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2009年7月19日 (日)

「ディア・ドクター」

「ディア・ドクター」

 ある山あいの小さな村で村人たちが騒いでいる。診療所の医師である伊野(笑福亭鶴瓶)が突然失踪したらしい。取り立てて事件性もないので、駆けつけた二人の刑事(松重豊、岩松了)は当初、捜査に乗り気ではなかった。しかし、伊野について調べ始めると、どうやら彼は医師免許を持っていなかったらしいことが分かる。彼はなぜ失踪したのか、というよりも、そもそも彼は何者だったのか? 二ヶ月前、研修医の相馬(瑛太)がこの村へやって来た時点までさかのぼって物語は説き起こされる。

 過疎地の高齢化、医師不足、医師と患者とのコミュニケーションのあり方、住み慣れた家で死ぬのか病院で死ぬのかというQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の問題──医療をめぐる様々な社会的背景をこの映画から読み取ることも必要だろうし、伊野は何者だったのかという問いかけは、彼がこの寒村で果たしていた役割を捉えなおすことにつながる。

 だが、それと同時に、伊野は心の中で一体どんなことを抱えていたのだろうという問いかけも観客の脳裡に自然とわきおこさせる、そうした心理描写のこまやかさが何よりもこの映画の魅力だと思う。舞台もテーマも地味ではあるが、謎探し的なストーリー展開と濃密なドラマ、山村の緑や旧家を背景にしたカット、どれも実に良い感じだ。

 笑福亭鶴瓶がはまり役なのが意外だった。あのニタニタ顔が、うさんくさそうにも、包容力のある温かさにも、どちらにも受け取れて、伊野という人物の存在感を際立たせている。“医師の資格”をめぐって相馬は伊野への賛嘆を隠さないが、このときのすれ違いで伊野(つまり、鶴瓶)が見せるやるせない表情など印象に残る。

 西川美和監督の小説集『きのうの神さま』(ポプラ社、2009年)にも同名の短編があるが、内容は異なる。この本には、映画「ディア・ドクター」の準備で医療関係者に取材しながら書いた短編が集められている。原作というよりも原案という位置付け。直木賞候補に挙がっていたが、受賞は逃がしたらしい。小説としてはむしろ『ゆれる』(ポプラ文庫、2008年)の方が私は好きだな。もちろん、映画「ゆれる」もおすすめ。

【データ】
監督・脚本:西川美和
出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、香川照之、松重豊、岩松了、井川遥、八千草薫、他
2009年/127分
(2009年7月17日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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コメント

この作品について、自分以外の感想を求めてここにたどりつきました。すいません。コメントさせていただいて。
この映画や西川監督の作品に共通する、絶対的に完璧ではない人間の心理描写が、ほんとうに絶妙かもしれません。
ある意味、不完全な人間は当たり前なのですが、「人肌の温度がわかる」感のつけかたが、なんだか好きです。
それこそ伊野が見せる「やるせなさ」でしょうか。
わたしも「ゆれる」が好きです。
すんません、このブログが何だか、すごくいいのでついコメントしてしまいました。

投稿: ぶりゅっと | 2010年7月30日 (金) 21時37分

ぶりゅっと様

コメントをありがとうございました。人間心理を突き放したように捉えてその視点に微妙に毒気もある、だけどそれが嫌味には感じられない、そんな西川美和さんの描写力は本当に良いですね。次はどんな作品をつくるのか楽しみです。

投稿: トゥルバドゥール | 2010年7月30日 (金) 23時26分

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