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2009年8月18日 (火)

8月某日 佐渡(1)(佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝)

◇第一日
【キーワード】佐渡金山、郷土博物館、北朝鮮拉致事件、北一輝

・23:30新宿駅前発の夜行高速バス→5:30新潟駅前着。夜行バスはやはり疲れる。満席、乗客のほとんどは20代、ひょっとしたら10代かとも思われる若さ。30代の私が最高齢だったろう。
・早朝で路線バスが出ていないので、両津港行きの高速船が出る新潟港まで歩く。
・7:00新潟港発の高速船ジェットフォイルに乗船(早朝往復割引で購入)→8:00両津港着。ジェットフォイルというのはどのような構造なのか知らないが、船内アナウンスによると、水中翼だけ海中であとの船体は海面上に浮揚して時速80キロ前後で高速航行。以前、浮上してきたクジラと衝突して怪我人が出た事故があった、クジラの浮上は予測できないのでシートベルトを着用してください、とのこと。

・まず、佐渡金山に行くことにして、両津港からバスに乗車。路線バス一日乗車券(1,500円)を購入。佐渡島は北の大佐渡山脈、南の小佐渡山脈に挟まれる形で東西に国仲平野が広がっていて、そこを約1時間かけて横切る。観光客ばかりでなく、お彼岸なので、お花を抱え、お供え物を包んだ風呂敷を手にした人々がところどころで降りていった。佐渡島西岸北寄りの相川で下車。佐渡金山へはここで乗り換えだが、次のバスが来るまで2時間近くあるので、相川近辺を散策。
・相川は海沿いの小さな港町。かつては佐渡金山から海へ出る玄関口として江戸時代には佐渡奉行所が置かれた。佐渡島はもともと金銀など鉱産物が産出することで知られていたが、大金脈としてのいわゆる佐渡金山が発見されたのは1601年、江戸時代に入ってからのこと。佐渡は全島天領で、佐渡奉行所は金山だけでなく島の行政も管轄。歴代の奉行は頻々と交代して300人以上を数え(奉行が島の経済力を握って実力を持ってしまうのを防ぐためだろうか)、赴任した人の中には大久保長安、荻原重秀、川路聖謨といった名前も見える。相川の街並みも賑わって一時期は人口5万人にも達したという。その面影は現在ではほとんどうかがえない。
・佐渡奉行所は海を臨む高台にある。商店街を抜けて、急な階段坂道を上る。途中、江戸時代の刑場跡を通りかかる。近くに、戦前に建てられたと思しきモダンな木造建築あり。
・佐渡奉行所は遺構の上に当時の建物を再現。小判製造等の作業は奉行所で行なわれていたそうで、その関連で金の精錬から鋳造までの過程に関する展示室が敷地内にある。解説員による精錬作業の実演も行なわれていたが、見ていくには時間が足りなかったので、次の目的地である相川郷土博物館の場所だけ尋ねて移動。

・明治維新後、佐渡金山は明治新政府直営となったが、その後、三菱に払い下げられた。その管理施設だった建物が相川郷土博物館となっている。鉱山関係の資料や郷土の民具等を展示。相川には金山労働者向けの遊郭があったそうで、そこで働く女性たちに関する展示が目を引いた。心中にまつわる話が色々と伝わっているらしい。
・各地にある郷土博物館の、手作り感のある展示、何よりも、ほこりっぽくすえた匂いの漂う空気が何とも言えずかぐわしくて好き。展示資料の詳細は分からなくても、ぼんやりと眺め、匂いをかいで、この雰囲気に浸り込むこと自体が旅の醍醐味の一つだと思っている。
・相川郷土博物館は隣の有田八郎記念館と接続している。有田の生地は佐渡南部の真野らしいが、佐渡出身の名士という位置付け。有田八郎は外交官、戦前に平沼騏一郎・米内光政内閣で外務大臣を務め、戦後は革新陣営から東京都知事選挙に立候補したこともある。三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルにされて訴訟を起こしたことでも知られている。
・博物館前の崖際には浮遊選鉱場の廃墟がそびえている。見上げると壮観だ。ふもとにやはり管理施設だった建物があり、その中で明治期の金山の様子が撮影された写真の展示。

・相川のバス停に戻り、バスに乗って佐渡金山へ。
・佐渡金山は宗太夫坑と道遊坑の二つを見学できる。坑道にはその掘削の指揮を取る山師の名前がつけられている。坑道の内部はひんやり、平均気温は13度くらいで一定、酒作りに最適とのことで、酒の貯蔵庫もあった。
・宗太夫坑は江戸時代の坑道で所要30分ほど。中では蝋人形で金山掘り作業を再現。縦横様々な方向に掘り進めているので排水の工夫が重要で、水上輪というアルキメデスの原理を応用した揚水方法が目を引いた。
・道遊坑は明治以降にも掘り進められており所要40分ほど。道遊坑には運搬用トロッコの線路が引かれ、坑道の外にはディーゼル機関なども置かれている。近代以前と以後、両方の鉱山技術を比較できる。
・昔から鉱山技術は佐渡島の普段の生活技術にも応用されていたこと、労働者が全国各地から集まってきたので、たとえば江戸の新しいファッションなども入ってきていたというのも興味深い。
・囚人の他に無宿人(各自の事情で住所不定というだけで、罪は犯していない)も江戸から送られてきて、過酷な労働環境で亡くなった無宿人の慰霊碑もある。
・外に出ると、道遊の割戸というのが景観上の目印になっている。その手前には、明治新政府の初代の佐渡鉱山局長となった大島高任にちなむ高任神社というのがあった。彼は岩倉使節団のメンバーとしてヨーロッパで鉱山を視察、帰国後は鉱山学者として著名になった人物らしい。
・神社があって、木々の生い茂った山から海の眺望が広がるというロケーション、今年の5月に訪れた台湾の金瓜山の風景を思い浮かべた(→こちら)。相川の遊郭が残っていれば、それが九分に相当するという感じだ。
・見学後、次のバスが来るまで時間がある。バスの本数が少なくて接続が悪い。佐渡金山の受付窓口の人からタクシー会社の電話番号を教えてもらって呼び出した。待っている間、売店で売っていた金箔がけソフトクリームをなめる。タクシーで次の目的地の佐渡歴史伝説館に移動。運転手さんが佐渡の地勢や名物について色々と話してくれた。

・相川から再びバス通りに沿って南下。途中、真野のあたり住宅が建ち並ぶ一画を通過した際、運転手さんが一軒の家を指して、「あれが、曽我ひとみさんのお宅ですよ」と教えてくれた。さらに進むと一軒のお店があり、「あそこに雑貨店があるでしょう、あそこで買い物した帰りに拉致されたんですよ。このあたりは全然寂しくないでしょ、人もたくさん住んでいる地域なんですけどねえ」。この道路と並行してすぐ裏手に浜辺がある。そこから曽我さんは北朝鮮へ連れ去られた。まだ帰国できていないお母さんの救出を呼びかけるポスターが何枚かあたりに貼ってあった。
・「順徳上皇関連の遺跡も回るつもりで、歴史伝説館から歩いていく」と話したら、運転手さんは「あそこまで遠いよ。…しょうがない、かわいそうだからついでに連れてってあげるか」とメーターを止めて、順徳上皇が葬られたとされる真野御陵まで往復してくれた(感謝!) 写真だけ撮る。佐渡初日は様子見のつもりでバス・徒歩中心に旅程を組み立てていたが、実際に動き始めると地図で見た印象とは異なってかなり広い島だ。「歩きじゃ無理ですよ」とタクシーの運転手さんから言われた。そういえば、佐渡奉行所で受付のおばさんに相川郷土博物館の場所を尋ねたときも「若いとやっぱり体力あるのねえ」と感心されたが、こういうことなのかと今さら納得。
・佐渡歴史伝説館は、電動人形劇で佐渡に伝わる歴史的背景や伝説、具体的には順徳上皇、日蓮、世阿弥など佐渡に流された人々や、鶴の恩返し、安寿と厨子王、佐渡おけさといった昔話を再現。
・タクシーの運転手さんに言われて初めて気付いたのだが、佐渡歴史伝説館の“名物”は土産物コーナーでおせんべいを売っているチャールズ・ジェンキンスさん。曽我ひとみさんのご主人である。そういえば、佐渡のどこかで売り子のアルバイトをしていると聞いた覚えはあったが、ここだったのか。居合わせたおばさんグループと店員さんのやり取り、「ジェンキンスさんはいないんですか?」「いま、休憩で食事に出てるんですよ。あと15分くらいで戻ると思いますけど、お急ぎでしたら呼んできますよ」。一緒に記念撮影OKらしい。売り場には、旅情報番組のタレントと一緒に写った写真が何枚か張り出され、その中に横田さん夫妻や飯塚繁雄さんと一緒の写真も混じっていた。私は待たずに立ち去った。見世物パンダにしてしまうようで、何だか気がとがめるようなわだかまりが胸中にわきおこってきたから。

・佐渡歴史伝説館を出て歩く。近くに、山本悌二郎の顕彰碑があった。有田八郎の実兄、政友会の代議士で、田中義一・犬養毅内閣で農林大臣を務めた。二人ともこの真野の生まれらしい。大通り沿いに山本家の実家の跡もあり、その近くには幕末期の蘭学者・医学者として知られる司馬凌海の生家を示す碑もあった。司馬凌海は司馬遼太郎『胡蝶の夢』に登場する。先ほど通りかかった曽我さん宅の前を通って、佐渡博物館へ。歩いて30分以上はかかった。
・佐渡博物館。佐渡島に関する自然史、考古学、歴史の展示がある。佐渡ゆかりの人々の一覧表があって、松尾芭蕉をはじめ色々な文学者が渡って来ているのを知る。戦国時代までは佐渡島内部でも色々な勢力が競い合っていたらしく、あちこちで城郭跡も発掘されている。有力なのは本間氏だが、もとの来歴は相模国だという。佐渡全体が統一されるのは、豊臣秀吉の命令を受けて上杉景勝が直江兼続らの軍勢を派遣してからのこと。関が原の戦いの後は徳川家の天領となる。金銀鉱山に関する展示の資料を購入。常設展示として土田麦僊の素描画が集められているはずなのだが、この日は陶磁器の特別展をやっていて、見られず。受付の人に両津港行きバスの時間を教えてもらって、時間に合わせて館を出た。

・来た時とは違ったルートをたどるバスに乗った。車窓の風景を眺めるのも旅の目的の一つなのだが、深夜バスではあまり眠れず、炎天下でかなり歩いたので、必然的にウトウト。
・あらかじめ北一輝関連の場所をマッピングしておいたので、両津港の近くまでさしかかったところで下車。両津市湊の商店街、生家がまだ残っているが、所有者はもう関係ないらしい。並ぶお店はほとんどやっていない。お盆だからというのではなく、もう閉店してしばらく経つ感じである。ただ、人の気配はするので、商店街風の住宅街という印象。
・歩いて3分ほどの若宮八幡神社の境内に、北一輝・昤吉兄弟の顕彰碑。銘文は安岡正篤による。安岡と北一輝がそんなに親しかったとも思えないが、国家主義運動つながりで戦後の生き残りは安岡くらいだからか。神社の隣には北兄弟も通っていた両津小学校がある。
・北家の菩提寺だった勝広寺も歩いてすぐの所にあるので訪れた。境内で作業をしていた若い男性に北一輝の墓の場所を尋ねたら、1キロくらい離れたところに墓地があって、ちょっと分かりづらいかもしれない、とのこと。「車でいらっしゃったんですか?」「いえ、歩いて行くつもりです。」「じゃあ、車で連れて行ってあげますよ」とおっしゃってくださった。申し訳ないので固辞したのだが、すぐ車を動かしてきてくれたので、お言葉に甘えることにした。
・住職の息子さんだという。車中で色々とお話をしてくださった。北一輝は法華経を熱心に唱えていたから日蓮宗という印象を持たれやすいが、こちらのお寺は浄土真宗である。一輝の母親のリクという人が信仰熱心で寺によく来ていたこと、昭和初期に本堂を建て替えた時に屋根瓦の半分以上は一輝が寄進してくれたこと、自分は会ったことはないけれど松本健一さんがよく訪ねていらっしゃったと先代から聞いている、といったことをうかがった。「ただ、北一輝で町おこしをしようにも、観光で来る皆さんは知らないんですよねえ」
・緑鮮やかな田んぼが一面に広がる中を道は進み、やがて勝広寺の墓苑が見えてきた。この中に北一輝の墓もある。確か、東京から分骨されているはずだ。お寺の若主人によると「当時の住職が頼まれてお骨を東京まで取りに行ったんですよ」。佐渡に北家の縁戚はいるが、墓参に来る身内はもういないらしい。
・すでに夕刻、空から降り注ぐ陽光は薄紫色になっている。山並みと田んぼの青々とした緑と混ざって、あたりは淡い哀愁を帯びた色に染まっている。「良いところでしょう。人里 離れて淋しそうに感じる人もいるかもしれませんが、ここで草むしりとかしてますとね、気持ちが落ち着くんですよね」と若主人。帰りの車中で「北一輝さんは、ひょっとしたらこの狭いところから飛び出したかったのかもしれないな、そんな感じもします」としみじみつぶやいておられたのも印象に残った。

・途中で車から降ろしていただき、両津の街を歩く。立ち止まって地図を見ていたら、近所の人が「どちらまでいらっしゃるんですか?」と尋ねてくれる。タクシーの運転手さんにしても、勝広寺の若主人にしても、人情の濃やかな島だとつくづく感じ入る。
・どこで夕食をとろうかと物色しながら歩いていたら、いつの間にか両津港の船着きターミナルに出た。タクシーの運転手さんから、島の中心は西岸の方で、両津にはあまりお店はないと聞いていた。ターミナルの上の食堂に行って、イカと長藻の丼もの、それから地ビールを注文。
・宿泊先に連絡して送迎車を出してもらい、チェックインは19時過ぎ。ターミナルの土産物屋で買ったワンカップの地酒二銘柄を部屋で飲み比べる。テレビをつけたら「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」をやっていて、つい見てしまった。私は麻生久美子ファン。それから、藤沢周平『三谷清左右衛門残日録』(文春文庫)をめくり、いつしか眠り込んでいた。清酒呑んで藤沢周平というのもジジくさいな(笑)

(続く)

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