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2009年6月11日 (木)

冤罪について

 足利事件の菅家利和さんが釈放されたという報道に接して、早速、小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(草思社、2001年)を手に取った。事件発生は1990年、当時はDNA鑑定が威力を発揮したと喧伝されたが、証拠とされたのはそれだけで、あとは自供と精神鑑定。しかし、そもそも試料が微量だったので技術的に鑑定の精度が低く、仮に鑑定が正しかったとしても数ある該当者の一人であったに過ぎない。それでも“科学”の絶対性を盾にして取調官は無理やり自供を引き出した。信頼性がまだ検証されていない段階で“最新の科学的手法”を過信してしまうことの問題点を考えさせる。本書はこの足利事件をめぐる疑念、とりわけ捜査員が菅家さんを犯人だと思い込んでいく経緯を丹念に浮き彫りにしてくれる。

 無罪を主張する菅家さんや弁護団は再鑑定を求めていたが、裁判所はなぜか却下し続けていた。ようやく再鑑定が行なわれたところ、検察側・弁護側、双方の鑑定人ともにDNAが異なるという結論を出した。最高検が一応謝罪の会見をしたらしいが(これ自体異例のことではあるが)、形式を取り繕ったところで全く無意味なわけで、無実の罪で17年間も獄につながれてきた菅家さんの無念からすれば、何でこんなことになったのか、当時の捜査員、検察官、裁判官から誠意ある説明がなければどうにもおさまらないだろう。

 冤罪によって真犯人を取り逃がしたことは(すでに時効が成立している)職務怠慢の謗りを免れないが、それ以上に気にかかるのは、同じ頃にやはりDNA鑑定のみを証拠として死刑判決を受けた飯塚事件の被告への刑が昨年に執行されていたこと。こちらも再鑑定が争点となっていたが、もし冤罪だったらどうするのだろう?

 本当に犯人でなければ自供なんてするはずない、と考える向きもあるが、取調室という緊張に満ちた非日常の空間に置かれたときの心理的メカニズムは通常とは異なった働き方をしてしまうようだ。浜田寿美男『自白の心理学』(岩波新書、2001年)は甲山事件、仁保事件、袴田事件などの具体例を通して嘘の自白を迫られるプロセスを解き明かす。取調官は「こいつが犯人だ」と心底思い込んでいる。頭の中に初めからフィルターがかかっているから反証可能な事実関係があっても無視するし、“自白”に矛盾があってもそれは被疑者の記憶違いだとみなして“正しい”方向へと誘導していく。たとえ暴力はなくても、取調室の力関係は不均衡なので、被疑者も早く終わらせたい一心から否応なく“犯人”役を演じざるを得ない。取調官と被疑者は、彼ら自身知らないはずのストーリーを合作してしまう。それに被疑者がサインをすれば、自供調書として証拠採用される。

 検察や判事は“自白”にある「当事者のみが知り得る事実」に注目する。しかし、“自白”の矛盾したほころび、つまり「当事者ではなかったからこその無知の暴露」の方にむしろ真実が見出せると浜田書は指摘している。

 鎌田慧『死刑台からの生還』(岩波現代文庫、2007年)は財田川事件(1950年に事件発生、1984年に釈放)を取材したノンフィクションである。この事件では「当事者のみが知り得る事実」を自供した点が有罪の決め手となっていた。ところが、その「当事者のみが知り得る事実」を捜査官はすでに知っていた、従って誘導尋問のあり得たことがその後の証人による証言で判明した。なお、この財田川事件では、公判記録を読んだ裁判官・矢野伊吉が無罪を確信、辞職して自ら被告の弁護にまわった。そういう情熱的な人がいたということは何か救われる思いがする。

 秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書、2002年)の著者は元裁判官だが、退官後は袴田事件の弁護団にも加わるなど冤罪事件を手がけ、判事・弁護士双方の事情を熟知した立場から様々な問題点を指摘する。被告にとって有利な証拠を検察はなかなか提出したがらないため、裁判官の判断材料が限定されてしまう、それが予断・偏見につながってしまうという。取調べの可視化が必要だ。「疑わしきは被告人の有利に」という原則は現実には守られていないとも指摘される。

 朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪―─ドキュメント志布志事件』(岩波書店、2009年)が新刊で出ているが、こちらも“自白”に基づく冤罪事件である。鹿児島県議選で当選した新人県議を含め12人が公職選挙法違反で逮捕されたが、事件そのものが警察による捏造であったことが判明した。“踏み字”などというある意味“古典的”な取調べが行なわれていたことには驚いた。本書によると、予めストーリーを作り上げ、そこに当てはめるように被疑者から“自白”を引き出すというのが捜査指揮をとった志布志署長のやり方だった。“自白”が取れない捜査員の勤務評定は下がる。実際、逮捕はしてみたものの、捜査員の間には「こんなに証拠が乏しいのに果たして起訴できるのか?」と疑問がささやかれ、署長は“暴走列車”と呼ばれていたらしい。異議を唱えた捜査員は外された。新聞も当初は警察発表をそのまま報道していたが、捜査員からのリークが事件を洗い直すきっかけになった。

 上掲小林『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』によると、足利事件では精神鑑定にも問題がありそうだ。鑑定人・福島章氏は“代償性小児性愛”なる犯行動機を指摘しているが、菅家さんが犯人だという前提、つまり予断を持った上で彼の言動に辻褄をあわせるように鑑定書が書かれている。では、犯人ではなかった場合、この鑑定は一体何だったのか? とりあえず、福島章『犯罪精神医学入門──人はなぜ人を殺せるのか』(中公新書、2005年)に目を通した。精神医学のキーワードや学説史的背景を簡潔にまとめ、それを踏まえた上で大阪教育大付属池田小学校事件、池袋通り魔事件、永山則夫などの具体例を分析するという構成をとっており、入門書として読みやすい。一定の理論的類型を個別事例に当てはめ、組み合わせながら分析を進めるのだが、第一にどんな類型をどこに当てはめるのかは解釈者による裁量の余地が大きい(言い換えれば、解釈者個人の感性による)、第二に“犯人”が犯行に至るまでを完結した人生として捉えてそれを後知恵的に解釈していく、以上の印象を受けた。犯行という“事実”→彼の人生を再解釈という形をとっており、“犯行”の有無に拘らない内面性を必ずしも汲み取っているわけではない。むしろ、“犯行”をひっくるめて内面性を判断する。従って、冤罪の場合、“犯行”という決定的な事実関係が前提から消滅するのだから、結論がまた変わってくるはずだ。論理的手順が洗練されているので一定の説得力を持つのだが、だからこそ精神医学的なレベルでも“冤罪”がこわい。

 先日、末弘厳太郎「嘘の効用」を取り上げた(→こちら)。法の画一性(だからこそ属人的な次元を超えたところで公正さが保証される)と事案の個別具体性とに矛盾がある場合、“嘘”によってバランスをとることができる、という趣旨。“正しさ”への配慮があって、それを踏まえて条文の運用を考えるということ。前提となるのは、条文だけでなく“正しさ”への直観、だから法曹家には人格的陶冶が必要だ、という話につなげられていく。必ずしも法の条文だけで“公正さ”を保証できるとは限らないという困難に末弘の論点はあるので、冤罪の話に結び付けるのは末弘にとって不本意極まりないとは思うが、犯人と決めつける捜査官にしても精神鑑定人にしても、逆に無罪を確信する弁護人にしても、各人各様の“直観”を動機としている側面が強い。その“直観”には立場それぞれの職人的な経験則による自信が裏打ちされている。そうした“直観”が、プラスとしては条文の画一的適用では汲み取れない“公正さ”への期待にもつながるし、他方で、マイナスとしては被疑者を冤罪に陥れかねない。実に難しいところである。

 そうした難しさがあるからこそ、たとえ99%クロと思われていたとしても、判事・検事・弁護人とそれぞれ視点の異なる三者の議論を通して“真実”の検証を行なうというのが裁判の基本原則となっている。それにも拘らず、実際には判事と検事の結び付きが強いこと、証拠提出等で検事の主導性が強いことはよく指摘されているところだ。

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コメント

おそらく、戦後完璧な政権交代がなかったがゆえに、政治との緊張関係がなくなり司法官僚の腐敗、怠惰が進んだのでしょう。国民は志を持って投票するべきである。

投稿: さとし | 2009年6月12日 (金) 12時22分

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