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2009年5月22日 (金)

『吉野作造評論集』

岡義武編『吉野作造評論集』(岩波文庫、1975年)

 大正5(1916)年、『中央公論』に発表された吉野作造「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」は、いわゆる大正デモクラシーの代表的論文として名高い。語り口は平易。『中央公論』掲載の吉野の論文は、たしか名編集長瀧田樗陰の筆記になるはずだ。当時、駆け出し編集部員だった木佐木勝が瀧田に随行して吉野の研究室へ行き、帳面と筆を手にした瀧田が袖を捲くりあげ、「先生、さあ、やりますか」とやっているシーンを、何の本だったか『木佐木日記』からの引用で読んだ覚えがある。

 内容は立憲主義、議会主義の概説である。少数者政治は密室政治に陥りやすい、政権交代の緊張感をもたせる→開かれた選挙が必要などの論点は特に真新しいものではないが、見方を変えれば、基本的な考え方は現在でも変わっていないとも言える。以下の箇所では明治憲法の枠内で国民本位の民本主義を正当化する論拠を示しており、美濃部達吉の天皇機関説と相補う。

「我々が視て以て憲政の根柢となすところのものは、政治上一般民衆を重んじ、その間に貴賎上下を立てず、しかも国体の君主制たると共和制たるとを問わず、普く通用するところの主義たるが故に、民本主義という比較的新しい用語が一番適当であるかと思う。」(「憲政の本義~」36ページ)

「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義である。」(「憲政の本義~」45ページ)

「これを要するに、政治の終局の目的が人民の利福にあるべしという事、これ民本主義の第一の要求である。一見民衆一般の全体の利益に関わりないように見えても、詮じ詰むれば、全般の利益幸福となるというものならば、そは民本主義に悖らない。終局において民衆一般のためになるかならぬかが標準である。」(「憲政の本義~」61ページ)

 民衆を“重んずる”という微妙な言い回しがカギである。民衆自身に政治をやらせたり民衆の要求に迎合したりするのではなく、民衆=多数者の意向を汲み上げながら政治指導者=少数者が政権運営を行っていく、つまり代議政治=間接民主主義であることを強調している(従って、直接民主主義の効率的代用という見解を吉野はとらない)。

「多数政治と言っても、文字通りの衆愚の盲動が政界を支配するようでは、国家の健全なる発達は期せられない。多数者は形式的関係においてはどこまでも政権活動の基礎、政界の支配者でなければならぬ。しかしながら彼は内面において実に精神的指導者を要する。即ち賢明なる少数の識見能力の示教を仰がねばならぬのである。かくて多数が立派な精神の指導を受くる時は、その国家は本当にエライものである。少数の賢者は近代の国家において実にこの役目を勤むべきものである。」「多数の意向が国家を支配するのであるけれども、これを精神的に見れば、少数の賢者が国を指導するのである。故に民本主義であると共に、また貴族主義であるとも言える。平民政治であると共に、一面また英雄政治であるとも言える。即ち政治的民本主義は精神的英雄主義と渾然相融和するところに憲政の花は見事に咲き誇るのである。」「憲政をしてその有終の美を済さしめんとせば、政策決定の形式上の権力は、思い切ってこれを民衆一般に帰し、しかも少数の賢者は常に自ら民衆の中におってその指導的精神たる事を怠ってはならぬ。」(「憲政の本義~」72~73ページ)

「腹の痛い痒いは患者本人に聞かねば分からぬ。しかしどうしてこれを癒すかは医者でなくては分からない。従来の医者は患者を見もせず勝手に投薬したので、遂に民衆はその無責任を憤り医者無用論を唱え、甚だしきは自分で医療のことが分かるような気にも一時はなったのだが、本当のところはやはり医者に頼まなくては分からぬのである。ただ問題はその医者が絶えず誠実に患者と連絡を取って居るか否かに在る。政治におけるまた然りで、従来の政治家が頼むに足らずとして一概にこれを斥けるのは専門の智識なくして勝手に薬を手盛りするようなものである。政治は政治家にまかせる。ただ民衆は厳にその監視を怠らない。これが理想的の状況だ。」(「無産政党問題に対する吾人の態度」219ページ)

 天皇主権と国民本位、二重の政治形式を経た上で実質的にはエリート主義というカラクリが面白い。個々の具体的な政策判断は政治指導者に任せるにしても、ではその指導者が果たして適任なのかどうか。選挙を通して監視の眼を光らせるのが選挙民=一般民衆の役割である。それには専門知識は必ずしも必要ではない。しかし、異なる政派それぞれの意見を聞きながら、そのいずれが説得力を持つのかを見極めるくらいの見識は選挙民に求められる。個別の利害関係で投票するのではなく、大局的に必要な人材を選ばねばならない(各政派の見解を比較考量するのが選挙民の役割なのだから、一般民衆は特定政党に加入してはならず適度な距離をおくべきだとも吉野は主張している)。だからこそ、国民一般の智徳の発達が憲政の大前提だという趣旨の一文を「憲政の本義~」論文の冒頭に置いている(この論点は福沢諭吉たちの啓蒙思想以来、一貫して続いているように思われる)。

「憲政のよく行わるると否とは、一つには制度並びにその運用の問題であるが、一つにはまた実に国民一般の智徳の問題である。けだし憲政は国民の智徳が相当に成育したという基礎の上に建設せらるべき政治組織である。もし国民の発達の程度がなお未だ低ければ、「少数の賢者」即ち「英雄」に政治上の世話を頼むといういわゆる専制政治もしくは貴族政治に甘んずるの外はない。故に立憲政治を可とするや、貴族政治を可とするやの問題の如きも、もと国民の智識道徳の程度如何によって定まる問題で、国民の程度が相当に高いのに貴族政治を維持せんとするの不当なるが如く、国民の程度甚だ低きに拘らず強いて立憲政治を行わんとするの希望もまた適当ではない。」(「憲政の本義~」13ページ)

「民本主義の行わるる事は、それ程高い智見を民衆に求むるという必要はない。…今日の政治はいわゆる代議政治という形において行われて居るのであるが、その結果今日では我こそ人民の利福意向を代表して直接国事に参与せんとする輩は、自然進んで自家の政見を人民に訴え、以てその賛同を求むるという事になる。そこで人民はこの際冷静に敵味方の各種の意見を聴き、即ち受動的にいずれの政見が真理に合して居るやを判断し得ればよい。更に双方の人物経歴声望等を公平に比較し、いずれが最もよく奉公の任を果たすに適するや、いずれが最もよく大事を託するに足るの人物なりやを間違いなく判断し得るならば、それで十分である。」(「憲政の本義~」69ページ)

「立憲政治の妙趣は、人民の良心の地盤の上に、各種の思想意見をして自由競争をなさしむる点にある。いわゆる優勝劣敗の理によりて高等なる思想意見が勝を制し、これが人民の良心の後援の下に実際政治の上に行わるる点にある。」(「憲政の本義~」94ページ)

「ちょうど幸いなことには、今日の政界の組み立ては、政権に与らんとする者が競うて自家を民衆に吹聴し、一人でも多くの味方を作るに非ざればその目的を達し得ぬということになって居る。そこで民衆は政治家の主張をきき、自ら政治的に大いに教育されてその上でゆっくり賛否を決するというのであるから、多数の意向の帰するところが則ち道徳的に最高価値の存するところとなるわけだ。ただ漫然多数なるが故に尊いのではない。多数のうちに最良最高の価値が発現するように組み立てられて居るから尊いのである。デモクラシーが現代新文化の発展に重きをなす所以は一にこの点にある。従って反省なき無組織の多数を擁してここに一つの勢力を作らんとするが如きは、却ってデモクラシーの敵というべきである。」(「普通選挙の実施と日本政界の分布」232ページ)

 吉野の民本主義は議会制民主主義の一つの理念型を示している。この観点から普通選挙・政党政治への支持を表明した。超然内閣が君臨し、政党政治へはまだ移行期にあった大正期において、彼の議論は既存体制に対する鋭い舌鋒として喝采された。しかしながら、当時とは違って選挙による議会制度が形式的には完備した現代日本において考えてみると、吉野の示した政治モデルは、むしろ“国民一般の智徳”の問題に難点を見出すように思われる(吉野は、自由民権運動が挫折した明治期とは異なり、大正の現在において智徳の発達は十分だから立憲主義でいける、だから普通選挙を実施せよ、と主張していたのだが)。

 例えば、財政再建のため増税が必要というロジックを私は正当だと思うが、現在、こうした主張を正面から掲げる政党があったとして、果たして政権をとれるだろうか。吉野の考え方からすれば、政治指導者は国民を説得せねばならないわけだが、実際には言葉を濁さざるを得ない。吉野は国民を“重んずる”という表現を用いたが、ここに込められた国民の“意向を汲み取る”ことと国民に“迎合する”こととの微妙なニュアンスの相違をどのように考えるか。

 他方で、痛みを伴う構造改革が主張された郵政選挙で小泉自民党が圧勝したが、これは主張の是非ではなく、マスメディアを通したドラマ性が耳目を引いた結果であったことは論を俟たない(いわゆるニート・フリーター層が、彼らにとって構造改革は不利になるはずなのに、小泉の「ぶっこわす!」という一言に反応して自民党へ投票した人たちが少なからずいたという指摘を思い起こす)。理屈による説得よりも、感情に訴えるドラマ的な刺戟の方が選挙において効果を持ってしまうこと、この点を考えても“国民一般の智徳”の問題は現代でも危ういなあという感じがする。(と言うよりも、民主主義がある局面で多数派の感情論で突っ走ってしまう危険性は、後天的に組み立てられた政治システムというよりも、人間本性をどのように考えるかというもっと本質的な次元に根ざした問題だという印象が私には強い。これは永遠に解決できない問題でしょう。だからと言って私は議会制民主主義を否定などしていません、念のため。)

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