広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』(講談社現代新書、1999年)を読みながらメモ。
まず、日本の近代化のプロセスにおける家庭・地域社会・学校の関係が考察される。時にノスタルジックに語られる村落共同体のしつけは果たして理想的だったのか? 実際を見れば差別や抑圧が内包されており、子供は放置、場合によっては酷使されることもあって決してユートピア視することはできない。地域社会における停滞性→学校と軍隊という近代化駆動装置が全国共通のルールを教える機能。明治~高度経済成長にかけて学校は“遅れた”社会から脱出して近代的な職業世界に入る装置として信頼感を得ていた。
しかし、経済水準の上昇→かつては進歩的な意味を持っていた生活指導・集団訓練が、むしろ個人性を抑圧する保守的なものと批判される→学校不信。子供のしつけよりも、“より良い地位”(学歴・職業)を目指すゲームの地位配分装置として捉えられる→学校は教育の主役ではなくなった→家庭・地域社会・学校のうち家庭が突出。つまり、家庭の教育機能が低下したのではなく、逆に子供の教育に関する最終的な責任を家庭という単位が一身に引き受けるようになった。
パーフェクト・チャイルドへの志向性→童心主義・厳格主義・学歴主義と相異なる教育理念が混在→いずれにせよ、“子供期”の明確化→そこへ親が積極的に働きかけようという“教育する意志”→学校側に様々な要求を突きつける。
「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説→かつて非行は下流階層に集中、この言説は大正期においては富裕層向けのものであった(地域社会との関わりが薄い新中間層の登場。下流階層については、家庭のしつけではどうにもならないことが自明視されていた)。ところが、高度経済成長期の生活水準の向上・中流意識の広がり→階層格差が見えづらくなり、それに言及することもタブーとなった。どの子も非行に走る危険→あらゆる局面にわたって「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説が語られるようになる。教育において社会階層・地域の間での差異が現在でも存在しているが、それにもかかわらず単一の処方箋で考えようとすることの問題。
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