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2009年6月25日 (木)

姜在彦『朝鮮の開化思想』

姜在彦『朝鮮の開化思想』(姜在彦著作選Ⅲ、明石書店、1996年)

 朝鮮近代思想史における自律的な近代化の努力を検討するという点で議論の基本的な構図は前に取り上げた『朝鮮近代の変革運動』(→こちら)と同じ。以下、メモ書き。

 まず、朝鮮儒学思想史における朱子学について検討、純一性を追究する閉鎖的思考が近代化に大きな制約を課していたことを指摘。そうした中でも実学思想がある程度柔軟な方向性を模索→守旧派から厳しい弾圧を受けたが、系譜的に19世紀の開化派につながっていく。

 少々脱線するが、初期開化派には、仏教僧の李東仁が福沢諭吉から直接話を聞いたり、兪吉濬が慶応義塾に留学したりと、福沢の啓蒙思想が一定の影響を及ぼしている。福沢は金玉均たちを支援したほか、門下生の井上角五郎をソウルに派遣して『漢城旬報』を創刊させ、下からの啓蒙活動のきっかけをつくった。福沢には「脱亜論」のイメージも強いが、これが書かれたのは甲申事変が失敗した翌年のこと。この短くて当時は目立たなかった論説が帝国主義肯定の理論として特筆大書され一人歩きを始めたのはむしろ戦後のことだと近年は指摘されている。

 急進開化派による甲申事変は失敗、金玉均・朴泳孝らは日本へ亡命。穏健開化派は日本のバックアップのもと甲午改革を進めるが、国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだ事件をきっかけに失脚、金弘集らは殺され、金允植は流罪、他は日本へ亡命した。これらの動きが上からの近代化志向だったとすると、1890年代後半から徐載弼・尹致昊・李商在らを中心に創刊された『独立新聞』は初のハングルによる新聞→大衆への啓蒙活動を目指した。開化派が初めて政治結社として独立協会を結成、また街頭集会として万民共同会→大衆運動と結び付こうとしたが、都市部中心という限界。弾圧を受けて挫折する。なお、朝鮮近代思想史における新聞の役割については姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)でも取り上げられている。

 蛇足ながら、徐載弼は甲申事変で国外亡命した後はアメリカで苦学して帰化、Philip Jaisohnと名乗っていた。尹致昊は(本書では触れられていないが)後に親日派として朝鮮貴族に列せられ、伊東致昊と名乗り、1945年に糾弾されて自殺。それぞれ複雑な人生の転変を経ているところに興味がひかれる。

 独立協会の活動に見られる国民国家を目指す考え方はさらに広まっていき、学校教育や民族産業の近代化→実力養成=自強運動が新民会などによって展開される。こうした動きは、日本による保護国化・植民地化=他律的近代化に対して、朝鮮社会内部からの自律的近代化の努力と位置付けられる。

 近代的な開化思想が民族的立場に弱い(一部は親日派に転落)のに対し、保守的な衛正斥邪思想は民族的立場としての強さはあっても抵抗ばかりで具体性がない、こうした乖離をどのように考えたらいいのかという著者の問題意識が随所で垣間見られる。衛正斥邪思想は中華思想による尊華の観念論(朝鮮民族としての独自性は視野に入らない)だけであるのに対し、朝鮮の歴史的伝統を踏まえた国学研究→近代的民族主義という芽生えは開化派の中から現われている点に着目される。朝鮮語研究の周時経や歴史家の申采浩らが挙げられる。

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