« 「インスタント沼」 | トップページ | 西川美和『ゆれる』『きのうの神さま』、他 »

2009年5月26日 (火)

崔承喜のこと

 高嶋雄三郎・鄭昞浩編著『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版、1994年)、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』(日本放送出版協会、2002年)の二冊に目を通した。

 『世紀の美人舞踊家崔承喜』には崔承喜の写真や公演プログラムなど多数収録されている。おどけた感じのポーズもあるし、気品のあるエロティシズムに胸がドキッとするようなものもあった。衣装をまとったポージングから東洋志向を融合させたモダン・ダンスというコンセプトはうかがえる。手足を大きく広げて宙を舞い、動きの躍動感をとらえた写真がいくつか目を引いた。大柄な美人だったというから、こうしたポージングに動きを持たせたならさぞ見栄えしたことだろう。是非映像で観てみたいとは思うが、いまやほとんど残されていない。そういえば、以前、崔承喜の生涯をたどるドキュメンタリー映画をやっていたように記憶しているが、観そびれたままだ。

 1911年、崔承喜はソウルの両班の家に生まれた。成績優秀だったが、家計が貧しかったため進学をどうするか迷っていたところ、舞踊家・石井漠が研究生を募集していることを兄・崔承一から教えられた。石井のダンスを見て、その魅力にたちまち引き込まれ、東京の石井のスタジオで練習に励むことになる。

 朝鮮舞踊の近代化という志向を持った彼女のダンスは、朝鮮人だけでなく日本人をも魅了した。崔承喜後援会の発起人に山田耕筰、川端康成、村山知義、菊池寛、山本実彦といった人々が名前を連ねており、この中に混じって呂運亨の名前も見えるのが驚いた。著名な朝鮮独立運動家である(呂運亨は左派的立場から独立運動を進めつつも日本側とも連絡を取るという複雑な政治行動ができた人で興味深いが、惜しくも1947年に暗殺された)。なお、『炎は闇の彼方に』は近衛文麿の名前まであるのが解せないと記しているが、指揮者であった弟・近衛秀麿の間違いである。

 崔承喜が活躍した1930~1940年代、すでに軍国主義が暗い影を色濃く落としている時代である。朝鮮舞踊の伝統を取り込んだ彼女のダンスは、皇民化政策を推し進める当局者には目障りで、彼女の意図とは関係ないレベルで政治の網目に絡め取られてしまう。“半島の舞姫”と謳われた彼女、英語で意訳すれば“コリアン・ダンサー”だが、外国公演でこの表現を使ったこと自体が反日的だとにらまれてしまった。上からの圧力に気を遣わねばならず、彼女は日本軍の陣中慰問にも行った。それは単なる保身のための迎合ではない。自分のダンスが朝鮮の人々の誇りの一つになっていることを知っているからこそ、絶やしてはいけないと考えたからだ(他方で、『炎は闇の彼方に』は、汪兆銘政権下では舞台に上がらないと心に決めた梅蘭芳と語り合うシーンも描いている)。

 そうした崔承喜の姿勢は、急進的な独立派の眼には日本の手先だと映った。崔承喜の朝鮮語読みは“チェ・スンヒ”だが、彼女は“サイ・ショウキ”と日本語読みで通しており、それも彼らの気に入らなかった。ただし、創氏改名にも応じてはおらず、その代わり、夫の安漠が安井と姓を変えた。彼が当局からの防波堤となって、崔承喜という名前を残すためだ。安漠はもともと作家志望だったが、結婚にあたり、崔承喜の支援者たちから彼女の才能を守るため自分の道はあきらめろと説得された人である。

 日本の敗戦後、南北二つの政府が成立した朝鮮半島で、崔承喜は延安帰りの夫・安漠に説得されて北に行った。“親日派”容疑を打ち消そうという意図もあったのかもしれない。当初、金日成からは厚遇された。1956年、日本の文化人の訪朝団が崔承喜と面会、来日公演を希望したところ、彼女も乗り気だったらしいが、雲行きは怪しくなる。日本に行ったらそのまま亡命してしまうのではないかと疑われたようだ。当時、文化宣伝省次官というポストにあった夫・安漠も反対したらしい。やがて金日成との考え方の違いから安漠は1958年に失脚、続いて崔承喜も粛清されてしまう。どのような最期を迎えたのか、はっきりしたことは分かっていない。

 以下、蛇足。戦時中、日本軍の慰問のため中国公演旅行に行った際、崔承喜は大同の石仏群を見て異様な感動にとらわれたというエピソードが『炎は闇の彼方に』に記されており、興味を持った。何十万体もの石仏が広がる雄大な光景を前にして、その場限りの“現実”に流されている自分自身を見つめなおしたらしい。私は伊福部昭の「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲が好きなのだが(→こちらを参照のこと)、彼もまた戦時中に中国の石仏群(大同ではなく熱河だったが)を見て圧倒された感動から執拗な反復律動という着想を得て、この曲をつくった。微細な音が反復・集積されて一つの大きなまとまりある音を響かせるところに現代音楽で言うミニマリズムの面白さがある。その意味で「リトミカ~」もまさしくミニマリズムだ。一つ一つ個別の石仏が集まって大きなまとまりを成している光景、一にして多のアナロジー。崔承喜にしても伊福部昭にしても、民族的・土着的感性と普遍的な芸術性とを、どちらか一方に収斂させてしまうのではなく両立させる形で自分の作品を表現しようとしていた。また、崔承喜は、無数の有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。いずれにしても、石仏群のイメージに投影された一にして多というアナロジーは色々な問題を取り込んでいけるんだなあ、などと妄想した次第。繰り返すが、蛇足。

|

« 「インスタント沼」 | トップページ | 西川美和『ゆれる』『きのうの神さま』、他 »

人物」カテゴリの記事

近現代史」カテゴリの記事

韓国/朝鮮」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/45130360

この記事へのトラックバック一覧です: 崔承喜のこと:

« 「インスタント沼」 | トップページ | 西川美和『ゆれる』『きのうの神さま』、他 »