宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』
宮崎学『ヤクザと日本──近代の無頼』(ちくま新書、2008年)、『近代ヤクザ肯定論──山口組の90年』(筑摩書房、2007年)
両著ともヤクザという着眼点を通して近代日本社会の変容を正面から論じている。『ヤクザと日本』は理論的な枠組みを示し、『近代ヤクザ肯定論』はその具体例として山口組を取り上げている。著者自身がヤクザの家に生まれ、かつアウトロー的な生き方をしてきたという事情を踏まえつつも、分析の視座はアカデミックに着実。単なるヤクザ論という以前に、日本にとっての“近代”とは何かを考える上で逸することのできない説得力の重さと視野の奥行きを持っている。
いつの時代でもどこの国でも正統的な統治のシステムから疎外された残余が必ず現われる。明治以降、近代的な法体系が確立されつつも、そこから排除された周縁社会・下層社会、具体的には貧困者、被差別部落、在日等々、こういった人々を受け入れるアジールとしての役割を果たしたのが近代ヤクザであった(全学連の唐牛健太郎や島成郎を山口組の田岡一雄が田中清玄のルートで受け入れたというのは初めて知った)。善悪是非という以前に、とにかく他に生きていく道のない者たちが寄り集まった組織。谷川康太郎(康東華)の「ヤクザとは哀愁の共同体である」という表現が印象的だ。
人的関係を通して仕切りをするのがヤクザの役割。国家権力とは独立した社会的権力として認知され、周縁社会・下層社会と地域社会・職域社会との仲裁者として実力を持った。地域社会に根を張ったヤクザの実力的な凄みは場合によっては下からの反抗を取りまとめる可能性を秘めていたため、国家権力はその取り込みを図る(具体的には、政友会系の大日本国粋会や民政党系の大和民労会)。
そうしたヤクザも、日本社会における資本主義の進展、国家の中央集権化傾向が強まる中、とりわけ戦後になって変化を迫られる。地域下層社会に根を張って人的に濃密な関係を持っているのがヤクザの顔役としての強みであった。ところが、港湾作業や工事・建築現場の機械化、さらには経営の論理によって資金源として労働力を捉える発想を持つようになって、そうした人的な関係がドライなものとなり、濃密な属人的関係だからこそ持っていた基盤が崩れていく。風俗産業や賭博に裏社会と表社会の垣根がなくなったこと(ビジネスの世界自体がバクチ的になったため、あえて裏社会として賭博をする必要がなくなった)、ドロップアウトした青年の受け皿がなくなったことなどもそうした変容の問題として指摘される(このあたりは、先日取り上げた河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』でも指摘されていた→こちら)。
“近代”という時代現象は、資本の論理にしても、権力の論理にしても、社会のあらゆる領野を平面化していく運動性を持っている。しかし、表社会は必ず排除のロジックをはらみ、従って裏社会にもそれが生まれざるを得ない存在理由があったことを考えると、いわゆる“風通しの良さ”が単純に健全な社会と言えるのかどうか、疑問符をつけざるを得ない。
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