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2009年7月

2009年7月31日 (金)

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・松川昭子訳)『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(而立書房、1995年)

・「モダニティは、自然的世界の社会化──人間の活動の外在的媒介変数である構造や事象に代わって、社会的に構成された過程や作用が重きをなしていくこと──と関係している。たんに社会生活そのものだけでなく、かつては「自然現象」であったものをも社会的に構成されたシステムが支配するようになってきたのである。生殖はかつては自然現象のひとつであり、したがって、異性愛活動は、必然的に生殖の中心的行為であった」→しかし、避妊法・生殖技術→生殖の社会化→セクシュアリティは完全に自立(かつては、妊娠、出産時の死亡等の恐怖があった→性的快楽を解放)→「セクシュアリティが社会関係の「不可欠な」構成要素となったため、異性愛は、他のすべてのことがらを判断するための基準ではもはやなくなった」→自由に塑形できるセクシュアリティ
・「モダニティは、物理的社会的過程の理性にもとづく理解が、神秘主義やドグマによる恣意的支配に当然とって代わっていくという意味で、理性の優位性と不可分な関係にある。理性には感情の入り込む余地が存在せず、感情は、たんに理性の領域の外側に位置するにすぎない。しかし、現実には、感情的生活は、日々の変わりゆく活動条件のなかで新たに秩序づけられていったのである。」
・ロマンティック・ラブという観念の浸透→夫婦関係に特別な意味を付与→しかし、男性性・女性性という既成の差異によって特徴付けられた一体感
・ポスト伝統社会→自分で自分自身のライフスタイルや自己アイデンティティ(自己にまつわる過去・現在・未来を連続的に統合する叙述)を絶えず書き換え続けなければならない→再帰的自己自覚的達成課題としてのアイデンティティ
・嗜癖(addictionか?)はそれが達成できない自己不信感への防衛反応として理解できる。アイデンティティ形成で他者依存→ex.セックス依存症、共依存など
・選択の自由→「自己との対話」→否定的なアイデンティティを書き直すきっかけ
・「信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互のきずなが、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力をもつ点を信用していくこと」「相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けること」「二人がいろいろな問題で一緒になって育んでいく共有の歴史は、必然的に他の人たちを締め出し、他の人たちは、一般化された「外部世界」の一部となっていく。排他性は信頼を保証するものではないが、それにもかかわらず、排他性は、信頼感を触発する重要な要素」
・「経験の隔離」→「社会的活動を超越的なものや自然現象、生殖と結び付けてきた道徳的・倫理的特徴の消失」→日々の型にはまった行いからもたらされる安心感が崩される(その代用的行動が嗜癖など)→精神的・心理的に傷つきやすくなった→「自己が価値のない存在で、自分の人生が空虚で、自分の身体が無力な、不適格な装置であるという思い」は「モダニティの内的準拠システムの拡がりの結果として生じている」→性的活動、「ロマンスの探究」などは、空虚感に由来する達成感の探究として理解できる

※避妊の普及・生殖技術の進歩(=「経験の隔離」)→生殖と、そこに結び付いていた性愛にまつわる感情とが分離→性愛にまつわる言説が、所与の自然的条件としてではなく、社会関係のロジックに組み込まれる→ところで、性愛は身体・感情の両面において自己アイデンティティと関わる→アイデンティティ形成のあり方が社会的な再帰性に左右される、大雑把に言ってこんな感じに理解していいのだろうか。

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2009年7月30日 (木)

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』

ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ(松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳)『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)

・かつて啓蒙主義は世界の認識→理想・目的に向けて統御可能という信念を持っていた。ところが、再帰的近代化:社会の近代化→自らの存在の社会的諸条件を省察→条件を変えていく→工業社会の意図していなかった潜在的な脱埋め込みと再埋め込みの過程→人間の知識が増大したからこそもたらされる不確実性。

ウルリッヒ・ベック「政治の再創造」
・「私のいう再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。」「…再帰的近代化とは、通常の自立した近代化が、また、政治と経済の秩序に一切影響を及ぼさずに、内密に、無計画に進行する工業社会の変動こそが、工業社会の諸前提と輪郭を解体し、もう一つ別のモダニティへの途を切りひらくモダニティの《徹底化》を含意していると考えることができる。」
・「リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を疑わしくさせ、最終的にその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生みだしていくのである。」
・科学技術のもたらす予見不可能性→一般的通念としての合理性への疑い→社会は再帰的になる
・「個人化とは、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者にたいする新たな確実性を見いだし、創造することを人びとが強いられているだけでなく、工業社会の確実性の崩壊をも意味している」→個人化は一人ひとりの自由な意思決定に基づいておらず、自分の生活歴を自分で立案・演出するよう強制されている→個人は、機能主義モデルが想定する以上に複雑な言説による相互作用で組成されている。
・再帰的近代化→機能分化は実質的な分裂過程→多元的な意味の並立したシステムの形成(専門知識の特殊性は他の特殊性と対立しかねない。例えば、原子力開発と環境運動)→専門知識の特権性を排除、情報開示、公開討議の必要。

アンソニー・ギデンズ「ポスト伝統社会に生きること」
・地球規模の壮大な実験→抽象的システムの侵食という衝撃のもと、「専門的知識の置き換えと再専有」。
・伝統:前近代社会において諸秩序を一つにまとめ上げていく接着剤。反復性。現在を過去に結び付けていく一連の要素を絶え間なく解釈する作業。「定式的真理」→儀礼等が「真理」の判断基準。状況依存的。
・衝動強迫症:伝統のもつ「真理」との結び付きを失ってしまった反復行動。「伝統主義を伴わない伝統」。
・反復行動は、「自分たちが承知している唯一の世界」にとどまるための方法、つまり、「相容れない異質な」生活価値や生活様式に身をさらすことを避けるための手段。
・選択とは、過去との結び付きで未来をコロニー化し、過去の経験が残した感情と折り合いをつける積極的な側面もある→ポスト伝統の状況下、自己選択→嗜癖も一つの選択。
・アイデンティティ:反復再現と再解釈という恒常的過程→時間を超えた恒常性の創出→過去を予想される未来へと結び付けること。
・専門知識:非人格的原理・分権的・流動性→脱埋め込み→抽象的システムにおいて再埋め込み→再帰性
・「抽象的システムのなかには、人びとの生活の非常に重要な要素となったために、つねに既成の伝統と類似した、岩盤のような堅固さを一見示しているものもある」(ex.医師免許、学位など)。「ひとたび伝統と絶縁してしまった以上、近現代のすべての制度装置が信頼という潜在的に不安定なメカニズムに依存しているという事実には、根本的な意味がある」。
・「《衝動強迫症》とは、《凍結した信頼》、つまり、対象となるものがない代わりに、際限なく続いていきやすい自己投入である」。「嗜癖は、かつて伝統が供給してきたし、またあらゆる形態の信頼も同じように想定してきた例の完全無欠性に相対するものなのである。抽象的システムの世界は、またライフスタイルの選択が潜在的に開かれた世界は、…自発的な参加を要求している」。「人びとは、信頼を、代替手段の選択として投入していくのである」。
・グローバル化:目の前にないものが空間を再構築→目の前にあるものまでも支配していく過程。「誰もが「部外者」でいることができない世界は、既存の伝統が他者との接触だけでなく、代替可能な数多くの生活様式との接触が避けられない世界」。「社会的きずなを、過去から受け継いできたものでなく、むしろ望ましい結果が得られるように《つくり出して》いかねばならない社会」。

スコット・ラッシュ「再帰性とその分身──構造、美的原理、共同体」
・ベック、ギデンズの議論を踏まえた理論的な検討。

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2009年7月29日 (水)

ポール・コリアー『戦争・銃砲・投票──危険地帯のデモクラシー』

Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009

・アフリカ諸国など貧困と政治的不安定に苛まれる“最底辺の10億人”(bottom billion)。どんな対策を立てるにしても、まず実施主体となる政府に実効性を持たせることが出発点である。具体的には、国内的・対外的安定(security)と政策への責任(accountability)が国家のインフラとして最低限の要件→しかし、民族的多様性・対立状態(ethnic diversity)のため、公共財の利用が困難→国家再建の前提としてナショナル・アイデンティティの確立が必要。
・紛争終結後、新政権の正統性を確立するため民主的な選挙を実施する→しかし、“最底辺の10億人”の国々はたいてい民族的に多様→アイデンティティ・ポリティクスが激化→選挙はかえって暴力を誘発しやすい(民主的選挙→政治統合→暴力抑制、という経過をたどる先進国とは対照的)。
・紛争終結後の10年間が最も危険→①国連等による平和維持活動、②インフラ整備も含めて経済的支援が必要
・平和維持活動、over-the-horizon-guarantee(いつでも大軍を派遣できる状態を整えておくこと→シエラレオネ内戦で少数のイギリス軍の存在が抑止効果)→費用対効果に見合う成果がある。
・紛争終結後の経済的支援→インフレ抑制→貨幣への信頼を取り戻し、国外に逃げていた資本(capital flight)を呼び戻せる。インフラ整備は雇用創出にもつながる。ところで、土木工事にもスキルは必要→しかし、長引いた紛争でスキルが失われている→訓練が必要→“国境なきレンガ積み職人”が必要!
・独裁者(例えば、旧ザイールのモブツやジンバブエのムガベ)は金が欲しい、しかし、人気取りのため税はかけなくないし、輸出用天然資源も枯渇→お札を刷る→ハイパーインフレ→国民に税と思わせない実質的な増税。
・カラシニコフ銃(安価で操作性も高い)の流入→内戦リスク→国内情勢が不安定化して政権側は軍事費拡大(国外からの援助も流用)→軍拡に隣国が警戒心→地域全体の不安定化→経済にも悪影響(誰も投資しない)→この悪循環をどうするか? 地域的な協力関係を構築して不安定を解消する努力が必要→国家再建のインフラとしてsecurityを確保
(※松本仁一『カラシニコフ』などを参照のこと→以前にこちらで触れた)
・植民地帝国の解体→部族意識とたまたまの国境線→国境線の範囲内に住んでいるという意味では国家(state)だが、同じ国民としての帰属意識(national identity、national loyalty)が共有された国民国家(nation)ではない。ナショナル・アイデンティティが公共財の利用の大前提となる(そうでないと、支配部族が独占してしまう)。先進国における多文化主義(multiculturalism)は、同じ国家への帰属意識を前提とした上での多文化尊重である点に留意。
・アフリカ諸国の大半は、安全保障の点では規模が小さすぎ(部族ごとに独立すると収拾がつかない)、国内的凝集力が生み出せない点では規模が大きすぎる(部族・民族的対立)→ケースに応じて国家統合・連合も必要。
・民族的分裂状態を克服し、国家建設の基盤としてナショナル・アイデンティティ形成の必要(立場が異なっても集団的行動が可能となるように)→指導者のリーダーシップが不可欠(インドネシアのスカルノ、タンザニアのニエレレが成功例。対して、ケニヤのケニヤッタは経済発展には成功したが、キクユ族に依存→死後、キクユ族内で後継者争い→暫定的にマイノリティーであるカレンジン族のモイを大統領に→モイが実権を握り、カレンジン族優位の体制に)。
・デモクラシー確立に向けて暴力を抑制するには? Accountability→公共投資における透明性を確保するには? Security→安全保障を確保するには? 以上3つの問題点について具体的な提言。
・著者の前著『最底辺の10億人』については以前、こちらで触れた。

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2009年7月28日 (火)

R・A・ダール『政治的平等とは何か』

R・A・ダール(飯田文雄・辻康夫・早川誠訳)『政治的平等とは何か』(法政大学出版局、2009年)

・デモクラシーの理念:実効的な参加。投票における平等。社会のメンバーが政策について知る実質的な機会があるか。政策の議題の設定の仕方。
・政治的資源、知識、手腕、動機はいついかなる場でも不平等に配分されている。政治活動に費やせる時間的制約。政治単位の規模のジレンマ。市場経済。国際システムからの制約。深刻な危機(戦争、災害etc.)→政治的平等にとっての障害
・自由・公平・頻繁な選挙。表現の自由。複数の情報源へのアクセス。結社の自律性。→デモクラシーの進展度合をポリアーキー・スコアで測定
・政治的不平等の累積→社会内で特権階層が分化→他の人々は不平等克服の可能性がなくなってしまう
・消費志向型社会→豊かさへの満足ではなく、自分より上位にある者への羨望を動機として常に上昇志向→市民が他者と共に「共通善」を目指す政治社会は可能か?

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2009年7月27日 (月)

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』

長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係──朝鮮独立運動とアメリカ 1910─1922』(平凡社、2005年)

・日本の韓国保護国化に際して、Th・ルーズベルトは日本を支持(南下政策をとるロシアへの牽制)→朝鮮人は民族自決を掲げた(とされる)ウィルソンに対してどのような働きかけをしたのか、アメリカ側はどのような対応を取ったのか?
・1911年、寺内正毅総督暗殺計画の容疑→キリスト教徒・新民会員を中心に一斉検挙→百五人事件
・ウィルソンの14か条にある「民族自決主義」→抽象的な理念の一方で、具体的な問題に応じて差がつけられていた(自治能力があると認定できるか、アメリカにとって有益かという基準)→朝鮮に適用される可能性は初めからなかった
・三・一独立運動の直前、李承晩はウィルソン・パリ講和会議宛に請願書→委任統治を求める→突っ返された。李承晩の独断行動は他の運動家から反発を招き、別々の行動→分裂ぶりがアメリカ側に印象付けられてしまう。
・金奎植→パリ講和会議に働きかけ→成功せず。
・漢城政府、露領政府、上海政府→統合へ。フィラデルフィアで「韓人自由大会」(徐載弼ら)
・三・一運動→アメリカ人宣教師は驚く(日本は朝鮮人主導だとは思わず、アメリカ人宣教師が唆したと疑った)→日本当局の残酷な弾圧(ex.提岩里事件)→傍観できない(No Neutrality for Brutality ただし、あくまでも残虐性への批判であって、日本の朝鮮統治そのものを否定したわけではなかった)→アメリカ国内でも日本批判の声(ただし、アメリカ政府は日本の国内問題と理解→対立は避ける態度)
・長谷川好道総督の辞任→後任総督をめぐって原敬と山県有朋の間で綱引き:原は政務総監・山県伊三郎(山県有朋の養子)を後任総督とすることによって文官政治に道を開こうとした→しかし、陸軍の実力者である山県有朋は文官総督に反対→妥協案として海軍の斎藤実総督(政務総監には内務省出身の水野錬太郎)→武断統治終わり
・文化政治:物理的な暴力は相対的に抑制されたが、「一視同仁」のスローガンで同化政策。
→アメリカ側は基本的に満足し、朝鮮問題に対する無関心に戻った。
・しかし、独立運動は終わっておらず、満洲・シベリアで活発化→間島出兵
・1921年、ワシントン会議→李承晩たちの働きかけは失敗→コミンテルンに働きかけようとする独立運動家たちが活躍し始める→1922年、モスクワの「極東労働者大会」に呂運亨・金奎植らが出席。出席者のうち、日本代表団は民族主義を否定して社会主義の立場であるのに対し、朝鮮代表団には高麗共産党との関わりを持つ者が大半であっても独立優先→民族主義的な色彩が強かった。

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2009年7月26日 (日)

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』

金鳳珍『東アジア「開明」知識人の思惟空間──鄭観応・福沢諭吉・兪吉濬の比較研究』(九州大学出版会、2004年)

・近代東アジアにおける「伝統と近代」の異種交配現象という視点から三人の代表的知識人を比較思想史的に検討する。
・欧米文明=普遍・正という保証はない→近代化を成功とみなすとしても欧米近代由来の特殊的な負も導入された→清・朝鮮の近代化の失敗には欧米に特殊的な負の導入への抵抗という側面があったことも認識する必要があるという問題意識→「失敗の中の成功」「成功の中の失敗」という様相を捉える。
・鄭観応(1858~1914):中国の条約港知識人。変法派・立憲派→辛亥革命とは対立。単純な東道西器論者ではなく、西道の導入→東道の啓発という考え方。
・福沢諭吉:欧米文明を時間軸で相対化→一国独立に向けて目的化・基準化・手段化。儒教批判→儒教の負の面だけでなく、正の側面=道徳主義まで否定してしまう行き過ぎがあったと指摘(道徳主義→近代文明の負の側面を批判する契機があったはずだという著者の問題意識)。儒教的普遍主義から自国中心主義へと転回したと指摘。(※福沢理解が一面的で私には違和感があった。福沢は欧米文明=唯一の文明と捉えていた、と言う。しかし、福沢は『文明論之概略』で、欧米とて乗り越えられ得るとはっきり書いているが、どうなんだろう?)
・兪吉濬:初期開化派と付き合い→日本・アメリカ留学→近代思想を学ぶ→甲午改革に参加→俄館播遷で日本に亡命→1907年、日本の保護国化された朝鮮に帰国→現実主義的な愛国啓蒙運動に参加。東道と西道との異種交配→欧米文明の正の側面を導入しつつ、儒教文明の負の側面を否定→普遍主義。
・三人の万国公法のあり方、国際政治観、近代国家観を比較検討→福沢は国権重視、対して鄭・兪の二人は普遍性重視という点を強調する。
・本書の問題意識は意欲的で興味深いとは思うけれど、論点の選び方や引用の組み立て方が恣意的という印象を拭えない。たとえば、福沢=天皇大権の主唱者という指摘は明らかにおかしいだろう。

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梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』

梁賢惠『尹致昊と金教臣 その親日と抗日の論理──近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』(新教出版社、1996年)

第1部 尹致昊の政治思想とキリスト教
・尹致昊(ユン・チホ、1865~1945)は日本・中国・アメリカ留学経験のある知識人。近代国家を目指して「独立協会」会長も務めたが、後に積極的な親日運動、日本の敗戦後に自殺。
・アメリカ留学→当時流行していた社会進化論的な「適者生存の原理」とキリスト教とを結びつけて理解→「産業文明国=善=永遠の至福、非産業文明国=悪=永遠の滅亡」という二項対立的論理による世界観
・アメリカで人種差別体験→文明化に成功した日本に正の価値を認めて「代理的な心の祖国」と位置付けて西欧への反逆を思い描く。他方で、朝鮮は負の価値を負ったものとして認識
・独立協会などの運動に関わるが、百五人事件で逮捕される→権力の怖さを知る
・「強者の不義」は闘争によって獲得された「正当な権利」→弱さは罪→朝鮮独立不可能論
・日本の植民地支配強化→「内鮮一体」以外に選択肢はない→「日本のアイルランドではなく、スコットランドになる」→戦争の拡大・長期化により、日本は朝鮮人の協力を必要としている、この機会に差別的待遇から脱する→「民族の発展的解体論」

第2部 金教臣の思想と「朝鮮産キリスト教」
・金教臣(キム・キョシン、1901~1945)は三・一独立運動に参加後、東京に留学、東京高等師範学校を卒業。内村鑑三の聖書研究会に出席。帰国後は教員のかたわら無教会主義の活動。逮捕・釈放の後、日本の敗戦直前に病死。
・キリスト者の単独性を重んじる無教会主義。「真正な愛国者であると同時に生きた神を知る人」として内村鑑三を尊敬→その上で、朝鮮独自の無教会主義
・「神の僕」として「近代人」を拒否。認識・行為主体としての「近代的自我」を確立すると同時に、信仰を媒介として自己を普遍的な他者に開放→「近代的自我」を超克
・神秘主義的傾向を持つ「復興会」に対しては、現代社会の不義を批判しないこと、シャーマニズム的形態=非理性的と批判。社会的キリスト教運動に対しては教義的な批判
・アメリカの宣教師→人種差別的、またキリスト教とは無関係な要素も流入→アメリカ的・非キリスト教的形式を除去すると同時に朝鮮独自のキリスト教を模索(異教の聖賢君子がキリスト教を知らなかったからと言って地獄に落ちるとは信じがたい)→伝統思想としての儒教との相違を弁別した上で接木→誠実さを重視(※内村鑑三『代表的日本人』を想起させる)
・植民地支配下でも「自己受苦」を責務とする→植民地批判

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苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』

苅谷剛彦『教育の世紀──学び、教える思想』(弘文堂、2004年)

・教育を考える上でも立ちはだかる自由と平等との矛盾という根源的なアポリア、この問題を19~20世紀のアメリカ社会思想、とりわけ社会学者レスター・ウォード(1841~1913、アメリカ社会学会初代会長)を手掛かりに考える。
・ウォードは開拓民の子供、独学で身を立てた知識人。
・当時は社会ダーウィニズムが流行して自由放任主義礼讃(自然淘汰→現代で言えば自由至上主義)。しかし、現実には低位階層から這い上がるのは難しい。自由の国アメリカという理念の下、出自によらず社会的な上昇はできないのか?→ウォードは知性平等主義の考え方から、教育の機会の平等を主張した。機会の平等→努力や能力の差→結果としての不平等については社会的に認容する。能力の個人差は確かにあるが、それが階級・ジェンダー・エスニシティーといった出自の問題で左右されてはならない。
・教育の拡大→社会の平等化の手段という問題意識はデュルケムやヴェーバーには見られない。
・ウォードの考え方は、①社会改良の手段としての教育、②(個人の生得的な能力差を認めた上で)知性の発達可能性を前提とした教育の役割、③職業選択と職業上の成功の機会と結びつく教育機会の普遍化
・このように教育はライフチャンスを平等化するという考え方が広まるが、他方で現実には教育はこの要請に応えるのが困難→教育内部において、出身階層・ジェンダー・エスニシティー等による不平等が隠蔽され、維持・再生産されてしまう問題。
・ハイスクール拡張運動→異なる階層の出身者が同じ教室で机を並べること自体が最初は驚異的だった。
・①共和国の理念→自立した市民を育成するという要請。他方で、②産業社会からの要請→効率的な人材の育成・配分→教育の分化(当面必要ならば早期から職業教育)→階層分裂の可能性。①と②の矛盾をどう考えるか?
・能力の多様性の強調→競争を喚起しない代わりに、何が平等かも分からない(比較可能性がないから)→徹底した個性主義の教育は、機会の不平等を見えなくしてしまう。
・近代社会における子ども:「誰でもないが誰にでもなれる者たち」。①汎用性の高い普通教育→「役に立たない勉強」と受け止められる→学ぶことの意義は? 他方で、②将来の生活と直結する職業教育→「何にでもなれる自分」を早い段階で制約してしまう。
・戦後日本の教育について。教育の外にある社会経済的不平等を縮小しようとした平等主義→選抜・競争の原理が学校内部に入ってくる。しかし、成績差・学力差を生徒の差別感の問題と考える戦後日本の教育界の態度→教育における階層間格差の問題から目を背けてきた→社会的なコンテクストの中で、自由と平等との矛盾というアポリア、それに対して教育の果たす役割は何なのかという問いかけをしてこなかった。

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2009年7月25日 (土)

「湖のほとりで」

「湖のほとりで」

 湖畔で眠ったように横たわる少女の死顔、湖水や森の木々を背景に浮び上る柔肌の白さは清潔にみずみずしく美しい。

 殺人事件として捜査にあたるベテランのサンツィオ警部は容疑者とにらんだ何人かの村人たちをたずねてまわり、話を聞く。犯人探しのサスペンスというよりも、警部を狂言回しとして、他人にはうかがい知れぬそれぞれの家庭の葛藤を垣間見ていくのがストーリーの中心となる。誰が犯人であるかはそもそも問題にはならない。

 被害者の恋人は彼女が余命わずかの深刻な病を抱えていたことを知らなかった。被害者の父親は娘に異様な執着を持っており、妻の連れ子である姉のことは全く眼中にない。純真だが知的障害のある男性と、そうした彼をもてあます車椅子の老父。被害者が以前にベビーシッターをしていた家庭、“育てにくい”赤ん坊は被害者にはなついていたが、両親は“事故”(?)で死なせてしまっていた過去も掘り起こされる。それぞれの家庭の葛藤を垣間見ながら、警部自身も若年性アルツハイマーとなった妻のことを考えている。

 夫婦の関係、親子の関係、愛情があって当たり前だと他人からは見られても、そうした関係性は必ずしも自明なものとは言えない。何らかの問題を抱えているとき、「どうして自分のところだけ普通じゃないんだ」と鬱屈した思いを抱え込み、他人の眼差しに気付くと「どうせお前には分からない」と一層苛立ちを募らせてしまう。

 映画のラスト、警部は娘を連れて病院の妻を訪ねる。娘は言葉をかけたが、妻は彼女が誰なのか分からないような戸惑った表情を示す。それでも警部は、「見ろよ、微笑んだじゃないか」と娘に言う。ある種の“錯覚”も、それによって相手を赦し、受け入れることができるなら必要な手段ということか。

 全体的に淡々と落ち着いた映像構成。そこにかぶさるミニマリズム的な音楽には過剰な感傷を抑えた情感があって私は好きだな。

【データ】
原題:La Ragazza del Lago
監督:アンドレア・モライヨーリ
イタリア/95分/2007年
(2009年7月24日、テアトル銀座にて)

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2009年7月24日 (金)

レイ・タキー『革命の守護者:アヤトラたちの時代のイランと世界』

Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs, Oxford University Press, 2009

 イラン国内の政治力学、とりわけイデオロギー的立場とプラグマティックな立場とのせめぎ合いが対外政策に連動している様相を本書は分析する。著者による前著『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』(→こちら)では国内の党派的動向の分析に重きが置かれていたが、本書は外交政策形成の国内的背景が中心テーマとなる(内容的には重複が多い)。とりわけ、イランとアメリカの関係、一方の敵愾心が他方の憎悪を増幅させてしまう負のスパイラルを解きほぐすことに焦点が当てられる(なお、『隠されたイラン』を取り上げた際に著者名をタケイと表記したが、『フォーリンアフェアーズ 日本版』の目次をネット上で見るとタキーとなっているので、こちらに従う。)

 イスラム革命の当初から革命イデオロギー(欧米=帝国主義、イスラエルやアラブ諸国支配階層はその代理人)とプラグマティズムとのせめぎ合いが見られた。バザルガンやバニサドルは中立政策(アメリカとは距離を置くが、関係断絶まではしない)を模索したが、アメリカ大使館占拠事件、イラン・イラク戦争と続いてホメイニ体制が確立する過程で失脚。体制内でも、例えばラフサンジャニは柔軟な路線(融和とはいわないまでも、現実的な交渉はする)をとろうとしたが、保守強硬派から猛反発を受けると反米的態度を表明(保守派の抵抗があるとすぐに自説を撤回して立場を守るのが彼の政治行動の特徴で、今回の大統領選後の混乱でもムサビ支持でありつつ現体制への支持も表明した)。ホメイニも彼をかばってラフサンジャニ批判にストップをかけた→ホメイニは体制内の多元的な政治勢力のバランサーとしての役割を果たしていた。

 イラン・イラク戦争の終結後、穏健派のラフサンジャニ政権は経済再建という課題に直面→対外関係の改善が不可欠だが、そうした現実的要請と革命理念との矛盾に苦しむ。イデオロギー的要因から欧米諸国・湾岸首長国との関係改善は失敗したが、社会主義への反発はありつつもソ連・中国とでは成功(この際、中国内ムスリムの窮状は無視された→パワー・ポリティクスの論理がうかがえる)。次の改革派ハタミ政権は“文明の対話”を提唱、イランの変化を国際社会に印象付けた。

 ラフサンジャニら穏健派、ハタミら改革派はホメイニ体制を維持しつつ近代国家を摸索したが、経済開放→外来文化の流入→欧米帝国主義への屈従だとして保守派から反発、その保守派は非選出ポストにいて妨害→内政面での改革には失敗した。「視野の狭い反対者」と「忍耐のない友人たち」との板ばさみになったハタミはとにかく両者のなだめ役に回るしかなかったが、成果はなく改革派は幻滅→次の選挙では決選投票に持ち込まれた末、ダークホースだった保守強硬派のアフマディネジャドが穏健派の実力者ラフサンジャニを破って当選(改革派はメディアを通した世論に依存して組織固めをしなかったのに対し、保守派には革命防衛隊などの組織があったことも指摘される)→最高指導者のハメネイはアフマディネジャドを支持した。理由としては、ハメネイはラフサンジャニとは対立関係にあったこと、また、ホメイニとは異なって宗教的カリスマに乏しく、自前の政治基盤を固めるため保守強硬派に軸足を置く→ホメイニのような体制内バランサーとしての役割を放棄(今回の大統領選挙後の混乱の一因ともなった)。

 アフマディネジャドは「ホロコーストはなかった」発言で物議をかもした。イランでは、国内向けのロジックをそのまま国際社会に向けて発信して反発を受けてしまうシーンがしばしば見られる。イスラエル抹殺など過激な発言の背景としては、第一に、アフマディネジャドやその支持組織である革命防衛隊はイラン・イラク戦争で聖戦意識の昂揚した時代に育った→イデオロギー性が濃厚。第二に、中東諸国の一般感情に訴えて地域大国としてのリーダーシップ強化という戦略的思惑もある(ヒズボラやハマスへの支援には両方の動機が見られる)。他方で、対話を通じて国際社会における地位確立を目指すハタミらの改革派はこうした発言を批判している。

 地域大国としての存在感誇示(=ナショナリズム)のため核開発を進めるという点では、実はパフレヴィー朝時代から一貫している。もう一つの動機は、イラン・イラク戦争での国際的孤立、とりわけイラクによる化学兵器の使用(国際社会は黙認したというダブルスタンダードへの反発)→安全保障は自力救済という強迫観念(この動機から核開発に着手したのが、当時のラフサンジャニ国会議長とムサビ首相)。穏健派・改革派の場合、あくまでも抑止力としての核開発→取引や譲歩も可能。対して、保守強硬派はナショナリズムが主要動機→取引困難。なお、ナショナリズムに立つ保守強硬派の中でも、アフマディネジャドのようなイデオロギー的武闘派だけでなく、イランの地域大国としての地位を確立するためにはアメリカとの合理的な交渉も必要という現実派もいる(たとえば、核開発問題の交渉役やその後国会議長も務めたラリジャニ→今回の大統領選後の混乱ではアフマディネジャドを批判)。

 アメリカのCIAの画策でモサデク首相失脚のクーデター、イラン・イラク戦争ではイラクを支持し、フセインの化学兵器使用を黙認→イラン側の憎悪。対して、アメリカ大使館占拠事件→アメリカ側にも憎悪。イラン・アメリカとも、相互認識のミスリードが両国間の緊張をますます高めてしまう負のスパイラルがある(ブッシュ政権はイランを“悪の枢軸”の一つに指名した)。湾岸戦争後におけるイラクのフセイン政権、9・11後におけるアフガニスタンのタリバン(スンニ派)という共通の敵→関係改善のきっかけもあったが、イラン国内の反米強硬派とアメリカ側の対イラン不信感のため、ラフサンジャニのプラグマティックな路線も、ハタミの“文明の対話”路線も失敗してしまった。

 大雑把に言って、国際政治におけるリアリズムは力の均衡という観点から国家間関係を把握する(パワー・ポリティクス)。こうした捉え方が必ずしも間違っているとは思わない。有効な場面もあり得るが、ただし、国家それぞれの内在的要因が過度に単純化されてしまうと、力の均衡を図る(つまり、相手の善意に期待しない)という点ではリアルではあっても、相手方の行動の原因・動機を正確に認識できないという点で必ずしもリアルとは言いがたい。具体的には、ネオコンがこの罠に陥った(→ロバート・ケーガン『歴史の回帰と夢想の終わり』[邦題:『民主国家vs専制国家 激突の時代が始まる』]の記事で触れた)。第一に、その国家内で複数の政治グループがせめぎ合っている場合、どのグループが主導権をにぎるかによって出方が異なってくる。第二に、どのグループが主導権をにぎるかは、対外的脅威の受け止め方、言いかえればこちらからの圧力のかけ方によっても変動し得る。こうした相互認識のあり方が外交政策形成に及ぼす影響に着目するアプローチをコンストラクティヴィズムという(→ピーター・J・カッツェンスタイン『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』または『日本の安全保障再考』の記事で触れた)。

 イラン政治の内在的ダイナミズムと外交政策との関わりからそうしたパーセプション・ギャップを捉えかえそうとする本書の視点はコンストラクティヴィズムの分析アプローチに近いと言える。イラン外交に時折見られる機会主義(オポチュニズム)的な対応には、イスラム革命イデオロギーだけでなく地域大国としての地位を目指す戦略的動機もうかがえる。アメリカはバランス・オブ・パワーの考え方で封じ込め政策をとるのではなく、地域的安全保障の枠組みにイランも巻き込み、そのバックアップをするべきだと本書は主張する。なお、Mohsen M. Milani, Teran's Take: Understanding Iran's U.S. Policy(Foreign Affairs, July/August 2009)も同様の議論を展開している。こうした提言を受けてであろう、オバマ政権は対話路線に切り替えている。

 ついでに言うと、国際世論の反発という政治的コストがかつてないほど大きくなっているため、リアリズムも変質している。ネオコンのようなイデオロギー的な動機からパワーの行使をためらわないリアリズム(矛盾した表現だが)は異様であった。たとえば、スティーヴン・ウォルトは、パワー・バランスの不安定が紛争につながりかねない地域だけに必要最小限の軍事的プレゼンス(オフショア・バランシング)→地球規模の軍事戦略は抑制→国益に死活的な場面に限定すべきというロジックをとり(ネオリアリズム)、ネオコンを批判した(→『米国世界戦略の核心』)。

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2009年7月22日 (水)

上杉隆『世襲議員のからくり』

上杉隆『世襲議員のからくり』(文春新書、2009年)

 議員の当選に必要とされるジバン(後援会組織)・カバン(政治資金管理団体)・カンバン(選挙区内における知名度)が親族間で世襲されている問題。政治資金管理団体を通した政治資金の継承は、事実上、非課税相続ではないかと指摘される。後援会はその選挙区における利権構造をがっちりと組み立てている→議員の引退・死去により地元有力者の間で後継者争いが始まるとこの利権構造が崩れてしまう→血統のシンボル性により親族だとうまく収まる→後援会が世襲を望むという政治風土的構造がある。

 世襲制限の提言に対して、「門地による差別であり憲法違反だ」という反論があるが、そもそも一般人が政界に入る機会の均等が著しく侵害されているのだから、その是正措置は憲法の枠内に収まる。さらに、世襲議員の大半には切磋琢磨の機会がなかった→胆力がない→安倍晋三・福田康夫・麻生太郎のような体たらくになると本書は批判する。選挙区ががっちり固まっている→選挙に悩まされずに長期的な視点で政策に取り組める、という見解も確かにあり得るが、実際には、たとえば麻生太郎とか見てノブレス・オブリージュの感覚がほんのわずかでもうかがえるだろうか?

 さてさて、ようやく衆議院解散。私は政局話が結構好きで、選挙が近くなると、関係ないのに(ていうか、有権者だから関係はあるんだけど、選挙活動には関与しないという意味で)何やらワクワク。開票速報はビールを用意してテレビの前でスタンバイ。スポーツ観戦のノリですな。先日の都議選はなかなか楽しませてもらいました。

 私は、自民党が負けどまるか民主党が勝つかというのはあまり気にしていない(ただし、政権担当能力のある政党が複数存在することによるダイナミズムは必要だから、その点で民主党がきちんと足腰の立つ政党になって欲しいと望んではいる)。以前、こちら(→選挙について適当に)でゴチャゴチャ書いたことがあるけど、選挙結果よりも投票率の方が大事だと思っている。現世超越的なものに統治の根拠が求められなくなった→根拠はどこに?→「民意」というフィクション→既存の統治システムに対して正統性を付与するフィクショナルな仕掛けが選挙(制度内の変革可能性を示して国民の不満をガス抜き)→肝心の有権者が投票に行かなければこの正統性にかげりが出てしまう。それに、投票率高い→無党派が投票行動→組織票の割合が低下して結果の予測不能度が高まる→開票速報がエキサイティング!→ビールがうまくなる(残暑の時候だし)。そうなって欲しいものです。

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2009年7月21日 (火)

児童虐待についての本

川崎二三彦『児童虐待──現場からの提言』(岩波新書、2006年)
・著者は児童福祉司。現場での活動経験を踏まえて具体的な対応のあり方や児童相談所をめぐる制度的問題を指摘する。
・児童虐待:身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育の怠慢)、心理的虐待
・親権者には民法で懲戒権がある→虐待?しつけ?→社会通念も含めて児童虐待についての合意形成ができておらず、しばしば混乱を招く
・日本では主たる虐待者のうち六割以上が実母
・児童虐待の要因:①多くの場合、虐待する親自身が子どもの頃に大人から愛情を受けていなかった(→世代間連鎖につながりかねない)、②経済不安・夫婦不和など生活上のストレス(貧困など社会環境的要因もある)、③社会的に孤立(親族や地域社会から→こうした人間関係に組み込まれていないため、基本的な生活技術を身につける機会がなかった→育児怠慢につながっているケースもある)、④親にとって意に沿わない子どもであった(望まぬ妊娠、育てにくい子ども、障害があるetc.)
・家庭内の密室空間でおこり、保護者も被害児童も積極的に打ち明けたがらない→発見自体が困難
・国民すべてに通告義務がある→しかし、誤報も一定数ある→それを社会全体で許容できるかどうか
・児童相談所の行なう一時保護だけが強制手段→①子どもの生命の危険を回避、②立ち入ることは保護者の親権への権利侵害であり、また子ども自身の生活環境に悪影響もあり得る→①と②の矛盾をどのように調整するか?→現在は所長の判断のみが法的根拠だが、司法の関与が必要。

 毎日新聞児童虐待取材班『殺さないで──児童虐待という犯罪』(中央法規、2002年)や朝日新聞大阪本社編集局『ルポ 児童虐待』(朝日新書、2008年)は新聞連載をもとに多くの事例を紹介。あり得るケースは網羅されているが、総論的。杉山春『ネグレクト 育児放棄──真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館、2004年)は子どもを段ボールに押し込めて放置、餓死させた事件を、佐藤万作子『虐待の家──義母は十五歳を餓死寸前まで追いつめた』(中央公論新社、2007年)は2003年に岸和田でおこったやはりネグレクトの事件を取り上げたノンフィクション。『ネグレクト』『虐待の家』ともに両親自身の育った背景も追っており、事件に絡まる様々な要因が見えてくる。

森田ゆり『子どもへの性的虐待』(岩波新書、2008年)
・事例紹介・分析と同時に、具体的な対処方法も示す。
・ミーガン法(性犯罪者の情報公開)→しかし、実際には性犯罪をおこすのは身近な人が多い。また、再犯率も必ずしも高くはない→不安感を煽る一方で、身近な性犯罪への注意が乏しくなる。
・加害者が身近な人だと、被害児童に話を聞いてもその人を守ろうとすることがある。
・被害児童が自分に過失があったと思い込んでしまう。
・性的虐待→被害児童が無力感、さらには自己嫌悪感を後々まで引きずる。
・被害状況を話させる→思い出すこと自体が苦痛・葛藤を引き起こす。
・対応する側の問題:①性のタブー意識、②物証がない場合、③事実関係は加害者と被害者しか知らない、④被害児童は周囲の反応を敏感にうかがいながら話す内容を変えてしまうことがある、⑤制度的な問題、⑥社会からの偏見・誤解
・話しても信じてもらえなかった→大人への不信という二次被害
・「蘇った記憶」論争

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2009年7月20日 (月)

山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』、阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』

山野良一『子どもの最貧国・日本──学力・心身・社会におよぶ諸影響』(光文社新書、2008年)
・著者は児童福祉司で、アメリカに留学・ソーシャルワーカー勤務の経験もあり、具体例と国際比較の視点で貧困環境にある子どもの問題を指摘する。
・自己責任論・人的資本論→個人にかかる社会環境的制約をどう考えるのか? すべてを個人の努力に還元できるのか?
・学力獲得→スタート時点における家族背景という差→教育社会学では親の学歴に重きが置かれてきたが、所得要因が大きい
・貧困環境→生活上の困難を解決する手段を見出すのが難しい。精神的負荷が大きい。出産にも影響。抑うつ感により夫婦関係・親子関係の悪化→子どもの身体面・情緒面で大きな悪影響。
・先進国の場合には、絶対的所得水準だけでは不十分→「相対的所得仮説」:貧困者の心理的ストレスが身体面にも悪影響を及ぼしている。

阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』(岩波新書、2008年)
・山野書と同様に所得効果に着目、データの経済学的分析を通して子どもの貧困環境の問題を考える。
・15歳時の貧困→限られた教育機会→恵まれない職→低所得→低い生活水準→世代間連鎖
・メリトクラシー(業績主義による人材選抜システム)においては、「能力」「努力」が本人にはどうにもならない属性によって影響を受けないことが大前提→貧困等でスタート地点においてハンディがあるのだから、義務教育制度での対策が必要(無償化、「ヘッドスタート」etc.)
・「相対的貧困」概念→OECD諸国の中で日本の相対的貧困率はアメリカに次いで2番目
・日本の社会保障制度において、低所得者は負担と給付が逆転しているという問題
・母子世帯→母親の就業機会が限定されており、長時間労働・低賃金(ワーキングプア)→子どもの養育に悪影響
・「相対的貧困」概念によって貧困を測定(「合意基準アプローチ」、つまり当該社会において何が最低限必要なのかアンケートの多数決で項目設定)→所得金額ベースの議論は抽象的で分かりづらいのに対し、具体性をもった政策提言につなげられる

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山田昌弘『新平等社会』『迷走する家族』『少子社会日本』

山田昌弘『新平等社会──「希望格差」を超えて』(文藝春秋、2006年)
・市場主義の外部不経済としての格差問題(絶望→希望格差)→完全な機会の均等は無理だとしても、少なくともそれぞれの立場なりに「努力すれば報われる」ことを保障(希望の平等)→第三の道
・ニュー・エコノミーの進展により、大量の定常作業労働者が必要→フリーター・非正規雇用社員は低収入・不安定な立場などだけが問題なのではなく、代替可能な存在→自分の仕事を評価してくれる仕事仲間がいないことでインセンティブ低下→自分の努力をきちんと評価してくれる関係性=社会関係資本が必要

山田昌弘『迷走する家族──戦後家族モデルの形成と解体』(有斐閣、2005年)
・社会制度的に家族へ期待されている機能:①子供を生み育てる責任、②生活リスクから家族成員を守る(他に、「かけがえのない存在」として「生きがい」を与える「アイデンティティ供給機能」)→機能不全→なぜ?
・家族モデルの実現可能性低下と多様な家族モデルの乱立(魅力的な家族モデルを達成できる人とできない人との格差顕在化)
・高度成長期に確立した家族モデル:夫の収入による生活水準規定、性役割分業(専業主婦)→それぞれの役割を果たすことで「愛情」の確認→こうした戦後家族モデルを無理に維持しようとする努力がかえってひずみを増幅
・女性は結婚によって、生業・所得・ステータス・配偶者の学歴などの面で親の世代よりも階層上昇の期待があった→いまや経済低成長・頭打ち→結婚への期待水準と現状との折り合いがつかない
・①ニュー・エコノミーの進展により家族の経済基盤不安定化のプロセス。②個人化→自己実現イデオロギー→非現実的な理想的家族モデルへの憧れ→①と②が同時進行→家族形成の困難

山田昌弘『少子社会日本──もうひとつの格差のゆくえ』(岩波新書、2007年)
・「仕事をしたいから結婚したくない」のではない→収入見通しの不透明化→結婚への期待水準との折り合いがつかない→結婚できない(年収が低くても親と同居→年収が高い一人暮らしよりも豊かな生活が可能→パラサイト・シングル)
・地域格差と家族格差とを伴った少子化が進行中
・近代化による個人主義の浸透→共同体の崩壊により「長期的に信頼できる関係」が自動的には与えられなくなった→「個人的に」そうした関係をつくる必要→「家族」形成への欲求
・魅力格差、経済格差、恋愛(セックスも含む)と結婚との分離
・生育環境・結婚前の生活水準<結婚相手である夫の収入増大の見通し→女性の結婚へのインセンティブ(かつて男性の「魅力」の問題は経済力でクリアできた)
・親が本人にかけた教育等の費用が自身の子育てに向けた期待水準の前提→収入低下→期待水準をクリアできない→出産数を減らす

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2009年7月19日 (日)

「ディア・ドクター」

「ディア・ドクター」

 ある山あいの小さな村で村人たちが騒いでいる。診療所の医師である伊野(笑福亭鶴瓶)が突然失踪したらしい。取り立てて事件性もないので、駆けつけた二人の刑事(松重豊、岩松了)は当初、捜査に乗り気ではなかった。しかし、伊野について調べ始めると、どうやら彼は医師免許を持っていなかったらしいことが分かる。彼はなぜ失踪したのか、というよりも、そもそも彼は何者だったのか? 二ヶ月前、研修医の相馬(瑛太)がこの村へやって来た時点までさかのぼって物語は説き起こされる。

 過疎地の高齢化、医師不足、医師と患者とのコミュニケーションのあり方、住み慣れた家で死ぬのか病院で死ぬのかというQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の問題──医療をめぐる様々な社会的背景をこの映画から読み取ることも必要だろうし、伊野は何者だったのかという問いかけは、彼がこの寒村で果たしていた役割を捉えなおすことにつながる。

 だが、それと同時に、伊野は心の中で一体どんなことを抱えていたのだろうという問いかけも観客の脳裡に自然とわきおこさせる、そうした心理描写のこまやかさが何よりもこの映画の魅力だと思う。舞台もテーマも地味ではあるが、謎探し的なストーリー展開と濃密なドラマ、山村の緑や旧家を背景にしたカット、どれも実に良い感じだ。

 笑福亭鶴瓶がはまり役なのが意外だった。あのニタニタ顔が、うさんくさそうにも、包容力のある温かさにも、どちらにも受け取れて、伊野という人物の存在感を際立たせている。“医師の資格”をめぐって相馬は伊野への賛嘆を隠さないが、このときのすれ違いで伊野(つまり、鶴瓶)が見せるやるせない表情など印象に残る。

 西川美和監督の小説集『きのうの神さま』(ポプラ社、2009年)にも同名の短編があるが、内容は異なる。この本には、映画「ディア・ドクター」の準備で医療関係者に取材しながら書いた短編が集められている。原作というよりも原案という位置付け。直木賞候補に挙がっていたが、受賞は逃がしたらしい。小説としてはむしろ『ゆれる』(ポプラ文庫、2008年)の方が私は好きだな。もちろん、映画「ゆれる」もおすすめ。

【データ】
監督・脚本:西川美和
出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、香川照之、松重豊、岩松了、井川遥、八千草薫、他
2009年/127分
(2009年7月17日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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ラビア・カーディル『ドラゴン・ファイター:平和を求めて中国と闘うある女性の物語』

Rebiya Kadeer with Alexandra Cavelius, Dragon Fighter: One Woman’s Epic Straggle for Peace with China, Kales Press, 2009

 “ウイグルの母”ラビア・カーディルは、中国政府による苛酷な弾圧から逃れたウイグル人亡命者の組織・世界ウイグル会議の主席を務めている。本書は、彼女へのインタビューをもとに物語風に再構成された自伝である。巻頭にはダライ・ラマから寄せられた序文が掲げられている。

 政策として行なわれた強制移住への戸惑い、貧困、必ずしも望んだわけではなかった銀行幹部との結婚、文化大革命、そして離婚。漢人優位の社会体制や女性の立場の低いウイグルの伝統的な考え方の中、公的な教育を受ける機会のなかった彼女にとって状況は最悪であった。しかし、自立心の旺盛な彼女は洗濯屋を皮切りに、試行錯誤の末、商売で成功を収める。文化大革命は終わり、改革開放の機運の中、中国でも有数の富豪として認知された彼女は全国人民代表大会新疆ウイグル自治区代表など様々な公的役職にも就いた。

 これは単なる成功物語としてではなく、彼女の社会起業家としての側面をみるべきだろう。彼女がとりわけ努力を傾けたのは女性のエンパワーメントの問題である。1987年、国際女性デーである3月8日を期してバザールを開設した。女性でも自ら稼げる場所を提供するためである。このバザールを七階建てのビルに建て替えたが(ラビア・ビルと呼ばれ、ウイグル人にとってシンボル的存在となった)、建築費用そのものよりも、建築許可を得るためのワイロに要した額の方が大きかったという。官僚制度の腐敗が壁として立ちはだかっていたが、そこに風穴をあけることができたのは、残念ながら必要悪としてのカネの力であった。そのことを彼女は身をもって体験していた。漢人優位の社会構成の中で被抑圧的立場にある少数民族や女性。尊厳も、最低限の生活保障すらも奪われていた彼ら彼女らにとって、何よりもまず自ら稼ぐ力を身につけることが必要であった。それが非暴力的・合法的にウイグル人の立場を高め、一人ひとりが尊厳をもって生きていける環境を築くための手段だからこそ、彼女は子供たちの教育や女性のエンパワーメントの事業に取り組んだ。

 だが、それでも限界がある。たとえば、中国政府はウイグル人に政治的保護を与えないため、カザフスタンに行ったウイグル人事業家はギャングに命を狙われるという話が本書に記されている。つまり、殺して金を奪ってもウイグル人ならどこからもクレームはつかないからである。自分たちの政府を持たない悲劇。ロプノールで行なわれた核実験ではウイグル人に放射能被害が出ている。1997年にはグルジャ事件がおこった。

 こうした状況の中、彼女は全人代(the National People’s Congress)[訂正→人民政治協商会議]で演説する機会が与えられた。全人代での演説は事前に草稿の検閲を受ける。しかし、彼女は検閲済みの草稿など読み上げず、ウイグル人の置かれている窮状を強い調子で訴えた。会場からは喝采を浴び「よくぞ率直に話してくれた」と握手を求められた、が、安心するのは甘すぎる。善処の約束はすべて偽りであり、間もなく報復が始まった。彼女はすべての役職を解かれ、女性のエンパワーメントを目的として立ち上げた「千の母たちの運動」は“分離独立運動”とみなされて解散に追い込まれた。そして、ウルムチを訪問中のアメリカ国会議員たちと接触しようとした彼女は国家機密漏洩の容疑で逮捕され、刑務所に送り込まれてしまう。

 刑務所で彼女が目撃した光景は悲惨であった。漢人職員によるウイグル人収容者の拷問が横行していた。彼女自身も、減刑を約束された同房者からいやがらせや監視を受ける毎日で、ハンガーストライキを行なった。在獄中の2004年、ラフト人権賞を受賞。海外からの働きかけもあって、2005年に病気療養の名目で釈放され、そのまま空港に直行、アメリカの外交官に引き渡され、亡命することになった。

 しかし、アメリカに亡命したからといって安心はできない。何よりもまず家族を新疆に残したままだ。また、2006年にはワシントンで“交通事故”に遭い、かろうじて一命はとりとめたが、これは中国の公安の仕業であった。(なお、日本とて安心はできない点では例外とは言えない。水谷尚子「中国のスパイだった友人の告白──素人を協力者に仕立てる当局の恐るべき手口」『VOICE』[2009年8月号]には、来日したラビア女史の動向や日本でウイグル問題に関心を持っている人物・組織について探りを入れて公安に報告していたウイグル人のことが記されている。彼らとて自発的にスパイをしているのではなく、公安に弱みを握られ、脅され、罠にはめられてそうした活動を無理強いされている。)

 今回のウルムチ事件ではだいぶ報道はされたものの、これまでチベットに比べてウイグルの問題はあまり注目を浴びることはなかった。9・11後、中国政府はウイグル→イスラム→アル・カイダ→テロリズムという何ら必然性のないこじ付けで“テロとの戦い”を大義名分としてウイグル人弾圧を正当化していることが指摘される。

 本書のオリジナルはドイツ語だが、英語版に続き、近いうちに日本語版も刊行されるらしい。水谷尚子『中国を追われたウイグル人』(文春新書、2007年)にもラビア女史へのインタビューがあるのでこちらも参照されたい。

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奥野修司『沖縄幻想』、与那原恵『まれびとたちの沖縄』

 “基地の島・沖縄”“癒しの島・沖縄”──沖縄イメージとしてはこうした二つのステレオタイプがあるだろうか。以前に取り上げた佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル、2008年→こちら)はアンダーグランドの人物群像を通してこうしたステレオタイプに収まりきれない沖縄を描き出しており、興味深く読んだ。

 奥野修司『沖縄幻想』(洋泉社新書y、2009年)は、不動産バブル、観光産業の問題(たとえば、カジノ誘致構想)、補助金の問題をはじめ“癒しの島”イメージの背後で進行中のテーマを追う。伝統食よりも高脂肪食が好まれているため長寿県としての地位は転落中らしい。昔は貧しかったからこそユイマールとしての助け合いもあったが、現在はそうした結びつきも薄れつつあり、とりわけ男性自殺率が高いというのは考えさせられてしまう。

 与那原恵『まれびとたちの沖縄』(小学館101新書、2009年)は、沖縄への外来者に焦点をしぼって歴史的なエピソードをつづる。19世紀、琉球王国にやって来た宣教師ベッテルハイムの異文化での孤軍奮闘ぶりを「ご機嫌ななめ」と表現しているのが面白い。文化摩擦の苛立ちを温かく見守る筆致が良い。伊波普猷が沖縄学を志すきっかけをつくった田島利三郎という人は初めて知った。沖縄音楽に関心を寄せた田辺尚雄が戦時下になると「大東亜民族民謡」なる概念を提唱したあたりには当時の時代的雰囲気が感じられて関心を持った。

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2009年7月14日 (火)

佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』

 2001年、浅草で起こった女子短大生殺人事件。佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(朝日文庫、2008年)は犯人のレッサーパンダ帽をかぶった自閉症の青年の周辺及び被害者遺族、双方を取材。続く『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』(岩波書店、2007年)も同様の問題意識を基に2005年に大阪で起こった教師殺傷事件を考察する。

 知的ハンディキャップを負っているからと言って決して許されるわけではない。しかし、凶悪事件と報道されたこれらの事件の裁判を検討しなおしてみると、どうしても判断の難しいアポリアにぶつかってしまう。

 第一に、一般的な社会通念からすると了解困難な彼らの内面世界。日常の振舞いにしても言葉にしても、対人的なコミュニケーションを通して他者との了解可能性をもった社会的感覚が内面化される。ところが、対人相互関係を持つ上で生得的なハンディキャップがあるために、たとえば会話をしていても、言葉の持つ微妙なニュアンスが通じなくて誤解が深まったりしてしまう。投げかけられた言葉をダイレクトに受け止めてしまうので外的影響に左右されやすく、その一方で思い込みも強いため(つまり、最初のインプットの影響が大きくなってしまう)、問題行動として周囲と摩擦を引き起こすことにもなりかねない(逮捕された時には取調官の誘導に乗りやすく、そのまま有罪となってしまうケースが多い)。それは治療というレベルとは質的に異なる問題である。さらに言うなら、刑事裁判という場面で判断の基準となるはずの責任能力をいったいどのように捉えたらいいのかという根源的な問いにつながってしまう。責任能力概念の背景をなす自由意志や理性なるものは、そもそも対人了解性が大前提なのだから。

 第二に、処遇の問題。知的障害→犯罪に直結するわけではもちろんない。マイナス要因が絡まりあって悪循環に陥ることのないようにするのが肝要である。しかし、前科のある知的障害者を通常の社会福祉制度は受け入れたがらない。社会に居場所がないために刑務所行きを繰り返さざるを得ない知的障害者については山本譲司『獄窓記』『累犯障害者』などに記されている。

 レッサーパンダ帽男の家庭、とりわけ妹の話は本当に悲惨で目を覆いたくなる。父は金を使い込み、兄は放浪生活のあげく殺人事件をおこし、そのしわ寄せはすべて彼女に回される。彼女は家計を支えるために中学を卒業してすぐ働き始めていたが、難病に体を蝕まれており、誰も助けてくれる人がいないため手術費用までも自分で稼がねばならない状況だった。その稼いだ金までも父は使い込んでしまう。皮肉なことに、彼女の孤立した窮状が分かったのは、兄が殺人事件を起こしたことがきっかけなのである(この際に父にも知的障害のあることが判明)。彼女は24歳で亡くなった。

 著者自身にも養護学校の教員だった体験がある。厳罰化か保護処分かというような不毛な二項対立図式に落ち込ませず、被害者遺族の感情も正面から受け止めながら、本当に考えるべきところに踏み込もうとする著者の真摯な姿勢に訴える力を強く持ったノンフィクションである。

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2009年7月13日 (月)

「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」

「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」

 今さらエヴァ観てはしゃぐ年齢でもないけど、取りあえず覚書程度に(ちなみに、去年、「エヴァンゲリヲン新劇場版:序」を観たときのコメントは→こちら)。

 テレビ版に続き、前の映画版、今回の新四部作と作り直しは2回目。単に作り直しとみるよりも、そのたびにオリジナルのストーリーからパラレル・ワールドとして広がっていると捉えるべきか。物語世界を大きく動かす(擬似)神話的レベルから学園ラブコメ調のノリで描かれる日常生活まで、重層的な世界観の広がりが私には大きな魅力(現時点でもまだ全体像は分からないが、碇ゲンドウたちの思わせぶりなセリフが観客をじらせる)。一つ一つのエピソードがいかにもいわくあり気で、そうして張り巡らされた伏線は、制作者側も実は収拾がついていないのではないかと思わせるほど。逆に言えば、深読みの余地が大きい→議論ができるのも人気の理由だろう。聖書、グノーシス、古代メソポタミア神話など“神秘主義”ネタが多い→今回も“ネブカドネザルのカギ”なる新ネタが出てきた。

 やはり新キャラであるマリの登場で、碇シンジ、式波(惣流ではない)アスカ、綾波レイのキャラクター描写がより明瞭になった。三人それぞれ、いじけ型、自己顕示型、無感動型とタイプは異なるが、「何のためにエヴァに乗るの?」という自問自答→一種の“自分探し”に収斂する点ではいずれも共通する(みんな庵野秀明の分身という噂があるけど)→マリはこうした三人とは異なり「へえ、そんなこといちいち気にする人もいるんだ」とポジティブ型(でも、現段階ではまだ正体不明)。

 突っ込めば突っ込むほど様々な薀蓄があるのでしょうが、詳しいことは私にはもう分かりません。復習してないんでだいぶ忘れてるし。

【データ】
総監督:庵野秀明
2009年/108分
(2009年7月11日、新宿ミラノにて)

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2009年7月11日 (土)

山本譲司『獄窓記』、他

 秘書給与流用疑惑で国会議員の辞職が相次ぐという事件があったが、『獄窓記』(新潮文庫、2008年)の著者・山本譲司もそうした中で逮捕された。見せしめの意味があったのだろうか、佐藤優以来頻繁に用いられるようになった国策捜査という言葉も思い浮かぶ。ただし、彼は自分にけじめをつけるため控訴はせず、刑に服した。本書は獄中での自己省察をつづった手記ではあるが、塀の中で目の当たりにした光景は、彼が新しい仕事に取り組むきっかけとなった。触法障害者の問題である。

 犯罪の凶悪化が印象論として語られがちだが、あまり根拠がない(たとえば、芹沢一也・浜井浩一『犯罪不安社会』光文社新書、2006年→こちらを参照)。刑務所の収容者数は許容限度を超えているが、その大半は知的障害者、高齢者、外国人労働者など、外の社会ではまともに生活できないがゆえに法に触れてしまって送り込まれた人々で占められている(中には騙されて犯罪に巻き込まれ、裁判でもまともな取り扱いを受けられないまま刑を受けた知的障害者もいる)。刑務所は社会に居場所のない人々が最後にたどり着く場所となっている。義務作業が正常に運営できないほどである。しかし、刑務官は社会福祉的な訓練を受けていないから対応にはどうしても限度があるし、かと言って収容者を追い出すわけにはいかない。正常な社会関係に組み込まれることのないまま悪循環に陥ってしまっている点では社会的排除の概念で捉えるべきだろう(岩田正美『社会的排除』有斐閣、2008年→こちらを参照)。

 刑務所内の具体的な問題については浜井浩一『刑務所の風景──社会を見つめる刑務所モノグラフ』(日本評論社、2006年)が詳しい。著者自身の刑務所勤務経験を踏まえて問題点が体系的に整理されている。

 山本譲司『累犯障害者』(新潮社、2006年)を以前に取り上げたことがある(→こちら)が、家庭にも社会にも居場所がなくて刑務所行きを繰り返してしまう不条理には何とも言えずやりきれない思いがした。

 山本譲司『続 獄窓記』(ポプラ社、2008年)は『獄窓記』の後日譚。『獄窓記』出版には様々な反響があったそうで、一冊の本をきっかけに問題意識を共有する人々が集まり改善に取り組む努力が着実に進められていることには救われる思いがする。両書とも、挫折感と何よりも前科者という烙印に押しつぶされそうになりながら、そうした心情を抱いてしまう自分自身の問題点をできるだけ素直に書き記そうとしている努力に好感を持った。この人は挫折と人生の不条理を知っている。だから、これからこそ良い仕事ができる、そう感じさせる。

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2009年7月10日 (金)

ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』

ジグムント・バウマン(長谷川啓介訳)『リキッド・ライフ──現代における生の諸相』(大月書店、2008年)

・「リキッド・モダン」社会:そこに生きる人々の行動が、一定の習慣やルーティンに凝固する前に、その行動の条件の方が先に変化してしまう社会→絶え間ない不安定・不確実。イス取りゲームや自転車操業のイメージ。長期性・全体性という考え方はなくなる→即席の満足と個人的な幸福が基準。(※かつての「ソリッド・モダン」社会では「楽しみは後回しにする」「じっくり取り組む」のが基本)
「かつて、進歩の論理は議論の余地のないものであり、優劣の秩序が、この論理によって構造化され、見まごうことなく実在していた(あるいは想定されていた)。しかし、その秩序はいまや侵食され溶解してしまった。他方で、新たな秩序はあまりにも流動的で、きちんとした形へと固まることができないし、アイデンティティを組み立てるために頼りにできる準拠枠として採用されうるほど、長期に形状を保つこともない。結果として、「アイデンティティ」は、ほとんど自分で設定し、自分で自分に割り振るものとなった。その努力の結果について思い患うのも、各自の問題となる。また思い患ったところで、その努力の結果は、明らかに一時的なものであって、その有効期限もはっきりと規定されておらず、たぶん長くない。」(59ページ)

・“個性的”であることが強制される社会。しかし、“個性”の主張がそのまま没個性的であるという逆説。他者との差異は消費活動を通して示される。
「今では、「流行中」と「時代遅れ」の間のズレによって独自性は測定され評価されている。もっと言えば、今日出た商品と、まだ「流行中」とされ商品棚に陳列されている昨日の商品との差異によって独自性は決まる。独自性追求の成否を決めるのは、走者たちのスピードである。」(47-48ページ)

・「たえまない変化の中から確実に出現する「アイデンティティの核」が一つだけある。…(それは)ホモ・エリゲンス、すなわち「選んでいる人」である(「選んでしまった人」ではない!)。永遠に永続せず、完全に不完全で、不明確であることは明確な、本来的に非本来的な、そういう自我である。」(63ページ)

・「欠陥のある消費者」→「リキッド・モダン」社会に固有のホモ・サケル→バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)を参照のこと(→こちら)。

・消費市場はギリシア神話に出てくるミダス王のようなもの。「市場が触れるものはすべて消費商品になる。その手を逃れるにも、その逃避の試みで利用される方法や手段さえも、すべて商品である。」(154ページ)

・個人レベルにおけるエンパワーメントのためには異質な他者との対話が必要→公共空間をいかに再構築するのかという問題意識。

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2009年7月 9日 (木)

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』

岩田正美『社会的排除──参加の欠如・不確かな帰属』(有斐閣、2008年)を読みながらメモ。

・社会関係から切り離されている→意思表示できない状態。
・様々な不利の複合的経験(①人的資本:資質・生育環境・教育など、②物的資本:住居など、③金融資本:資産・負債)→一人一人に個別的な問題。
・“貧困”と“社会的排除”は重なり合う概念で解釈の余地が広い→①因果関係として捉える。②重複した部分があると捉える。③入れ子構造で捉える。
・“社会的排除”概念の有効性は?→①“貧困”が個人の状態に重きが置かれるのに対し、“社会的排除”は社会との関係において個人の位置付けを問う視点。②誰がどのように排除するのかと主体の作用を問う視点(国家や社会だけでなく本人という主体も含めて)。③福祉国家の機能不全を示す。

・帰属の問題(家族の扶養、職場等の相互扶助、福祉国家のサービス)が大きい。帰属の定点の喪失→生きていく基点としての住居が必要。
・社会からの“引きはがし”:失業・倒産だけで社会的排除に落ち込むのではなく、離婚・病気・災害等の複合的な要因で定点を失う→社会的排除というケース。
・職場だけでなく家族・近隣関係など様々なチャネルを通した社会参加がもともと中途半端→その延長線上に社会的排除というケース。
・“中途半端な社会参加”の再生産→社会的排除に陥りやすい人々。若者の就職という移行期において“完全な社会参加”獲得に失敗→社会との“中途半端な接合”状態が続く。実家の経済状態や家族関係など人的資本に関わる問題が大きい。
・空間的側面で考えると、社会の周縁をウロウロするだけで中心には取り込まれないという問題。①“寮”(飯場など)、②“ヤド”(簡易宿泊施設など)、③“シセツ”(病院・刑務所など)、④“ミセ”(ネットカフェなど)

・セーフティネットからの脱落。
・生活保護→疾病・障害・老齢などの理由が中心で、稼動年齢層の人々への給付には慎重→行政側には“惰民”をつくることへの危惧。
・そもそも制度を知らない。その日その日をどう生きるかという瀬戸際にある→福祉サービスの“ちょい利用”
・知的障害者→認知されれば障害者手帳を取得できるが、本人に自覚がなく支援に乗り出す人もいなければ放置される。通常は家族や学校等で気付かれるが、そうした関係のないまま生きてきた人々。

・従来の施策は労働参加を強調。しかし、①労働の“能力”はどのように判定するのか。 ②民間企業の斡旋→あくまでも間接的な政策対応。③就労支援→否応なく稼働能力の有無で選別→“失敗した人”の識別→この人々はどうすればいいのか。
・社会的排除に落ち込んでしまう背景として、社会参加へのチャネルから切り離されているという状態がある。社会的包摂を考える場合にも、具体的な労働→経済的自立というだけでなく、ある社会への帰属に向けた現実的基点として住居・住所の確保と市民としての権利義務の回復に焦点を当てる必要。

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2009年7月 8日 (水)

ピエール・ブルデュー『市場独裁主義批判』

ピエール・ブルデュー(加藤晴久訳)『市場独裁主義批判』(藤原書店、2000年)

 ブルデューのネオ・リベラリズム批判の発言を集めた本。何だかアジテーション・ビラみたいな語り口にちょっと違和感もあったが、関心を持ったポイントを箇条書きすると、
・“能力”を中核とした社会システムの正当化→“能力”形成には教育問題等様々な事情が関わってくるわけだが、そうした個別の事情は一切オミットされて、倫理的基準に置き換えられてしまう。
・グローバル化による不安定な就労状況そのものを企業は戦略的に活用→国内労働者は地球の裏側の外国人労働者と競争→人件費抑制等の名目で“弾力化”→新しいタイプの支配様式。

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2009年7月 7日 (火)

広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか──教育する家族のゆくえ』(講談社現代新書、1999年)を読みながらメモ。

 まず、日本の近代化のプロセスにおける家庭・地域社会・学校の関係が考察される。時にノスタルジックに語られる村落共同体のしつけは果たして理想的だったのか? 実際を見れば差別や抑圧が内包されており、子供は放置、場合によっては酷使されることもあって決してユートピア視することはできない。地域社会における停滞性→学校と軍隊という近代化駆動装置が全国共通のルールを教える機能。明治~高度経済成長にかけて学校は“遅れた”社会から脱出して近代的な職業世界に入る装置として信頼感を得ていた。

 しかし、経済水準の上昇→かつては進歩的な意味を持っていた生活指導・集団訓練が、むしろ個人性を抑圧する保守的なものと批判される→学校不信。子供のしつけよりも、“より良い地位”(学歴・職業)を目指すゲームの地位配分装置として捉えられる→学校は教育の主役ではなくなった→家庭・地域社会・学校のうち家庭が突出。つまり、家庭の教育機能が低下したのではなく、逆に子供の教育に関する最終的な責任を家庭という単位が一身に引き受けるようになった。

 パーフェクト・チャイルドへの志向性→童心主義・厳格主義・学歴主義と相異なる教育理念が混在→いずれにせよ、“子供期”の明確化→そこへ親が積極的に働きかけようという“教育する意志”→学校側に様々な要求を突きつける。

 「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説→かつて非行は下流階層に集中、この言説は大正期においては富裕層向けのものであった(地域社会との関わりが薄い新中間層の登場。下流階層については、家庭のしつけではどうにもならないことが自明視されていた)。ところが、高度経済成長期の生活水準の向上・中流意識の広がり→階層格差が見えづらくなり、それに言及することもタブーとなった。どの子も非行に走る危険→あらゆる局面にわたって「家庭のしつけの失敗が非行を生む」という言説が語られるようになる。教育において社会階層・地域の間での差異が現在でも存在しているが、それにもかかわらず単一の処方箋で考えようとすることの問題。

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2009年7月 6日 (月)

ウイグル問題のこと

 昨日、新疆ウイグル自治区・ウルムチの大規模暴動で140人以上の死者が出ているとの報道がありました。最新情報・背景解説とも「真silkroad?」さんが詳しいので参照のこと。なお、私のブログではウイグル問題関連で以下の書き込みをしたことがあります。

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』
Blaine Kaltman, Under the Heel of the Dragon: Islam, Racism, Crime, and the Uighur in China  (中国語が標準語とされる中、ウイグル人の言語的不利がある一方で同化圧力が強まり、また漢人からの人種的偏見→ウイグル人が社会的底辺に追いやられている問題を本書は指摘)
ウイグル問題についてメモ①
ウイグル問題についてメモ②
原爆をめぐって
ウイグル問題についてメモ③
ウイグル問題についてメモ④
ウイグル問題についてメモ(5)

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教育社会学絡みの本でメモ

 教育も含めて社会システムの問題を考えるとき、“自己決定”“自己責任”というロジックがどこまで信憑性をもって通用するのか?という根本的なアポリアにぶつからざるを得ない。“自己決定”論そのものは正論であって否定はできない。ただし、その条件整備はどうなのか。

 かつての身分制社会とは異なり、現代社会はメリトクラシー(業績主義による選抜システム)に基づいて組み立てられている。つまり、機会の均等が前提である(仮にそれがフィクションに過ぎないとしても、そのフィクションが社会全般に共有されていなければシステムとしての正当性、“公平”さが確保できない)。学歴と職業的達成とに結びつきが見られるが、社会階層と学歴とに相関関係があること(学歴の親子間継承)が指摘されている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』[中公新書、1995年]、佐藤俊樹『不平等社会日本』[中公新書、2000年]など)。つまり、義務教育以前の家庭的・環境的要因によってスタートラインが異なる→ところが、受験競争(=機会の均等)というフィルタリング→スタートラインにおける格差が覆い隠されてきた。また、学習に向けた意欲そのものにも家庭環境によって格差がある(意欲格差=インセンティブ・ディバイド)→“機会の均等”には“努力”の均等分布が大前提となるが、この仮定自体にも疑問符がつけられてしまう(苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』[有信堂、2001年]、山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』[筑摩書房、2004年]など)。苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)によると、戦後日本社会における義務教育制度整備の努力→均質的な教育空間の創出→教育の画一化・国家統制など様々な批判があるのは確かだが、同時に少なくとも環境要因による悪条件是正・格差縮小に貢献してきたと評価することもできる。しかし、財政縮小→そうした努力を裏付けた財政的再配分政策の維持困難→義務教育以前の家庭的・環境的要因による格差が露わになる可能性がある。

 苅谷剛彦『学力と階層──教育の綻びをどう修正するか』(朝日新聞出版、2008年)を読んで関心を持った点を箇条書きすると、
・①受験勉強→一元的評価基準→分かりやすい→努力目標として成立。対して、②「生きる力」論→目標・評価基準が曖昧→多様と言えば聞こえは良いが、実際には学校以外の家庭的・環境的要因で左右されやすくなる。“ガリ勉”の否定→その生徒の家庭環境によっては勉強を怠ける口実→格差拡大
・アンソニー・ギデンズの指摘した社会的再帰性・セルフモニタリングという指摘との関わりで(以前に取り上げたアンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』を参照→こちら)、実証研究として提示された“事実”→その“事実”もまた次なる政策形成に取り込まれて次の展開へ→実証研究といえども必ずしも価値自由ではあり得ない。
・社会的再帰性→人的資本概念の変容:人的資本はストックとみなされなくなった→知識の陳腐化のスピード→個人の側でセルフモニタリングによって常に新しい状況に適合する形で人的資本の中身も絶えず変わっていく(知識経済)→学習し続けることの強制→“学習意欲”の階層差が浮き彫りにされる。
・自己実現アノミーの問題

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』では、イギリスの階級社会(D・H・ロレンス→奨学金少年の悲劇、つまり低階層出身者は頑張って勉強して這い上がってもライフスタイルの面で上流社会に溶け込めず疎外感を味わう)、アメリカの多民族社会(黒人・ヒスパニックなど)に対して日本の学歴社会を考察。受験競争に基づく学歴エリート→受験知識は社会的にそれほど高い価値を置かれていない(頭でっかちで実力とは違うじゃないかという批判的言説が普通に見られる)→あくまでも一般大衆社会の延長線上にいる器用な成功者と受け止められる。エリートならざるエリート。ノブレス・オブリージュの感覚はないが、見方を変えれば平等主義的心性を内面化したエリートとも言える→能力主義と平等主義との日本的な絡まりあい(ここを“面の平等化”という論点で義務教育制度について議論を進めるのが苅谷『教育と平等』)。身分的秩序ではないので社会統合しやすい。

 昨今の“格差”論バブルの中、学歴=メリトクラシーという点を明確にした上で感情論を排した議論を進めようとするのが吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書、2009年)。従来の社会階層研究では職業を固定的に把握(たとえば、佐藤俊樹『不平等社会日本』)→高度成長期を対象とするには適した分析だが、雇用の流動性が高まっている現在では通用しないという。従来の社会階層研究の注目点であった職業や経済力の親子間継承ではなく、学歴の親子間継承という論点なら社会格差について一貫した説明ができると問題提起→学歴分断線を指摘する。インセンティブとなる将来の見通しに学歴分断という壁が立ちはだかるという議論を示し、その中に苅谷『階層化日本と教育危機』や山田『希望格差社会』で指摘された論点も取り込まれる。

 増田ユリヤ『新しい「教育格差」』(講談社現代新書、2009年)は、タイトルに“格差”とはあるが、内容的には教育現場の具体的な問題の紹介に重きを置き、実例を通して問いを投げかける。

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2009年7月 5日 (日)

最近読んだマンガ

 西原理恵子『いけちゃんとぼく』(角川書店、2006年)。楽しいとき、悲しいとき、いつもそばで見守ってくれる不思議な生物いけちゃんとの少年時代。西原理恵子『パーマネント野バラ』(新潮文庫、2009年)。田舎の理髪店に集まるおばはんたちの生々しい恋話。西原作品は卑猥な乱雑さを率直に出してくるのだけど、その中からなぜかしんみりとした感傷に胸を打たれるところが魅力。

 宮崎あおい主演で映画化されるということで、浅野いにお『ソラニン』(全2巻、小学館、2006年)を手に取った。どっちつかずの焦燥感を抱えながら不安定な同棲生活を送る種田と芽衣子。種田が納得のいくまでバンド活動を再開しようとした矢先、事故死。彼の想いを引き受けようと決意した芽衣子はそれまで触れたことすらなかったギターを手に取る。自分の人生が無意味にしか感じられない終わらない日常、その中での青春期の焦燥感…と言うとありがちかもしれない。ただ、浅野いにおの作品では、彼女たちの一生懸命なところを描きつつ、同時にその“ありがち”な青臭さをシニカルな構えではぐらかす箇所も時折見られる。陳腐な気恥ずかしさは感じさせずに、彼女たちの抱える行き先の分からない戸惑いの心情をきちんと描き出している。なかなか良い作品だと思う。

 浅野いにお作品に興味を持って手当たり次第に読んだ。『世界の終わりと夜明け前』(小学館、2008年)は短編集。気持ちの中で自分の居場所が得られずさ迷う人々の心象風景を絵に表現しているシーンが時折あって引き付けられた。街に夕陽がさす光景に“世界の終わり”を感じるシーンなど私は好きだ。『虹ヶ原ホログラフ』(太田出版、2006年)は密度の濃いサイコホラー、張り巡らされた伏線が複雑すぎて頭が混乱してしまうが、その分、ストーリーとしては充実している。『素晴らしい世界』(全2巻、小学館、2003・2004年)は短編集。『ひかりのまち』(小学館、2005年)は郊外住宅を舞台にした連作短編。現在連載継続中の『おやすみプンプン』(小学館、1~4、2007年~)はシュールというか、だいぶ実験的。

 山本直樹『明日また電話するよ』(イースト・プレス、2008年)、『夕方のおともだち』(イースト・プレス、2009年)は著者自身による短編ベストセレクション(ただし、マック導入以降の作品)。山本直樹と言えばエロ! セックス描写のない作品は皆無だが、繊細な線で描かれるタッチに、どこか気だるさと無機的な空気が漂う。それが単なるエロとは違うレベルで乾いた叙情を感じさせる。

 吉田秋生『海街ダイアリー1 蝉時雨のやむ頃』(小学館、2007年)、『海街ダイアリー2 真昼の月』(小学館、2008年、以降続刊)。四姉妹の家族の物語。舞台となっている古い家と鎌倉の風物がもう一つの主役。現代の話だけど、神社とか梅酒作りとか、さり気なく取り込まれたレトロな題材が、家族の結びつきと葛藤というテーマに程よい風味をきかせて良い感じ。

 他に、衿沢世衣子『おかえりピアニカ』(イースト・プレス、2005年)、『向こう町ガール八景』(青林工藝社、2006年)、鬼頭莫宏『残暑』(小学館、2004年)。いずれも短編集。

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2009年7月 3日 (金)

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』

苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)

 戦後日本の教育制度は義務教育を広く拡充させた一方で、個性抑圧の画一性・国家統制といった批判も根強い。本書は義務教育費配分という財政構図の問題を切り口に日本の教育システムの背景にあるロジックを浮き彫りにする。

 戦後間もなく、地域間の経済格差と教育的達成とに相関関係が見られ、こうした障害をなくして如何に教育環境を全国均質の水準に持っていくかが課題となっていた。本来ならばアメリカのように生徒単位の財政配分をしたいところだが、財源上の制約から教員単位の財政配分となり、財源の効率活用のためカリキュラムも標準化→生徒一人ひとりではなく集団単位で教育条件の均質化を図る→“面の平等化”が行なわれた。これが画一化・国家統制の表われとも批判されたが、他方で教育条件の格差の是正という点では地方でも下からの努力が見られた。そうした点では政府による政策と教育現場、双方の合意によって“面の平等化”という形で格差是正が進められたと言える。

 メリトクラシー(業績主義的な選抜システム)の正当性を担保するには、スタートラインは同じ、つまり教育における機会均等(仮にフィクションであったとしても)が行渡っているとみなされていなければならない。戦後日本の教育には確かに色々と問題もあるだろうが、システム上の信憑性を確保できる程度には成果があったと考えられる。個性重視教育は能力主義差別につながるという考え方があるが、こうした“面の不平等”の是正によって、個人間の差異を際立たせない(つまり、生徒に差別的処遇をしない)形で一定の教育の平等を達成した(つまり、劣悪な教育条件で不利な立場にある生徒も間接的に救済した)と評価できるという指摘が興味深い。

 教育の均質化に対しては、かつては生徒の内発性・やる気を損なうという心理的な個人主義、近年は経済主体としての自己決定に重きを置く新自由主義的な個人主義から批判がある。それぞれ一理はあるにしても、教育の問題も含め社会制度を考える上では自由と平等のアンビバレンスという究極の困難を避けて通ることはできない。本書はそうしたアポリアを正面から受け止め、教育における共通化か差異化かという二項対立を乗り越えようというところに問題意識がある。

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2009年7月 2日 (木)

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム──近代朝鮮の形成』(東京大学出版会、2009年)

 19~20世紀朝鮮半島における近代化とナショナリズムをどのように考えるか。伝統的停滞からの脱却→自律的な“近代”志向=進歩性を開化派に見出した姜在彦の研究がある一方、それを批判する民衆史観もある。こうした議論の枠組みとは異なる視点を出そうとする本書は、“国民国家”創出の運動というコンテクストの中で開化思想を捉える。

 慶應義塾への留学経験があり、後に朝鮮の啓蒙思想家として著名となる兪吉濬は、独立した国家を一人一人が支えるという構想を持っていた点で福沢諭吉「一身独立して一国独立す」というテーゼを想起させる。日本・朝鮮ともに、西洋の先進性で文明開化を捉えて中華文明を相対化した点では共通するが、福沢にとって文明開化はあくまでも独立の手段に過ぎないのに対し、兪の場合には文明開化を新しい“中華”=価値的原理とみなす普遍主義的傾向があったという。開化思想を近代志向一辺倒で捉えるのではなく、そこに刻み込まれた儒教的色彩にも目配りされる。

 近代東アジアの国際秩序は中華文明圏における冊封体制とヨーロッパ起源の“万国公法”システムとのせめぎ合いとして捉えられるが、本書では外交儀礼のあり方に着目される。冊封体制の中国(清)、万国公法の日本及びヨーロッパ、両方と対等な関係を示すべく新しい皇帝像が打ち出される(1897年に大韓帝国成立)。それは同時に、対内的には“一君万民”という形で国民統合のシンボルとして作用することも期待された。“見える皇帝像”を打ち出す→皇帝の巡幸、万歳の唱和→国家的儀礼に民衆も参加→“国民”の創出、こうした本書の議論はとても興味深い(天皇の巡幸に注目した原武史の研究が想起される)。

 こうした上からの“国民”創出の動きに相補的な役割を果たしたとされる独立協会については、従来、その愚民観→反民衆的傾向が指摘されていたが、むしろ近代化→民衆を“国民”化すべき対象として捉えていたと考えることもできる。“忠君愛国”を規範として教化→“一君万民”→皇帝をシンボリックな媒介として民権と国権との両立が図られていた。ただし、日本による韓国併合に向けた動きが強まる中、“忠君”と“愛国”とが分離→三・一運動において“万歳”の唱和→この時点ですでに朝鮮/韓国としてのネイションは自明視されていた。

 朝鮮/韓国における近代化を考えるときどうしても“親日”の問題を避けることはできないが、本書では“愛国”概念は広く捉えられる(李完用たちにしても単純に売国奴と切って捨てても意味がない)。日韓協約によって日本の保護国にされる中、実力養成を目指して愛国啓蒙運動が展開された。このうち、立憲改新派は文明の不足を自覚→学ぶべきは学ぶという姿勢→近代化を自明視。他方、改新儒教派のうち、儒教の道義性こそ西洋文明を超克できる思想だという朴殷植のような主張もあった。東洋儒教の国(朝鮮・中国・日本)の連帯→中でも日本は富国強兵に成功→模範。いずれにせよ、以上のロジックだと日本の帝国主義を批判する視点が弱くなる。朝鮮/韓国自身が圧迫を受けつつも、弱肉強食という状況認識の中で実力養成として近代化志向→もし自分たちの近代化が達成されたら?→暗黙のうちに帝国主義肯定のロジックが潜んでいるという逆説も指摘され得る。他方で、こうした発想とは異なり、アナキズムの影響を受けた申采浩はロジックに矛盾があっても抗日を徹底させていた。

“植民地”的状況を“近代”という外的原理を内面化させる場として把握→“近代”そのものに内包された抑圧性に注目するのが本書の基本的な視座である。ある一つの観点(“抗日”や“民衆”など)を絶対化させる傾向とは距離を取ろうとしているところには好感を持った。

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2009年7月 1日 (水)

チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理──近代とその不安』

チャールズ・テイラー(田中智彦訳)『〈ほんもの〉という倫理──近代とその不安』(産業図書、2004年)

 タイトルにある〈ほんもの〉とはauthenticityのこと。自分自身にとっての確からしさ、本当らしさ、有意義さ、そういった感覚をこなれた日本語に移しかえようとした苦心の訳語である。先日取り上げたチャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』(岩波書店、2009年→こちら)でもこのキーワードは出てくる。

 現代の我々には、自分たちから超越した“聖なる秩序”の命令に自らの身を捧げようなどという発想はない。むしろ、自己実現にこそ重きが置かれ、超越的価値はうとましいくびきと感じられる。自己実現重視の個人主義は、見方を変えると、誰にも真似のできない他ならぬ自分自身のもの、そこに〈ほんもの〉を求めようとする点で芸術家が創造的感性を求めるのと類似した志向性を帯びている。18世紀のヘルダー以降のロマン主義→神や善のイデアといった超越的価値ではなく、自身の内面から湧き起こる声にこそ従うべき→近代における主観主義的転回→「自分自身に忠実であれ」という自己実現志向は〈ほんもの〉という近代の理想によって裏打ちされている。

 他方で、こうした〈ほんもの〉志向には次の動きが並行している。第一に、個人の組み込まれていた意味付けの地平が失われた→個人の断片化・アトム化、帰属意識の稀薄化。第二に、テクノロジーの進展による合理的思考・道具的理性→各自の“幸福”という目標に向けて物事を設計しなおそうという発想→効率性・計量性の論理で他者を位置付ける。いずれにせよ、〈ほんもの〉は自分だけの実感という受け止め方→バラバラに連帯感を欠いた非人格的社会関係が肯定される。

 しかしながら、完全な独我論はあり得ない。他者との対話やせめぎ合いによって相互の相違に気付いてこそ、アイデンティティ=私らしさ、私にとっての〈ほんもの〉は確証される。アイデンティティ・ポリティクスという形で差異の承認を求めるにしても、無機的な並列というのではなく、一定の関係性の中での位置付けの要求なのだから、むしろもっと広い価値的地平の共有を目指していると言える。他者があって初めて自分が分かる。従って、他者から切り離されたアイデンティティはあり得ない。自分にとっての〈ほんもの〉を求めるアイデンティティは対話的性質によって特徴付けられており、あらゆる前提から切り離された地点に立って純粋に自己決定を行なうという合理性で捉えられた人間モデルは現実にはあり得ない。ここにコミュニタリアニズム(共同体論)からリバタリアニズム(自由至上論)に対する批判のポイントがある。

 「自分に正直でありたい!」とかのたまってある種のワガママを正当化するミーイズム・ナルシシズム、こうした現代社会にありがちな浅はかさも、以上の〈ほんもの〉=authenticityという観点から把握できる。ただし、“保守オヤジ”のように説教したってはじまらない。個人の“自由”は、その置かれたコンテクストによって初めて意味を持つ。各自が自身にとっての〈ほんもの〉を追求、そうした形で自己実現を目指すのは当然のことである。ただし、その切実さは人それぞれ、目先のことに振り回されているだけの場合もあり得るわけで、上っ面に流されかねないところにテイラーは注意を喚起する。そのことを“主観主義へのすべり台”と表現している。個人の自由万能か、それとも共同体の価値復権か──などという不毛な二元論的構図に落としこまず、かと言って、間をとって無意味な折衷論でお茶を濁すでもなく、もっと着実な議論のたたき台を示そうというところに本書の意欲がある。

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