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2009年7月 1日 (水)

チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理──近代とその不安』

チャールズ・テイラー(田中智彦訳)『〈ほんもの〉という倫理──近代とその不安』(産業図書、2004年)

 タイトルにある〈ほんもの〉とはauthenticityのこと。自分自身にとっての確からしさ、本当らしさ、有意義さ、そういった感覚をこなれた日本語に移しかえようとした苦心の訳語である。先日取り上げたチャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』(岩波書店、2009年→こちら)でもこのキーワードは出てくる。

 現代の我々には、自分たちから超越した“聖なる秩序”の命令に自らの身を捧げようなどという発想はない。むしろ、自己実現にこそ重きが置かれ、超越的価値はうとましいくびきと感じられる。自己実現重視の個人主義は、見方を変えると、誰にも真似のできない他ならぬ自分自身のもの、そこに〈ほんもの〉を求めようとする点で芸術家が創造的感性を求めるのと類似した志向性を帯びている。18世紀のヘルダー以降のロマン主義→神や善のイデアといった超越的価値ではなく、自身の内面から湧き起こる声にこそ従うべき→近代における主観主義的転回→「自分自身に忠実であれ」という自己実現志向は〈ほんもの〉という近代の理想によって裏打ちされている。

 他方で、こうした〈ほんもの〉志向には次の動きが並行している。第一に、個人の組み込まれていた意味付けの地平が失われた→個人の断片化・アトム化、帰属意識の稀薄化。第二に、テクノロジーの進展による合理的思考・道具的理性→各自の“幸福”という目標に向けて物事を設計しなおそうという発想→効率性・計量性の論理で他者を位置付ける。いずれにせよ、〈ほんもの〉は自分だけの実感という受け止め方→バラバラに連帯感を欠いた非人格的社会関係が肯定される。

 しかしながら、完全な独我論はあり得ない。他者との対話やせめぎ合いによって相互の相違に気付いてこそ、アイデンティティ=私らしさ、私にとっての〈ほんもの〉は確証される。アイデンティティ・ポリティクスという形で差異の承認を求めるにしても、無機的な並列というのではなく、一定の関係性の中での位置付けの要求なのだから、むしろもっと広い価値的地平の共有を目指していると言える。他者があって初めて自分が分かる。従って、他者から切り離されたアイデンティティはあり得ない。自分にとっての〈ほんもの〉を求めるアイデンティティは対話的性質によって特徴付けられており、あらゆる前提から切り離された地点に立って純粋に自己決定を行なうという合理性で捉えられた人間モデルは現実にはあり得ない。ここにコミュニタリアニズム(共同体論)からリバタリアニズム(自由至上論)に対する批判のポイントがある。

 「自分に正直でありたい!」とかのたまってある種のワガママを正当化するミーイズム・ナルシシズム、こうした現代社会にありがちな浅はかさも、以上の〈ほんもの〉=authenticityという観点から把握できる。ただし、“保守オヤジ”のように説教したってはじまらない。個人の“自由”は、その置かれたコンテクストによって初めて意味を持つ。各自が自身にとっての〈ほんもの〉を追求、そうした形で自己実現を目指すのは当然のことである。ただし、その切実さは人それぞれ、目先のことに振り回されているだけの場合もあり得るわけで、上っ面に流されかねないところにテイラーは注意を喚起する。そのことを“主観主義へのすべり台”と表現している。個人の自由万能か、それとも共同体の価値復権か──などという不毛な二元論的構図に落としこまず、かと言って、間をとって無意味な折衷論でお茶を濁すでもなく、もっと着実な議論のたたき台を示そうというところに本書の意欲がある。

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