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2009年6月22日 (月)

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』(姜在彦著作選Ⅱ、明石書店、1996年)

 日本における初期の朝鮮史研究では“他律性”史観が主流であったとされる。それに対して本書では、朝鮮にも内発的な近代化の契機があったことを掘り起こそうという問題意識をもとに朝鮮近代思想の流れが通史的に描かれる。

 まず、実学思想のうち清経由で西洋文明に触れていた北学派が取り上げられる。朴趾源ら北学派は開国主義的な立場をとり、虚学の否定、能力本位の人材登用などの制度改革を主張したが、朱子学的名分論に固執する守旧派とのイデオロギー闘争に絡め取られ、結局つぶされてしまう。ただし、北学派の系譜は19世紀の開化派に受け継がれた(→『西洋と朝鮮』を参照)。

 朴趾源の孫である朴珪寿の門下生から開化派が台頭するが、とりわけ有名なのは金玉均であろう。金玉均については“親日派”とみなす向きもあるが、対して日本から学ぶべきものは是々非々で学ぶとした主体性に注目される。近代化政策を進める上で両班階級が障害になっているという問題意識から甲申事変(1884年)が敢行されたが、失敗。社会経済的基盤が未成熟であったという内的条件、清の干渉(袁世凱が開化派を軍事制圧した)という外的条件が失敗の原因として指摘される。

 なお、儒教が正統とされて仏教は下に見られていた中、金玉均は仏教に関心を持っていたらしい。開化派には、仏教僧・李東仁(東本願寺釜山別院とつながりがあり、日本事情を熟知)、中国語通訳の呉慶錫、医者の劉大致らが大きな影響を与えていた。李朝社会において通訳や医者などの技術者は中人(両班と常民との中間階層)、仏教僧にいたっては賤民視されており、いずれも朱子学的世界観に染まった両班とは異なってイデオロギー・フリーの立場にあったことは興味深い。両班の開化派の中でも、金玉均・朴泳孝ら急進派は日本の明治維新をモデルとした変法的立場(従って、守旧派とは仇敵同士)、金允植ら穏健派は清の洋務運動をモデルとした改良的立場(従って、守旧派とも妥協可能)という二つの流れがあった。

 金玉均らの甲申事変が先鋭化した一部知識階層による上からの改革志向だったとするなら、対して下からの改革志向の民衆運動として甲午農民戦争や活貧党も取り上げられる。

 日清戦争後、事実上日本の保護国化されてしまった状況下、知識階層では二つの思想的立場が鮮明化した。第一に、李恒老→崔益鉉を源流とする衛正斥邪思想→抗日義兵闘争という立場。第二に、朴珪寿→金玉均・金允植ら開化派→愛国啓蒙運動という立場。両者とも「内修→自強」という点では同じロジックをとるのだが、「内修」の理解が対極的であった。両者が一体化できなかったところに著者は近代朝鮮の悲劇を見出す(なお、前者を意地の感覚、後者を近代化=手段としての西欧化と捉えるなら、福沢諭吉は両者を合わせ持っていたという趣旨のことを、以前、李光洙の話題に絡めてこちらに書いた)。

 愛国啓蒙運動の中では1907年に安昌浩によって旗揚げされた新民会が検討される。政治路線を看板からはずし、国権回復に向けた実力養成として学校教育や民族産業の近代化といった合法的活動に焦点が合わされた。さらに1919年の三・一運動では、この実力養成から民族自決という方向へと移っていく(この際、単なる反日ではなく、三和主義が主張されていたという指摘が目を引いた。三和主義とは西欧列強から身を守るため、独立した韓国・日本・中国が互いに連携しようという考え方で、かつて金玉均が主張していた)。そして、日本による弾圧から逃げて成立した上海臨時政府において、衛正斥邪思想の目指す復辟でもなく、開化派の主張した立憲君主制でもなく、民主共和制による国民国家が志向されることになる。

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