ジョージ・H・カー(蕭成美訳、川平朝清監修)『裏切られた台湾』(同時代社、2006年)
原著 Formosa Betrayedは1965年に刊行されている。ジョージ・H・カー(George H. Kerr、1911~1992年)は1937~40年まで(旧制)台北高等学校で教鞭を取っていたことがあり、戦争中は台湾通の情報将校としてアメリカ海軍に勤務、戦後は在台北の副領事となった。本書は第二次世界大戦から戦後の国民党政権に至る時期の記録だが、国民党による苛酷な支配体制に対する口調は厳しく、とりわけ二・二八事件に関しては台北市内で国民党軍による虐殺をじかに目撃、本書でもその描写が生々しい。結局、国民党からEnemy No.2とみなされる栄誉(?)に浴し、アメリカに帰国せざるを得なくなった。
ちなみに、Enemy No.1は本書に序文を寄せている政治学者ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)らしい。アメリカ上院外交委員会に提出されたアジア情勢分析「コンロン報告」で中国問題の執筆を担当、その内容が国民党政権に批判的だったからだ。スカラピーノは日本政治に関しても先駆的な研究者として有名で、一昔前までは政治学の研究書の参考文献によく名前を見かけた。
また、本書の冒頭には「問題の核心」と題したアルバート・ウェデマイヤー(Albert Wedemeyer)将軍による簡潔な報告書も掲載されている。国民党の腐敗と無能が台湾人を離反させているという趣旨である。ウェデマイヤーは蒋介石と直接交渉をしたアメリカの軍人だが、回想録『第二次大戦に勝者なし』(上下、妹尾作太男訳、講談社学術文庫、1997年)ではアメリカの対中政策の失敗も指摘されている。
カーはもともと中国に留学するつもりだったようだが、ハワイ大学で政治学者の蝋山政道と出会い、彼のすすめで来日した。台北で英語を教えていたアメリカ人の友人が病気となり、その代理で行ったのが台湾との関わりの始まりである。訳者の蕭成美、川平朝清両氏は台北高校の出身、在学中は直接授業を受けたわけではなかったが、戦後に交流が深まったという(ちなみに、川平朝清はジョン・カビラ、川平慈英兄弟の父)。二人とも親しみを込めてカール先生と呼んでいる。カーが親しく付き合った人々の中には台北帝国大学の金関丈夫や浅井惠倫、医師の南風原朝保などの名前も見える。南風原はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる。与那原さんの『美麗島まで』(文藝春秋、2002年)、『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)でもカーについて少しではあるが触れられていた。カーは沖縄にも関心が深く、『琉球の歴史』は英語で書かれた初めての通史だという。カーの蔵書が琉球大学に寄贈されている(琉球大学図書館のホームページに彼のプロフィールが紹介されている→こちら)。日米開戦によって帰国した後はコロンビア大学の博士課程に入った。イギリスの外交官で日本研究者として著名なジョージ・B・サンソムの講義も受けたらしい。ヘンダーソン氏から日本語の講義を受けたと訳者解説にあるが、朝鮮研究のグレゴリー・ヘンダーソンのことか。朝鮮半島の政治文化を渦巻き型の中央集権体制と特徴付けた『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1973年)は朝鮮研究の古典とされている。
当初、台湾の人々は中国への復帰を心から歓迎していた。しかし、上陸してきた国民党の腐敗ぶりを見るにつけ失望が高まり、それはやがて軽蔑となり、憎悪にまで高まった。日本から解放してくれたのは中国ではなくアメリカだったと見切った。ニ・ニ八事件に際しても自由と民主主義の国アメリカが介入してくれると信じていたが、その期待は見事に裏切られてしまった。
カーはアメリカ国務省内の“中国第一主義者”に批判的である。中国へ布教に行った宣教師の子弟が多かったらしい。彼らは蒋介石をはじめ国民党幹部との個人的なパイプを通して中国情勢を判断していた。台湾問題に関しても国民党側から吹聴されたバイアスがかかっていて(さもなくば全く無関心か)、カーたちの意見は全く通らないと歯ぎしりする場面が頻繁に出てくる。
上は台湾行政長官の陳儀から下は末端の兵隊まで、とにかくやりたい放題の乱暴さが繰り返し描写される。しかしながら、これを読む我々が、だから中国人はタチが悪い、と決め付けて済ませてしまうのも安易であろう。国民性の問題に還元してしまうのではなく、“近代”と“前近代”とが不幸なぶつかり方をしてしまったと捉える方が私には説得的のように思われる(以下は掲題書の内容を踏まえつつも本筋から外れる)。
台湾の日本語世代の老人たちが“日本精神”“大和魂”といった表現を使い、教育勅語を称賛するのを聞いて、戦後生まれの私など面食らってしまったことがある。“日本精神”などというと古色蒼然たる前近代的な頑迷さを思い浮かべるが、実際には、約束を守る、ウソをつかない、時間厳守、礼儀正しさ、勤勉、公共心など日常一般の生活道徳に重きが置かれているようだ(平野久美子『トオサンの桜』小学館、2007年を参照のこと)。
こうした生活徳目について、たとえば、約束を守ってウソをつかない=契約遵守の観念、時間厳守=期日を守る、礼儀正しさ=対人関係の円滑化、勤勉=職務に忠実、公共心=法律や規則の遵守、と読み替えてみると、分業によって効率性向上を図る資本主義的経済組織の運営に不可欠な生活習慣的エートスであったことが分かる。その意味で、むしろ一種の“近代性”そのものだったとすら言える。
日本の植民地統治においてはこうした生活習慣的エートスを植えつけることが教育事業の目的になっていた。日本の統治についての評価は一歩間違えると誤解を招きかねない微妙な困難をはらんでいるが、物質面ばかりでなく、日常的な行動様式という面でも資本主義に適合的なインフラ整備を進めていたという点は価値中立的に指摘できるのではないか。もちろん、日本人優位の差別構造を内包した統治システムが台湾の人々に耐えがたい屈辱感を与えていたことは決して正当化し得ないことを看過してはならない。
日本でも幕末の開国時、欧米の貿易商人の中に日本人はズルイという印象を抱く人がいたのを何かで読んだ覚えがある(何だったか失念してしまった)。おそらく、契約観念が欠如していたのだろう。一般庶民レベルまで含めた生活エートスの改造=“近代化”は、日本自身が明治維新以来推し進めてきた一大事業であった。台湾(おそらく朝鮮半島もそうだろうが)における“近代化”には、“日本化”と“日本経由の近代化”という二重性があった(日本が植民地に神社をつくった一方で、台湾総督府や朝鮮総督府の堂々たる構えは西洋風の巨大建築で日本の威信を示そうというアンビヴァレンスの表われであった。前者には日本優位の意識があるが、後者においては進歩性・近代性という価値指標は西洋に置かれている)。台湾にしても朝鮮半島にしても、いずれ何らかの形で“近代化”を迫られたであろう。しかし、そこに“日本化”が絡まりあっていたところに解きがたい難点があった。
日本の敗戦後、台湾接収のため派遣されてきた国民党軍には、中国奥地から駆り出されてきた兵隊たちも多く含まれていた。彼らは当然ながら上に示したように洗練された“近代的”行動様式など身に付けていなかった。水道・電気をはじめ初歩的な近代文明の利器すら扱えない彼らは台湾人から嘲笑の的となった。また、利権漁りに汲々とする国民党幹部の腐敗についても法治ではなく人治という問題点はよく指摘される。いずれにしても、“近代的”組織モデルには馴染まない文化風土に育った人々だったのである。
発展段階説のような話になってしまうが、本省人と外省人との間にはこのような“近代”と“前近代”というかけ離れた溝があった(大陸に渡って共産党と協力した謝雪紅たち台湾民主自治同盟は、こうした経済的・社会的レベルの相違を根拠に台湾の高度な自治を求めていたが、反右派闘争で批判されて勢力を事実上失った)。日常の生活行動パターンがそもそも異なるし、外省人には「台湾など化外の地だ」という侮蔑意識があったから、このギャップが外省人側のプライドをますます害することになってしまった。本省人は“近代”という尺度で考えるが、外省人は“中華文明”という尺度で考える。この時点で評価尺度が根本的に異なっていたわけだが、ロジックのすり替えが容易に行なわれた。国民党政権は前者の“近代”という尺度の有効性を知りつつも、政治的正統性にこだわって後者の“中華文明”という尺度で政治統合を強行しようとした。台湾人は“日本経由の近代化”=“日本化”されている、従って“中華文明化”されるまでは信用できないという猜疑心で残酷な弾圧が正当化されてしまった。
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