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2009年5月18日 (月)

『ジョン・ケージ著作選』

小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫、2009年)

 ジョン・ケージの有名な「4分33秒」、私が初めて聴いた(?)のは学生の時にとっていた現代音楽をテーマとした講義でのこと。CDがかけられて、聴こえてくるのは森のささめく音。音を入れないCDはあり得ないから環境音楽風にしたのだろうか。漠然とだが違和感があった。「4分33秒」は伝説にとどめて無理やりCDにしない方がよかったのではないかと思った。

 「4分33秒」の初演(?)ではピアニストがピアノを弾かない、つまり意図的な音は出さないという形をとったわけだが、あのサプライズは再現不可能である。ケージのいわゆる“偶然性の音楽”には、“音楽=作曲”という作為的な意味をはぎとってむき出しの音そのものを感じ取ろうという意図があり、そして、一刹那一刹那いまここで響いている音の純然たる一回性に存在の広がりを感じ取ろうという意図も込められている。

 ケージを作曲家と呼ぶのはそぐわないという印象が私には強い。メロディーを人に聴かせるのが目的ではなく、音という素材を使って彼自身の思索を表現していくのが彼の音楽活動である。別に音楽にこだわっているわけではないと受け取れる趣旨の発言も彼はしている(たとえば、本書121~122ページ)。

 本書も含めてケージの発言を読んでいると、まるで禅問答のようである。意味不明、了解困難という通俗的な次元と、本来的に言語化不可能な存在論の核心に迫る際にどうしても矛盾した表現をせざるを得ないという本質的な次元と、この両方の次元において。ロジックを用いて説明し始めると、無限な広がりを持つ感覚が一定の狭いパターンに収斂・固着してしまって、発話した瞬間に「これは違う!」というもどかしさがどうしてもわだかまってくる。それにもかかわらず言葉による説明を求められるのだから、禅問答にならざるを得ない。ケージの発言を読みながら、たとえば『無門関』などを思い浮かべた。ケージがコロンビア大学で鈴木大拙の講義を受けて大きな影響を受けたことはよく知られている。本書の版面の組み方は明らかにダダ的である。面倒くさいから詳しくは書かないが、トリスタン・ツァラにしても辻潤にしてもダダを名乗る人たちには仏教的、老荘的なところがある(大雑把な言い方で意を尽していないから、いずれ気が向いたら改めて触れる)。

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