ニーチェ『善悪の彼岸』
ニーチェ(中山元訳)『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫、2009年)
書店の新刊売場に積んであるのを見かけて衝動買いしてしまった。木場深定訳の岩波文庫版、信太正三訳のちくま学芸文庫版とも持っているのだが、ニーチェ好きなんで気になる。以下、適当に抜き書き。
・思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではない。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉(エス)が考えるのである。(※エスes→フロイトの議論を想起させる)
・「意志の自由」と呼ばれるものは本質において、服従を強いられる者に対する優越感の情動なのである。「わたしは自由である。しかし〈彼〉は服従しなければならない」というわけだ。──すべての意志にはこの意識がひそんでいるのだ。
・生そのものは本質において、他者や弱者をわがものとして、傷つけ、制圧することである。抑圧すること、過酷になることであり、自分の形式を[他者に]強要することであり、[他者を]自己に同化させることであり、少なくとも、穏やかに表現しても、他者を搾取することである。
・同じ書物であっても、低き魂が、低劣な生命力の人が読むか、それとも高き魂が、強い生命力の人が読むかで、魂と健康に正反対の価値をもたらすことがあるのだ。低き魂の場合には、その書物は魂と健康にとって危険で、破壊と解体をもたらす書物となる。高き魂の場合には、その書物はもっとも勇敢な人々に、みずからの勇敢さをさらに高めさせる伝令の叫びとなる。万人向きの書物とは、つねに悪臭を放つものだ。矮人のような臭気がこびりついているのだ。大衆が飲み食いする場所は臭う。礼拝をする場所までがそうである。きれいな空気を吸いたいときには、教会に入ってはならない。
・真理が仮象よりも高い価値があると考えることは、もはや道徳的な先入観にすぎない。それはこの世のうちでもっとも根拠のない仮説にすぎない。わたしが認めてほしいと考えているのは、すべての生が遠近法に基づいた評価や仮象に依拠しているということである。…そもそも「真なるもの」と「偽なるもの」という本質的な対立が存在することを、わたしたちに想定させるものは何なのだろうか? 仮象にはさまざまな段階があると想定するだけで十分ではないか。仮象にはあるところは明るく、あるところは暗い影があり、全体の調子があると考えるだけで──画家の言葉では異なる色調があると考えるだけで、十分ではないか? わたしたちに何らかのかかわりのあるこの世界が、──虚構であってならないわけがあるだろうか?
・誤って「自由な精神」と呼ばれている者は、要するに厳しく言えば水平化する者たちなのである。──民主主義的な趣味とその「近代的理念」とかいうものに仕える、能弁で筆の立つ奴隷にほかならないのである。どれもこれも孤独を知らぬ人間であり、みずからの孤独を知らぬ人間であり、愚かで健気が若者たちである。勇気やまともな礼儀を知らぬわけではないとしても、自由というものを知らず、笑いたくなるほどに表面的な人間なのだ。こうした人々にみられる根本的な傾向は、人間のすべての悲惨と失敗の原因が、おおむねこれまでのさまざまな形式の古き社会のうちにあると考える傾向である。こうして、真理が幸いにも逆立ちすることになる!
彼らが全力を尽して手にいれようとしているすべてのものは、あらゆる家畜の群れが望む緑の牧場である。すなわちすべての人が安全で、危険がなく、快適に、そして安楽に暮らせることである。彼らが朗々と歌いあげる歌と教説は二つだけ、「権利の平等」と「すべての苦しめる者たちへの同情」である。──そして彼らのうちから苦悩そのものが除去されねばならないと考えているのである。
彼らと反対にわたしたちは、人間が高みに成長するのはつねに、これとは反対の条件のもとであったと考えてきたのである。そして、そのために必要なのは、人間の状況が法外なまでに危険なものとなることであり、長きにわたる圧力と強制のために人間の独創力と偽装力が(人間の「精神」のことだ──)、巧みに、大胆なまでに発達し、生の意志が無条件の力への意志にまで高まることだと考えてきたのである。
・…道徳の呪縛と妄想に捉えられてではなく、善悪の彼岸において──、そのような人間であれば、そうした営みによってほんらい望んでいたことでなかったとしても、逆の理想への眼が開かれたことだろう。そしてもっとも不遜で、生命力にあふれ、世界を肯定する人間がもつ理想への眼が開かれたことだろう。こうした人間は、かつて存在し、今も存在するものと和解し、耐えていくことを学んだだけでなく、なおそれを、かつてそうであり、今もそうであるように、繰り返し所有したいと欲するのである。しかも自分に向かってだけでなく、この人生のあらゆる劇と芝居に向かって、永遠にわたって飽くことなく、もう一度(ダ・カーポ)と叫びながらである。
・道徳的な判断を下すこと、判決を下すこと、それは精神的な狭さをもつ人間が、そうでない人々に加える復讐、お気に入りの復讐である。
・奴隷の道徳は本質的に有用性の道徳である。ここに「善」と「悪」の有名な対立を生み出す根源がある。
・快楽主義であろうが、ペシミズムであろうが、功利主義であろうが、幸福主義であろうが、これらはすべて、快楽と苦痛によって事物の価値を測ろうとする思考方法である。すなわち、事物の価値をその随伴的な状態や副次的なものによって測ろうとし、前景だけを重視する素朴な思考方法なのである。…君たちはできるならば──これほど愚劣な「できるなら」もないものだが──苦悩というものをなくしたいと望んでいる。それではわたしたちが望むのは何か?──わたしたちが望むのは、むしろこれまでになかったほどに苦悩を強く、辛いものにすることだ! 君たちが考えるような無事息災というものは、──それは目的などではない、それはわたしたちには終わりのように思えるのだ! 人間がたちまち笑うべき存在、軽蔑すべき存在となり変わる状態である!
・認識する者は、自分の精神の傾向に逆らって、またしばしば自分の心の願望に逆らってでも認識することを自分の精神に強いるのである──すなわち、彼が肯定し、愛し、崇拝したいと思うときに、ノーと言うことを強いるのであり、そのときに認識者は、残酷さの芸術家として、残酷さを浄化する者としてふるまっているのである。すべてものごとを深く、そして根本的につきつめるということは、精神の根本的な意志に暴力をふるうことであり、虐待しようと望むことである。精神は絶えず仮象へと、表面へと向かうことを望むものなのだ。──認識しようとするすべての意志のうちには、わずかな残酷さが含まれているのだ。
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