苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』
苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』(弘文堂、2004年)
・教育を考える上でも立ちはだかる自由と平等との矛盾という根源的なアポリア、この問題を19~20世紀のアメリカ社会思想、とりわけ社会学者レスター・ウォード(1841~1913、アメリカ社会学会初代会長)を手掛かりに考える。
・ウォードは開拓民の子供、独学で身を立てた知識人。
・当時は社会ダーウィニズムが流行して自由放任主義礼讃(自然淘汰→現代で言えば自由至上主義)。しかし、現実には低位階層から這い上がるのは難しい。自由の国アメリカという理念の下、出自によらず社会的な上昇はできないのか?→ウォードは知性平等主義の考え方から、教育の機会の平等を主張した。機会の平等→努力や能力の差→結果としての不平等については社会的に認容する。能力の個人差は確かにあるが、それが階級・ジェンダー・エスニシティーといった出自の問題で左右されてはならない。
・教育の拡大→社会の平等化の手段という問題意識はデュルケムやヴェーバーには見られない。
・ウォードの考え方は、①社会改良の手段としての教育、②(個人の生得的な能力差を認めた上で)知性の発達可能性を前提とした教育の役割、③職業選択と職業上の成功の機会と結びつく教育機会の普遍化
・このように教育はライフチャンスを平等化するという考え方が広まるが、他方で現実には教育はこの要請に応えるのが困難→教育内部において、出身階層・ジェンダー・エスニシティー等による不平等が隠蔽され、維持・再生産されてしまう問題。
・ハイスクール拡張運動→異なる階層の出身者が同じ教室で机を並べること自体が最初は驚異的だった。
・①共和国の理念→自立した市民を育成するという要請。他方で、②産業社会からの要請→効率的な人材の育成・配分→教育の分化(当面必要ならば早期から職業教育)→階層分裂の可能性。①と②の矛盾をどう考えるか?
・能力の多様性の強調→競争を喚起しない代わりに、何が平等かも分からない(比較可能性がないから)→徹底した個性主義の教育は、機会の不平等を見えなくしてしまう。
・近代社会における子ども:「誰でもないが誰にでもなれる者たち」。①汎用性の高い普通教育→「役に立たない勉強」と受け止められる→学ぶことの意義は? 他方で、②将来の生活と直結する職業教育→「何にでもなれる自分」を早い段階で制約してしまう。
・戦後日本の教育について。教育の外にある社会経済的不平等を縮小しようとした平等主義→選抜・競争の原理が学校内部に入ってくる。しかし、成績差・学力差を生徒の差別感の問題と考える戦後日本の教育界の態度→教育における階層間格差の問題から目を背けてきた→社会的なコンテクストの中で、自由と平等との矛盾というアポリア、それに対して教育の果たす役割は何なのかという問いかけをしてこなかった。
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