島・庄内平野へ出かける予定。どこでもいいから青春18切符を使って安上がり旅行でもしようというのが当初の思惑だったのだが…。東京発の場合、夜行快速で距離を稼ぐのが基本。ムーンライトながら(大垣行き)は使ったことあるから、ムーンライトえちごにしよう、日本海側には滅多に行く機会ないし、佐渡島でも行ってみようか、などと思いながら指定券をとろうとしたら、出発予定日はすでに満席。へこんだ。

 しかし、気持ちはすっかり佐渡へ行くつもりになっている。よし、夜行バスならどうだ?と調べたら、新潟行きの空席あり。ゲット! しかし、青春18切符旅行ではなくなった。大義名分はどうするか?(ま、そんなもんいらないんだけど)佐渡と言えば北一輝。でも、佐渡だけじゃつまらない。日本海沿岸つながりで庄内平野まで足をのばそう。庄内といえば、大川周明と石原莞爾──。というわけで、“日本右翼ふるさと探訪の旅”(笑)なる企画に落ち着いた次第。

 佐渡関係の人物としては、流人では文覚、順徳上皇、日蓮、京極為兼、日野資朝、世阿弥、佐渡生まれでは北の他に司馬凌海、土田麦僊・杏村兄弟、青野季吉、有田八郎、本間雅晴、林不忘といったあたりがいる。庄内関係では、大川・石原の他に清河八郎、高山樗牛、阿部次郎、小倉金之助、服部卓四郎、土門拳、そして忘れてならないのが藤沢周平。

 周知の通り、藤沢周平作品架空の舞台・海坂(うなさか)藩のモデルは、周平の故郷・庄内藩である。本来なら、庄内→海坂→藤沢周平と連想するのが常識人か。

 実は、私は藤沢作品をそんなに読んでいない。覚えているのは、雲井龍雄を描いた『雲奔る』(文春文庫、1982年)、映画「武士の一分」の原作となった『隠し剣秋風抄』(文春文庫、1984年)くらい。それでも、藤沢作品の筆致のイメージはすぐにわいてくるのが我ながら不思議。中高生くらいの頃、歴史小説が好きだったので何か読んだのかもしれないが、忘れてしまった。別に嫌いというわけじゃない。読み始めたらのめりこむ。ただ、他に読みたい本、読むべき本がありすぎて、プライオリティーが高くなかったというだけ。

 早速、藤沢作品をいくつか手に取った。最も評判が高いのは『蝉しぐれ』(文春文庫、1992年)。藩のお家騒動を背景に、青年・牧文四郎の成長を描く一種のビルドゥングスロマンという感じ。少年期の淡い恋心と大人になってからの陰謀騒動とのからみ、一気呵成に読み進んでしまう面白さ。『回天の門』(文春文庫、1986年)。新撰組の母体ともなった浪士組を組織した清河八郎の生涯。能力はあるが性狷介、とかく評判の悪い清河だが、庄内なんて辺地に逼塞していたくない、大舞台で自分の能力を試したい、そのようにウズウズした熱意を肯定的に描く。そういえば、大川周明も清河の評伝を書いていたはずだ。郷土の先人として清河を慕う気風があるのか。

 『半生の記』(文春文庫、1997年)。生い立ちや身辺雑記をつづったエッセイ集。どもりだった少年期、結核の療養生活、挫折を抱え込んだコンプレックスから他人の視線に敏感にならざるを得なかったことが一つの観察眼を生み出しているのか。それが意地悪にはならず、人の感情をこまやかにすくい取って描き込む方向で作用しているところが、叙情的な時代物という藤沢イメージにつながっているようにも思われる。『周平独言』(中央公論新社、2006年)。これもエッセイ集。庄内の土地柄に絡めて清河八郎、石原莞爾、大川周明という三人の比較論をやっている文章に興味を持った(「三人の予見者」)。カリスマ的な予見者として三人に共通点を見出すほか、庄内藩は徂徠学を藩学としていたが、その中にも恭敬派と放逸派とがあって、清河や石原の率直な物言いには放逸派の伝統が見られること、二人とも敵が多かったことを指摘。少年期に見かけた、普段は怠け者のくせに東亜連盟に入って騒ぎまわっていた爺さんのこと、その一方で、石原が奨めた東亜連盟方式の農法に黙々と取り組む人々のことも記されている。

 そういえば、佐高信(この人も庄内出身)が何かで藤沢周平と司馬遼太郎とを比較してたが、藤沢=庶民の視点→良い、司馬=英雄史観→ダメってな具合(苦笑)。こういう脳ミソ単細胞はほっとくしかないな。

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2009年8月10日 (月)

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言 第二回:特攻 やましき沈黙」

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言 第二回:特攻 やましき沈黙」

・昨日に続き、「海軍反省会」の録音テープに基づく番組。
・「神風特別攻撃隊」は戦地の大西瀧治郎中将の発案→それを軍令部が認可したのであって、計画・命令したのではないという逃げ口上。しかし、実際には、特攻が実施される一年以上前から回天・桜花など特攻用兵器の開発が進められていた。つまり、特攻を作戦の中心に据える方針が予め軍令部にあった。
・わずかでも生還の可能性があるならまだしも、100%死ぬのが確実→もはや作戦の名に値しない。
・「自発的な意志」という名目で強制。写真→「笑ったふりして赴く特攻隊勇士」という説明書き。
・軍令部の幕僚たちの間にも特攻への後ろめたさがあった→しかし、「やましき沈黙」→敢えて異を唱える勇気なし。

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2009年8月 9日 (日)

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:第一回 開戦 海軍あって国家なし」、ETV特集「カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の戦い~」

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言:第一回 開戦 海軍あって国家なし」
・戦後、開戦時に海軍中枢にいた将校を中心に「海軍反省会」が秘かに開かれていた。その録音テープをもとに番組構成。
・軍令部総長・伏見宮博恭(皇族出身)による揺さぶりが海軍の軍拡路線を決定付けてしまったという証言あり。
・海軍内部の官僚的セクショナリズム→予算獲得のため対外的脅威を強調。政治的根回しにかまける一方、開戦後のプランはなかった。政治的に他省庁を動かすことに快感を覚える軍令部幕僚たちの存在。
・なぜ無謀な作戦を進めたのか? 戦地にいた人が軍令部にいた人に対して厳しく迫るシーンあり。態度の違いが鮮明に浮き彫りされる。

ETV特集「カルテだけが遺された~毒ガス被害と向き合った医師の戦い~」
・戦時中、陸軍が毒ガス(→対中国戦線で使用)を製造していた秘密工場のあった広島県大久野島(おおくのしま)。近隣の人々が工員として動員されたが、多くは間接吸引して重い後遺症に悩まされた。戦後、ほとんど独力で毒ガス被害者の患者さんたちを診療し続けた行武正刀(ゆくたけ・まさと)医師の取材記録。行武医師は今年、逝去された。
・ある患者さんが、退職を申し出たが憲兵に殴られて泣く泣く通勤した、と漏らした。これを聞いたのをきっかけに、カルテには病歴だけでなく、折に触れて患者さんたちから聞き取った戦争の証言を記録してきた。
・国からの援護を受けられる人々が少なかった。
・イラン・イラク戦争で毒ガス攻撃を受け、今でも苦しんでいる人々がイランにいる→行武医師はこのカルテを役立てようと協力。

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「台湾人生」

「台湾人生」

 一人暮らしで今でも農園で働くおばあさん、楊足妹さん。おそらく、客家系か。「男だったら特攻隊に志願した」と言い切る威勢のいい陳清香さん。パイワン族出身で、軍人・立法委員として原住民の地位向上に尽力してきたタリグ・プジャスヤンさん。学業を続けられなくなりそうになったとき助けてくれた日本人恩師の思い出を語る宋定國さん。ビルマ戦線を生き残り、台湾に帰還してからは二・二八事件で拷問を受け、白色テロで弟を殺された蕭錦文さん。日本語世代、五人の方々が語る台湾現代史。

 監督の酒井充子さんは1969年生まれ、ツァイ・ミンリャン監督「愛情萬歳」を観て台湾に関心を持ったという。戦後、国府対中共の枠組みが日本国内における保守・革新という政治対立と結び付き、そうしたフィルターを通して台湾を見ていた時代とはもはや無縁な世代である(私自身もそうだが)。

 私も以前、この映画に出演している蕭錦文さんとは違う方だったが、総統府や二・二八紀念館でガイドをしてくださった日本語世代のおじいさんから話をうかがったことがある。異口同音、激越な口調で蒋介石を罵るのを聞いて驚いた。そのことはこちらに書いた(→「台湾に行ってきた④(総統府)」、「台湾に行ってきた⑤(二・二八紀念館)」、「台北探訪記(2) 二二八紀念館再訪」)。民進党への政権交代があって可能となったことである。馬英九政権となり、総統府では蒋介石批判はできなくなったという話も聞くが、どうなのだろう。この映画の撮影時はまだ2007年、陳水扁政権の終盤であった。

 「日本人として戦争に行ったのに、日本政府は私たちを捨てた、せめて感謝の気持ちをどうして表わしてくれないのか」という話が耳に強く残る。観光旅行でたびたび行って台湾への親近感を語る日本人でも、国民党による二・二八事件、白色テロといった歴史を知らない人が意外と多くて驚いたことがある。日本人たるべきことが自明視された植民地時代、国民党という外来政権による暗く疎外された時代、そうした転変する時代環境を経てきたことを考え合わせると、日本語を使い続けること自体に、不遇な時代の中で自分たちが生きていく上での一つのよすがというか、精神的な拠り所を求めようとした懸命な何かが窺われてくる。日本への愛着を語るからといって、それを単純に“親日”という政治的ロジックに括ってしまう気持ちにはなれない。そういうのは日本人側の自己満足に過ぎない。一人一人が語るとき、表情に刻まれる陰影はもっと複雑だ。

 実は上映初日に観ようと思って早めに上映館に行ったところ、すでに長蛇の行列ができていて、しかもその時は一日一回という上映ペース、結局入れず断念した。今回、ようやく観ることができた次第。関心は高いようだ。

【データ】
監督:酒井充子
2008年/81分
(2009年8月8日、ポレポレ東中野にて)

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2009年8月 8日 (土)

渡辺京二『北一輝』

渡辺京二『北一輝』(ちくま学芸文庫、2007年)

 日本の近現代史で最も注目を浴びるトピックの一つは二・二六事件であろう。軍国主義批判の義務感からか、さもなくば革命幻想のロマンティシズムをかきたてられるせいか、秦郁彦が“二・二六産業”と呼んだように玉石混淆おびただしい刊行物が量産されている。しかしながら、このクーデター未遂の理論的支柱とされた北一輝の思想については意外と誤解も多い(そもそも、事件を起こした青年将校たち自身が理解していたかどうか疑問である)。このように関心が高い割りには、北の主著である『国体論及び純正社会主義』にきちんと目を通した人は少ないとも言われる。確かに、正直言って読みづらい。文体が晦渋というだけでなく、北は独学の人であるため、基礎概念から手作りで、そこに誤読の余地があるのかもしれない。裏返せば、彼の思索のオリジナリティーと解することもできる。

 例えば、彼は自らの立場を「社会民主主義」と言う。しかし、現在使われている語感とは明らかに異なる。大雑把に言ってしまうと、社会主義=人々の有機的な共同体としての一体感→国家主義であり、民主主義=各自の個としての自覚に基づく社会→個人主義・自由主義。ただし、個人の共同体への犠牲的奉仕を強いるのは「偏局的社会主義」であり、個人の放恣を許すのは「偏局的個人主義」であるに過ぎず、この両者をアウフヘーベン(という表現を北は使わないが、本書は彼のロジックにヘーゲル的弁証法を見出している)→「社会民主主義」ということになる。現代における福祉的配分政策としての社会民主主義は、北の観点からすればパターナリスティックな専制支配に堕するとして斥けられることになる。北が目指していたのは、国家という共同社会を通して、その構成員たる一人一人が自らの可能性を最大限に追求していくことであった。「彼は精神の可能性をはばまれるのが、いやなのであった。そして、衆人の魂がそこでは高くはばたけると信じたからこそ、彼は社会主義社会を求めた。彼には、類的存在としての人間は、過去のすべての遺産をとりこみながら、より高きへと展開するものというイメージがあった」と本書は指摘する(130ページ)。私の場合、自由と秩序は、両者の折衷ではなくいかに同時的に両立できるのかという政治哲学的テーマを独自に模索した人物として関心がある。

 こうした社会実現のため、彼は明治維新に続く「第二革命」を模索、その際に結集軸となるのが「天皇」である。ただし、ここでも北は独自のロジックを展開する。ヨーロッパでは市民革命→君主権の制限→個人の権利拡大という筋道をたどった。ところで、日本の天皇はヨーロッパの君主とは異なる。京都に逼塞していた天皇を国民の方こそが拾い上げてやって維新のシンボルに仕立て上げたに過ぎず、支配者としての実体はない。つまり、北独自のロジックで天皇機関説をとっている。『国体論及び純正社会主義』で天皇を「土人部落の酋長」呼ばわりしていること、二・二六事件後、処刑されるにあたり、西田税から「天皇陛下万歳と唱えましょうか」と問われたとき「それには及ぶまい」と答えたことはよく知られている。こうしたあたりからも、北自身の思考構造はいわゆる右翼や青年将校たちとは明らかに異なっていたことが分かる。

 「観世音首を回らせば即ち夜叉王」と言うような、ある種の理想主義とマキャヴェリズムとが並存したところ、大川周明が“魔王”と評したごとく常人道徳を超えた確信的な凄味、こうしたパーソナリティーも北という男に不思議と目を引き付けられるところだ。

 北については、右翼は右翼の立場から、左翼は左翼の立場から、それぞれの思惑が先に立ってほめたりけなしたりする。当たり前の人物だったらそれでも簡単に料理できるかもしれない。しかし、北のように理論的にも、パーソナリティーとしても、独特な凄味=オリジナリティーを持った思想家の場合、そういった図式的な理解は全く無効である。本書は、日本独自のコミューン思想をたどるという著者なりの明確な意図を抱きつつ、このように難しい北という人間を出来るだけ内在的に把握しようと努めている点で、数ある北一輝論の中でも第一等に読まれるべき本だと思う。(なお、北一輝研究では松本健一の蓄積ももちろん無視できない。ただし、松本さんのお書きになるものに私は敬意を持ってはいるが、良い勘所を示しても表面をなぞって終わってしまい、どうしてもっと深く掘り下げてくれないのだろう?と隔靴掻痒のもどかしさを感じることがしばしばある。)

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「モノクロームの少女」

「モノクロームの少女」

 廃校となった中学校、人の気配がなくなってほこりにまみれた美術室で見つけた、一枚のモノクロームの写真。写っているのは、ショールをはおって憂いを帯びた眼差しでこちらをみつめる美少女の姿。この人は誰なのだろう? 知っている人がこの村にいるのだろうか? 関係者探しに、少年少女の淡い三角関係も絡まって物語は進む。

 筋立ては陳腐と言ってしまえば陳腐。少年少女役もどこかぎこちない。だけど、この映画の主役は、むしろ農村風景が様々に見せる穏やかな表情だろう。映画の中で美術の先生が言うように、田畑作業のつらさを知らない人間の押し付けがましい感傷に過ぎないのかもしれないけれど、この落ち着いた雰囲気には素朴にいとおしさを感じる。ストーリーの陳腐さも、少年少女のぎこちなさも、すべてこの中に包み込まれる感じで、そこから漂っているほのかなノスタルジーが私は結構嫌いじゃない。

 舞台は新潟県の栃尾(ちらっと油揚げの話題が出るのはこのためか)。中越地震のシーンも物語に織り込まれている。

【データ】
監督・脚本:五藤利弘
出演:寺島咲、入野自由、川村亮介、大杉漣、大桃美代子、モロ師岡、加藤武、他
2009年/99分
(2009年8月7日レイトショー、渋谷シアターTSUTAYAにて)

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2009年8月 7日 (金)

阿部博行『石原莞爾──生涯とその時代』

阿部博行『石原莞爾──生涯とその時代』(上下、法政大学出版局、2005年)

 日本の近代思想史を眺めわたしたとき、図式的な理解の範疇に収まらないというか、どのように位置付けたらよいものやら戸惑う不思議な人物が何人かいる。最たるものは北一輝だと思っているが、石原莞爾もまた評価がなかなか難しい。満州事変の張本人、侵略主義者として批判するにせよ、東亜連盟運動に平和思想を見いだすにせよ、あるいは『戦争史大観』で示された戦史家としての卓抜な着眼点を評価するにせよ、日蓮主義に基づく最終戦争論に独特な思想家としての相貌を見いだすにせよ、様々な切り口があり得る。それこそ論者によって十人十色の石原莞爾像が示されてくる。だが、その分、ある種の思い入れの強さから、石原を論ずるというよりも、石原に仮託して論者自身の主義主張を打ち出しているだけなのではないか、そんな疑問を感ずる論考も少なくない。

 本書は、厖大な文献・史料を渉猟して、石原の伝記的事実や何らかの形で彼と接点を持った人々とのエピソードを丹念に集めている。著者自身の解釈は極力抑えられ、石原の年譜を文章におこしたという感じか。玉石混交、類書の多い中、この着実さはやはり信頼の置けるもので、基礎研究というのはやはりこうでなくてはならない。思想史として論じたい場合でも、まずは本書が出発点となるだろう。

 私のような歴史オタクには、人脈的なつながりが色々と見えてくるのが面白い。石原莞爾といえば、ただちに日蓮主義というイメージが浮かぶ。彼が田中智学の国柱会に入ったのとほぼ同じ頃に宮沢賢治も国柱会に入信しているという事実関係を強調したがる人は少ないな。宮沢賢治ファンにはヒューマニストが多いし、ヒューマニストは軍人が嫌いだからか。昭和初期の時代風潮における日蓮主義というのは検討に値するテーマで、国柱会ではないが北一輝や井上日召もそうだし、創価学会や立正佼成会など新興宗教団体もある。なお、石橋湛山も日蓮宗だが、生家がお寺という事情だから、思想史的に結び付けるのは無理があるかもしれない。

 軍人つながりでは、石原は梅津美治郎、阿南惟幾、武藤章を高くかっていたらしい。立場的対立はあっても陸軍をまとめられるのは梅津だけだと考えて、時折相談にのっていたという。そういえば、筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治──軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店、2007年→こちら)でも梅津の存在感が特筆されていた。武藤を抜擢したのは石原だが、中国政策をめぐり、不拡大方針の石原に対して武藤は積極論を主張して決別。ただし、後にその武藤も、日米開戦を回避しようと努力しながら、結局、下からの突き上げを抑えきれなかったというのも皮肉な巡り合わせである(保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』中公文庫、1989年→こちら)。

 浅原健三(八幡製鉄所のストライキを指導したことで有名)、橘樸、宮崎正義、十河信二といったあたりは満州人脈で理解できるが、東亜連盟の関係で大河内一男(東京帝国大学・社会政策)、新明正道(東北帝国大学・社会学)、中山伊知郎(東京商科大学・経済学)、細川嘉六(『改造』発表論文がもとで横浜事件がおこる)、木下半治、市川房枝、稲村隆一(農民運動、戦後は社会党代議士)といった名前が出てくるのは面白い。左翼勢力がほぼ壊滅状態にあった1940年代、政府批判の論陣を張っていたのは東亜連盟か中野正剛の東方会くらいだったこと、東亜連盟には大陸における日本の侵略行動を批判するロジックがあったこと、こういった点が指摘できるだろうか。それから、東亜連盟は各民族の政治的独立という主張も掲げていたので、朝鮮人もかなり加盟していた。石原と行動を共にした幹部で曺寧柱という人が頻繁に出てくるし、安宇植「気さくで温厚だった曺寧柱に信頼を置く」(→こちらで読める)によると、他にも朴錫胤、姜永錫といった人たちがいたらしい。この辺りも興味がひかれる。

 それから、いわゆる「首なし事件」(警官による拷問を告発)で正木ひろしを激励し、書簡を交わしていたのは初めて知った。『近きより』を読んでいたということか。

 以上、駄弁でした。

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2009年8月 6日 (木)

白戸圭一『ルポ 資源大陸アフリカ──暴力が結ぶ貧困と繁栄』

白戸圭一『ルポ 資源大陸アフリカ──暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経済新報社、2009年)

 資源輸出をテコにして一定の経済成長も少なくとも統計数字上はうかがわれるアフリカ。それにもかかわらず、実態は今さら言うまでもなかろう。本書は、毎日新聞のヨハネスブルク特派員として南アフリカ、モザンビーク、ナイジェリア、コンゴ民主共和国(旧ザイール)、スーダン、ソマリアなどの各地を歩いて現場を見聞したルポルタージュ。

 南アフリカの治安の悪さは有名である。組織犯罪、人身売買、そして絶え間ない暴力の日常──。国全体が貧しい場合にはこれほど治安が悪化することはない。しかし、南アは貧困と経済大国としての豊かさとが並存したいびつな状態にある。スラムのすぐ目の前に富がある。むしろ、極端なまでの貧富の格差が人びとの気持ちを荒ませ、暴力で奪い取ろうとさせる構図が指摘される。本書の最後、著者の知人が交通事故で公立病院に運び込まれたが放置されて死んでしまった問題からは、南アにも高度な医療技術があるにしても、かつてアパルトヘイトの時代は白人、現在は金持ち(つまり、政治活動を通して特権階層にのし上がった黒人)以外はアクセスできないという現実がうかがえる。

 コンゴの大統領選挙では、人びとの鬱積した不満が排外主義的・暴力的な主張に取り込まれていく様子が観察される。コンゴやスーダンが資源輸出による資金で軍備を購入、それが内戦や政治弾圧に使われていることは周知の通りだろう。中国のアフリカ進出がここのところ目立つが(とりわけ、ダルフール問題を抱えるスーダンへのバックアップは国際世論の批判の的となっている)、事実上無政府状態に陥っているソマリアですら中国人技術者と出会ったというのが驚きだ。こうした中国人のアフリカ進出のことは松本仁一『アフリカ・レポート』(岩波新書、2008年)でも記されていた。現地では、政府による抑圧構造の背景に中国が存在しているとして人びとの反発を受け、それが場合によっては排外主義の的となって暴力的な襲撃を受けてしまうこともあるらしい。

 何かが、どこか、タガが外れてしまっている。そこには構造的な要因があるはずなのだが、その解法がなかなか見つけられないもどかしさ。本書はそうした困難なアフリカの問題を、現地の様々な人から聞き取った記録を通して報告してくれる。

 アフリカの問題については、以前、ロバート・ゲスト(伊藤真訳)『アフリカ 苦悩する大陸』(東洋経済新報社、2008年→こちら)、松本仁一『アフリカ・レポート』他(→こちら)を取り上げたことがある。経済的・政治的構造についてはポール・コリアー『最底辺の10億人』(→こちら。邦訳は、中谷和男訳、日経BP社、2008年)、『戦争・銃砲・投票──危険地帯のデモクラシー』(→こちら)も読んだ。ソマリアについてはこちら(→)にまとめた。スーダンのダルフール問題については、ダウド・ハリ(山内あゆ子訳)『ダルフールの通訳』(ランダムハウス講談社、2008年→こちら)がある。コンゴ民主共和国近隣で拡大した紛争の要因としてルワンダのジェノサイドについても触れられるが、当事者の記録として、ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』(→こちら。邦題『ホテル・ルワンダの男』堀川志野舞訳、ヴィレッジ・ブックス、2009年)、ロメオ・ダレール『悪魔との握手──ルワンダにおける人道の失敗』(→こちら)を取り上げた。特に、『悪魔との握手』は平和維持活動の問題を考える上で必読だと思っているのだが、邦訳はまだない。どこかが版権をおさえているらしいので、遠からず刊行されるものと期待している。

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2009年8月 4日 (火)

石牟礼道子『苦海浄土』

 石牟礼道子『苦海浄土──わが水俣病』(講談社文庫、1972年)、『苦海浄土・第二部 神々の村』(藤原書店、2006年)を手に取った。時々勘違いしている人がいるけれど、石牟礼さんはいわゆる社会運動家とは違う。文章を素直に読めば分かるが、ある種の生硬さとは無縁の人である。

 詩人の相貌には、山川草木に息づく霊魂のささやきを言葉に移しかえていく、そうしたいわば巫女としての面持ちが浮かぶ。石牟礼さんがまさしくそうだ。同じ水俣の風土に馴染んだ者として、水俣病患者に降りかかった苦難を目の当たりにし、言葉にはならぬかそけきうめきを我が身に受け止め、形を与え、リズムを与え、表現として紡ぎ出していく。うめきそのものが表現を求める。彼女の筆を通して語られつつも、媒介者としての言葉はもはや彼女のものではない。だから、“正しい”ことを語る語り口がともすれば帯びやすいこぶしを振り上げるようなおごりたかぶりは微塵もない。うめきそのものなのだから、彼女もまたそれを受苦せざるを得ず、そしてただひたむきにうめきのたどる道行きを共にたどる。

 人びとの思いが、水俣の土地の言葉でつづられる。その肉感的な生々しさが胸を打つ(ただし、この作品を編集者として世に送り出した渡辺京二氏の解説によると、必ずしも正確な聞き書きではないらしい)。国家や経済社会が押し付けた所業への呪詛も込められつつ、同時に、それへの抗議として一つの政治的ロジックにまとめあげようとする人びと、もちろん、動機は良心的ではあるのだが、そうした人たちへの微妙なわだかまりもまた、ほんの時折ではあるにしても筆先ににじむ。

 近代文明、知識人(水俣の人たちは東京の役人や政治家を指して「東大アタマ」と表現していた)、彼らの使う言葉によって、皮膚感覚からにじみ出た限りない切迫感が周縁化されてしまっているという違和感。大文字の〈近代〉に対する、土に根ざした声を以てする異議申し立てという構図は今さら陳腐に堕するかもしれないが、水俣病患者のうめき声を通した、概念でもなく、正義でもなく、言語以前に立ち上る根源的な問いかけ、それを見事に表現し得ているのは、ただひとえに石牟礼さんの時には不器用にすら思える誠実さ以外の何ものでもない。

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2009年8月 3日 (月)

「意志の勝利」

「意志の勝利」

 famousというべきか、notoriousというべきか、戦後ながらく封印されていたレニ・リーフェンシュタール幻の代表作「意志の勝利」。1934年にニュルンベルクで開催されたナチス党大会の記録映画である。ドイツでは現在でも上映禁止らしい。現代史をテーマとしたドキュメンタリー番組や歴史書で断片的に見かけることはあっても、全体を通して観たことはなかったので、上映されているのを知って早速観に出かけた。なお、私はナチズム礼讃者でも何でもなく、ただのノンポリです。念のため。

 大空に広がる雲海のただ中、飛行機が徐々に下降して雲を突き抜け、古都ニュルンベルクが見えてくる。随所ではためくハーケンクロイツの党旗、街路ではアリのように小さく見える人々が隊列を組んでいる。着地した飛行機から姿を表わすアドルフ・ヒトラー、歓呼して迎える群衆。ドイツ帝国を俯瞰的に捉え、そこに降り立つ救世主ヒトラーというイメージ、いわば立体的に神話世界を組み立てた構図が冒頭のシークエンスからうかがえる。こうした出だしにレニは強くこだわっていたらしく、ヒトラーから冒頭にこれこれの場面を置いたらどうかと提案があったとき、彼女はそんなの芸術的じゃない、雲海のイメージ以外にあり得ないと頑強に抵抗してヒトラーを不快にさせたらしい(レニ・リーフェンシュタール『回想 20世紀最大のメモワール(上)』椛島則子訳、文春文庫、1995年)。

 光と影の効果をたくみに使ったカメラアングルも良いし、それから素材と舞台だ。なにしろ、民間映画会社ではとてもじゃないが賄いきれないセットを国家予算で用意しているのだから。労働奉仕団の集団パフォーマンス、国防軍・突撃隊・親衛隊の整然たる行進(あの独特なグース・ステップ!)、これほどのマスゲームをやるのはいまどき北朝鮮くらいのものだろう(美的センスには乏しいが)。なお、三ヶ月前におこったレーム粛清(“長いナイフの夜”)で突撃隊幹部が一掃されており、新たに幕僚長となったルッツェが親衛隊のヒムラーと並んでヒトラーに忠誠を誓うこと、これまで突撃隊と対立してきた国防軍が党大会に初めて参加したこと、こうして多元的にいがみ合っていた軍事組織がすべてヒトラーの完全掌握下に入ったことを形式として示すこともこの党大会に期待されていた。

 会場のプランを立てたのは建築家のアルベルト・シュペーア(後の軍需大臣)である。やはり建築に多大な関心を寄せるヒトラーから絶大な信頼を得ていた彼は、レニと同様、第三帝国の演出家となる。彼の演出により夜間の屋外会場でサーチライトが空に立ち上るシーンの写真を見たことがあるが、これもまた実に格好良い(井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書、2006年)。

 そして、役者。次々とナチスの指導者たちが登壇するが、断然異彩を放つのはやはりヒトラーである。聴衆の拍手がやむのを待って静かな語りかけで始め、絶叫調で盛り上げる演説は、俳優としての素養が十二分にうかがわれる。彼は政治活動の早期から演説の練習に余念がなくて(それを戯画的に捉えた映画が「わが教え子、ヒトラー」である→こちら)、振り付けのパターンを撮った写真を見たことがある(ヘルマン・グラーザー『ヒトラーとナチス』関楠生訳、現代教養文庫、1963年)。他方で、彼の演説を聴いて感動した人が帰宅後に新聞で演説要旨を読んだところ、何でこんなつまらない話に感動したんだろう?と不思議に思ったというエピソードも何かで読んだ覚えがある。ヒトラーは、マスメディアの発達により、理屈による説得ではなく視聴覚的・直感的印象で影響力を及ぼせるようになって初めて登場し得た独裁者だったと言える。

 いずれにせよ、素材は記録映像であっても、一つの美意識に基づいた“神話物語”として再構成されている点で「意志の勝利」は単なるドキュメンタリー映画ではない。たとえば、同時代の日本のニュース映画を観ても、「戦果赫々云々…」とがなり立ててはいるが、比べてみると野暮ったさが際立つ。“事実”を“物語”に作り替え、自分たちがその“神話”の中に組み込まれて戦っているんだと思わせることができなければ、人間の精神は鼓舞されない。集会参加の陶酔感→美意識に基づき映像で再構成→国民すべてを巻き込む集団的儀礼→“神話世界”において祭祀者を演ずるヒトラー→民衆の喝采による権威の承認とナショナルな一体感、これこそ直接民主主義の極致であろう。皮肉な話だが、ルソー『社会契約論』で示された“一般意志”はこの点において実現される。「意志の勝利」の映画としての出来栄えがあまりにも良すぎたからこそプロパガンダ映画として成功してしまったというのも、何とも言い難い逆説である。

 美的意識がナチズム体制を形成する基盤となったことについては田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)に詳しい(→こちら)。ナチスと映画との関わりについては飯田道子『ナチスと映画──ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書、2008年)がナチスの作ったプロパガンダ映画と、戦後の映画におけるナチス・イメージとの両方に目配りしながら概説している。考えてみたら、スポーツ映画に興味がないので「オリンピア」は観ていないし、レニの伝記映画もまだ観ていなかったな。

【データ】
原題:Triumph des Willens
監督:レニ・リーフェンシュタール
ドイツ/1935年/114分
(2009年8月2日、シアターN渋谷にて)

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2009年8月 2日 (日)

「美代子阿佐ヶ谷気分」

「美代子阿佐ヶ谷気分」

 ほとんど予備知識なしに観にいったのだが、むかし『ガロ』誌上で一定の支持を集めていた安部愼一という漫画家の話。同棲相手である美代子との関係を描いた私小説的な作風で、この映画もそれに基づく。こういう無頼派的な作家というのも今では見かけないな。自分の生身の経験を描きたいという自我へのこだわり、美代子との関係を断ち切りそうでいながら強い執着を見せるあたり、一種の共依存か。

 1970年代の東京の風景、その中でウェットに気だるい情感の漂うシーンがところどころあって、なかなか悪くないと思う。ただし、私はもう世代が異なるせいだろう、共感の糸口はつかめなかった。そうか、むかしはこういう青春を過ごした人たちがいたのか、しかし時代は変わったんだなあ、と思いながら観ていた。私の場合、むしろ乾いた倦怠感の方に真実味を感じるタイプなのだが、世代間のこうした感覚的な違いそのものが社会学的考察の対象になるのではないかという気もする。

【データ】
監督:坪田義史
原作:安部愼一
出演:水橋研二、町田マリー、佐野史郎、ほか
2009年/86分
(2009年8月2日、渋谷、シアターイメージフォーラムにて)

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2009年8月 1日 (土)

「私は猫ストーカー」

「私は猫ストーカー」

 古本屋でバイトするイラストレーターのハル(星野真理)、趣味は“猫ストーカー”。坂道、お寺の境内、軒のせまった細い路地裏。舞台は谷根千か(そういえば、漱石の猫の家もこの近辺だな)。界隈に出没する猫をウォッチしてうろつく毎日である。

 古本屋と猫という取り合わせは風情があってなかなか良い。姿を消した“看板猫”チビトムを探す貼り紙に「傲岸不遜、されど可愛い奴」とあったが、まさにその通り。猫どものマイペースぶりは、何とはなしにこちらの視線を誘う。チビトムとハルのツーショット、チビトムが眠そうにトローンとして、合わせてハルもトローン。猫もかわいいし、星野真理の飾り気のない面持ちもかわいいなあ。

 猫探しを軸に、さり気なく織り成される人間模様。猫の表情、そして街のたたずまいが醸しだす表情、両方を映し出す落ち着いたカメラアングル。とりわけ路地裏にゆったり流れる時間感覚に身をゆだねると心地良い。地味だけど、こういう映画は大好き。

【データ】
監督:鈴木卓爾
原作:浅生ハルミン
脚本:黒沢久子
撮影:たむらまさき
出演:星野真理、徳井優、坂井真紀、江口のりこ、品川徹、諏訪太朗、宮崎将、ほか
2009年/103分
(2009年8月1日、シネマート新宿にて)

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「真夏の夜の夢」

「真夏の夜の夢」

 東京から故郷に戻ってきた傷心のゆり子は、幼い頃に出会ったキジムンのマジルーと再会する。シェークスピア「真夏の夜の夢」が原案、沖縄の離れ小島を舞台に精霊との交流を描いたファンタジー。アイデアはとても面白いとは思うけど、セリフまわしや振り付けが何となく“寒い”というか(ただし、平良とみは別格。あのおばあが語り始めるとピシッと締まる)、全体的に村芝居的なノリで、私はちょっと入り込めなかった。中江裕司監督の「ナビィの恋」は結構好きな作品だったんだけどな。

【データ】
監督・脚本:中江裕司
2009年/105分
(2009年8月1日、シネマート新宿にて)

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「バーダー・マインホフ──理想の果てに」

「バーダー・マインホフ──理想の果てに」

 1968年前後、ヴェトナム戦争、キング牧師暗殺、パリ五月(学生)革命、色々と盛り上がった世相の中(冒頭、ヌーディスト村のシーンから始まるのも当時の雰囲気をうかがわせる)、一つの彩りを添えたドイツ赤軍。創立者である左翼活動家のアンドレアス・バーダー、ジャーナリストのウルリケ・マインホフ(二人の名前を取ってドイツ赤軍はバーダー・マインホフ・グルッペとも呼ばれた)を中心に、彼ら彼女らのテロ活動が過激化し、自滅していく姿を描く。主義主張は抑えられ、当時のニュース映像もまじえて、ドキュメンタリー風ドラマという感じだ。2時間半の長丁場だが、飽きずに観ることができた。

 この映画自体は明確なメッセージ性を出すような愚は避け、観客なりに様々な角度から観ることが可能なつくりになっている。ただし、この手のテーマだと、受け取る側の問題として(邦題からも何となく感じられるところだが)、「崇高な理想を追った純粋な若者たちが、なぜ暴力に走ったのか?」という感想を漏らす人が多いんだろうな。

 しかし、問いの立て方が間違っている。「純粋、にもかかわらず、テロに走った」のではなく、「純粋、だからこそ、頭が単細胞→英雄主義的な自己肥大妄想に感染しやすい→テロに走った」のである。私には、ラスコーリニコフの薄っぺらなカリカチュアという程度にしか思えない。「暴力はいけない」なんて陳腐なことを言うつもりはない(それは政治の問題であって、倫理の問題ではない。残念ながら、政治と倫理とは必ずしも一致しないことがある)。帝国主義が何だ、ともっともらしいことを言ったところで、所詮は英雄妄想を正当化するための口実として“社会正義”を利用しているだけで、その薄汚さが鼻についてたまらない。公共的正義よりも自分探し的=私的な自己満足の方が優先されている(“正義”のために戦っている俺たちって格好良い、という自己陶酔)としか思えず、共感の余地が全くない(格好良く言えば、アイデンティティ・ポリティクスの一変種か)。「理論ではなく、行動で示さなくては」という発言でマインホフが揺らぐシーンもある。しかし、そうした“べき”論の言説自体が一つのイデオロギー=観念論として自分たちを呪縛しているという逆説が分からない、つまり自己分析のできない単細胞だったわけである。馬鹿は暴力に訴える→取り締まらなければならない→必然的に警察国家を将来してしまう。度し難い。レバノンまで軍事訓練に行って、女性が裸になって、パレスチナ・ゲリラの指揮官から反感をかう。反帝国主義と性の解放は両立するなんてのたまうが(ヴィルヘルム・ライヒを真に受けた馬鹿どもだ)、自分たちの“先進思想”を誇示→イスラムの慣習を無視→これ自体が極めて“帝国主義”的な態度じゃないか。

 …ああ、反芻すればするほど彼らの薄っぺらさにムカムカしてくる。要するに、ドイツ赤軍及びその支持者たちの、理念ではなく人間としての馬鹿っぷりをさらし者にした映画である。確信犯的なニヒリストだったらむしろ怪しい魅力を感じるところなんだが、そういう要素はかけらもない。

 テロリストつながりでは、赤い旅団によるモロ元首相誘拐・殺害事件に題材をとった「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、2003年)という作品を観たことがあるが、こちらは政治性というよりも独特な人間ドラマに仕上がっていた。モロの敬虔なカトリックとしてのたたずまいが印象に残っている。日本だとあさま山荘事件か。「突撃せよ!あさま山荘事件」はハリウッド活劇風につくってはいるが、ありきたりな駄作。同じ頃に立松和平原作で「光の雨」という日本赤軍の自滅過程をテーマとした映画があったが、典型的な「純粋に理想を求める若者たちがなぜ…」調で、これはこれで明らかな駄作。日本赤軍の内輪リンチは、「バトル・ロワイヤル」的なアクション・ホラーと割り切った方が面白いんじゃないか。

【データ】
原題:The Baader Meinhof Complex
監督:ウリ・エデル
製作・脚本:ベルント・アイヒンガー
2008年/ドイツ・フランス・チェコ合作/150分
(2009年7月31日、渋谷、シネマライズにて)

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