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2009年6月 6日 (土)

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』(NHKブックス、2009年)

 戦前期日本のモダニズム絵画というと、私などはまず古賀春江「海」(1929年)を思い浮かべる。古賀の絵の不思議な画面構成が与える印象は強烈で、このキッチュな違和感そのものをシュルレアリスムと結び付けたくなるが、事情はそんなに単純ではないらしい。

 本書では、古賀の絵画要素の一つ一つについて当時の雑誌に掲載された写真やイラストからのモンタージュであることが丹念に分析されている。そこには写実性という意図はなく、むしろ既成イメージの切り貼りを通して“自己消滅”が目指されていたのだという。経験的実感、“自我”なるもの、そういった現実的価値形式を消滅させることで純粋美を求める、それが古賀にとっての超現実主義だったという指摘が非常に興味深い。

 シュルレアリスム絵画を日本に初めてもたらしたとされる福沢一郎が、帰国後、方向性を変えたことをどのように考えるか。西欧近代における理性絶対優位の合理主義に対する反発として表われたのがオートマティスム(自動書記)であるが、近代的合理主義の重みをこれまで経験してこなかった日本にシュルレアリスムを単純に移入することがどれだけ有効なのかという福沢の疑問には、単に絵画というレベルを超えた文明史的な葛藤が窺われる。

 福沢にしても、あるいは三岸好太郎にしても、シュルレアリスム的外観の中に東洋的なものが現われてくることに注目していたと示唆されているのも目を引いた。本書から孫引きすると福沢はこう記している。「俳句は五七五調の簡潔なリズムの中に広大無辺の感情を表現するものであるが、その方法に於て極めて超現実主義的なものを持つてゐる。僅かの言葉の間の極端な対比や、その矛盾相剋によつて生ずる特殊な感覚は、超現実主義の所謂“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”として、この主義の初期の、そしてまたこの主義を通しての、根本的な精神の所産に関係する」(261~262ページ)。言うまでもないが、“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”というのはロートレアモン『マルドロールの歌』に出てくる一節で、ダダやシュルレアリスムのインスピレーションとなったことでよく知られている。

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