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2009年7月24日 (金)

レイ・タキー『革命の守護者:アヤトラたちの時代のイランと世界』

Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs, Oxford University Press, 2009

 イラン国内の政治力学、とりわけイデオロギー的立場とプラグマティックな立場とのせめぎ合いが対外政策に連動している様相を本書は分析する。著者による前著『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』(→こちら)では国内の党派的動向の分析に重きが置かれていたが、本書は外交政策形成の国内的背景が中心テーマとなる(内容的には重複が多い)。とりわけ、イランとアメリカの関係、一方の敵愾心が他方の憎悪を増幅させてしまう負のスパイラルを解きほぐすことに焦点が当てられる(なお、『隠されたイラン』を取り上げた際に著者名をタケイと表記したが、『フォーリンアフェアーズ 日本版』の目次をネット上で見るとタキーとなっているので、こちらに従う。)

 イスラム革命の当初から革命イデオロギー(欧米=帝国主義、イスラエルやアラブ諸国支配階層はその代理人)とプラグマティズムとのせめぎ合いが見られた。バザルガンやバニサドルは中立政策(アメリカとは距離を置くが、関係断絶まではしない)を模索したが、アメリカ大使館占拠事件、イラン・イラク戦争と続いてホメイニ体制が確立する過程で失脚。体制内でも、例えばラフサンジャニは柔軟な路線(融和とはいわないまでも、現実的な交渉はする)をとろうとしたが、保守強硬派から猛反発を受けると反米的態度を表明(保守派の抵抗があるとすぐに自説を撤回して立場を守るのが彼の政治行動の特徴で、今回の大統領選後の混乱でもムサビ支持でありつつ現体制への支持も表明した)。ホメイニも彼をかばってラフサンジャニ批判にストップをかけた→ホメイニは体制内の多元的な政治勢力のバランサーとしての役割を果たしていた。

 イラン・イラク戦争の終結後、穏健派のラフサンジャニ政権は経済再建という課題に直面→対外関係の改善が不可欠だが、そうした現実的要請と革命理念との矛盾に苦しむ。イデオロギー的要因から欧米諸国・湾岸首長国との関係改善は失敗したが、社会主義への反発はありつつもソ連・中国とでは成功(この際、中国内ムスリムの窮状は無視された→パワー・ポリティクスの論理がうかがえる)。次の改革派ハタミ政権は“文明の対話”を提唱、イランの変化を国際社会に印象付けた。

 ラフサンジャニら穏健派、ハタミら改革派はホメイニ体制を維持しつつ近代国家を摸索したが、経済開放→外来文化の流入→欧米帝国主義への屈従だとして保守派から反発、その保守派は非選出ポストにいて妨害→内政面での改革には失敗した。「視野の狭い反対者」と「忍耐のない友人たち」との板ばさみになったハタミはとにかく両者のなだめ役に回るしかなかったが、成果はなく改革派は幻滅→次の選挙では決選投票に持ち込まれた末、ダークホースだった保守強硬派のアフマディネジャドが穏健派の実力者ラフサンジャニを破って当選(改革派はメディアを通した世論に依存して組織固めをしなかったのに対し、保守派には革命防衛隊などの組織があったことも指摘される)→最高指導者のハメネイはアフマディネジャドを支持した。理由としては、ハメネイはラフサンジャニとは対立関係にあったこと、また、ホメイニとは異なって宗教的カリスマに乏しく、自前の政治基盤を固めるため保守強硬派に軸足を置く→ホメイニのような体制内バランサーとしての役割を放棄(今回の大統領選挙後の混乱の一因ともなった)。

 アフマディネジャドは「ホロコーストはなかった」発言で物議をかもした。イランでは、国内向けのロジックをそのまま国際社会に向けて発信して反発を受けてしまうシーンがしばしば見られる。イスラエル抹殺など過激な発言の背景としては、第一に、アフマディネジャドやその支持組織である革命防衛隊はイラン・イラク戦争で聖戦意識の昂揚した時代に育った→イデオロギー性が濃厚。第二に、中東諸国の一般感情に訴えて地域大国としてのリーダーシップ強化という戦略的思惑もある(ヒズボラやハマスへの支援には両方の動機が見られる)。他方で、対話を通じて国際社会における地位確立を目指すハタミらの改革派はこうした発言を批判している。

 地域大国としての存在感誇示(=ナショナリズム)のため核開発を進めるという点では、実はパフレヴィー朝時代から一貫している。もう一つの動機は、イラン・イラク戦争での国際的孤立、とりわけイラクによる化学兵器の使用(国際社会は黙認したというダブルスタンダードへの反発)→安全保障は自力救済という強迫観念(この動機から核開発に着手したのが、当時のラフサンジャニ国会議長とムサビ首相)。穏健派・改革派の場合、あくまでも抑止力としての核開発→取引や譲歩も可能。対して、保守強硬派はナショナリズムが主要動機→取引困難。なお、ナショナリズムに立つ保守強硬派の中でも、アフマディネジャドのようなイデオロギー的武闘派だけでなく、イランの地域大国としての地位を確立するためにはアメリカとの合理的な交渉も必要という現実派もいる(たとえば、核開発問題の交渉役やその後国会議長も務めたラリジャニ→今回の大統領選後の混乱ではアフマディネジャドを批判)。

 アメリカのCIAの画策でモサデク首相失脚のクーデター、イラン・イラク戦争ではイラクを支持し、フセインの化学兵器使用を黙認→イラン側の憎悪。対して、アメリカ大使館占拠事件→アメリカ側にも憎悪。イラン・アメリカとも、相互認識のミスリードが両国間の緊張をますます高めてしまう負のスパイラルがある(ブッシュ政権はイランを“悪の枢軸”の一つに指名した)。湾岸戦争後におけるイラクのフセイン政権、9・11後におけるアフガニスタンのタリバン(スンニ派)という共通の敵→関係改善のきっかけもあったが、イラン国内の反米強硬派とアメリカ側の対イラン不信感のため、ラフサンジャニのプラグマティックな路線も、ハタミの“文明の対話”路線も失敗してしまった。

 大雑把に言って、国際政治におけるリアリズムは力の均衡という観点から国家間関係を把握する(パワー・ポリティクス)。こうした捉え方が必ずしも間違っているとは思わない。有効な場面もあり得るが、ただし、国家それぞれの内在的要因が過度に単純化されてしまうと、力の均衡を図る(つまり、相手の善意に期待しない)という点ではリアルではあっても、相手方の行動の原因・動機を正確に認識できないという点で必ずしもリアルとは言いがたい。具体的には、ネオコンがこの罠に陥った(→ロバート・ケーガン『歴史の回帰と夢想の終わり』[邦題:『民主国家vs専制国家 激突の時代が始まる』]の記事で触れた)。第一に、その国家内で複数の政治グループがせめぎ合っている場合、どのグループが主導権をにぎるかによって出方が異なってくる。第二に、どのグループが主導権をにぎるかは、対外的脅威の受け止め方、言いかえればこちらからの圧力のかけ方によっても変動し得る。こうした相互認識のあり方が外交政策形成に及ぼす影響に着目するアプローチをコンストラクティヴィズムという(→ピーター・J・カッツェンスタイン『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』または『日本の安全保障再考』の記事で触れた)。

 イラン政治の内在的ダイナミズムと外交政策との関わりからそうしたパーセプション・ギャップを捉えかえそうとする本書の視点はコンストラクティヴィズムの分析アプローチに近いと言える。イラン外交に時折見られる機会主義(オポチュニズム)的な対応には、イスラム革命イデオロギーだけでなく地域大国としての地位を目指す戦略的動機もうかがえる。アメリカはバランス・オブ・パワーの考え方で封じ込め政策をとるのではなく、地域的安全保障の枠組みにイランも巻き込み、そのバックアップをするべきだと本書は主張する。なお、Mohsen M. Milani, Teran's Take: Understanding Iran's U.S. Policy(Foreign Affairs, July/August 2009)も同様の議論を展開している。こうした提言を受けてであろう、オバマ政権は対話路線に切り替えている。

 ついでに言うと、国際世論の反発という政治的コストがかつてないほど大きくなっているため、リアリズムも変質している。ネオコンのようなイデオロギー的な動機からパワーの行使をためらわないリアリズム(矛盾した表現だが)は異様であった。たとえば、スティーヴン・ウォルトは、パワー・バランスの不安定が紛争につながりかねない地域だけに必要最小限の軍事的プレゼンス(オフショア・バランシング)→地球規模の軍事戦略は抑制→国益に死活的な場面に限定すべきというロジックをとり(ネオリアリズム)、ネオコンを批判した(→『米国世界戦略の核心』)。

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