« 速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』 | トップページ | 冤罪について »

2009年6月 8日 (月)

李光洙について

 李光洙(イ・グァンス、1892~1950年)は朝鮮/韓国近代文学の父と位置付けられているが、他方で“親日派”として批判も受け、その毀誉褒貶に満ちた生涯は政治的にも思想史的にも評価の難しい複雑さをはらんでいる。代表作『無情』には自我確立の心理的葛藤が描かれており、韓国における教養小説の先駆的作品として現在でも読みつがれているという。立場的には夏目漱石とも比較できるだろうか。

 波田野節子『李光洙・『無情』の研究──韓国啓蒙文学の光と影』(白帝社、2008年)はこの『無情』の行間から李自身の人生や思想、さらには民族的葛藤を丁寧に読み込んでいく。若き日の日本留学中に読書体験から得られた思想的・文学的影響が分析されており、とりわけ明治期日本でも流行していた社会進化論へのこだわりが指摘されているのは興味深い。

 李光洙は1918年の三・一運動に関わり、その後、上海の大韓民国臨時政府に参加した。木村幹「平和主義から親日派へ──李光洙・朱耀翰に見る日本統治下の独立運動と親日派」『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識──朝貢国から国民国家へ』ミネルヴァ書房、2000年)によると、この頃の李は安昌浩の影響で武力闘争路線を支持していたという。しかし、現実の壁は険しい。ウィルソンの14か条による民族自決に期待を寄せたものの、独立は認められなかった。トルストイやガンディーの思想に共鳴し、またアイルランドが独立運動の一環としてストライキを行なっていたことを知り、さらには日本の弾圧が厳しさを増すであろうことも考えられ、李は武力闘争路線を転換した。それは単に消極的な姿勢というよりも、日本の力による蛮行に対して文化的理念を示すことが重要だと考えたからである。ガンディーがインドで合法的活動を展開していることに意を強くした李は1922年3月に帰国、合法的民族啓蒙運動に乗り出す。その際に「民族改造論」を発表した。

 しかし、南次郎朝鮮総督時代の日本は同化政策を強化し、李も逮捕されてしまった。木村書によると、妥協を余儀なくされた李は、“民族”と“改造”のうち後者の“改造”を優先させたのだという。彼はもちろん民族主義者ではあったが、日本の圧倒的な力を前にして敗れ、独立を失ってしまった悲惨な現実をどのように考えるのか。朝鮮社会は遅れていると否定的に捉えていた彼にとって(たとえば儒学を猛烈に批判していた)、第一に目指すべきは“改造”であった。本来であれば、西洋列強と同等の“近代”が目標ではあるが、日本の支配下にある現状では次善の目標として“日本”が選択された。実力養成のために後進的な朝鮮社会の“改造”というロジックは変わらないが、その目標が“西欧近代”から“日本経由の近代”にすりかわったと言える。日本への協力を積極的に勧奨した李は、解放後、“親日派”として指弾されたが(1940年には創氏改名で香山光郎と名乗り、日本語作品も発表していた)、彼は「徴用も徴兵も逃れられないならばこれを利用するのが得策だ、徴用で生産技術を、徴兵で軍事訓練を学べば、それだけ我が民族の実力も大きくなる」と考えていたらしい。

 波田野書では李光洙の思想における社会進化論の影響が指摘されているが、優勝劣敗の法則→敗者としての朝鮮→実力養成の必要、という形で“近代化”というテーマにつながる。また、李は高山樗牛や木村鷹太郎を読んで日本主義的生命主義にも触れており、本能的な生命力の発露として個人における自我意識や民族意識を捉える発想もあったらしい。とにかく生き残ることが重要→そのためにどんな衣をまとうかは副次的な問題→その衣が“西洋近代”でも“日本経由の近代”でも構わない、という形で理解してみると、李の思想において生命レベルで捉えられたナショナリズムといわゆる“親日活動”とはそれなりに整合性を持っていたと言えるのだろうか。

 韓国におけるナショナリズムを考えてみると、①観念的であっても民族としての志操を曲げない、②自民族の後進性を批判して実力養成のため“近代” (李光洙たちは“日本経由の近代”)を目指す、以上二つの流れが見て取れる。戦後韓国で行なわれた“親日派”狩りは前者の立場で後者の立場を糾弾するという形を取った。

 ところで、日本において近代化の基本的ロジックを用意した福沢諭吉は、一見したところ矛盾しそうなこれら二つの原理を合わせ持っていた(だからこそ、どちらに力点を置くかに応じて福沢評価は多面的な複雑さを示してしまうのだが)。前者は「瘠我慢の説」「丁丑公論」(→こちらを参照)に、後者は『文明論之概略』(→こちらを参照)に見られる。『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示され、当面は文明=西洋ではあるが、この立場は逆転し得る、その意味で永久運動だとするのが福沢の基本的な文明観であった。李光洙もこの図式の中で“日本経由の近代”を差し当たっての目標としていたと考えれば、彼の民族主義と“親日活動”とは矛盾しないのではないか(福沢にしても欧化主義者として当時は批判を受けたが、李光洙にとって不幸だったのは日本は韓国にあまりにも近すぎた)。

 こうした福沢的文明観に対して、韓国では①と②の両者の立場を互いに排斥しあうものとして捉えられ、そのせめぎあいの中で李光洙は翻弄されてしまった。この背景には日本による植民地化によって “日本経由の近代化”以外の現実的選択肢を持ち得なかったという不幸があった。

 なお、李光洙は朝鮮戦争の最中に行方不明となり、しばらく没年不詳となっていたが、1950年に北朝鮮軍に捕らえられて連行される途中、凍傷がもとで死去したことが後に判明している。

|

« 速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』 | トップページ | 冤罪について »

人物」カテゴリの記事

近現代史」カテゴリの記事

韓国/朝鮮」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/45270698

この記事へのトラックバック一覧です: 李光洙について:

« 速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』 | トップページ | 冤罪について »