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2009年5月10日 (日)

福沢諭吉『学問のすゝめ』

福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、改版1978年)

 英語のrightという言葉を辞書で引くと、「正しさ」「権利」などの意味がある。「権利」という意味をピックアップすると、対義語的に「義務」という言葉とペアとして捉え、「権利」は個人の要求を正当化する根拠、「義務」は公との関係性、通俗的にはそのようなイメージがあるように思う。しかし、本来、right=“正しさ”の感覚の中で「権利」も「義務」も混然一体不可分のものであって、「権利」と「義務」と概念を区分けするのはあくまでも説明上の便宜に過ぎないのではないか。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』でrightに「権理通義」という訳語をあてている。4字は長いので「権理」「権義」など2字に縮めた箇所もあるが、「権利」という表現は見当たらない。

「人の生るるは天の然らしむるところにて人力に非ず。この人々互いに相敬愛して各々その職分を尽し互いに相妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にして共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。」「故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富強弱智愚の差あること甚だしく、或いは大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、或いは人足とて裏店に借屋して今日の衣食に差支うる者もあり、或いは才知逞しうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、或いは智恵分別なくして生涯飴やおこしを売る者もあり、或いは強き相撲取あり、或いは弱き御姫様あり、いわゆる雲と泥との相違なれども、また一方より見て、その人々持前の権理通義をもって論ずるときは、如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、何らの事あるも人力をもってこれを害すべからず。」

 人は生まれ落ちた立場境遇も、持って生まれた才覚も異なるかもしれない。しかし、人それぞれ持前の天分に応じて、自分のなすべき職分を果たすべきだし、また、その職分を果たそうにも、いわれのない圧迫を受けたときには敢然と立ち向かうこと、それが福沢の考える個人主義である。ある種の“正しさ”=道理の感覚の中に自身を位置付けたとき、自分のなすべきと思うこと(それは人それぞれだが、「したい」というのとはニュアンスが異なる)を誰から何と言われようともなすべきなのは当然のことで、その際に能動的には「権利」、受動的には「義務」と概念整理できるという程度の違いに過ぎない。

(※「義務」→「天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人なる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。」→「自由は不自由の際に存す」という『文明論之概略』の言葉と通ずる)

・「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」
・「天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」
・「天理人情にさえ叶う事ならば、一命をも抛て争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すなり。」「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。」
・「道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり。」
・「正理を守って身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘めらるるも、その苦痛を忍びて我志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。」
(※「マルチルドム」martyrdom→「痩我慢の説」と通ずる→萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神──福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む』を参照のこと)

 天賦人権説、「一身独立して一国独立す」、「痩我慢」、これら福沢の著作に見られるキーワードはright=「権理通義」という考え方を媒介としてすべて一つにつながっている。

 言論の自由を強調した箇所では、「古今に暗殺の例少なからずと雖ども、余常に言えることあり、もし好機会ありてその殺すものと殺さるる者とをして数日の間同処に置き、互いに隠すところなくしてその実の心情を吐かしむることあらば、如何なる讐敵にても必ず相和するのみならず、或いは無二の朋友たることもあるべしと。」と記している。ここにも、本当に道理のある意見であれば、立場の違いを超えて理解しあえるはずだという福沢の確信がうかがえる。

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