チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』
チャールズ・テイラー(伊藤邦武・佐々木崇・三宅岳史訳)『今日の宗教の諸相』(岩波書店、2009年)
チャールズ・テイラーは政治哲学の分野では代表的なコミュニタリアン(共同体論者)として知られている。ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』の読み直しを通して現代社会を特徴付ける個人主義のあり様を考察するというのが本書の趣旨。テーマは宗教で、訳者は科学哲学の人たちだが、私はコミュニタリアニズムへの関心から手に取った。
ジェイムズは、個人の内的で言語的定式化の難しい感情に注目して宗教的経験を把握しようとした。しかし、それでは宗教的感情の持つ集団的側面を無視してしまっているとテイラーは指摘する。「我々の経験のなかには(一つの意味では)個人的な経験でありながら、それが共有されているという感覚によって大いに高められるような経験が存在する。…一人でいるときにはもつことができないが、連帯しているときにはもつことのできるある種の感情が存在する。経験はそれが共有されているという事実によって、何か別のものに変化するのである」(25~26ページ)。テイラーは、だからと言ってジェイムズの議論を否定してしまうのではない。むしろ、このジェイムズが見落とした盲点にこそ、現代的な問題が伏在しているのではないかと問いかける。
かつて信仰の原理と政治的・社会的原理とが分かちがたく結びついていた世界から、両者が分離→世俗化の過程と考えるのが“近代”という時代現象を捉える一つの論点である(マックス・ヴェーバー的に言えば“脱魔術化”か)。見方を変えれば、個人の束縛→解放ともなるが、さらに言うと、個人の内的体験のレベルにおける確からしさ、有意義さ、そういった感覚を感じられない外的束縛はすべて不条理で否定すべきものとみなされる。ジェイムズの示した内的体験として宗教感情を捉える視点は、実はこうした意味で現代的な個人主義を正確に把握していたのだとテイラーは指摘する。
コミュニタリアニズム(共同体主義)対リバタリアニズム(自由至上主義)、個人の自律性重視か、個人が組み込まれた全体性重視か、というような単純な構図にまとめてしまうと、前者は個人の自由を認めないなどと曲解も招きかねないが、本来はそんなに単純な問題ではない。あくまでも視点の取り方の問題であって、(真剣に考えている人ならば)実は両者とも同じ地平を見据えている。テイラーが記す次の箇所には、彼がコミュニタリアンでありつつも、そうした個人における自由というテーマを考える上でのもどかしさが率直に表明されているのがうかがわれて興味深く感じた。
「現代でも依然として、無信仰の世界に何らかの不安の感覚を抱き続けている人々がいる。その感覚とはすなわち、何か大きなもの、何か重要なものが置き去りにされ、ある次元の深遠な願望が無視され、わたしたちを超えたより偉大な実在が締め出されてしまったという感覚である。この不安の感覚にたいして与えられた表現は非常に様々であるが、この不安は存続し、その表現はさらにいっそう多様な形で繰り返されている。しかし他方では、自分が尊厳をもち、自己統制を成し遂げ、成熟した自律的な存在であるという、無信仰と結びついた感覚も人々を魅了し続けており、これから先もずっと魅了し続けるように思われる。」「しかも、この論争にさらに近づいてその具体的な姿をよく観察してみると、大多数の人々は実際には二つの見方双方に惹かれる感じをもっていることが見て取れるように思われる。人々は一方の道を進まねばならないとしても、もう片方の魅力を決して完全には払いのけていない。」(53ページ)
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