長谷川如是閑「三宅雪嶺の人と哲学」
長谷川如是閑「三宅雪嶺の人と哲学」(飯田泰三・山領健二編『長谷川如是閑評論集』岩波文庫、1989年、所収)
先日、三宅雪嶺『真善美日本人』を取り上げ(→こちらを参照のこと)、政教社の国粋主義・日本主義においては、その語感とは裏腹に、ナショナリズムとユニバーサリズムとが矛盾なく結びついていたことを記した。
大正・昭和期のリベラリストとして名高い如是閑長谷川萬次郎は、若い頃、政教社の雑誌『日本』に在籍していた。主幹は三宅雪嶺であった。南画の仙人のようなむずかしい相貌をした雪嶺、しかし親しい人の顔を見かけると相好を崩し、「ウ・ウ」と声を出す。雪嶺は会話をしてもウ・エ・オと三つの音を同時に出したような声で応ずるのだが、さて、肯定しているのやら否定しているのやら判然としない、と如是閑は描写する。キュウリのように細長い顔をした如是閑が、ニコニコした雪嶺のジャガイモ顔を前に首をひねっている様子を思い浮かべると愛嬌があって、読んでいるこちらもついつい笑みをこぼしてしまう。
雪嶺の基本的な考え方について如是閑は次のように説明している。
「いかなるものも、「ある」ことそのことによって、平等の地位であると考える。」「たとえば、宇宙観、人生観というようなものをもって生きるとしている人間も「ある」。が、そんなものの何一つももたずに生きている人間も「ある」。双方とも「ある」ことによって、平等の存在理由をもつもので、どっちが上等でも下等でもない。ただ自分はそのどっちかで「ある」だけだ。」…「好きなものでも、嫌いなものでも、それが「ある」ことによって、その存在を平等に認める。自分はそっちをとらないからといって、そんなものは「あるべからざる」ものだとは考えない。我れがイエスというものを彼れはノーといい、昔はイエスといわれたものが、今はノーといわれる。そうしてvice versaである。将来、それらがイエスでもノーでもvice versaでもなくなるかも知れないし、なくならないかも知れない。」(『長谷川如是閑評論集』301~302ページ)
絶対的な真理を求めて強引なロジックで物事を切り分けようとするのがよくある観念論の通弊だが、雪嶺は違う。例の「ウ・ウ」的な態度で、すべてを否定しつつ肯定し、肯定しつつ否定して、「渾一の観念」へもっていこうとする。一人の人間も、国家や民族も、大きな宇宙という有機体の中で、小さな一つでもあり、大きな多でもあり、その両方であるという自覚(宇宙なるものの全体像は究極的には分かり得ないにしても)。雪嶺の開かれたナショナリズムもこうした大きな視野の中で捉えなければ分からない。
雪嶺は国粋主義を標榜してはいたが、以上の考え方からうかがえるように、自身の立脚する芯はしっかりと持ちつつ、立場の異なる思想も、それが自分とは異なるからこそ積極的に認めた。たとえば、社会主義者・無政府主義者でも話の筋道が分かる人たちとは付き合いがあった。大逆事件で獄中にあった幸徳秋水から望まれて、その遺著『基督抹殺論』に序文を寄せたことはよく知られている。秋水は雪嶺に迷惑がかかるのを恐れたが、快く引き受けてくれた雪嶺に心底感謝していた(その経緯を示す書簡は岩波文庫版『基督抹殺論』[1954年]に収録されている)。
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