佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』
2001年、浅草で起こった女子短大生殺人事件。佐藤幹夫『自閉症裁判──レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(朝日文庫、2008年)は犯人のレッサーパンダ帽をかぶった自閉症の青年の周辺及び被害者遺族、双方を取材。続く『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」──17歳の自閉症裁判』(岩波書店、2007年)も同様の問題意識を基に2005年に大阪で起こった教師殺傷事件を考察する。
知的ハンディキャップを負っているからと言って決して許されるわけではない。しかし、凶悪事件と報道されたこれらの事件の裁判を検討しなおしてみると、どうしても判断の難しいアポリアにぶつかってしまう。
第一に、一般的な社会通念からすると了解困難な彼らの内面世界。日常の振舞いにしても言葉にしても、対人的なコミュニケーションを通して他者との了解可能性をもった社会的感覚が内面化される。ところが、対人相互関係を持つ上で生得的なハンディキャップがあるために、たとえば会話をしていても、言葉の持つ微妙なニュアンスが通じなくて誤解が深まったりしてしまう。投げかけられた言葉をダイレクトに受け止めてしまうので外的影響に左右されやすく、その一方で思い込みも強いため(つまり、最初のインプットの影響が大きくなってしまう)、問題行動として周囲と摩擦を引き起こすことにもなりかねない(逮捕された時には取調官の誘導に乗りやすく、そのまま有罪となってしまうケースが多い)。それは治療というレベルとは質的に異なる問題である。さらに言うなら、刑事裁判という場面で判断の基準となるはずの責任能力をいったいどのように捉えたらいいのかという根源的な問いにつながってしまう。責任能力概念の背景をなす自由意志や理性なるものは、そもそも対人了解性が大前提なのだから。
第二に、処遇の問題。知的障害→犯罪に直結するわけではもちろんない。マイナス要因が絡まりあって悪循環に陥ることのないようにするのが肝要である。しかし、前科のある知的障害者を通常の社会福祉制度は受け入れたがらない。社会に居場所がないために刑務所行きを繰り返さざるを得ない知的障害者については山本譲司『獄窓記』『累犯障害者』などに記されている。
レッサーパンダ帽男の家庭、とりわけ妹の話は本当に悲惨で目を覆いたくなる。父は金を使い込み、兄は放浪生活のあげく殺人事件をおこし、そのしわ寄せはすべて彼女に回される。彼女は家計を支えるために中学を卒業してすぐ働き始めていたが、難病に体を蝕まれており、誰も助けてくれる人がいないため手術費用までも自分で稼がねばならない状況だった。その稼いだ金までも父は使い込んでしまう。皮肉なことに、彼女の孤立した窮状が分かったのは、兄が殺人事件を起こしたことがきっかけなのである(この際に父にも知的障害のあることが判明)。彼女は24歳で亡くなった。
著者自身にも養護学校の教員だった体験がある。厳罰化か保護処分かというような不毛な二項対立図式に落ち込ませず、被害者遺族の感情も正面から受け止めながら、本当に考えるべきところに踏み込もうとする著者の真摯な姿勢に訴える力を強く持ったノンフィクションである。
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