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2009年7月 3日 (金)

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)

 戦後日本の教育制度は義務教育を広く拡充させた一方で、個性抑圧の画一性・国家統制といった批判も根強い。本書は義務教育費配分という財政構図の問題を切り口に日本の教育システムの背景にあるロジックを浮き彫りにする。

 戦後間もなく、地域間の経済格差と教育的達成とに相関関係が見られ、こうした障害をなくして如何に教育環境を全国均質の水準に持っていくかが課題となっていた。本来ならばアメリカのように生徒単位の財政配分をしたいところだが、財源上の制約から教員単位の財政配分となり、財源の効率活用のためカリキュラムも標準化→生徒一人ひとりではなく集団単位で教育条件の均質化を図る→“面の平等化”が行なわれた。これが画一化・国家統制の表われとも批判されたが、他方で教育条件の格差の是正という点では地方でも下からの努力が見られた。そうした点では政府による政策と教育現場、双方の合意によって“面の平等化”という形で格差是正が進められたと言える。

 メリトクラシー(業績主義的な選抜システム)の正当性を担保するには、スタートラインは同じ、つまり教育における機会均等(仮にフィクションであったとしても)が行渡っているとみなされていなければならない。戦後日本の教育には確かに色々と問題もあるだろうが、システム上の信憑性を確保できる程度には成果があったと考えられる。個性重視教育は能力主義差別につながるという考え方があるが、こうした“面の不平等”の是正によって、個人間の差異を際立たせない(つまり、生徒に差別的処遇をしない)形で一定の教育の平等を達成した(つまり、劣悪な教育条件で不利な立場にある生徒も間接的に救済した)と評価できるという指摘が興味深い。

 教育の均質化に対しては、かつては生徒の内発性・やる気を損なうという心理的な個人主義、近年は経済主体としての自己決定に重きを置く新自由主義的な個人主義から批判がある。それぞれ一理はあるにしても、教育の問題も含め社会制度を考える上では自由と平等のアンビバレンスという究極の困難を避けて通ることはできない。本書はそうしたアポリアを正面から受け止め、教育における共通化か差異化かという二項対立を乗り越えようというところに問題意識がある。

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