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2009年6月

2009年6月30日 (火)

ちょっと調べものしてたら

 ちょっと調べものしてたら、ロバート・ケーガン(和泉裕子訳)『民主国家vs専制国家 激突の時代が始まる』(徳間書店、2009年)なる本が1月に刊行されてたのを知った。どうやら原著はRobert Kagan, The Return of History and the End of Dreams(Alfred A Knopf, 2008)らしい。去年、原著を読んだときのコメントはこちらに記してある。翻訳はそのうち出るだろうなあと思ってたけど、タイトルも装幀の雰囲気も全く違うんで気付かんかった。こういう見た目に通俗ビジネス書的な感じの本は普段なら手にも取らない。内容はともかく、原著の装幀はシックな落ち着きがあって結構嫌いじゃなかったんだけどな。ケーガンはネオコンの論客として知られてるけど、オバマ政権となった現在、今さらこんなの読んだってあまり意味ないでしょ。

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2009年6月29日 (月)

レイ・タケイ『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』

Ray Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic, Holt Paperbacks, 2007

 理解不能なまでに強硬なレトリックを弄ぶアフマディネジャド現大統領に、“文明の対話”を唱えて柔軟な姿勢を示したハタミ前大統領、イスラーム革命後のイラン政治が見せる極端な振幅は海外の我々にとって非常に分かりづらく、時には予測不可能で“危険”だという印象すら与えかねない。しかしながら、今回の大統領選挙不正疑惑を発端とする混乱からうかがえるように、イラン・イスラーム体制は決して一枚岩ではないし(聖職者による事前審査があるにしても、大統領を選挙で選んでいる時点で、かつてブッシュ政権が“悪の枢軸”と名指しした他の国々とは明らかに異なる)、時にはプラグマティックな政策をとるシーンも見られた。

 本書は、そうしたイラン・イスラーム体制における内在的ロジックと政治力学との絡み合いを整理する。具体的には、イスラーム・イデオロギー、国益、派閥力学、これら三つの要因の組み合わせによってイラン現代政治を分析、対米関係、対イスラエル関係、イラク問題、核開発問題などを読み解く視座を提供してくれる(なお、保守派、現実派、急進派、改革派の分布については吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』[書肆心水、2005年]で整理されている→こちら)。著者のRay Takeyhはイラン出身の中東研究者、現在はアメリカの外交問題評議会(the Council on Foreign Relations)シニア・フェロー(そう言えば、Foreign Affairsでこの人の論文を見かけた覚えがあって、以前、こちらで簡単に触れていた)。

 イラン国民の対米不信感は、パフレヴィー国王がアメリカのCIAのバックアップにより“上からのクーデター”を断行、石油会社国有化を宣言した民族主義者モサデク首相を失脚させた事件に起因する。シャー体制はリベラル派・左派を徹底的に弾圧、結果として反体制派としてはイスラーム派が残った。共産主義者(トゥーデ党)からイスラーム主義者まで広範な反シャー体制勢力をまとめ上げるシンボルとなったのがホメイニである。ホメイニが発したメッセージには、帝国主義からの第三世界の解放、民主主義、女性や被抑圧者の権利擁護、ペルシア民族主義(この点ではパフレヴィー朝時代から一貫している)等々、多様な主張が幅広く取り込まれていた。イスラーム革命後、ホメイニをトップに据える形でヴェラーヤテ・ファギー(イスラーム法学者による統治)体制が築かれるが、ホメイニを軸として保守派・現実派・改革派などそれぞれ異なった意見を持つグループが共存、そのバランスによって政策決定が行なわれていた。ところが、ホメイニの死去(1989年)によってこうしたバランスが崩れ、派閥争いが政治の表舞台に浮上した。

 なお、シーア派にはもともと異論を許容する柔軟さがあり、世俗派が壊滅した現体制内では、聖職者たちが最も自由な議論を交わしているという(報道によると、今回の大統領選挙不正疑惑や反対派デモの武力弾圧については聖職者からも多くの異議が出されている)。中には、聖職者は政治に関与すべきではないという立場からホメイニ体制を認めない見解すら存在しているらしい。

 イラン・イスラーム体制が変質したもう一つの契機がイラン・イラク戦争である。これは単なる領土紛争という以上に、アラブ民族主義を掲げるサダム・フセインとシーア派イスラーム主義に基づくホメイニとのイデオロギー戦争という側面が強かった。アフマディネジャドをはじめ参戦した革命第二世代の保守派は戦時中に強固なイスラーム・イデオロギーを吹き込まれている。他方で、戦況が劣勢だったため、サタンであるはずのアメリカから武器を購入するという“柔軟さ”も見せたが(イラン・コントラ事件)、イラン国内では保守強硬派が暴露、これは現実派の評判を傷つけることになった(もちろん、アメリカでもスキャンダルとなった)。

 イラン・イラク戦争の体験はイランの核開発の動機につながっている。①イラクは化学兵器を使用→イラン側に深刻な被害→安全保障のためには強力な兵器を持たねばならないという危機意識。②国際社会、とりわけアメリカはイラクの化学兵器使用を傍観した→国際世論のダブルスタンダードへの不信感。さらに、③地域大国としてのプライド(それこそ古代のアケメネス朝以来!)。④インド・パキスタンの核開発→既成事実化すれば国際社会も追認するはずという楽観論。

 対イスラエル関係では、イランは国境を接しておらず直接の利害関係はない→イスラームの大義によるプロパガンダが容易に行なわれる。対米関係では、イラン側にはモサデク首相失脚で対米不信がある一方で、アメリカ側にもアメリカ大使館占拠事件で対イラン不信感、狂信的な国家というマイナスイメージがやはり根強い。イランとアメリカの相互不信→他方が譲歩の姿勢を示してももう一方がそれを信用しないというすれ違い→双方の不信感がますます高まるという悪循環。そもそも、アフマディネジャドはイラン・イラク戦争中の孤立的対外認識を依然として引きずってアメリカ=大サタンという捉え方をしているが、他方で、ネオコンのイラン認識も大使館占拠事件の時点から凍りついたまま、従って、両者とも過去の相手イメージによって強硬意見を打ち出すという錯誤があった。

 イラン国内の多元的政治力学から時折現われるプラグマティックな側面に着目すれば、地域的安全保障や国際経済の枠組みに組み込むことでイラン側が抱いている不信感を低下させることはできるだろう。アメリカはそうした方向で働きかけるため封じ込め政策を転換する必要があると著者は主張する(本書刊行後に成立したオバマ政権が対話路線に切り替えても色々と壁にぶつかっているようではあるが)。その際には、やはり強固なイデオロギー国家であり朝鮮戦争等で相互不信の状態にあった中国に対するニクソンのアプローチが参考になるのではないかという指摘が興味深い。

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2009年6月28日 (日)

姜在彦『近代朝鮮の思想』

姜在彦『近代朝鮮の思想』(姜在彦著作選Ⅴ、明石書店、1996年)

 本書、『朝鮮近代の変革運動』(著作選Ⅱ)、『朝鮮の開化思想』(著作選Ⅲ)、『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)、いずれも取り上げられたトピックスに異同があるだけで(重複も多い)、基本的な議論の構図は同じ。朝鮮社会の停滞性・他律的近代化という見解に対して、自律的近代化へと向かう内在的な契機があったことを掘り起こし、そうした朝鮮近代思想の水脈を通史的に整理する。大まかにポイントを箇条書きすると、
・伝統的儒学思想における朱子学一尊→閉鎖的思考→近代化へ向かう発想を抑圧
・そうした中でも実学思想には開化派との系譜的つながりがある
・開化派の中でも、①金弘集・金允植・魚允中などの穏健開化派:清との宗属関係を尊重、清の洋務運動をモデルに漸進的改革→守旧派とも妥協、「東道西器」論として儒教的伝統も固守。②金玉均・朴泳孝・徐光範などの急進開化派:清とは対決姿勢(華夷秩序からの離脱)、日本の明治維新をモデルに君権変法→守旧派と対決、儒教も仏教・キリスト教などと同列に置く
・他方で、朱子学一尊の立場から衛正斥邪思想
・開化派も衛正斥邪思想もエリート層による上からの動き→対して、民衆レベルから沸き起こった運動として東学、さらに甲午農民戦争
・こうした民衆運動を、守旧派は清・ロシアと結んで、開化派は日本と結んで弾圧→外国勢力による内政干渉を招く
・急進開化派による甲申事変(1884年)、穏健開化派による甲午改革(1896年)→ともに大衆的基盤がなかったために失敗
・1890年代後半になると、開化派は都市部の大衆と結びつき独立協会・万民共同会、さらに愛国啓蒙運動へ。衛正斥邪思想は農村部の大衆と結びつき義兵闘争へ(華夷的名分論からの脱却→近代的民族主義への契機)
・愛国啓蒙運動と義兵闘争、両者の動きが合流できなかったことに問題。旧型思想と新型思想との併存。
・三一運動(1919年)→民族自決・民主共和制の主張→近代的国民国家への志向性

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2009年6月27日 (土)

チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』

チャールズ・テイラー(伊藤邦武・佐々木崇・三宅岳史訳)『今日の宗教の諸相』(岩波書店、2009年)

 チャールズ・テイラーは政治哲学の分野では代表的なコミュニタリアン(共同体論者)として知られている。ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』の読み直しを通して現代社会を特徴付ける個人主義のあり様を考察するというのが本書の趣旨。テーマは宗教で、訳者は科学哲学の人たちだが、私はコミュニタリアニズムへの関心から手に取った。

 ジェイムズは、個人の内的で言語的定式化の難しい感情に注目して宗教的経験を把握しようとした。しかし、それでは宗教的感情の持つ集団的側面を無視してしまっているとテイラーは指摘する。「我々の経験のなかには(一つの意味では)個人的な経験でありながら、それが共有されているという感覚によって大いに高められるような経験が存在する。…一人でいるときにはもつことができないが、連帯しているときにはもつことのできるある種の感情が存在する。経験はそれが共有されているという事実によって、何か別のものに変化するのである」(25~26ページ)。テイラーは、だからと言ってジェイムズの議論を否定してしまうのではない。むしろ、このジェイムズが見落とした盲点にこそ、現代的な問題が伏在しているのではないかと問いかける。

 かつて信仰の原理と政治的・社会的原理とが分かちがたく結びついていた世界から、両者が分離→世俗化の過程と考えるのが“近代”という時代現象を捉える一つの論点である(マックス・ヴェーバー的に言えば“脱魔術化”か)。見方を変えれば、個人の束縛→解放ともなるが、さらに言うと、個人の内的体験のレベルにおける確からしさ、有意義さ、そういった感覚を感じられない外的束縛はすべて不条理で否定すべきものとみなされる。ジェイムズの示した内的体験として宗教感情を捉える視点は、実はこうした意味で現代的な個人主義を正確に把握していたのだとテイラーは指摘する。

 コミュニタリアニズム(共同体主義)対リバタリアニズム(自由至上主義)、個人の自律性重視か、個人が組み込まれた全体性重視か、というような単純な構図にまとめてしまうと、前者は個人の自由を認めないなどと曲解も招きかねないが、本来はそんなに単純な問題ではない。あくまでも視点の取り方の問題であって、(真剣に考えている人ならば)実は両者とも同じ地平を見据えている。テイラーが記す次の箇所には、彼がコミュニタリアンでありつつも、そうした個人における自由というテーマを考える上でのもどかしさが率直に表明されているのがうかがわれて興味深く感じた。

「現代でも依然として、無信仰の世界に何らかの不安の感覚を抱き続けている人々がいる。その感覚とはすなわち、何か大きなもの、何か重要なものが置き去りにされ、ある次元の深遠な願望が無視され、わたしたちを超えたより偉大な実在が締め出されてしまったという感覚である。この不安の感覚にたいして与えられた表現は非常に様々であるが、この不安は存続し、その表現はさらにいっそう多様な形で繰り返されている。しかし他方では、自分が尊厳をもち、自己統制を成し遂げ、成熟した自律的な存在であるという、無信仰と結びついた感覚も人々を魅了し続けており、これから先もずっと魅了し続けるように思われる。」「しかも、この論争にさらに近づいてその具体的な姿をよく観察してみると、大多数の人々は実際には二つの見方双方に惹かれる感じをもっていることが見て取れるように思われる。人々は一方の道を進まねばならないとしても、もう片方の魅力を決して完全には払いのけていない。」(53ページ)

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2009年6月26日 (金)

吉次公介『池田政権期の日本外交と冷戦──戦後日本外交の座標軸1960─1964』

吉次公介『池田政権期の日本外交と冷戦──戦後日本外交の座標軸1960─1964』(岩波書店、2009年)

 安保条約をめぐって揺れに揺れた岸信介政権のあとを受けて、池田勇人政権は経済重視の非政治路線によって国内対立の緩和を図ったというのが一般的な見方だろう。しかしながら、この経済重視、高度経済成長という路線を国際政治の次元から捉え返してみるとまた別の視点があり得るのではないか。

 本書では、第一に、池田政権には自由主義陣営の一員としての立場を守ろうという決意のあったことが指摘される。社会党に政権を渡してしまうと中立化してしまうし、安保騒動でアメリカは日本に猜疑心を抱いていたという。自民党が総選挙で勝利する必要があり、そのために“寛容と忍耐”という態度をとり、憲法改正や再軍備の話題は避け、所得倍増計画を打ち出した。第二に、“敗戦国・被占領国” 意識からの脱却を目指していた。いわゆる“大国”意識→日本も応分の義務を果たすべきという考え方になる。第三に、そうした“大国”意識に基づき、自由主義陣営において日米欧“三本柱”の一角を占めるという自覚→アメリカとの対等なパートナーシップを求めたほか、英仏などヨーロッパとの関係再構築も進められた。

 “大国”意識を持つということは、当然ながら日本も主体的なイニシアチブを発揮して外交政策を展開するということである。具体的には東南アジアにおける反共政策として進められ、本書ではとりわけ対ビルマ政策の分析に重点が置かれる(ビルマでは南機関以来の親日感情が期待できた)。池田はアメリカの軍事偏重に批判的であった。そもそもアジア諸国のナショナリズムにおいて自由主義か共産主義かという二者択一はあくまでも副次的な問題に過ぎない。SEATOのような集団防衛体制への加盟ではなく、むしろ経済的・技術的援助によってアジア諸国の民生向上を促す方が効果的だと池田は考えていた。その際に日本の高度経済成長という“成功物語”そのものが第三世界を自由主義陣営へとアピールする外交的リソースになると捉えていたという本書の指摘が目を引く。

 こうした池田政権の外交戦略が必ずしも十分な成果をあげたわけではないが、その後(とりわけ大平政権や中曽根政権)の外交路線の先駆けになったと位置付けられる。受け身で非政治的にも見られやすい経済重視路線だが、目立たないながらも実はそれ自体が戦略的リソースとなる潜在力を秘めている。その活用の仕方によっては主体的な政治外交上の選択肢を取り得たはずだし(中ソ論争、フランスの独自路線など当時の多極化を考えると、決して非現実的でもなかっただろう)、実際、池田政権は冷戦構造の渦中にあっても日本なりに場の仕切り直しを図ろうとしていた。国際政治の大問題から距離を置いた受け身の戦後日本外交という通説的な捉え方とは異なった視点を示した研究として興味深い。

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2009年6月25日 (木)

姜在彦『朝鮮の開化思想』

姜在彦『朝鮮の開化思想』(姜在彦著作選Ⅲ、明石書店、1996年)

 朝鮮近代思想史における自律的な近代化の努力を検討するという点で議論の基本的な構図は前に取り上げた『朝鮮近代の変革運動』(→こちら)と同じ。以下、メモ書き。

 まず、朝鮮儒学思想史における朱子学について検討、純一性を追究する閉鎖的思考が近代化に大きな制約を課していたことを指摘。そうした中でも実学思想がある程度柔軟な方向性を模索→守旧派から厳しい弾圧を受けたが、系譜的に19世紀の開化派につながっていく。

 少々脱線するが、初期開化派には、仏教僧の李東仁が福沢諭吉から直接話を聞いたり、兪吉濬が慶応義塾に留学したりと、福沢の啓蒙思想が一定の影響を及ぼしている。福沢は金玉均たちを支援したほか、門下生の井上角五郎をソウルに派遣して『漢城旬報』を創刊させ、下からの啓蒙活動のきっかけをつくった。福沢には「脱亜論」のイメージも強いが、これが書かれたのは甲申事変が失敗した翌年のこと。この短くて当時は目立たなかった論説が帝国主義肯定の理論として特筆大書され一人歩きを始めたのはむしろ戦後のことだと近年は指摘されている。

 急進開化派による甲申事変は失敗、金玉均・朴泳孝らは日本へ亡命。穏健開化派は日本のバックアップのもと甲午改革を進めるが、国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだ事件をきっかけに失脚、金弘集らは殺され、金允植は流罪、他は日本へ亡命した。これらの動きが上からの近代化志向だったとすると、1890年代後半から徐載弼・尹致昊・李商在らを中心に創刊された『独立新聞』は初のハングルによる新聞→大衆への啓蒙活動を目指した。開化派が初めて政治結社として独立協会を結成、また街頭集会として万民共同会→大衆運動と結び付こうとしたが、都市部中心という限界。弾圧を受けて挫折する。なお、朝鮮近代思想史における新聞の役割については姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、1977年)でも取り上げられている。

 蛇足ながら、徐載弼は甲申事変で国外亡命した後はアメリカで苦学して帰化、Philip Jaisohnと名乗っていた。尹致昊は(本書では触れられていないが)後に親日派として朝鮮貴族に列せられ、伊東致昊と名乗り、1945年に糾弾されて自殺。それぞれ複雑な人生の転変を経ているところに興味がひかれる。

 独立協会の活動に見られる国民国家を目指す考え方はさらに広まっていき、学校教育や民族産業の近代化→実力養成=自強運動が新民会などによって展開される。こうした動きは、日本による保護国化・植民地化=他律的近代化に対して、朝鮮社会内部からの自律的近代化の努力と位置付けられる。

 近代的な開化思想が民族的立場に弱い(一部は親日派に転落)のに対し、保守的な衛正斥邪思想は民族的立場としての強さはあっても抵抗ばかりで具体性がない、こうした乖離をどのように考えたらいいのかという著者の問題意識が随所で垣間見られる。衛正斥邪思想は中華思想による尊華の観念論(朝鮮民族としての独自性は視野に入らない)だけであるのに対し、朝鮮の歴史的伝統を踏まえた国学研究→近代的民族主義という芽生えは開化派の中から現われている点に着目される。朝鮮語研究の周時経や歴史家の申采浩らが挙げられる。

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2009年6月24日 (水)

吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』

吉村慎太郎『イラン・イスラーム体制とは何か』(書肆心水、2005年)

 “原理主義”“宗教復興”といった観点から捉えられがちなイラン現代政治だが、本書は、イスラーム法学者による統治=“ヴェラーヤテ・ファギー体制”内においても多様な勢力の思惑が交錯しながら展開されてきた政治動向を分析する。以下、メモ書き。

 イラン近現代史における伝統派と近代派とのせめぎ合いは、カージャール朝の時の立憲革命(1906~1911年)以来続いていた。パフレヴィー朝はアメリカからのテコ入れを受けながら“上からの近代化”を推進、農地改革によって自作農創出→政権基盤化を目指したが、かえって彼らの生活は困窮してしまった。急速な近代化に対する伝統派からの反発ばかりでなく、他ならぬ近代化によって生み出された中間階層までも離反。伝統派と近代派の両方から遊離したシャー体制は構造的に脆弱な体質をはらむ。シャー体制の強権的な政治手法への不満は伝統派から左翼まで広範にわたったが、シャー体制側と反体制運動側とのパワーバランスが逆転→革命→こうした動きをまとめ上げる大衆動員のシンボルとなったのがホメイニである。

 パフレヴィー朝は崩壊したが、革命後の政治ヴィジョンが明確だったわけではない。革命裁判所・革命委員会・革命防衛隊など組織的な中央集権化を逸早く成し遂げたホメイニ派がイスラーム化を推進、王党派残存勢力の排除ばかりでなく革命勢力内反ホメイニ派の粛清も同時並行して行なわれ、“ヴェラーヤテ・ファギー体制”が確立された。

 イラン・イラク戦争(1980~1988年)における経済政策をめぐって保守派と急進派との対立が先鋭化する。保守派はシャリーアを価値規範とし、私有財産の不可侵→自由な経済活動を主張、戦争及び経済統制によって支持基盤のバザール商人層が圧迫を受けていたため、戦争の長期化には消極的。ハメネイ(当時大統領、現最高指導者)が代表格。対して急進派は、被抑圧者の救済や社会的公平の実現を目指して経済の国家統制を主張。戦争継続を訴えていた点では強硬だが、他方で保守派とは異なり文化的次元では寛容な態度をとる。当時の首相で今回の大統領選挙では改革派から立候補したムサビもこのグループにいた。保守派と急進派との中間には原理原則よりも経済優先の現実派が位置し、ラフサンジャニ(当時国会議長、後に大統領)が代表格。戦争の長期化、芳しくない戦況、経済的低迷により国民の間には厭戦気分が広がっており、保守派と現実派とが手を組んでホメイニに働きかけ、急進派を押し切って停戦に持ち込んだ。

 1989年にはホメイニが死去。ホメイニにはサルマン・ラシュディ事件などもあって頑固そうなイメージがあるが、国内政治においてはむしろ柔軟な判断力を持っていたらしい。ホメイニの立場性さえ尊重していれば体制内において多元性を容認する指導力を発揮。ホメイニをバランサーとする形で保守派・現実派・急進派は共存していた。それは、宗教指導者であると同時に革命指導者でもあるというホメイニの二重にシンボリックな存在感に由来するシステムだったと言えるが、彼の死去により、この“ヴェラーヤテ・ファギー体制”は大きく変質、党派性による権力闘争が濃厚になってくる。

 ポスト・ホメイニ体制は、保守派(ハメネイ最高指導者)と現実派(ラフサンジャニ大統領)が同盟を組んで急進派を排除する形で成立した。しかし、社会経済的状況の悪化、また対外関係を徐々に改善→西側文化の流入→保守派から“文化侵略”という非難が沸き起こる(文化イスラーム指導相だったハタミが非難の矢面に立たされ、辞任)→保守派と現実派の同盟に亀裂が入る。

 1997年、ハタミが大統領に当選。イランの人口構成上多数を占める青年層がハタミ支持に回った結果である。ハタミ支持勢力は改革派と言われるが、反保守派同盟として現実派・急進派を含み、主張には大きな幅があった。保守派が西欧に対する強硬姿勢を強めたため、反保守派の立場から急進派はむしろ文化的寛容という点に重きを置いてハタミ支持に回った。しかしながら、イラン政界における保守派の存在感は大きく、ハタミもフリーハンドで政治運営ができるわけではなかった。かつての支持層に不満・幻滅が目立つようになる。2005年の大統領選挙では、決選投票で現実派の元大統領ラフサンジャニ対保守派のアフマディネジャドという構図→有権者にはラフサンジャニの金権体質への拒否感があったため、青年層・貧困層の票はアフマディネジャドに流れた。

 イラン現代政治を彩る人物それぞれの軌跡が見えてくるので、今回の大統領選挙をめぐる混乱の背景を知る上で本書は有益だ。過去の大統領選挙をみると、改革派のハタミ、保守強硬派のアフマディネジャド、いずれも本命候補を破ったサプライズ。イランには選挙によって政権交代を実現できるだけの社会的資質が本来備わっていたと言えるが、それだけに今回の不正選挙疑惑、そして国民的反発が際立つ。

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2009年6月23日 (火)

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』、他

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社、2008年)

 キレイごとじゃなくておカネは大事──と言っても、きいたふうなすれっからしとはまた違う。西原さんが自分の生い立ちをつづりながら、おカネのことを考える。貧しさの渦中に絡め取られた負のスパイラルから何とか脱け出そう、何とか自分の自由を確保しよう、そういうもがきの中で身を切るようにして稼いだおカネの話。最終章は亡夫鴨ちゃんの手引きで旅して垣間見た世界の貧困のこと。スモーキー・マウンテンやグラミン銀行の話題にも触れたり、結構マジメだ。

 バクチにありったけを注ぎ込んで勝負に出て自殺しちゃったおとうちゃんのことが印象に残る。馬鹿で大迷惑、だけど、良いと悪いとかいう次元じゃなくて、そういう羽目に陥らざるを得ないこともある、そういうあたりを突き放しつつもどこかウェットな同情で見つめる眼差しにはグッとくる。このように、クールなちゃかしとあたたかい優しさとを合わせ持った感性が西原作品の何とも言えず魅力的なところだ。前にも書いたけど、『ぼくんち』(→こちら)は本当に傑作だと思う。自伝的なマンガ『上京ものがたり』(小学館、2004年)、『女の子ものがたり』(小学館、2005年)も再読。『女の子ものがたり』は深津絵里の主演で映画化され、近々公開されるらしい。西原原作の『いけちゃんとぼく』も現在映画公開中。観に行こうかどうしようか。

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2009年6月22日 (月)

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』

姜在彦『朝鮮近代の変革運動』(姜在彦著作選Ⅱ、明石書店、1996年)

 日本における初期の朝鮮史研究では“他律性”史観が主流であったとされる。それに対して本書では、朝鮮にも内発的な近代化の契機があったことを掘り起こそうという問題意識をもとに朝鮮近代思想の流れが通史的に描かれる。

 まず、実学思想のうち清経由で西洋文明に触れていた北学派が取り上げられる。朴趾源ら北学派は開国主義的な立場をとり、虚学の否定、能力本位の人材登用などの制度改革を主張したが、朱子学的名分論に固執する守旧派とのイデオロギー闘争に絡め取られ、結局つぶされてしまう。ただし、北学派の系譜は19世紀の開化派に受け継がれた(→『西洋と朝鮮』を参照)。

 朴趾源の孫である朴珪寿の門下生から開化派が台頭するが、とりわけ有名なのは金玉均であろう。金玉均については“親日派”とみなす向きもあるが、対して日本から学ぶべきものは是々非々で学ぶとした主体性に注目される。近代化政策を進める上で両班階級が障害になっているという問題意識から甲申事変(1884年)が敢行されたが、失敗。社会経済的基盤が未成熟であったという内的条件、清の干渉(袁世凱が開化派を軍事制圧した)という外的条件が失敗の原因として指摘される。

 なお、儒教が正統とされて仏教は下に見られていた中、金玉均は仏教に関心を持っていたらしい。開化派には、仏教僧・李東仁(東本願寺釜山別院とつながりがあり、日本事情を熟知)、中国語通訳の呉慶錫、医者の劉大致らが大きな影響を与えていた。李朝社会において通訳や医者などの技術者は中人(両班と常民との中間階層)、仏教僧にいたっては賤民視されており、いずれも朱子学的世界観に染まった両班とは異なってイデオロギー・フリーの立場にあったことは興味深い。両班の開化派の中でも、金玉均・朴泳孝ら急進派は日本の明治維新をモデルとした変法的立場(従って、守旧派とは仇敵同士)、金允植ら穏健派は清の洋務運動をモデルとした改良的立場(従って、守旧派とも妥協可能)という二つの流れがあった。

 金玉均らの甲申事変が先鋭化した一部知識階層による上からの改革志向だったとするなら、対して下からの改革志向の民衆運動として甲午農民戦争や活貧党も取り上げられる。

 日清戦争後、事実上日本の保護国化されてしまった状況下、知識階層では二つの思想的立場が鮮明化した。第一に、李恒老→崔益鉉を源流とする衛正斥邪思想→抗日義兵闘争という立場。第二に、朴珪寿→金玉均・金允植ら開化派→愛国啓蒙運動という立場。両者とも「内修→自強」という点では同じロジックをとるのだが、「内修」の理解が対極的であった。両者が一体化できなかったところに著者は近代朝鮮の悲劇を見出す(なお、前者を意地の感覚、後者を近代化=手段としての西欧化と捉えるなら、福沢諭吉は両者を合わせ持っていたという趣旨のことを、以前、李光洙の話題に絡めてこちらに書いた)。

 愛国啓蒙運動の中では1907年に安昌浩によって旗揚げされた新民会が検討される。政治路線を看板からはずし、国権回復に向けた実力養成として学校教育や民族産業の近代化といった合法的活動に焦点が合わされた。さらに1919年の三・一運動では、この実力養成から民族自決という方向へと移っていく(この際、単なる反日ではなく、三和主義が主張されていたという指摘が目を引いた。三和主義とは西欧列強から身を守るため、独立した韓国・日本・中国が互いに連携しようという考え方で、かつて金玉均が主張していた)。そして、日本による弾圧から逃げて成立した上海臨時政府において、衛正斥邪思想の目指す復辟でもなく、開化派の主張した立憲君主制でもなく、民主共和制による国民国家が志向されることになる。

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2009年6月21日 (日)

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』

姜在彦『西洋と朝鮮──異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書、2008年)

 19世紀、“ウェスタン・インパクト”に等しくさらされた日本と朝鮮、片やいち早く近代化に成功し、片やその失敗の末に日本の植民地へと転落してしまった。明暗を分けた理由は何か。著者は、日本が江戸幕府の頃から洋学政策を採用して人材育成の蓄積があったのに対し、朝鮮は儒教に基づく中華思想・実学軽視のため西洋文明受容を進められなかった点に一つの要因を求める。

 朝鮮にも西欧文明=西学を摂取する可能性はあった。17世紀の時点では北京と往来した使節団とイエズス会士との個別的な出会いという程度であったが、18世紀以降、西学受容を本格的に進めるべきだとする実学思想が現われ始める。

 朝鮮では儒教が正統の学問とされていたが、第一に文治主義による実学軽視、第二に中華思想による外来文明否認がネックとなっていた。こうした傾向に対し、価値観においてキリスト教に対する儒教優位、科学において西洋文明優位という形で正統性の次元と具体実用の次元とを切り分けて西学受容を促す発想が実学思想にあった(「東道西器」→「和魂洋才」や「中体西用」と相似)。こうした思想傾向としては、イエズス会士による漢訳西洋書の研究を通して制度改革の必要を主張した李瀷ら星湖学派と、尊明排清の風潮(朱子学における“華夷の別”として夷狄蔑視→朝鮮は“小中華”という自覚)に対して、たとえ夷狄である清(満洲人)からでも実用的なものは学ぶべきだと主張した朴趾源ら北学派という二つの潮流があった。

 しかしながら、保守派はキリスト教という宗教的次元と科学の次元とを十把ひとからげにして容赦なく弾圧、実学思想→西学受容の芽はつぶされてしまった。19世紀、天主教弾圧を口実にフランス軍・アメリカ軍が来攻、朝鮮側は“衛正斥邪”思想という形で態度をますます硬化させた。西欧列強や日本の圧倒的な武力を前にして開国へのイニシアティブを発揮したのは朴趾源の孫である朴珪寿であった。彼の門下生から金玉均、朴泳孝、金允植、兪吉濬など後に開化派と呼ばれる人材が現われたが、彼らもまた朝鮮宮廷で頻繁に繰り返されてきた党争の中で翻弄されてしまう。

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「ウルトラミラクルラブストーリー」

「ウルトラミラクルラブストーリー」

 ミニシアターのレイトショーでかかるタイプの新人監督の邦画作品は結構こまめにチェックしていて、横浜聡子監督「ジャーマン+雨」の存在も一応知っていた。が、渋谷のユーロスペースだったか、予告編を観たとき「うーん、これはちょっと好みじゃないな」という直観があって、結局観なかった。で、今回、なぜ前売券を買ってまで「ウルトラミラクルラブストーリー」を観に行ったかというと、ただひたすら純粋に麻生久美子さんがお目当て。ほんで、観た感想としては、最初の直観は当たってたなあ、と。

 とは言いつつ、作品の出来は決して否定しない。主人公の青年のキレ具合が微妙にゆるかったり、なぜか畑に埋まって農薬かぶったり、なぜか首なし男が登場したり、なぜか死んでるのに生きてたり、そういう不可解な設定が何事でもないかのように自然に日常に溶け込んでいる。このシュールさに、翻訳字幕なしの津軽弁がまたいい塩梅に馴染んでいる。落ち着いたトーンだからこそ際立つナンセンスというのはもともと嫌いじゃない。観終わったあとちょっと疲れたが、それだけパワーがあるってことか。でも、ゴメン、やっぱりなんか好きじゃない。

 松山ケンイチの演技はホントにはた迷惑な不愉快さを感じさせて、うまいもんだなあと感心。どうでもいいけど、最近の若手女性監督には美人が多いな。横浜さん、西川美和さん、タナダユキさん、皆様おキレイです。

【データ】
脚本・監督:横浜聡子
出演:松山ケンイチ、麻生久美子、渡辺美佐子、原田芳雄、藤田弓子、他
2009年/120分
(2009年6月19日、シネマート新宿にて)

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2009年6月20日 (土)

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』

宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』(ちくま新書、2008年)、『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』(筑摩書房、2007年)

 両著ともヤクザという着眼点を通して近代日本社会の変容を正面から論じている。『ヤクザと日本』は理論的な枠組みを示し、『近代ヤクザ肯定論』はその具体例として山口組を取り上げている。著者自身がヤクザの家に生まれ、かつアウトロー的な生き方をしてきたという事情を踏まえつつも、分析の視座はアカデミックに着実。単なるヤクザ論という以前に、日本にとっての“近代”とは何かを考える上で逸することのできない説得力の重さと視野の奥行きを持っている。

 いつの時代でもどこの国でも正統的な統治のシステムから疎外された残余が必ず現われる。明治以降、近代的な法体系が確立されつつも、そこから排除された周縁社会・下層社会、具体的には貧困者、被差別部落、在日等々、こういった人々を受け入れるアジールとしての役割を果たしたのが近代ヤクザであった(全学連の唐牛健太郎や島成郎を山口組の田岡一雄が田中清玄のルートで受け入れたというのは初めて知った)。善悪是非という以前に、とにかく他に生きていく道のない者たちが寄り集まった組織。谷川康太郎(康東華)の「ヤクザとは哀愁の共同体である」という表現が印象的だ。

 人的関係を通して仕切りをするのがヤクザの役割。国家権力とは独立した社会的権力として認知され、周縁社会・下層社会と地域社会・職域社会との仲裁者として実力を持った。地域社会に根を張ったヤクザの実力的な凄みは場合によっては下からの反抗を取りまとめる可能性を秘めていたため、国家権力はその取り込みを図る(具体的には、政友会系の大日本国粋会や民政党系の大和民労会)。

 そうしたヤクザも、日本社会における資本主義の進展、国家の中央集権化傾向が強まる中、とりわけ戦後になって変化を迫られる。地域下層社会に根を張って人的に濃密な関係を持っているのがヤクザの顔役としての強みであった。ところが、港湾作業や工事・建築現場の機械化、さらには経営の論理によって資金源として労働力を捉える発想を持つようになって、そうした人的な関係がドライなものとなり、濃密な属人的関係だからこそ持っていた基盤が崩れていく。風俗産業や賭博に裏社会と表社会の垣根がなくなったこと(ビジネスの世界自体がバクチ的になったため、あえて裏社会として賭博をする必要がなくなった)、ドロップアウトした青年の受け皿がなくなったことなどもそうした変容の問題として指摘される(このあたりは、先日取り上げた河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』でも指摘されていた→こちら)。

 “近代”という時代現象は、資本の論理にしても、権力の論理にしても、社会のあらゆる領野を平面化していく運動性を持っている。しかし、表社会は必ず排除のロジックをはらみ、従って裏社会にもそれが生まれざるを得ない存在理由があったことを考えると、いわゆる“風通しの良さ”が単純に健全な社会と言えるのかどうか、疑問符をつけざるを得ない。

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2009年6月18日 (木)

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』

芹沢一也『〈法〉から解放される権力──犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』(新曜社、2001年)

 ミシェル・フーコー的な権力論の視座を通して大正デモクラシーの時代風潮を読み解こうとした刺激的な論考である。本書は、統治の対象としての民衆が可視化、直接権力の眼差しにさらされ始めた状況として“大正的な社会”を捉える。

 吉野作造の民本主義と牧野英一の新派刑法学とが“法からの解放”という点で実は同じロジックをとっていたという指摘に興味が引かれた。吉野の民本主義は、民衆の台頭という社会状況を踏まえ、明治憲法に規定された天皇主権を“カッコに括る”(つまり、主権の所在を問わない)ことにより、民衆の意向を汲み上げる政治実践を可能とする理論的基礎を示した。こうした吉野(及び美濃部達吉の天皇機関説)の“カッコ入れ”のロジックに対し、明治憲法を愚直に読んで天皇主権説を主張した上杉慎吉が比較される。

 一方、牧野は刑法の硬直性に批判を向けていた。旧来的な刑法では個々の犯罪と法に規定された刑罰とが一対一で対応され、裁判官はその機械的な適用が役割となる。事後的に罰するという刑罰観は応報に力点が置かれているわけだが、対して牧野は社会防衛の必要を強調した。犯罪を犯し得る人間類型の措定→将来の危険可能性・再犯可能性を“悪性”として把握→振舞いの結果としての犯罪ではなく、人間の内的な主観に矛先を向けて予防するという考え方である。“悪性”を治癒するための手段として刑罰を捉える。このように牧野は、秩序維持のための予防として法を柔軟に運用すべきという観点から論陣を張った。つまり、罪刑法定主義を“カッコに括る”、言い換えると、法として明文化された言説から離れた次元に立ち、個々の事情に応じて裁量で政策対応すべきというロジックをとった。

 “悪性”の原因が“狂気”にあるとすれば、犯罪者を治癒の対象として捉え、精神医学の領域に踏み込むことになる。犯罪の原因を貧困に求めれば社会政策の領域につながり、本書では方面委員制度について検討される。このように犯罪撲滅の手段としての刑罰、“狂気”の治癒としての精神医学、貧困解消のための社会政策と並べたコンテクストの中で考えると、吉野の民本主義についても民衆の要求を政治へ汲み上げることによって急進的な革命を予防する発想が込められたものとして理解することもできる。

 以上のように権力の視野が社会生活に浸透していくことは、一面において福利の向上=社会の進歩という側面をあわせ持つにしても、同時に統治のロジックによる操作可能性が人々の生活の内在的なレベルにまで広がったとも言える。あくまでも一つの視点ではあるが、そうした現代社会にもつながる問題意識を大正という時代状況から読み取った論考として興味深い。

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2009年6月17日 (水)

河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』

河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス──治安の法社会学』(岩波書店、2004年)

 日本の犯罪は果たして増加・凶悪化しているのだろうか? 本書はまず議論の前提作業として統計数字のカラクリを読み解き(たとえば検挙率にしても、分母である認知数を拾い上げる基準が変わると数字も大きく変動する)、マクロレベルでは日本の治安は悪化していないことを示す。

 それでは、なぜ日本の治安は悪化しているという印象論が語られるのか? 日本の社会構造の変化により、犯罪の起こり得る空間(たとえば、繁華街)と従来ならば安心して暮らすことのできた空間(たとえば、住宅街)との境界線が不明瞭になりつつため、一般の人々も体感治安の悪化を感じるようになったのだという。犯罪を許容する空間と許容しない空間とが並立した伝統的なあり方を著者は“ハレ”と“ケ”の二分法にたとえる。“ハレ”としての裏社会には裏社会なりに自己完結したシステムがあり、“ケ”の世界から排除された前科者を受け入れ、総体として両者は共存していたと指摘される。治安に関わる事件や人々の動きは“ケ”の世界から隠されることで成立してきたのが従来のあり方で、それを著者は“安全神話の構造”と呼ぶ。このシステムはインフォーマルで濃密な対面的人間関係によって維持されてきたが、対人関係のあり方が変容した現在、維持しきれなくなっているところに問題点を見出す。

 治安の問題を政策対応という次元で考えるのではなく、統計上の治安と体感治安とのズレ、法規定と実際の制度運用とのズレ、そうしたあわいから日本社会の変容を見出していく視点に色々な示唆が感じられて実に興味深い。

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2009年6月16日 (火)

梶山季之『族譜・李朝残影』

梶山季之『族譜・李朝残影』(岩波現代文庫、2007年)

 梶山季之(1930~1975年)といえば週刊誌記者、いわゆる“トップ屋”のはしり(その活躍は高橋呉郎『週刊誌風雲録』[文春新書、2006年]で読んだ覚えがある)、あるいは守備範囲の広い通俗作家としてもよく知られている。他方で、父親が朝鮮総督府に勤務していた関係でソウル出身という生い立ちから、植民地期の朝鮮を題材とした小説もいくつか残している。

 「族譜」のテーマは創氏改名である。ご先祖様に申し訳が立たないから勘弁して欲しいと懇願する名門当主の温厚な紳士と、それにもかかわらず創氏改名を強制せよという役所の論理。朝鮮総督府勤務の芸術家肌の青年が両者の間で板ばさみになってしまった葛藤が描かれている。

 いくつか気付いた点を並べると、第一に、青年の上司は薄汚い出世主義者として描かれているが、彼らの背後からは、文化的相違を無視した安易な政策決定とそれを盲目的に遂行しようとする官僚制の論理がうかがえる。第二に、青年も最初は「朝鮮人差別を解消できるやりがいのある仕事だ」と考えていた点が目につく。民族的な差異は差別につながる→差別解消のための恩恵としての同化→創氏改名という建前が掲げられていた。主観的な善意が必ずしも相手への善意にはつながらないというすれ違いについては、以前、喜田貞吉の日鮮同祖論に絡めて触れたことがある(→こちら)。第三に、差異=民族差別解消という発想の背景に日本人側の身勝手があるのはもちろんだが、それと同時に、国民国家の同質性というフランス革命以来の近代的イデオロギーが一見日本特殊にも思える装いの下に潜んで機能していた点も見逃すことはできない。

 「李朝残影」は、朝鮮の伝統舞踊の踊り手である妓生の女性と、“滅び行く朝鮮の美”を何とか絵に残したいと願う日本人青年画家との交流を描く。日本人に強い反感を持っていた彼女が青年の熱意に徐々に心を開きつつあったまさにそのとき、提岩里事件(三一運動の際に起った日本軍による住民虐殺事件)の過去が影を落としてしまうのは何とも言えず悲しい。個人としては良心的であろうとしても、制度的、社会的、そして民族的なしがらみからそれがなかなか許されないという葛藤は「族譜」と共通するテーマである。

 そのしがらみというのも、内面的な良心に対する外的な強制力という構図に仕立て上げてすませることはできない。植民地での日常生活が延々と続く中、朝鮮人に対する日本人優位という立場性が自然に皮膚感覚に馴染んでしまい、それをふとしたきっかけで自覚したときの気まずさ。「性欲のある風景」は中学生のときに迎えた1945年8月15日の思い出をつづっている。戦時下の緊張感と青春期の血の騒ぎとがないまぜになった切迫した感傷を捉え返す筆致、そうした筆先が、優等生だった朝鮮人同級生との語らいで梶山自身の中で微妙に動く心のざわめきをもすくい取っていく。

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2009年6月15日 (月)

田中英光のこと

 田中英光といっても太宰治の後追い自殺をした人という程度にしか私は知らなかったのだが、川村湊『〈酔いどれ船〉の青春──もう一つの戦中・戦後』(講談社、1986年)を読み、どんな人なのかと気になって、田中のデビュー作『オリンポスの果実』(新潮社、1967年改版)に目を通した。

 早大在学中、オリンピックのボート選手としてサンフランシスコへ行く船上で出会った陸上選手の秋子という女学生、彼女への想いをひたすらつづっていく。一方的な片想いを小説作品に昇華させていくものとしては中河与一『天の夕顔』も思い浮かべるが、そのあり得ないまでにストイックな清潔感とは違って、『オリンポスの果実』には私小説的に生々しい鬱屈がある。田中という人のグダグダした女々しさは何となく師匠の太宰にも似ているが、時には小狡さすら感じさせる太宰の屈折ともまた違って、田中のもっと純情一本やりなところは憎めない。

 田中は大学卒業後、横浜ゴムに入社。京城支店に勤務するかたわら、『オリンポスの果実』で認められた新進文士として当時の朝鮮文壇の名士たちと交流する。戦時下、朝鮮文学報国会や大東亜文学者会議などに駆り出された体験を材料として想像を膨らませた作品が『酔いどれ船』(『田中英光全集2』芳賀書店、1965年、所収)である。

 ちょっと不思議な小説だ。朝鮮総督府の御用団体が裏にはらんでいる汚さや、朝鮮の人々の屈折した反感、それらを横目で眺めつつ、主人公・坂本享吉=田中は「自分の存在を証明してくれるのは、ただ自分の胃袋と生殖器だけのような気がした」「(流されるまま、流されよう)そのズルズルベッタリの自分の醜さを忘れるためにこそ、酒でも飲まねばやり切れぬ」と捨て鉢な気分で日々をやり過ごしている。朝鮮文壇の実力者である京城帝国大学教授は総督府や軍部とつながりを持ち、表では忠君愛国を絶叫しながらも裏では変態性欲の持ち主という格好の悪役。日本人の転向左翼、親日派に転向した朝鮮人文士、そして日本人に媚を売っているように見えて得体の知れぬ振る舞いの女流詩人・慮天心。陰謀が飛び交い、有象無象の織り成すドタバタ劇。汚辱と正義の絡まり合った倒錯した世界=“酔いどれ船”、その中で翻弄されるだらしないボクって一体何なの?という感じの構図と言えるだろうか。アングラな歓楽街をさまよい歩き、正攻法とは違った視点で1940年代のソウルを描き出しているので、それなりに面白い。

 当時の朝鮮文壇の顔ぶれが色々と出てくるのも読みどころだ(ただし、半ば以上脚色されているので注意が必要。たとえば前述の悪徳帝大教授にもモデルはいるようだが、実際とはだいぶ異なる)。大東亜文学者会議ご一行様歓迎会のシーンでは周作人やニコライ・バイコフなども登場する。そうした点でこの『酔いどれ船』は(明らかにフィクションではあるが)田中の視点を通して戦時下朝鮮文壇の空気を描き込んだ側面を持っている。川村湊『〈酔いどれ船〉の青春──もう一つの戦中・戦後』はこの作品を手掛かりに当時の朝鮮の文学的・社会的状況を検討した先駆的な労作である。

 露悪的なそぶりを見せつつその下に息づく田中の純情には、自分はだらしない人間だという誠実な自覚があるからこそ、表面的なものにはとらわれない、従って政治的なロジックとは異なった次元から人間を見つめようという視点がある。だからこそ、抗日の筋を通す民族主義者に対しても、李光洙など親日派=民族の裏切り者となった転向文士に対しても、その人がその人なりの葛藤を抱えているのが理解できれば、良い奴はやはり良い奴だと素直に認める。同時に、『オリンポスの果実』にも典型的に見られるように田中には主観的な片想いも目立つ。『酔いどれ船』は坂本=田中が慮天心に寄せる片想いの物語でもある。それは単に田中個人の問題というばかりでなく、川村も指摘しているように近代日本の朝鮮認識、アジア認識と重ね合わせて考えてみる必要も感じさせる。

 『田中英光全集2』にはソウル滞在期に関わる作品が集められている。「愛と青春と生活」はぐうたらサラリーマン生活、結婚生活にまつわる自伝的作品だが、生活の舞台としてソウルの街並もスケッチされているのが興味深い。「朝鮮の作家」という短文では香山光郎こと李光洙や兪鎮午との交流についても記されている。李光洙についてはこちらで触れた。

 兪鎮午の本職は法学者だが、当時気鋭の作家として知られ、本書の巻末に「朝鮮文学通信」という流暢な日本語で書かれた文章が資料として収録されている。彼は京城帝国大学を首席で卒業した秀才で、母校の助手に採用されたが、戦後も指導的知識人として活躍、大韓民国憲法を起草した。さらに朴正熙政権下で野党有力指導者として重きをなしたことは木村幹『民主化の韓国政治──朴正熙と野党政治家たち 1961~1979』(名古屋大学出版会、2008年)で知った。

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2009年6月14日 (日)

岩田重則『〈いのち〉をめぐる近代史──堕胎から人工妊娠中絶へ』

岩田重則『〈いのち〉をめぐる近代史──堕胎から人工妊娠中絶へ』(吉川弘文館、2009年)

 “近代”なるものをどのように捉えるのかは難しいテーマだが、本書は堕胎に焦点を合わせている。1900年代までの日本は、前近代的な性関係や堕胎がとりわけ地方の生活習慣レベルで残存している一方で、資本主義的生産システムのしわ寄せとしての貧困・生活苦、近代的法体系における堕胎罪にも取り囲まれ、いわば“前近代”と“近代”とが並存した状況だったという。両者の相克により摘発されたり、堕胎手術の失敗で死亡したりと悲惨なケースのあったことが当時の新聞雑誌等の史料の丹念な調査を通して浮き彫りにされる。1920年代以降から専門的な産科医による人工中絶手術が増加、また“職業婦人”としての近代産婆の登場によっても、生活習慣レベルでの“生”や“性”の捉え方が変化しつつあったことが窺われる。資本主義発展段階説における講座派への疑問という問題意識は古くさいが、堕胎というテーマから“近代”を考える視点は興味深く読んだ。

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2009年6月13日 (土)

河合幹雄『日本の殺人』、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』

河合幹雄『日本の殺人』(ちくま新書、2009年)

 著者は法社会学者(たしか河合隼雄の息子さんではなかったか)。本書の3分の2ほども占める第1章ではいわゆる“殺人事件”のあらゆるケースが個別に検討される。『犯罪白書』等の統計を踏まえつつ、データの前提としてのカテゴリーにはくくりきれない側面も注意深く読み取りながら、“殺人”なる事象の複雑多様なあり様を示す。殺人は戦後減少傾向にあること、家族がらみのケースが半分以上を占めることなどが指摘される。

 一部マスメディアを通してふりまかれる「治安の悪化」「厳罰化による犯罪抑止」といった言説の問題点は最近よく指摘されるようになってきたが、それとの関わりで“安全神話の構造”という論点に興味を持った。“凶悪犯罪”をワイドショー等で無責任に消費できるのは、実はそうした“犯罪”の問題は、一般の日常生活から切り離された非日常として区分けされているからだという。一般人は重大“犯罪”に直接関わらない。他方で、出所した前科者はどこへ行ったのか? 彼らを受け入れ社会復帰させるため人知れぬところで献身的に努力している人々がいる(一般国民に知られないのに献身できる動機は何か?→第一に、公的にそうした職務についている人々に対しては天皇制という枠組みの中で褒章制度によって名誉が与えられる。第二に、任侠の世界が前科者を偏見なく受け入れてきた、以上二つの指摘も興味がひかれる)。日常と非日常の区別によってこれまで“安全神話”が成り立ってきたが、近年はこの仕組みが崩れて“日常”の中にまで“犯罪”が拡散してきた。統計的には犯罪は減少しているのに、“体感治安”が悪化していると受け止められているのにはこうした背景があるのだという。

浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会──誰もが「不審者」?』(光文社新書、2006年)

 浜井浩一は刑務関係施設勤務の経験があり、犯罪統計論の立場から“治安悪化”という印象論の問題点を検証する。芹沢一也は思想史の立場から、マスメディアに現われた言説を検討、とりわけ空洞化したコミュニティを防犯活動によって再生させるというロジックが相互不信を強めかねない点を指摘する。

 浜井が指摘する刑務所の現実には考えさせられる。本当に凶悪犯罪が増えているのであれば、刑務所には獰猛な輩があふれかえっていてもおかしくない。しかし、実際には、高齢者、障害者、外国人など通常の社会生活ではハンディキャップのある人々が収容者の多数を占めている。そのため、懲役刑による作業義務が機能しないほどだという。厳罰化、地域の監視社会化は、むしろこうした社会的弱者を排除する方向に進み、彼らの行き着く先は刑務所しかなくなってしまう。障害者が刑務所に舞い戻らざるを得ない問題については、以前、山本譲二『累犯障害者』(新潮社、2006年)を読んでショックを受けた覚えがある。

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2009年6月11日 (木)

冤罪について

 足利事件の菅家利和さんが釈放されたという報道に接して、早速、小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(草思社、2001年)を手に取った。事件発生は1990年、当時はDNA鑑定が威力を発揮したと喧伝されたが、証拠とされたのはそれだけで、あとは自供と精神鑑定。しかし、そもそも試料が微量だったので技術的に鑑定の精度が低く、仮に鑑定が正しかったとしても数ある該当者の一人であったに過ぎない。それでも“科学”の絶対性を盾にして取調官は無理やり自供を引き出した。信頼性がまだ検証されていない段階で“最新の科学的手法”を過信してしまうことの問題点を考えさせる。本書はこの足利事件をめぐる疑念、とりわけ捜査員が菅家さんを犯人だと思い込んでいく経緯を丹念に浮き彫りにしてくれる。

 無罪を主張する菅家さんや弁護団は再鑑定を求めていたが、裁判所はなぜか却下し続けていた。ようやく再鑑定が行なわれたところ、検察側・弁護側、双方の鑑定人ともにDNAが異なるという結論を出した。最高検が一応謝罪の会見をしたらしいが(これ自体異例のことではあるが)、形式を取り繕ったところで全く無意味なわけで、無実の罪で17年間も獄につながれてきた菅家さんの無念からすれば、何でこんなことになったのか、当時の捜査員、検察官、裁判官から誠意ある説明がなければどうにもおさまらないだろう。

 冤罪によって真犯人を取り逃がしたことは(すでに時効が成立している)職務怠慢の謗りを免れないが、それ以上に気にかかるのは、同じ頃にやはりDNA鑑定のみを証拠として死刑判決を受けた飯塚事件の被告への刑が昨年に執行されていたこと。こちらも再鑑定が争点となっていたが、もし冤罪だったらどうするのだろう?

 本当に犯人でなければ自供なんてするはずない、と考える向きもあるが、取調室という緊張に満ちた非日常の空間に置かれたときの心理的メカニズムは通常とは異なった働き方をしてしまうようだ。浜田寿美男『自白の心理学』(岩波新書、2001年)は甲山事件、仁保事件、袴田事件などの具体例を通して嘘の自白を迫られるプロセスを解き明かす。取調官は「こいつが犯人だ」と心底思い込んでいる。頭の中に初めからフィルターがかかっているから反証可能な事実関係があっても無視するし、“自白”に矛盾があってもそれは被疑者の記憶違いだとみなして“正しい”方向へと誘導していく。たとえ暴力はなくても、取調室の力関係は不均衡なので、被疑者も早く終わらせたい一心から否応なく“犯人”役を演じざるを得ない。取調官と被疑者は、彼ら自身知らないはずのストーリーを合作してしまう。それに被疑者がサインをすれば、自供調書として証拠採用される。

 検察や判事は“自白”にある「当事者のみが知り得る事実」に注目する。しかし、“自白”の矛盾したほころび、つまり「当事者ではなかったからこその無知の暴露」の方にむしろ真実が見出せると浜田書は指摘している。

 鎌田慧『死刑台からの生還』(岩波現代文庫、2007年)は財田川事件(1950年に事件発生、1984年に釈放)を取材したノンフィクションである。この事件では「当事者のみが知り得る事実」を自供した点が有罪の決め手となっていた。ところが、その「当事者のみが知り得る事実」を捜査官はすでに知っていた、従って誘導尋問のあり得たことがその後の証人による証言で判明した。なお、この財田川事件では、公判記録を読んだ裁判官・矢野伊吉が無罪を確信、辞職して自ら被告の弁護にまわった。そういう情熱的な人がいたということは何か救われる思いがする。

 秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書、2002年)の著者は元裁判官だが、退官後は袴田事件の弁護団にも加わるなど冤罪事件を手がけ、判事・弁護士双方の事情を熟知した立場から様々な問題点を指摘する。被告にとって有利な証拠を検察はなかなか提出したがらないため、裁判官の判断材料が限定されてしまう、それが予断・偏見につながってしまうという。取調べの可視化が必要だ。「疑わしきは被告人の有利に」という原則は現実には守られていないとも指摘される。

 朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪―─ドキュメント志布志事件』(岩波書店、2009年)が新刊で出ているが、こちらも“自白”に基づく冤罪事件である。鹿児島県議選で当選した新人県議を含め12人が公職選挙法違反で逮捕されたが、事件そのものが警察による捏造であったことが判明した。“踏み字”などというある意味“古典的”な取調べが行なわれていたことには驚いた。本書によると、予めストーリーを作り上げ、そこに当てはめるように被疑者から“自白”を引き出すというのが捜査指揮をとった志布志署長のやり方だった。“自白”が取れない捜査員の勤務評定は下がる。実際、逮捕はしてみたものの、捜査員の間には「こんなに証拠が乏しいのに果たして起訴できるのか?」と疑問がささやかれ、署長は“暴走列車”と呼ばれていたらしい。異議を唱えた捜査員は外された。新聞も当初は警察発表をそのまま報道していたが、捜査員からのリークが事件を洗い直すきっかけになった。

 上掲小林『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』によると、足利事件では精神鑑定にも問題がありそうだ。鑑定人・福島章氏は“代償性小児性愛”なる犯行動機を指摘しているが、菅家さんが犯人だという前提、つまり予断を持った上で彼の言動に辻褄をあわせるように鑑定書が書かれている。では、犯人ではなかった場合、この鑑定は一体何だったのか? とりあえず、福島章『犯罪精神医学入門──人はなぜ人を殺せるのか』(中公新書、2005年)に目を通した。精神医学のキーワードや学説史的背景を簡潔にまとめ、それを踏まえた上で大阪教育大付属池田小学校事件、池袋通り魔事件、永山則夫などの具体例を分析するという構成をとっており、入門書として読みやすい。一定の理論的類型を個別事例に当てはめ、組み合わせながら分析を進めるのだが、第一にどんな類型をどこに当てはめるのかは解釈者による裁量の余地が大きい(言い換えれば、解釈者個人の感性による)、第二に“犯人”が犯行に至るまでを完結した人生として捉えてそれを後知恵的に解釈していく、以上の印象を受けた。犯行という“事実”→彼の人生を再解釈という形をとっており、“犯行”の有無に拘らない内面性を必ずしも汲み取っているわけではない。むしろ、“犯行”をひっくるめて内面性を判断する。従って、冤罪の場合、“犯行”という決定的な事実関係が前提から消滅するのだから、結論がまた変わってくるはずだ。論理的手順が洗練されているので一定の説得力を持つのだが、だからこそ精神医学的なレベルでも“冤罪”がこわい。

 先日、末弘厳太郎「嘘の効用」を取り上げた(→こちら)。法の画一性(だからこそ属人的な次元を超えたところで公正さが保証される)と事案の個別具体性とに矛盾がある場合、“嘘”によってバランスをとることができる、という趣旨。“正しさ”への配慮があって、それを踏まえて条文の運用を考えるということ。前提となるのは、条文だけでなく“正しさ”への直観、だから法曹家には人格的陶冶が必要だ、という話につなげられていく。必ずしも法の条文だけで“公正さ”を保証できるとは限らないという困難に末弘の論点はあるので、冤罪の話に結び付けるのは末弘にとって不本意極まりないとは思うが、犯人と決めつける捜査官にしても精神鑑定人にしても、逆に無罪を確信する弁護人にしても、各人各様の“直観”を動機としている側面が強い。その“直観”には立場それぞれの職人的な経験則による自信が裏打ちされている。そうした“直観”が、プラスとしては条文の画一的適用では汲み取れない“公正さ”への期待にもつながるし、他方で、マイナスとしては被疑者を冤罪に陥れかねない。実に難しいところである。

 そうした難しさがあるからこそ、たとえ99%クロと思われていたとしても、判事・検事・弁護人とそれぞれ視点の異なる三者の議論を通して“真実”の検証を行なうというのが裁判の基本原則となっている。それにも拘らず、実際には判事と検事の結び付きが強いこと、証拠提出等で検事の主導性が強いことはよく指摘されているところだ。

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2009年6月 8日 (月)

李光洙について

 李光洙(イ・グァンス、1892~1950年)は朝鮮/韓国近代文学の父と位置付けられているが、他方で“親日派”として批判も受け、その毀誉褒貶に満ちた生涯は政治的にも思想史的にも評価の難しい複雑さをはらんでいる。代表作『無情』には自我確立の心理的葛藤が描かれており、韓国における教養小説の先駆的作品として現在でも読みつがれているという。立場的には夏目漱石とも比較できるだろうか。

 波田野節子『李光洙・『無情』の研究──韓国啓蒙文学の光と影』(白帝社、2008年)はこの『無情』の行間から李自身の人生や思想、さらには民族的葛藤を丁寧に読み込んでいく。若き日の日本留学中に読書体験から得られた思想的・文学的影響が分析されており、とりわけ明治期日本でも流行していた社会進化論へのこだわりが指摘されているのは興味深い。

 李光洙は1918年の三・一運動に関わり、その後、上海の大韓民国臨時政府に参加した。木村幹「平和主義から親日派へ──李光洙・朱耀翰に見る日本統治下の独立運動と親日派」『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識──朝貢国から国民国家へ』ミネルヴァ書房、2000年)によると、この頃の李は安昌浩の影響で武力闘争路線を支持していたという。しかし、現実の壁は険しい。ウィルソンの14か条による民族自決に期待を寄せたものの、独立は認められなかった。トルストイやガンディーの思想に共鳴し、またアイルランドが独立運動の一環としてストライキを行なっていたことを知り、さらには日本の弾圧が厳しさを増すであろうことも考えられ、李は武力闘争路線を転換した。それは単に消極的な姿勢というよりも、日本の力による蛮行に対して文化的理念を示すことが重要だと考えたからである。ガンディーがインドで合法的活動を展開していることに意を強くした李は1922年3月に帰国、合法的民族啓蒙運動に乗り出す。その際に「民族改造論」を発表した。

 しかし、南次郎朝鮮総督時代の日本は同化政策を強化し、李も逮捕されてしまった。木村書によると、妥協を余儀なくされた李は、“民族”と“改造”のうち後者の“改造”を優先させたのだという。彼はもちろん民族主義者ではあったが、日本の圧倒的な力を前にして敗れ、独立を失ってしまった悲惨な現実をどのように考えるのか。朝鮮社会は遅れていると否定的に捉えていた彼にとって(たとえば儒学を猛烈に批判していた)、第一に目指すべきは“改造”であった。本来であれば、西洋列強と同等の“近代”が目標ではあるが、日本の支配下にある現状では次善の目標として“日本”が選択された。実力養成のために後進的な朝鮮社会の“改造”というロジックは変わらないが、その目標が“西欧近代”から“日本経由の近代”にすりかわったと言える。日本への協力を積極的に勧奨した李は、解放後、“親日派”として指弾されたが(1940年には創氏改名で香山光郎と名乗り、日本語作品も発表していた)、彼は「徴用も徴兵も逃れられないならばこれを利用するのが得策だ、徴用で生産技術を、徴兵で軍事訓練を学べば、それだけ我が民族の実力も大きくなる」と考えていたらしい。

 波田野書では李光洙の思想における社会進化論の影響が指摘されているが、優勝劣敗の法則→敗者としての朝鮮→実力養成の必要、という形で“近代化”というテーマにつながる。また、李は高山樗牛や木村鷹太郎を読んで日本主義的生命主義にも触れており、本能的な生命力の発露として個人における自我意識や民族意識を捉える発想もあったらしい。とにかく生き残ることが重要→そのためにどんな衣をまとうかは副次的な問題→その衣が“西洋近代”でも“日本経由の近代”でも構わない、という形で理解してみると、李の思想において生命レベルで捉えられたナショナリズムといわゆる“親日活動”とはそれなりに整合性を持っていたと言えるのだろうか。

 韓国におけるナショナリズムを考えてみると、①観念的であっても民族としての志操を曲げない、②自民族の後進性を批判して実力養成のため“近代” (李光洙たちは“日本経由の近代”)を目指す、以上二つの流れが見て取れる。戦後韓国で行なわれた“親日派”狩りは前者の立場で後者の立場を糾弾するという形を取った。

 ところで、日本において近代化の基本的ロジックを用意した福沢諭吉は、一見したところ矛盾しそうなこれら二つの原理を合わせ持っていた(だからこそ、どちらに力点を置くかに応じて福沢評価は多面的な複雑さを示してしまうのだが)。前者は「瘠我慢の説」「丁丑公論」(→こちらを参照)に、後者は『文明論之概略』(→こちらを参照)に見られる。『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示され、当面は文明=西洋ではあるが、この立場は逆転し得る、その意味で永久運動だとするのが福沢の基本的な文明観であった。李光洙もこの図式の中で“日本経由の近代”を差し当たっての目標としていたと考えれば、彼の民族主義と“親日活動”とは矛盾しないのではないか(福沢にしても欧化主義者として当時は批判を受けたが、李光洙にとって不幸だったのは日本は韓国にあまりにも近すぎた)。

 こうした福沢的文明観に対して、韓国では①と②の両者の立場を互いに排斥しあうものとして捉えられ、そのせめぎあいの中で李光洙は翻弄されてしまった。この背景には日本による植民地化によって “日本経由の近代化”以外の現実的選択肢を持ち得なかったという不幸があった。

 なお、李光洙は朝鮮戦争の最中に行方不明となり、しばらく没年不詳となっていたが、1950年に北朝鮮軍に捕らえられて連行される途中、凍傷がもとで死去したことが後に判明している。

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2009年6月 6日 (土)

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本──イメージの受容と創造』(NHKブックス、2009年)

 戦前期日本のモダニズム絵画というと、私などはまず古賀春江「海」(1929年)を思い浮かべる。古賀の絵の不思議な画面構成が与える印象は強烈で、このキッチュな違和感そのものをシュルレアリスムと結び付けたくなるが、事情はそんなに単純ではないらしい。

 本書では、古賀の絵画要素の一つ一つについて当時の雑誌に掲載された写真やイラストからのモンタージュであることが丹念に分析されている。そこには写実性という意図はなく、むしろ既成イメージの切り貼りを通して“自己消滅”が目指されていたのだという。経験的実感、“自我”なるもの、そういった現実的価値形式を消滅させることで純粋美を求める、それが古賀にとっての超現実主義だったという指摘が非常に興味深い。

 シュルレアリスム絵画を日本に初めてもたらしたとされる福沢一郎が、帰国後、方向性を変えたことをどのように考えるか。西欧近代における理性絶対優位の合理主義に対する反発として表われたのがオートマティスム(自動書記)であるが、近代的合理主義の重みをこれまで経験してこなかった日本にシュルレアリスムを単純に移入することがどれだけ有効なのかという福沢の疑問には、単に絵画というレベルを超えた文明史的な葛藤が窺われる。

 福沢にしても、あるいは三岸好太郎にしても、シュルレアリスム的外観の中に東洋的なものが現われてくることに注目していたと示唆されているのも目を引いた。本書から孫引きすると福沢はこう記している。「俳句は五七五調の簡潔なリズムの中に広大無辺の感情を表現するものであるが、その方法に於て極めて超現実主義的なものを持つてゐる。僅かの言葉の間の極端な対比や、その矛盾相剋によつて生ずる特殊な感覚は、超現実主義の所謂“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”として、この主義の初期の、そしてまたこの主義を通しての、根本的な精神の所産に関係する」(261~262ページ)。言うまでもないが、“解剖台上のミシンと洋傘との偶発的会合”というのはロートレアモン『マルドロールの歌』に出てくる一節で、ダダやシュルレアリスムのインスピレーションとなったことでよく知られている。

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柳田國男『先祖の話』

柳田國男『先祖の話』(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 柳田國男『先祖の話』は昭和20年10月に刊行されたが、執筆されたのは4月から5月にかけてのことである。東京は空襲で灰燼に帰し、大陸へ、あるいは南方へ出征した兵士たちははるか異郷で屍をさらす、そういったおびただしい死が日常に充満する異様な時期であった。空襲警報に日々おびやかされる中、柳田は自身の摑み得た日本人の死生観、霊魂観を本書に凝縮させている。

 私はこの本を初めて読んだときから「柿の葉」という言葉が印象に残っていた。いわゆる無縁仏への供物は器でなく柿の葉に載せるという差別待遇があったらしい。「以前は遠い田舎では子のない老女などを罵って、柿の葉めがといったという話がある。今ならもうそのような残酷な言葉を口にする者もあるまいが、当の本人だけはまだ時々はこれを思い出すかもしれない。私の先祖の話をしてみたくなった動機も、一つにはこういう境涯にある者の心寂しさを、由ないことだと思うからである」(104頁)。

 柳田の霊魂観の第一の特徴として“祖霊の融合化”が挙げられる。祀るとは、その人のことをいつまでも覚え続けていくことである。具体的な個人、有名になった英雄を神様として祀ることも大切かもしれないが、あまたの無名の人々にはどのように向き合ったらよいのか。時間が経つと、見知らぬ個々具体的な人々への追憶は薄れていくが、見方を変えれば「一定の年月が過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである」(133頁)。“祖霊の融合単一化”という形で、ともすれば取りこぼされかねない人々が出てくるのをできる限り防ごう、そうしたところに柳田は日本人の霊魂観の意義を見出そうとしている。

「古いということに対しては、もともと我々はごく漠然とした知識しか持たなかったのである。それをだんだんと今いる者の父母とか祖父母とか、いたって近い身のまわりへ引き寄せて、我から進んで家の寿命を切り詰めたことは、過去はさて置いて、未来のためにも損なことであった。遠い先祖の降りて来て祭られることが、同時にまた今の我々の永くこの国土に去来し得ることを、推理せしめる因縁ともなっていたからである。それよりも大きな障りになったのは人の名をさすこと、家にすぐれた大事な人があって、その事蹟の永く伝わるのはよいことであり、子孫の励ましにもなることは確かだが、そればかりがあまりに鮮やかに拝み祭られる結果は、幾多の蔭の霊を、無縁とも柿の葉とも言わるるようなものに、落すことになるのであった。活きている間は一体となって働き、泣くにも喜ぶにも常にその一部であった者が引き離されて、歴史はいつも寂しい個人の霊のみを作ることになっている。…何にもせよこうして永い世に名を残すということが、一方には無名の幾億という同胞の霊を、深い埋没の底に置く結果になっていることだけは考えてみなければならない。元からそうであったということは言われぬのである。我々の先祖祭は、一度はかつてこの問題をあらましは解決していた。家が断絶して祭る人のない霊を作り出すことだけは、めいめいの力では防がれなかったが、家さえ立って行けば千年続いても、忘れられてしまうというものはない。少なくともそう信ずることがもとはできたのである。…国が三千年もそれ以上も続いているということは、国民に子孫が絶えないことを意味する。それがただわずかな記憶の限りをもって、先祖を祭っていてよいとなれば、民族の縦の統一というものは心細くならざるを得ない。」(148~149頁)

「淋しいわずかな人の集合であればあるだけに、時の古今にわたった縦の団結ということが考えられなければならぬ。」(207頁)

 第二に、日本という国土における“顕幽二界”という特徴も挙げられる。つまり、生者の世界と死者の世界とは近くにあって行き来が可能だという世界観である。柳田の脳裡にあった“顕幽二界”という考え方には平田篤胤流国学の影響も指摘されている(余談だが、平田にしても柳田にしても、今風に言うなら結構オカルト好きだ)。戦争中、「七生報国」という言葉を胸に抱いて死地に赴く場面が見られた。死への抵抗感・緊張感はもちろん余人には窺い知れぬほど強いものだったろうが、柳田は、死んでもこの日本に戻ってこられるという世界観があったからその緊張感も比較的軽減できたのではないか、と言う。「人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途はないのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることのできたというのは、特に我々にとっては幸福なことであった」(206頁)。ここで言う「他の世界」とは、極楽浄土や天国といったこの世から隔絶したあの世に憧憬を抱く他界観を指す。

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。」(61頁)

 こうした考え方が良いか悪いかは軽々には断定できない。ただし、国家への強制的奉仕という言い方ではまとめられない、もっと感性的な深層に根ざしたものを見つめようとしている点は汲み取るべきだろう。橋川文三は以上の柳田の思想に、時間的な連続の中に個人を位置付ける感覚としての“純粋な”保守主義を見出し、エドマンド・バークと比較している(橋川文三「保守主義と転向」「日本保守主義の体験と思想」、『柳田国男論集成』未来社、2002年)。なお、過去・現在・未来の共同事業として国家を捉えるバークの保守主義思想については以前こちらに引用したことがある。

 ここで強調しておかねばならないのは、柳田はこうした自身の態度を他人に強制するつもりはないとしていることだ。彼も含めて以上に見られる世界観に安心を覚えたということ、このこと自体は打ち消しがたい一つの事実ではあるが、この事実を踏まえてどのように考えるかは各人に委ねられる。

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。歴史の経験というものは、むしろ失敗の側において印象の特に痛切なるものが多い。従ってつまびらかにその顛末を知るということが、いよいよ復古を不利不得策とするような推論を、誘導することにならぬとは限らない。しかしそのために強いて現実に眼を掩い、ないしは最初からこれを見くびってかかり、ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今まで一つとして成功していないことも、また我々は体験しているのである。今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ。それにはある期間の混乱も忍耐するの他はないであろうが、そういっているうちにも、捜さずにはすまされないいろいろの参考資料が、消えたり散らばったりするおそれはあるのである。力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て大いに働くべきで、空しく詠嘆をもってこの貴重なる過渡期を、見送っていることはできないのである。」(10~11頁)

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末広厳太郎『役人学三則』

末広厳太郎『役人学三則』(佐高信編、岩波現代文庫、2000年)

 末広厳太郎(すえひろ・いずたろう、1888~1951年)は大正・昭和初期の法学者。有名な「嘘の効用」をはじめとした法学エッセイを集めた本。法治主義の基本原則が軽妙な語り口でつづられている。要するに、すべての人間を公平に扱うため、予め法律というモノサシを決めておく。ところが、対象は人間である。具体的な問題はケース・バイ・ケースで法律の機械的な適用は無理がある。そこで、行政という場面では役人の裁量が要請され、訴訟の場面では“嘘の効用”が必要になる、という趣旨のことが述べられる。

 ところで、本来、法律は役人の専制から人々の自由を守るために存在するのだが、これがかえって形式主義に逃れる口実ともなってしまう。だから、役人の責任意識が重要だ、役人であっても自由があるから責任が生ずると言う(「役人の頭」)。また、訴訟の場面では、法律は動かせない。無暗にゆるがせにしたらそれは法律ではない。ならば“事実”の方を動かせばいい──と言っても冤罪とかを認めるという話ではない。法と現実との間に整合性がないならば、柔軟に“嘘”を使って実際的な解決につなげよう、ということ(「みなす」という形での法運用は普通に行なわれていることだ)。また、裁判官の理屈に傾いた法的公平性重視に対し、素人の“人間性”を取り込んで法の柔軟性を確保しようというのが陪審制度の趣旨だと指摘する(「嘘の効用」)。役人にしても、裁判官にしても、法解釈の技法を身につけるのは当然だが、同時にいわゆる“人間性”を求めてくるあたりはいかにも戦前のリベラルな教養人らしい。“人間性”なるものに私などは悲観的だが、法治主義の原則と現実的な柔軟性との兼ね合いをどうするのかという問題提起はいまだに解きがたいアポリアである。

 “嘘”というテーマでさらに話を広げると、制度というもの自体がフィクションじゃないかという議論も法哲学などにはある。しかし、たとえフィクションであっても手続きを踏んでおれば正統とみなされるというのが基本的な考え方だ。我々は自由である、かのように思う。民意は政治に反映される、かのように思う。その他もろもろの“かのように”の積み重ねによって辛うじて我々の社会生活は成り立っている。フィクションというのは実に大切なのである。こうした立場を西洋哲学史では新カント主義というらしいが、詳しいことは知らない。ハンス・ファイヒンガー〟Die Philosophie des Als Ob〝(“かのように”の哲学)が有名だが、残念ながら邦訳はない。私はドイツ語はダメだが、そのエッセンスを森鴎外が「かのように」という作品で紹介してくれている。興味のある方は参照されたい。

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「鈍獣」

「鈍獣」

 浅野忠信主演、脚本は宮藤官九郎ということで観に行ったのだが…。はあー、つまんねえ。テンションの高いナンセンス・コメディーというノリは、空振りすると寒くて寒くて仕方がない。前から薄々疑念を持っているのだが、クドカンって騒がれるほどおもしろいか?

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2009年6月 5日 (金)

ジョージ・H・カー『裏切られた台湾』

ジョージ・H・カー(蕭成美訳、川平朝清監修)『裏切られた台湾』(同時代社、2006年)

 原著 Formosa Betrayedは1965年に刊行されている。ジョージ・H・カー(George H. Kerr、1911~1992年)は1937~40年まで(旧制)台北高等学校で教鞭を取っていたことがあり、戦争中は台湾通の情報将校としてアメリカ海軍に勤務、戦後は在台北の副領事となった。本書は第二次世界大戦から戦後の国民党政権に至る時期の記録だが、国民党による苛酷な支配体制に対する口調は厳しく、とりわけ二・二八事件に関しては台北市内で国民党軍による虐殺をじかに目撃、本書でもその描写が生々しい。結局、国民党からEnemy No.2とみなされる栄誉(?)に浴し、アメリカに帰国せざるを得なくなった。

 ちなみに、Enemy No.1は本書に序文を寄せている政治学者ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)らしい。アメリカ上院外交委員会に提出されたアジア情勢分析「コンロン報告」で中国問題の執筆を担当、その内容が国民党政権に批判的だったからだ。スカラピーノは日本政治に関しても先駆的な研究者として有名で、一昔前までは政治学の研究書の参考文献によく名前を見かけた。

 また、本書の冒頭には「問題の核心」と題したアルバート・ウェデマイヤー(Albert Wedemeyer)将軍による簡潔な報告書も掲載されている。国民党の腐敗と無能が台湾人を離反させているという趣旨である。ウェデマイヤーは蒋介石と直接交渉をしたアメリカの軍人だが、回想録『第二次大戦に勝者なし』(上下、妹尾作太男訳、講談社学術文庫、1997年)ではアメリカの対中政策の失敗も指摘されている。

 カーはもともと中国に留学するつもりだったようだが、ハワイ大学で政治学者の蝋山政道と出会い、彼のすすめで来日した。台北で英語を教えていたアメリカ人の友人が病気となり、その代理で行ったのが台湾との関わりの始まりである。訳者の蕭成美、川平朝清両氏は台北高校の出身、在学中は直接授業を受けたわけではなかったが、戦後に交流が深まったという(ちなみに、川平朝清はジョン・カビラ、川平慈英兄弟の父)。二人とも親しみを込めてカール先生と呼んでいる。カーが親しく付き合った人々の中には台北帝国大学の金関丈夫や浅井惠倫、医師の南風原朝保などの名前も見える。南風原はノンフィクション作家・与那原恵さんの祖父にあたる。与那原さんの『美麗島まで』(文藝春秋、2002年)、『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)でもカーについて少しではあるが触れられていた。カーは沖縄にも関心が深く、『琉球の歴史』は英語で書かれた初めての通史だという。カーの蔵書が琉球大学に寄贈されている(琉球大学図書館のホームページに彼のプロフィールが紹介されている→こちら)。日米開戦によって帰国した後はコロンビア大学の博士課程に入った。イギリスの外交官で日本研究者として著名なジョージ・B・サンソムの講義も受けたらしい。ヘンダーソン氏から日本語の講義を受けたと訳者解説にあるが、朝鮮研究のグレゴリー・ヘンダーソンのことか。朝鮮半島の政治文化を渦巻き型の中央集権体制と特徴付けた『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1973年)は朝鮮研究の古典とされている。

 当初、台湾の人々は中国への復帰を心から歓迎していた。しかし、上陸してきた国民党の腐敗ぶりを見るにつけ失望が高まり、それはやがて軽蔑となり、憎悪にまで高まった。日本から解放してくれたのは中国ではなくアメリカだったと見切った。ニ・ニ八事件に際しても自由と民主主義の国アメリカが介入してくれると信じていたが、その期待は見事に裏切られてしまった。

 カーはアメリカ国務省内の“中国第一主義者”に批判的である。中国へ布教に行った宣教師の子弟が多かったらしい。彼らは蒋介石をはじめ国民党幹部との個人的なパイプを通して中国情勢を判断していた。台湾問題に関しても国民党側から吹聴されたバイアスがかかっていて(さもなくば全く無関心か)、カーたちの意見は全く通らないと歯ぎしりする場面が頻繁に出てくる。

 上は台湾行政長官の陳儀から下は末端の兵隊まで、とにかくやりたい放題の乱暴さが繰り返し描写される。しかしながら、これを読む我々が、だから中国人はタチが悪い、と決め付けて済ませてしまうのも安易であろう。国民性の問題に還元してしまうのではなく、“近代”と“前近代”とが不幸なぶつかり方をしてしまったと捉える方が私には説得的のように思われる(以下は掲題書の内容を踏まえつつも本筋から外れる)。

 台湾の日本語世代の老人たちが“日本精神”“大和魂”といった表現を使い、教育勅語を称賛するのを聞いて、戦後生まれの私など面食らってしまったことがある。“日本精神”などというと古色蒼然たる前近代的な頑迷さを思い浮かべるが、実際には、約束を守る、ウソをつかない、時間厳守、礼儀正しさ、勤勉、公共心など日常一般の生活道徳に重きが置かれているようだ(平野久美子『トオサンの桜』小学館、2007年を参照のこと)。

 こうした生活徳目について、たとえば、約束を守ってウソをつかない=契約遵守の観念、時間厳守=期日を守る、礼儀正しさ=対人関係の円滑化、勤勉=職務に忠実、公共心=法律や規則の遵守、と読み替えてみると、分業によって効率性向上を図る資本主義的経済組織の運営に不可欠な生活習慣的エートスであったことが分かる。その意味で、むしろ一種の“近代性”そのものだったとすら言える。

 日本の植民地統治においてはこうした生活習慣的エートスを植えつけることが教育事業の目的になっていた。日本の統治についての評価は一歩間違えると誤解を招きかねない微妙な困難をはらんでいるが、物質面ばかりでなく、日常的な行動様式という面でも資本主義に適合的なインフラ整備を進めていたという点は価値中立的に指摘できるのではないか。もちろん、日本人優位の差別構造を内包した統治システムが台湾の人々に耐えがたい屈辱感を与えていたことは決して正当化し得ないことを看過してはならない。

 日本でも幕末の開国時、欧米の貿易商人の中に日本人はズルイという印象を抱く人がいたのを何かで読んだ覚えがある(何だったか失念してしまった)。おそらく、契約観念が欠如していたのだろう。一般庶民レベルまで含めた生活エートスの改造=“近代化”は、日本自身が明治維新以来推し進めてきた一大事業であった。台湾(おそらく朝鮮半島もそうだろうが)における“近代化”には、“日本化”と“日本経由の近代化”という二重性があった(日本が植民地に神社をつくった一方で、台湾総督府や朝鮮総督府の堂々たる構えは西洋風の巨大建築で日本の威信を示そうというアンビヴァレンスの表われであった。前者には日本優位の意識があるが、後者においては進歩性・近代性という価値指標は西洋に置かれている)。台湾にしても朝鮮半島にしても、いずれ何らかの形で“近代化”を迫られたであろう。しかし、そこに“日本化”が絡まりあっていたところに解きがたい難点があった。

 日本の敗戦後、台湾接収のため派遣されてきた国民党軍には、中国奥地から駆り出されてきた兵隊たちも多く含まれていた。彼らは当然ながら上に示したように洗練された“近代的”行動様式など身に付けていなかった。水道・電気をはじめ初歩的な近代文明の利器すら扱えない彼らは台湾人から嘲笑の的となった。また、利権漁りに汲々とする国民党幹部の腐敗についても法治ではなく人治という問題点はよく指摘される。いずれにしても、“近代的”組織モデルには馴染まない文化風土に育った人々だったのである。

 発展段階説のような話になってしまうが、本省人と外省人との間にはこのような“近代”と“前近代”というかけ離れた溝があった(大陸に渡って共産党と協力した謝雪紅たち台湾民主自治同盟は、こうした経済的・社会的レベルの相違を根拠に台湾の高度な自治を求めていたが、反右派闘争で批判されて勢力を事実上失った)。日常の生活行動パターンがそもそも異なるし、外省人には「台湾など化外の地だ」という侮蔑意識があったから、このギャップが外省人側のプライドをますます害することになってしまった。本省人は“近代”という尺度で考えるが、外省人は“中華文明”という尺度で考える。この時点で評価尺度が根本的に異なっていたわけだが、ロジックのすり替えが容易に行なわれた。国民党政権は前者の“近代”という尺度の有効性を知りつつも、政治的正統性にこだわって後者の“中華文明”という尺度で政治統合を強行しようとした。台湾人は“日本経由の近代化”=“日本化”されている、従って“中華文明化”されるまでは信用できないという猜疑心で残酷な弾圧が正当化されてしまった。

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2009年6月 4日 (木)

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」

柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」(『柳田國男全集13』ちくま文庫、1990年、所収)

 お米の収穫を祈願するのが天皇のお仕事で、それを新嘗祭といい(勤労感謝の日はこれに由来)、天皇即位後初めて行なわれる新嘗祭を大嘗祭という。柳田國男「大嘗祭ニ関スル所感」は大正天皇の時の大嘗祭に出席した経緯をもとに書かれている。要するに、国威発揚のための即位式と日本の伝統的信仰に基づく大嘗祭とでは性格が全く異なる、対外関係を意識する前者が盛大に行なわれるのは当然だが、後者は身を清めて厳粛に執り行なうべきで、同じように扱うのはおかしい、という趣旨。

「即位礼ハ中古外国ノ文物ヲ輸入セラレタル後新タニ制定セラレタル言ワバ国威顕揚ノ国際的儀式ナルニ反シテ、御世始メノ大嘗祭ニ至ッテハ国民全体ノ信仰ニ深キ根柢ヲ有スルモノニシテ、世ノ中ガ新シクナルト共ニ愈其ノ斎忌ヲ厳重ニスル必要アルモノナルガ故ニ、華々シキ即位礼ノ儀式ヲ挙ゲ民心ノ興奮未ダ去ラザル期節ニ斯ノ如ク幽玄ナル儀式ヲ執行スルコトハ不適当ナリト解セラレタル為ナルベシト信ズ。」「国家ノ進運ガ今日ノ如ク著シキ時代ニハ、即位礼ノ壮麗偉大人目ヲ驚カスベキモノアルコトハ固ヨリ当然ノ儀ニシテ、小官ノ如キハ臣子ノ分トシテ今後百千年ノ後愈々益々此ノ儀式ノ盛大ニシテ有ラユル文明ノ華麗ヲ尽サンコトヲ望ミテ已マザルモ、之ニ引続キテ略々相似タル精神ヲ以テ第二ノ更ニ重大ナル祭典ヲ執行セラルルコトハ単ニ無用無益ト云ウニ止ラズ、或イハ不測ノ悪結果アランコトヲ恐ルルナリ。」(712~713頁)
「…今日最モ其ノ宜シキヲ得ズト考エラルル点ハ即位礼ノ盛儀ヲ経テ民心興奮シ、如何ナル方法ヲ以テシテモ慶賀ノ意ヲ表示セントシテ各種ノ祝宴ニ熱中スル際、引続キテ大嘗祭ノ如キ厳粛ヲ極メ絶対ノ謹慎ヲ必要トスル祭典ヲ挙ゲラルルト云ウ制度ナリ。」(717頁)

 国家のロジックと伝統のロジック、両者の相違を明確にしようという柳田の姿勢がうかがえる。同様の相違は地方自治の問題でも表面化した。床次竹二郎ら内務官僚の主導で、日本各地の神社、それこそ村はずれの鎮守の杜まですべてを統合し一定のヒエラルキーに整理してしまおうという構想が進められていた。南方熊楠などはこれに反対して逮捕されてしまい、柳田も当然ながら反対で、熊楠に共感していた。この神社統合構想において、地域住民の皮膚感覚に根ざした伝統的信仰のあり方と、国の隅々まで行政の論理を貫徹させようとする中央集権志向と、両者の衝突が鮮明化したと言える。よく指摘されることだが、いわゆる“国家神道”なるものはあくまでも近代の産物であって、“伝統”と見まごう衣装を被りながらも、その内実は似て非なるものであった。エリック・ホブズボームらの表現を借りるなら“創られた伝統”である。いわゆる常民の皮膚感覚に根ざした心情の世界を前にしたとき、政治のロジックはどうしてもすれ違ってしまう。もともと農政官僚として出発した柳田はこうしたズレから眼を背けることができなかった。そこに民俗学への動機があった。だからこそ、民俗学や歴史学ばかりでなく、政治思想史・社会思想史といったコンテクストにおいても柳田の存在感は大きいのである。橋川文三は柳田について次のように記している。

「…彼の考え方は、祖先信仰の中にひそむ民衆心情世界の自覚的研究を通して、まず民間信仰の純粋形態を明かにし、そこで、はじめて正しい神社行政が樹立されねばならないというものであり、たんなる制度化、政治的既成事実化によっては、かえって制度化によって疎外されたアモフルな信仰エネルギーが混乱をひきおこすであろうというものであった。いいかえれば、彼は氏神信仰の心意をつらぬく民衆的生活原理の内省的純化という手つづきを重視したのであり、その意味では民族信仰の「宗教改革」ともいうべき転換をさえ必要と考えていたといえよう。…ともあれその民俗学的研究によって切り開かれた氏神信仰の世界は、おそらく官僚的宗教観にとって想像もつかないほど、混沌とした様相をおびたものであった。」「類型的にいえば、国家官僚の氏神観はその雑多性・猥雑性を無価値な自然状態として、もっぱら行政的規制によって画一化を進めようとする。それに対して、柳田はその雑多性の中に理由を見出し、純粋な地方民衆生活の原理形態を明かにしようとする。前者が絶対主義権力の外発的要求にもとづく地方処理であるとすれば、後者は民衆生活の内発的要求を原理化することによって、かえって国家論理の形態を規制しようとする意味を含んでいる。いわば明治の地方自治制がいわゆる「郷党原理」という擬制的な魂を地方に付与したのに対し、実体としての地方の魂を明かにしようとしたのが柳田の仕事であった。」(橋川文三「明治政治思想史の一断面」『柳田國男論集成』未来社、2002年、253~254頁)

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