姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』
姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書、2008年)
19世紀、“ウェスタン・インパクト”に等しくさらされた日本と朝鮮、片やいち早く近代化に成功し、片やその失敗の末に日本の植民地へと転落してしまった。明暗を分けた理由は何か。著者は、日本が江戸幕府の頃から洋学政策を採用して人材育成の蓄積があったのに対し、朝鮮は儒教に基づく中華思想・実学軽視のため西洋文明受容を進められなかった点に一つの要因を求める。
朝鮮にも西欧文明=西学を摂取する可能性はあった。17世紀の時点では北京と往来した使節団とイエズス会士との個別的な出会いという程度であったが、18世紀以降、西学受容を本格的に進めるべきだとする実学思想が現われ始める。
朝鮮では儒教が正統の学問とされていたが、第一に文治主義による実学軽視、第二に中華思想による外来文明否認がネックとなっていた。こうした傾向に対し、価値観においてキリスト教に対する儒教優位、科学において西洋文明優位という形で正統性の次元と具体実用の次元とを切り分けて西学受容を促す発想が実学思想にあった(「東道西器」→「和魂洋才」や「中体西用」と相似)。こうした思想傾向としては、イエズス会士による漢訳西洋書の研究を通して制度改革の必要を主張した李瀷ら星湖学派と、尊明排清の風潮(朱子学における“華夷の別”として夷狄蔑視→朝鮮は“小中華”という自覚)に対して、たとえ夷狄である清(満洲人)からでも実用的なものは学ぶべきだと主張した朴趾源ら北学派という二つの潮流があった。
しかしながら、保守派はキリスト教という宗教的次元と科学の次元とを十把ひとからげにして容赦なく弾圧、実学思想→西学受容の芽はつぶされてしまった。19世紀、天主教弾圧を口実にフランス軍・アメリカ軍が来攻、朝鮮側は“衛正斥邪”思想という形で態度をますます硬化させた。西欧列強や日本の圧倒的な武力を前にして開国へのイニシアティブを発揮したのは朴趾源の孫である朴珪寿であった。彼の門下生から金玉均、朴泳孝、金允植、兪吉濬など後に開化派と呼ばれる人材が現われたが、彼らもまた朝鮮宮廷で頻繁に繰り返されてきた党争の中で翻弄されてしまう。
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