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2009年6月 6日 (土)

末広厳太郎『役人学三則』

末広厳太郎『役人学三則』(佐高信編、岩波現代文庫、2000年)

 末広厳太郎(すえひろ・いずたろう、1888~1951年)は大正・昭和初期の法学者。有名な「嘘の効用」をはじめとした法学エッセイを集めた本。法治主義の基本原則が軽妙な語り口でつづられている。要するに、すべての人間を公平に扱うため、予め法律というモノサシを決めておく。ところが、対象は人間である。具体的な問題はケース・バイ・ケースで法律の機械的な適用は無理がある。そこで、行政という場面では役人の裁量が要請され、訴訟の場面では“嘘の効用”が必要になる、という趣旨のことが述べられる。

 ところで、本来、法律は役人の専制から人々の自由を守るために存在するのだが、これがかえって形式主義に逃れる口実ともなってしまう。だから、役人の責任意識が重要だ、役人であっても自由があるから責任が生ずると言う(「役人の頭」)。また、訴訟の場面では、法律は動かせない。無暗にゆるがせにしたらそれは法律ではない。ならば“事実”の方を動かせばいい──と言っても冤罪とかを認めるという話ではない。法と現実との間に整合性がないならば、柔軟に“嘘”を使って実際的な解決につなげよう、ということ(「みなす」という形での法運用は普通に行なわれていることだ)。また、裁判官の理屈に傾いた法的公平性重視に対し、素人の“人間性”を取り込んで法の柔軟性を確保しようというのが陪審制度の趣旨だと指摘する(「嘘の効用」)。役人にしても、裁判官にしても、法解釈の技法を身につけるのは当然だが、同時にいわゆる“人間性”を求めてくるあたりはいかにも戦前のリベラルな教養人らしい。“人間性”なるものに私などは悲観的だが、法治主義の原則と現実的な柔軟性との兼ね合いをどうするのかという問題提起はいまだに解きがたいアポリアである。

 “嘘”というテーマでさらに話を広げると、制度というもの自体がフィクションじゃないかという議論も法哲学などにはある。しかし、たとえフィクションであっても手続きを踏んでおれば正統とみなされるというのが基本的な考え方だ。我々は自由である、かのように思う。民意は政治に反映される、かのように思う。その他もろもろの“かのように”の積み重ねによって辛うじて我々の社会生活は成り立っている。フィクションというのは実に大切なのである。こうした立場を西洋哲学史では新カント主義というらしいが、詳しいことは知らない。ハンス・ファイヒンガー〟Die Philosophie des Als Ob〝(“かのように”の哲学)が有名だが、残念ながら邦訳はない。私はドイツ語はダメだが、そのエッセンスを森鴎外が「かのように」という作品で紹介してくれている。興味のある方は参照されたい。

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