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2009年5月

2009年5月29日 (金)

長谷川如是閑「三宅雪嶺の人と哲学」

長谷川如是閑「三宅雪嶺の人と哲学」(飯田泰三・山領健二編『長谷川如是閑評論集』岩波文庫、1989年、所収)

 先日、三宅雪嶺『真善美日本人』を取り上げ(→こちらを参照のこと)、政教社の国粋主義・日本主義においては、その語感とは裏腹に、ナショナリズムとユニバーサリズムとが矛盾なく結びついていたことを記した。

 大正・昭和期のリベラリストとして名高い如是閑長谷川萬次郎は、若い頃、政教社の雑誌『日本』に在籍していた。主幹は三宅雪嶺であった。南画の仙人のようなむずかしい相貌をした雪嶺、しかし親しい人の顔を見かけると相好を崩し、「ウ・ウ」と声を出す。雪嶺は会話をしてもウ・エ・オと三つの音を同時に出したような声で応ずるのだが、さて、肯定しているのやら否定しているのやら判然としない、と如是閑は描写する。キュウリのように細長い顔をした如是閑が、ニコニコした雪嶺のジャガイモ顔を前に首をひねっている様子を思い浮かべると愛嬌があって、読んでいるこちらもついつい笑みをこぼしてしまう。

 雪嶺の基本的な考え方について如是閑は次のように説明している。

「いかなるものも、「ある」ことそのことによって、平等の地位であると考える。」「たとえば、宇宙観、人生観というようなものをもって生きるとしている人間も「ある」。が、そんなものの何一つももたずに生きている人間も「ある」。双方とも「ある」ことによって、平等の存在理由をもつもので、どっちが上等でも下等でもない。ただ自分はそのどっちかで「ある」だけだ。」…「好きなものでも、嫌いなものでも、それが「ある」ことによって、その存在を平等に認める。自分はそっちをとらないからといって、そんなものは「あるべからざる」ものだとは考えない。我れがイエスというものを彼れはノーといい、昔はイエスといわれたものが、今はノーといわれる。そうしてvice versaである。将来、それらがイエスでもノーでもvice versaでもなくなるかも知れないし、なくならないかも知れない。」(『長谷川如是閑評論集』301~302ページ)

 絶対的な真理を求めて強引なロジックで物事を切り分けようとするのがよくある観念論の通弊だが、雪嶺は違う。例の「ウ・ウ」的な態度で、すべてを否定しつつ肯定し、肯定しつつ否定して、「渾一の観念」へもっていこうとする。一人の人間も、国家や民族も、大きな宇宙という有機体の中で、小さな一つでもあり、大きな多でもあり、その両方であるという自覚(宇宙なるものの全体像は究極的には分かり得ないにしても)。雪嶺の開かれたナショナリズムもこうした大きな視野の中で捉えなければ分からない。

 雪嶺は国粋主義を標榜してはいたが、以上の考え方からうかがえるように、自身の立脚する芯はしっかりと持ちつつ、立場の異なる思想も、それが自分とは異なるからこそ積極的に認めた。たとえば、社会主義者・無政府主義者でも話の筋道が分かる人たちとは付き合いがあった。大逆事件で獄中にあった幸徳秋水から望まれて、その遺著『基督抹殺論』に序文を寄せたことはよく知られている。秋水は雪嶺に迷惑がかかるのを恐れたが、快く引き受けてくれた雪嶺に心底感謝していた(その経緯を示す書簡は岩波文庫版『基督抹殺論』[1954年]に収録されている)。

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2009年5月28日 (木)

山本夏彦『ダメの人』

山本夏彦『ダメの人』(文春文庫、1985年)

 山本夏彦という名前をあげると、私を個人的に知っている方には思い当たる節があるかもしれないが、そういう縁で退屈な時などたまにパラパラめくったりする。

 雑誌連載エッセイをまとめた本。この人、基本的に同じことしか言ってないから、題材が古かろうが何だろうが今でも十分読める。ロシア文学の米川正夫・中村白葉・原久一郎が日本語をダメにしたというのは『私の岩波物語』(文春文庫、1997年)でも言ってたな。無味乾燥な直訳は意味不明だが、明治期の意訳は面白かったという話は時折目にする。でも、近年はやはり翻訳のうまい人が増えてきているとは思う。たとえば、光文社古典新訳文庫の浦雅春訳によるゴーゴリは、落語調という工夫で、ゴーゴリの諧謔がよく出ていて面白い。同じく光文社古典新訳文庫で亀山郁夫訳のドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が出ているのに、岩波書店が何を勘違いしたのか、亀山訳の向こうを張って米川正夫訳を敢えて重版(しかもカバーを新しくして)したのにはあきれた。

 で、“ダメ”というのは別に米川たちのことを指しているわけじゃない。夏彦は「ダメの人箴言録」なるものを書きたかったそうだ。じゃあ、“ダメの人”とは何ぞや、と問われても説明に困る。説明したら、必ず間違うからね。

 父(詩人の山本露葉)が亡くなった後、その親友だった人が夏彦を連れまわして色々なことを教えてくれたというが、武林無想庵のことだ。『荘子』のエピソードを聞かせてくれたそうで、それが夏彦にかなり印象を与えたようだ。

 私自身、『荘子』には強い思い入れがある。『荘子』に出会ってなければ私は生きていなかったとすら思っている。初めて読んだのは中学生のとき。ベストセラーになった池田晶子『14歳からの哲学』という本があるが、この本の果たす役割を、私にとっては『荘子』が果たしてくれた。『荘子』を初めて読んだときの漠然とした感覚をテコにすると、ある思想なり文学なり評論なりを読むときに、それがホンモノかニセモノかの区別が私なりにつくように感じている。たとえば、大森荘蔵や井筒俊彦を念頭に置いている。最近読んだところでは伊福部昭やジョン・ケージもそうだし、三宅雪嶺や長谷川如是閑もそう。そして山本夏彦や辻潤も。それぞれタイプは全然違うんだけどね。

 私は辻潤をひいきにしている。このブログのタイトル「ものろぎや・そりてえる」は辻潤の作品から拝借した。辻は無想庵の親友だった。夏彦も辻を個人的によく知っていた。“ダメの人”のイメージとして、おそらく無想庵や辻のことを思い浮かべていたのかなという気がしている。

 夏彦も“ダメの人”のかたわれである。夏彦が自分でそう言っている。

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2009年5月27日 (水)

西川美和『ゆれる』『きのうの神さま』、他

 西川美和監督「ゆれる」(2006年)はなかなか印象深い映画だった。自分の思うままに生きる弟(オダギリ・ジョー)と、そんな弟をいつも立ててくれた生真面目な兄(香川照之)。ところが、吊り橋で起こった“事故”をきっかけに、兄の心情に抑え込まれていたものを垣間見ていくという話。

 「ゆれる」を観て西川の作品に興味を持ち、デビュー作「蛇イチゴ」(2003年)もレンタル屋で借りて観た。行方不明の長男が間違って実家の葬式に来てしまうのだが、実は彼は香典泥棒、持ち前の口八丁手八丁でトラブルを解決するというシリアスなコメディー(矛盾した言い方だが)。これもよくできていた。

 「ゆれる」は、映画では弟の視点に立っていたが、小説版『ゆれる』(ポプラ文庫、2008年)は当事者それぞれのモノローグの組み合わせで構成されている。「藪の中」にたとえるのが適切かどうか分からないが、身近な人でも、その相手を見るときの普段なら表に出さない微妙な毒気がすくい取られている。人間にはこういう醜いところがある、とあげつらって書くのはさして難しいことではない。そんな安易な書き方ではなくて、日常の中に自然にとけこんでいるトゲを、斜に構えつつも真摯でやさしい眼差しで捉えていけるかどうか。そうしたところが嫌味なく描かれていて、小説としてもうまいものだと感心した。

 『きのうの神さま』(ポプラ社、2009年)は短編集。医療をテーマとした作品が中心。西川監督の次回作「ディア・ドクター」は地域医療や高齢化を題材としているそうで、その取材をしながら書いたとのこと。映画はどんな感じになるか楽しみ。

 『名作はいつもアイマイ──溺レル読書案内』(講談社、2008年)は雑誌連載のブックレビューをまとめたもの。ラインナップに井上ひさし『薮原検校』とか三島由紀夫『不道徳教育講座』とか野坂昭如『エロ事師たち』とかあるのはなかなか良い趣味してますな。

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2009年5月26日 (火)

崔承喜のこと

 高嶋雄三郎・鄭昞浩編著『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版、1994年)、金賛汀『炎は闇の彼方に──伝説の舞姫・崔承喜』(日本放送出版協会、2002年)の二冊に目を通した。

 『世紀の美人舞踊家崔承喜』には崔承喜の写真や公演プログラムなど多数収録されている。おどけた感じのポーズもあるし、気品のあるエロティシズムに胸がドキッとするようなものもあった。衣装をまとったポージングから東洋志向を融合させたモダン・ダンスというコンセプトはうかがえる。手足を大きく広げて宙を舞い、動きの躍動感をとらえた写真がいくつか目を引いた。大柄な美人だったというから、こうしたポージングに動きを持たせたならさぞ見栄えしたことだろう。是非映像で観てみたいとは思うが、いまやほとんど残されていない。そういえば、以前、崔承喜の生涯をたどるドキュメンタリー映画をやっていたように記憶しているが、観そびれたままだ。

 1911年、崔承喜はソウルの両班の家に生まれた。成績優秀だったが、家計が貧しかったため進学をどうするか迷っていたところ、舞踊家・石井漠が研究生を募集していることを兄・崔承一から教えられた。石井のダンスを見て、その魅力にたちまち引き込まれ、東京の石井のスタジオで練習に励むことになる。

 朝鮮舞踊の近代化という志向を持った彼女のダンスは、朝鮮人だけでなく日本人をも魅了した。崔承喜後援会の発起人に山田耕筰、川端康成、村山知義、菊池寛、山本実彦といった人々が名前を連ねており、この中に混じって呂運亨の名前も見えるのが驚いた。著名な朝鮮独立運動家である(呂運亨は左派的立場から独立運動を進めつつも日本側とも連絡を取るという複雑な政治行動ができた人で興味深いが、惜しくも1947年に暗殺された)。なお、『炎は闇の彼方に』は近衛文麿の名前まであるのが解せないと記しているが、指揮者であった弟・近衛秀麿の間違いである。

 崔承喜が活躍した1930~1940年代、すでに軍国主義が暗い影を色濃く落としている時代である。朝鮮舞踊の伝統を取り込んだ彼女のダンスは、皇民化政策を推し進める当局者には目障りで、彼女の意図とは関係ないレベルで政治の網目に絡め取られてしまう。“半島の舞姫”と謳われた彼女、英語で意訳すれば“コリアン・ダンサー”だが、外国公演でこの表現を使ったこと自体が反日的だとにらまれてしまった。上からの圧力に気を遣わねばならず、彼女は日本軍の陣中慰問にも行った。それは単なる保身のための迎合ではない。自分のダンスが朝鮮の人々の誇りの一つになっていることを知っているからこそ、絶やしてはいけないと考えたからだ(他方で、『炎は闇の彼方に』は、汪兆銘政権下では舞台に上がらないと心に決めた梅蘭芳と語り合うシーンも描いている)。

 そうした崔承喜の姿勢は、急進的な独立派の眼には日本の手先だと映った。崔承喜の朝鮮語読みは“チェ・スンヒ”だが、彼女は“サイ・ショウキ”と日本語読みで通しており、それも彼らの気に入らなかった。ただし、創氏改名にも応じてはおらず、その代わり、夫の安漠が安井と姓を変えた。彼が当局からの防波堤となって、崔承喜という名前を残すためだ。安漠はもともと作家志望だったが、結婚にあたり、崔承喜の支援者たちから彼女の才能を守るため自分の道はあきらめろと説得された人である。

 日本の敗戦後、南北二つの政府が成立した朝鮮半島で、崔承喜は延安帰りの夫・安漠に説得されて北に行った。“親日派”容疑を打ち消そうという意図もあったのかもしれない。当初、金日成からは厚遇された。1956年、日本の文化人の訪朝団が崔承喜と面会、来日公演を希望したところ、彼女も乗り気だったらしいが、雲行きは怪しくなる。日本に行ったらそのまま亡命してしまうのではないかと疑われたようだ。当時、文化宣伝省次官というポストにあった夫・安漠も反対したらしい。やがて金日成との考え方の違いから安漠は1958年に失脚、続いて崔承喜も粛清されてしまう。どのような最期を迎えたのか、はっきりしたことは分かっていない。

 以下、蛇足。戦時中、日本軍の慰問のため中国公演旅行に行った際、崔承喜は大同の石仏群を見て異様な感動にとらわれたというエピソードが『炎は闇の彼方に』に記されており、興味を持った。何十万体もの石仏が広がる雄大な光景を前にして、その場限りの“現実”に流されている自分自身を見つめなおしたらしい。私は伊福部昭の「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲が好きなのだが(→こちらを参照のこと)、彼もまた戦時中に中国の石仏群(大同ではなく熱河だったが)を見て圧倒された感動から執拗な反復律動という着想を得て、この曲をつくった。微細な音が反復・集積されて一つの大きなまとまりある音を響かせるところに現代音楽で言うミニマリズムの面白さがある。その意味で「リトミカ~」もまさしくミニマリズムだ。一つ一つ個別の石仏が集まって大きなまとまりを成している光景、一にして多のアナロジー。崔承喜にしても伊福部昭にしても、民族的・土着的感性と普遍的な芸術性とを、どちらか一方に収斂させてしまうのではなく両立させる形で自分の作品を表現しようとしていた。また、崔承喜は、無数の有名無名の人々が孜々として築き上げてきた石仏群の歴史性という高みに立った視点を通して、不本意な戦争に巻き込まれている自分の惨めさを捉え返そうとした。いずれにしても、石仏群のイメージに投影された一にして多というアナロジーは色々な問題を取り込んでいけるんだなあ、などと妄想した次第。繰り返すが、蛇足。

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2009年5月25日 (月)

「インスタント沼」

「インスタント沼」

 仕事に行き詰って会社を辞めたジリ貧OL沈丁花ハナメ(麻生久美子)。やり直そう!と決意した矢先、母親(松坂慶子)が河童を探しに行って池に落ち、病院に搬送されたまま意識不明。ひょんなことから母の古い手紙を発見、なんと実の父親のことが書かれていた。訪ねていくと、そこは「電球商会」なる怪しげな骨董屋。出てきたのは、見るからに胡散臭そうなはったりオヤジ(風間杜夫)…。

 ナンセンスな小ネタを絨緞爆撃のように次々とかましてくるのが圧倒的。一つ一つはアホらしくても、これだけ連発されると脈絡とか意味とか関係なく一定のリズムが出てくる。だから、ハナメの迷走ぶりが小気味良いというか、壮快にすら感じられる。小ネタが飛び交うリズムだけでこの映画は成り立っていると言っていい。とりわけ冒頭の2,3分ほど、テンポよくハナメを紹介するシークエンス、これなんてナンセンスとリズム感の組み合わせがもう絶妙で、この時点で三木聡ワールドに取り込まれてしまった。ストーリーは意味不明でも、つくりは相当に緻密だ。舞台や小道具も細部まで凝っている。

 何よりも主演の麻生久美子が実に良いなあ。素っ頓狂なマイペースぶりとハイテンションで最初から最後まで休みなく疾走する感じで、それが彼女のすずやかなかわいらしさと不思議に合っている。やはり現在公開中の「お と なり」(→こちらを参照のこと)で見せてくれる静かに抑えた表情の出し方とは対照的だが、どちらの役柄でも彼女の持っている雰囲気がうまく活きている。本当に素敵な女優さんですね。

【データ】
原作・脚本・監督:三木聡
出演:麻生久美子、風間杜夫、加瀬亮、松坂慶子、他
2009年/120分
(2009年5月24日、テアトル新宿にて)

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2009年5月24日 (日)

中村祐悦『白団(パイダン)──台湾軍をつくった日本軍将校たち』

中村祐悦『白団(パイダン)──台湾軍をつくった日本軍将校たち』(芙蓉書房出版、1995年)

 1949年から1969年にかけて旧日本軍将校83名が極秘のうちに台湾へ渡って軍事教練を行なっていた。もちろん、違法である。日本側の保証人となった岡村寧次が病床にあったため、代わりに団長となった富田直亮の偽名が白鴻亮であったことから“白団”と呼ばれた。反共義勇軍、蒋介石の寛大な対日政策への報恩が理由だったとされる。

 台湾へ密航する根本博のことは、先日読んだ奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋、2005年)、高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』(小学館、2007年)の両方にもちらりと出てきた。1949年に中共軍を撃退した金門島攻防戦では根本がひそかに作戦指導をしていたといわれる(この攻防戦によって中共・国府の軍事境界線が事実上定まった)。なお、根本の同行者の中に照屋林蔚という人がいた。照屋敏子の夫のはずだが、高木書では白団については触れられていない。白団支援者の中に澄田【ライ:貝偏+來】四郎の名前も出てくるが、ドキュメンタリー「蟻の兵隊」で山西省に日本軍兵士を置き去りにしたと非難されている人物である。

 白団の活動は、国民党軍にとって黄埔軍官学校以来の本格的な軍事教練であった。アメリカ式の戦術では物量を潤沢に費やすのが前提となっているが、これに対して貧乏国として物量を最小限に抑えようとする日本軍式の方が当時の国民党軍の実情に合っていたという。戦略問答で日本人教官が中国人生徒を徹底的に論破してしまうと面子をつぶされたと反感をかってしまうというのは一種の文化摩擦か。講義終了時の拍手の大きさが、学生による教官への勤務評定になっていたというのが面白い。

 教練を受ける大半は外省人だが、本省人も少人数だが混じっていた。しかし、本省人はどんなに優秀でもエリート・コースにのることはできず、それどころか政治犯の疑いで投獄された人すらいた。いわゆる“省籍矛盾”の中、蒋介石以下軍事関係者の親日感情と、他ならぬ国民党軍によって弾圧された一般台湾人の親日感情、それぞれ別の位相で二つの親日感情があったというのも実に複雑な話である。

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「夏時間の庭」

「夏時間の庭」

 冒頭、広い庭の森や草はらで子供たちが楽しげに駆け回っている。静かな光の映える緑はまるでコローの風景画から抜け出してきたかのように穏やかに美しい。長年お手伝いとして働いてきたエロイーズは「池の方へ行ったのかい? あっちは危ないから行っちゃいけないって言ったのにねえ」とこぼす。

 コロー、ドガ、ルドン…。数々の芸術品が無造作に置かれた家。芸術家であった大叔父の遺したこの家を守ってきた母エレーヌは、息子・娘たちに遺産相続の話を切り出す。それぞれ自分自身の生きていく場所を見つけている彼らの表情は複雑だ。母が娘に語る、「あなたは歴史を背負ったものが好きじゃなかったものねえ」という言葉が耳に残る。やがて、母は逝く。

 実際に美術館から現物を借り出して撮影したらしい。思い出に何か持って行きなさいと言われたエロイーズ、「高価なものだと悪いから一番平凡なのをもらってきたわ」と語るのだが、その花瓶も著名な作品だったというのが微笑ましい。愛着とは、一人ひとりの時間の積み重ねを通して生まれてくる感情である。それは世評や金銭換算とは次元が異なる。美術館に鎮座した飾り机のさびしげなたたずまいが、エロイーズがいつもやるように自然に花を生けた花瓶と対照的に際立つ。

 時間の積み重ねには、自分たちの知らなかった過去もいっしょくたに混じりあっている。たとえば、エレーヌと大叔父との秘められた関係。家が売却される直前、非行に走ったように思われていた孫娘がボーイフレンドの手を取って池の方へと駆けていく。そこで祖母エレーヌから聞いた話を語る。場所に結び付いた祖母のかけがえのない思い出、そこに孫娘も自身の想いを重ね合わせる。時間は途切れずに続いていく。

【データ】
原題:L’heure d’été
監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス
出演:ジュリエット・ビノシュ、シャルル・ベルリング、ジェレミー・レニエ
2008年/フランス/102分
(2009年5月22日、銀座テアトルシネマにて)

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2009年5月23日 (土)

三宅雪嶺『真善美日本人』

三宅雪嶺『真善美日本人』(講談社学術文庫、1985年)

 国粋主義なんて言うと、現代では鬼面人を驚かすがごときおどろおどろしい響きもこもるが、明治期の政教社ナショナリズムにはポジティヴな開放性がある。雪嶺三宅雄二郎は政教社の雑誌『日本人』の主幹であった。鹿鳴館に顕著に見られるような欧米崇拝熱への批判として彼らの政論は出されているが、それは単なる反動ではない。人にはそれぞれ個性があると同様に、国柄それぞれにも個性がある。欧化という形でその個性を平板化してしまうのではなく、むしろ日本の個性を積極的にのばすことによってこそ、広く世界に貢献できるはずだと考えた。たとえば、“真”というテーマで雪嶺は次のように言う。

「真を極むること如何。相切磋し、相磨礪することのもって美玉を成就すべきを見ば、智識を闘わすの真を極むるにやむなきを知らん。異なれる境遇における異なれる経験より獲得せる極めて多くの異なれる事理を彙集し、同異を剖析し、是非を甄別し、もって至大の道理に帰趨するは、真を極むるの要道なり。既に称して日本の国家という、その人まさに人類世界において真を極むるの一職分を担わざるべからず。」(36~37ページ)

 西洋とは異なる経験を持つ日本には、他の国にはできない日本なりの任務があるはずだ。異なる個性を持つ者同士が切磋琢磨するからこそ世界全体の進歩があり得る。そうした形で、日本の文化ナショナリズム=国粋主義・日本主義をユニバーサリズムの中に矛盾なく位置付けていこうとする発想に政教社の主張の特長があった。同時代の内村鑑三の墓碑銘に刻まれた「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、かくしてすべては神のために」という言葉も想起される。

 “真”は学術的なテーマである。古来、中国・インドの文化を咀嚼してきて、現在では欧米から新しい学術方法論を輸入している日本は東洋文化研究に長所があるとされる。本書は雪嶺の口述を筆記したものだが、筆記者の一人は後に東洋史研究の泰斗として知られた湖南内藤虎次郎である。“美”については日本にも様々な美術があることを強調。風土の風光明媚な点については軽く触れる程度だが、同じく政教社の同人であった志賀重昂『日本風景論』が有名である。“善”としては、日本のような弱国であっても工夫によって富国強兵を図ることができると指摘。類似したテーマでは内村鑑三『デンマルク国の話』も思い浮かぶ。

 『真善美日本人』と対句的なタイトルを持つ『偽悪醜日本人』も本書に収録されている。“偽”や“醜”はうわっつらに流れて真実を失った学問や芸術への、“悪”は私利を第一として士風の矜持を失った社会風潮への批判である。とりわけ、欧米文化を直輸入して事足れりとする風潮に舌鋒が鋭く向けられる。次の引用をみると、“和魂洋才”“東洋道徳西洋芸”のような発想と言えるか。

「おおよそ社会の事物たる、他を模倣せんよりは、自家固有の特質を発達せしむるの優たることあり。けだし我が国固有の風俗たる、いずくんぞことごとく抹殺すべきものならんや。そもそも外事を取りて、これを用いんことあえて排難すべきにあらずといえども、そのこれをなさんにはあらかじめ守るところなかるべからず。すわなち明らかに我を主とし、彼を客とするの本領を確保し、彼やただ取りてもって我の発達を裨補せしむるの用に供すべきのみ。はじめより汲々乎として模倣これ務む、いずくんぞその可なるを知らん。」(139ページ)

 雪嶺は中野正剛の岳父にあたり(中野については以前に触れた→こちらを参照のこと)、東方会の機関紙『我観』の主筆に据えられていた。戦後間もなく、我観社は真善美社と名前を変えたが、雪嶺『真善美日本人』に由来する。なお、中野と同郷という縁で花田清輝が我観社・真善美社にいて、たとえば埴谷雄高、島尾敏雄、福田恒存、中村真一郎、岡本潤、小野十三郎などの本も真善美社から出されている。

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「ブッシュ」

「ブッシュ」

 父を超えられない息子の葛藤を描く。ブッシュ・ジュニアを演ずるジョシュ・ブローリンは本当に生き写し。パパ・ブッシュ役であるジェイムズ・クロムウェルの長身と並ぶとただのガキにしか見えないのは意図的なキャスティングか。ディック・チェイニー役もそっくりだったが、リチャード・ドレイファスだというのはエンドクレジットで知って驚いた。過去のオリバー・ストーン映画では「ニクソン」のアンソニー・ホプキンスの印象が強かった。ニクソンの顔の長方形に対してホプキンスは丸顔、しかし、笑ったときの表情などそっくりで、さすがホプキンス!とうなった覚えがある。

 パウエルの発言を通してイラク戦争への疑問点が指摘されるが、通り一遍な感じ。石油の確保が目的だとチェイニーが大演説をぶつが、そう単純化できるかどうかは問題が残るはずだ。あくまでもブッシュ・ジュニアのグダグダしたもがきっぷりがメイン・テーマだろう(そこに共感するかどうかは別問題)。この映画をアメリカ政治論に結び付けたがる人もいそうだが、それは明らかに無理がある。

 二時間以上の長丁場だが、退屈はしない。ブッシュ関連ではマイケル・ムーア「華氏911」なるトンデモ映画もあったが、あれに比べたらはるかにマシだ(以下、蛇足。私自身、ブッシュ政権に対して批判的ではあるが、ムーアの理屈ではなく映像のコラージュでマイナス・イメージを作り上げていくやり方は観ていて不愉快だった。ムーアは反体制の立場だから許されるにしても、体制側が同じ手法で宣伝をやったら悪質なデマゴギーになってしまう。自称進歩派・良心派にムーアを持ち上げる人々がいたが、そうしたところに無自覚な点で本当に頭が悪いんだなあとつくづく思った。進歩派か保守派かはともかく、バカのくせにもっともらしく政治を語りたがる輩にはうんざりする)。

【データ】
原題:W.
監督:オリバー・ストーン
2008年/アメリカ/130分
(2009年5月23日、角川シネマ新宿にて)

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2009年5月22日 (金)

『吉野作造評論集』

岡義武編『吉野作造評論集』(岩波文庫、1975年)

 大正5(1916)年、『中央公論』に発表された吉野作造「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」は、いわゆる大正デモクラシーの代表的論文として名高い。語り口は平易。『中央公論』掲載の吉野の論文は、たしか名編集長瀧田樗陰の筆記になるはずだ。当時、駆け出し編集部員だった木佐木勝が瀧田に随行して吉野の研究室へ行き、帳面と筆を手にした瀧田が袖を捲くりあげ、「先生、さあ、やりますか」とやっているシーンを、何の本だったか『木佐木日記』からの引用で読んだ覚えがある。

 内容は立憲主義、議会主義の概説である。少数者政治は密室政治に陥りやすい、政権交代の緊張感をもたせる→開かれた選挙が必要などの論点は特に真新しいものではないが、見方を変えれば、基本的な考え方は現在でも変わっていないとも言える。以下の箇所では明治憲法の枠内で国民本位の民本主義を正当化する論拠を示しており、美濃部達吉の天皇機関説と相補う。

「我々が視て以て憲政の根柢となすところのものは、政治上一般民衆を重んじ、その間に貴賎上下を立てず、しかも国体の君主制たると共和制たるとを問わず、普く通用するところの主義たるが故に、民本主義という比較的新しい用語が一番適当であるかと思う。」(「憲政の本義~」36ページ)

「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義である。」(「憲政の本義~」45ページ)

「これを要するに、政治の終局の目的が人民の利福にあるべしという事、これ民本主義の第一の要求である。一見民衆一般の全体の利益に関わりないように見えても、詮じ詰むれば、全般の利益幸福となるというものならば、そは民本主義に悖らない。終局において民衆一般のためになるかならぬかが標準である。」(「憲政の本義~」61ページ)

 民衆を“重んずる”という微妙な言い回しがカギである。民衆自身に政治をやらせたり民衆の要求に迎合したりするのではなく、民衆=多数者の意向を汲み上げながら政治指導者=少数者が政権運営を行っていく、つまり代議政治=間接民主主義であることを強調している(従って、直接民主主義の効率的代用という見解を吉野はとらない)。

「多数政治と言っても、文字通りの衆愚の盲動が政界を支配するようでは、国家の健全なる発達は期せられない。多数者は形式的関係においてはどこまでも政権活動の基礎、政界の支配者でなければならぬ。しかしながら彼は内面において実に精神的指導者を要する。即ち賢明なる少数の識見能力の示教を仰がねばならぬのである。かくて多数が立派な精神の指導を受くる時は、その国家は本当にエライものである。少数の賢者は近代の国家において実にこの役目を勤むべきものである。」「多数の意向が国家を支配するのであるけれども、これを精神的に見れば、少数の賢者が国を指導するのである。故に民本主義であると共に、また貴族主義であるとも言える。平民政治であると共に、一面また英雄政治であるとも言える。即ち政治的民本主義は精神的英雄主義と渾然相融和するところに憲政の花は見事に咲き誇るのである。」「憲政をしてその有終の美を済さしめんとせば、政策決定の形式上の権力は、思い切ってこれを民衆一般に帰し、しかも少数の賢者は常に自ら民衆の中におってその指導的精神たる事を怠ってはならぬ。」(「憲政の本義~」72~73ページ)

「腹の痛い痒いは患者本人に聞かねば分からぬ。しかしどうしてこれを癒すかは医者でなくては分からない。従来の医者は患者を見もせず勝手に投薬したので、遂に民衆はその無責任を憤り医者無用論を唱え、甚だしきは自分で医療のことが分かるような気にも一時はなったのだが、本当のところはやはり医者に頼まなくては分からぬのである。ただ問題はその医者が絶えず誠実に患者と連絡を取って居るか否かに在る。政治におけるまた然りで、従来の政治家が頼むに足らずとして一概にこれを斥けるのは専門の智識なくして勝手に薬を手盛りするようなものである。政治は政治家にまかせる。ただ民衆は厳にその監視を怠らない。これが理想的の状況だ。」(「無産政党問題に対する吾人の態度」219ページ)

 天皇主権と国民本位、二重の政治形式を経た上で実質的にはエリート主義というカラクリが面白い。個々の具体的な政策判断は政治指導者に任せるにしても、ではその指導者が果たして適任なのかどうか。選挙を通して監視の眼を光らせるのが選挙民=一般民衆の役割である。それには専門知識は必ずしも必要ではない。しかし、異なる政派それぞれの意見を聞きながら、そのいずれが説得力を持つのかを見極めるくらいの見識は選挙民に求められる。個別の利害関係で投票するのではなく、大局的に必要な人材を選ばねばならない(各政派の見解を比較考量するのが選挙民の役割なのだから、一般民衆は特定政党に加入してはならず適度な距離をおくべきだとも吉野は主張している)。だからこそ、国民一般の智徳の発達が憲政の大前提だという趣旨の一文を「憲政の本義~」論文の冒頭に置いている(この論点は福沢諭吉たちの啓蒙思想以来、一貫して続いているように思われる)。

「憲政のよく行わるると否とは、一つには制度並びにその運用の問題であるが、一つにはまた実に国民一般の智徳の問題である。けだし憲政は国民の智徳が相当に成育したという基礎の上に建設せらるべき政治組織である。もし国民の発達の程度がなお未だ低ければ、「少数の賢者」即ち「英雄」に政治上の世話を頼むといういわゆる専制政治もしくは貴族政治に甘んずるの外はない。故に立憲政治を可とするや、貴族政治を可とするやの問題の如きも、もと国民の智識道徳の程度如何によって定まる問題で、国民の程度が相当に高いのに貴族政治を維持せんとするの不当なるが如く、国民の程度甚だ低きに拘らず強いて立憲政治を行わんとするの希望もまた適当ではない。」(「憲政の本義~」13ページ)

「民本主義の行わるる事は、それ程高い智見を民衆に求むるという必要はない。…今日の政治はいわゆる代議政治という形において行われて居るのであるが、その結果今日では我こそ人民の利福意向を代表して直接国事に参与せんとする輩は、自然進んで自家の政見を人民に訴え、以てその賛同を求むるという事になる。そこで人民はこの際冷静に敵味方の各種の意見を聴き、即ち受動的にいずれの政見が真理に合して居るやを判断し得ればよい。更に双方の人物経歴声望等を公平に比較し、いずれが最もよく奉公の任を果たすに適するや、いずれが最もよく大事を託するに足るの人物なりやを間違いなく判断し得るならば、それで十分である。」(「憲政の本義~」69ページ)

「立憲政治の妙趣は、人民の良心の地盤の上に、各種の思想意見をして自由競争をなさしむる点にある。いわゆる優勝劣敗の理によりて高等なる思想意見が勝を制し、これが人民の良心の後援の下に実際政治の上に行わるる点にある。」(「憲政の本義~」94ページ)

「ちょうど幸いなことには、今日の政界の組み立ては、政権に与らんとする者が競うて自家を民衆に吹聴し、一人でも多くの味方を作るに非ざればその目的を達し得ぬということになって居る。そこで民衆は政治家の主張をきき、自ら政治的に大いに教育されてその上でゆっくり賛否を決するというのであるから、多数の意向の帰するところが則ち道徳的に最高価値の存するところとなるわけだ。ただ漫然多数なるが故に尊いのではない。多数のうちに最良最高の価値が発現するように組み立てられて居るから尊いのである。デモクラシーが現代新文化の発展に重きをなす所以は一にこの点にある。従って反省なき無組織の多数を擁してここに一つの勢力を作らんとするが如きは、却ってデモクラシーの敵というべきである。」(「普通選挙の実施と日本政界の分布」232ページ)

 吉野の民本主義は議会制民主主義の一つの理念型を示している。この観点から普通選挙・政党政治への支持を表明した。超然内閣が君臨し、政党政治へはまだ移行期にあった大正期において、彼の議論は既存体制に対する鋭い舌鋒として喝采された。しかしながら、当時とは違って選挙による議会制度が形式的には完備した現代日本において考えてみると、吉野の示した政治モデルは、むしろ“国民一般の智徳”の問題に難点を見出すように思われる(吉野は、自由民権運動が挫折した明治期とは異なり、大正の現在において智徳の発達は十分だから立憲主義でいける、だから普通選挙を実施せよ、と主張していたのだが)。

 例えば、財政再建のため増税が必要というロジックを私は正当だと思うが、現在、こうした主張を正面から掲げる政党があったとして、果たして政権をとれるだろうか。吉野の考え方からすれば、政治指導者は国民を説得せねばならないわけだが、実際には言葉を濁さざるを得ない。吉野は国民を“重んずる”という表現を用いたが、ここに込められた国民の“意向を汲み取る”ことと国民に“迎合する”こととの微妙なニュアンスの相違をどのように考えるか。

 他方で、痛みを伴う構造改革が主張された郵政選挙で小泉自民党が圧勝したが、これは主張の是非ではなく、マスメディアを通したドラマ性が耳目を引いた結果であったことは論を俟たない(いわゆるニート・フリーター層が、彼らにとって構造改革は不利になるはずなのに、小泉の「ぶっこわす!」という一言に反応して自民党へ投票した人たちが少なからずいたという指摘を思い起こす)。理屈による説得よりも、感情に訴えるドラマ的な刺戟の方が選挙において効果を持ってしまうこと、この点を考えても“国民一般の智徳”の問題は現代でも危ういなあという感じがする。(と言うよりも、民主主義がある局面で多数派の感情論で突っ走ってしまう危険性は、後天的に組み立てられた政治システムというよりも、人間本性をどのように考えるかというもっと本質的な次元に根ざした問題だという印象が私には強い。これは永遠に解決できない問題でしょう。だからと言って私は議会制民主主義を否定などしていません、念のため。)

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2009年5月21日 (木)

こうの史代『この世界の片隅に』

こうの史代『この世界の片隅に』(上中下、双葉社、2008~2009年)

 ようやく完結。こうの史代のやわらかいタッチの絵柄が好きなので上巻を書店で見かけて以来心待ちにしていた。ベストセラーとなり映画化もされた『夕凪の街 桜の国』(双葉社、2004年)は広島の原爆をテーマとしていたが(映画は文部省選定のような感じだったが、麻生久美子の薄幸な面持ちが良かった)、『この世界の片隅に』の舞台はお隣の呉。軍港の城下町である。広島から嫁いできたおてんば娘すずが主人公。刻々と激しさを増していく戦火に翻弄される不条理、しかし、それをほんわりとやさしい絵柄が包み込んでくれるので、静かな叙情すら感じられてくる。そこがいい。

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2009年5月20日 (水)

張季琳『台湾における下村湖人──文教官僚から作家へ』

張季琳『台湾における下村湖人──文教官僚から作家へ』(東方書店、2009年)

 『次郎物語』は小さい頃に読んだ覚えがあるが、内容については漠然とした雰囲気しか思い浮かばない。下村湖人のリベラルな理想主義というのも、言われてみてそうだったかなと思い出したくらいだし、彼が台中一中や台北高校の校長を務めていたことなど初めて知った。

 台中一中の台湾人生徒によるストライキは湖人にとって一つのトラウマとなっているようだ。台中一中はもともと台湾人有志の寄付でつくられたのが始まりなので台湾人生徒の割合が多かったが、公立に移管されてからも“一中”の名前は守り続けた。ストライキの原因は日本人職員の不正への不満であったが、下村校長は断固たる態度を取って、多くの台湾人生徒が退学させられた。総督府から譲歩するなという指示があったのだとしたら彼は文教官僚として板ばさみになったわけだが、その点の検証は今後の研究に待たねばならないようだ。湖人は必ずしも差別主義者だったわけではなく、家族には差別的な言動をしないよう気をつけろと常々注意していたらしい。しかし、主観的にはリベラルな良心派であっても、文化的感性の異なる人々を相手とする植民地体制下ではなかなか思い通りにはいかない。

 日本に帰ってから湖人は台湾についてほとんど書き残していないという。ただ、『次郎物語』の後半部、学校騒動の場面がある。そこに描かれた校長の姿には、他ならぬ台湾時代の湖人自身が戯画的に重ね合わされているのではないかという指摘が本書のポイントである。日本の敗戦直後、湖人は私信で「台湾人に心からわびたいような気がしてならない」と記している。植民地支配者としての日本人も一律のイメージでくくってしまうことはできない。人それぞれに複雑な機微を抱えていたわけで、そうしたあたりを見つめた研究として興味深く読んだ。

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2009年5月19日 (火)

筒井清忠『近衛文麿──教養主義的ポピュリストの悲劇』

筒井清忠『近衛文麿──教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫、2009年)

 近衛文麿の名前を見て誰しも真っ先に思い浮かべるのは“優柔不断”というイメージだろうか。戦前においては開戦を決断できないのは優柔不断だからだと罵られ、戦後になると戦争を回避できなかったのは優柔不断だったからだと非難される。他方で、錯綜する政治情勢に振り回された彼の姿は“悲劇の宰相”という捉え方もされた(たとえば、矢部貞治『近衛文麿』)。

 近衛の教養主義的エリートとしての側面、マスメディアを通した大衆的人気。両方とも、すでに大衆社会化傾向を呈しつつあった当時の日本において政治家として立っていく上で有効な権力リソースとなるが、これら二つの要因の分析が本書のテーマである。

 大衆人気の背景としてモダン性と復古性の融合という論点が示される。近代的ブルジョワ家庭のイメージや親米派・社会主義シンパという進歩性は都市部にアピールしたし、彼の豊かな教養は知識人から好感を以て迎えられた。他方で、五摂家筆頭格という家柄の権威やアジア主義的な主張は保守的な農村部や右翼にアピールした。西園寺公望を代表格とする親欧米的オールド・リベラリストが退潮し、かわって大衆基盤のナショナリズムが高揚しつつある時代状況の中、近衛は双方から期待を寄せられるという独特な立ち位置にあった(右派・左派双方を場当たり的に引きつける政治行動を古典的なファシズム論ではボナパルティスムというが、近衛を気弱なナポレオン三世とたとえてみたら当たらずとも遠からずではないかという印象も感じた)。

 マルクス主義にせよ国家主義にせよ、ある特定のドグマで突っ走るのは教養主義とは相容れない。教養主義が現実政治と関わりを持つ際には様々な考え方の中から良質な部分をピックアップしようとする柔軟な態度を取る。そうした折衷主義的な政治姿勢を近衛は示したが、それは、伝統的なものに郷愁を感じつつも近代化が否応なく進んでいく状況にあった当時の日本人の感性に訴えるところがあったという指摘が興味深い。しかしながら、人気=「世論」の意向に依拠したポピュリズムは、風向きが変ればあっという間に失墜する運命をたどらざるを得なかった。

 具体的な政策課題の解決には不可欠な政治的柔軟性(近衛の場合には教養主義=良い意味での折衷主義に由来)。“民主主義”といえば聞こえは良いが、実際には国民からの支持はイメージ的な人気として表われるポピュリズム。本書は近衛のたどった悲劇を通して、こうした現代の我々も直面する政治的アポリアについて問題提起を行なっている。

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2009年5月18日 (月)

『ジョン・ケージ著作選』

小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫、2009年)

 ジョン・ケージの有名な「4分33秒」、私が初めて聴いた(?)のは学生の時にとっていた現代音楽をテーマとした講義でのこと。CDがかけられて、聴こえてくるのは森のささめく音。音を入れないCDはあり得ないから環境音楽風にしたのだろうか。漠然とだが違和感があった。「4分33秒」は伝説にとどめて無理やりCDにしない方がよかったのではないかと思った。

 「4分33秒」の初演(?)ではピアニストがピアノを弾かない、つまり意図的な音は出さないという形をとったわけだが、あのサプライズは再現不可能である。ケージのいわゆる“偶然性の音楽”には、“音楽=作曲”という作為的な意味をはぎとってむき出しの音そのものを感じ取ろうという意図があり、そして、一刹那一刹那いまここで響いている音の純然たる一回性に存在の広がりを感じ取ろうという意図も込められている。

 ケージを作曲家と呼ぶのはそぐわないという印象が私には強い。メロディーを人に聴かせるのが目的ではなく、音という素材を使って彼自身の思索を表現していくのが彼の音楽活動である。別に音楽にこだわっているわけではないと受け取れる趣旨の発言も彼はしている(たとえば、本書121~122ページ)。

 本書も含めてケージの発言を読んでいると、まるで禅問答のようである。意味不明、了解困難という通俗的な次元と、本来的に言語化不可能な存在論の核心に迫る際にどうしても矛盾した表現をせざるを得ないという本質的な次元と、この両方の次元において。ロジックを用いて説明し始めると、無限な広がりを持つ感覚が一定の狭いパターンに収斂・固着してしまって、発話した瞬間に「これは違う!」というもどかしさがどうしてもわだかまってくる。それにもかかわらず言葉による説明を求められるのだから、禅問答にならざるを得ない。ケージの発言を読みながら、たとえば『無門関』などを思い浮かべた。ケージがコロンビア大学で鈴木大拙の講義を受けて大きな影響を受けたことはよく知られている。本書の版面の組み方は明らかにダダ的である。面倒くさいから詳しくは書かないが、トリスタン・ツァラにしても辻潤にしてもダダを名乗る人たちには仏教的、老荘的なところがある(大雑把な言い方で意を尽していないから、いずれ気が向いたら改めて触れる)。

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2009年5月17日 (日)

「おと な り」

「おと な り」

 七緒(麻生久美子)は花屋でバイトしながらフラワーアレンジメントの勉強をしようとフランス留学の準備をしている。聡(岡田准一)は人気モデルの写真集を出して認められた若手カメラマン。カナダへ行って風景写真を撮りたいと考えているが、所属事務所との折り合いがつかない。同じアパートで隣室同士の二人、共に三十歳、人生の岐路に立っている。

 コーヒー豆を挽く音、カギ束をジャラジャラさせる音、フランス語をレッスンする声、くしゃみ、時折聞こえてくる鼻歌──。様々な音、帰宅時にドアを閉める音からもその人の感情の動きがうかがえる。

 そもそも相手を知るとはどういうことなのか。言葉を交わしたからといって十全な理解ができるわけではないし、むしろ誤解を深めるだけというケースも往々にしてある。その人のあり方について、たとえば言葉を、つくったものを、姿かたちを、あるいは音を手掛かりにしてフィーリングとして受け止めていく。手掛かりは色々とあり得る。日常生活の中で立てる一つ一つの音にも個性がにじみ出る。表情がある。音を通してしか相手を知らなくてもほのかに恋心を抱くことだってあり得る(というのがこの映画の設定。映画中での基調音がどうたらこうたらという講釈がラストの伏線になっている)。

 現実には隣室の音が漏れてきたら不愉快だろうという突っ込みはさておくにしても、ストーリーの青くささが鼻につくところはある。それでも、日常生活の音を通して互いが何者なのかわからない二人がひかれ合うという着想がおもしろいので私は好意的だ。

 舞台となっているアパートの古びた風格が目を引く。部屋の中のディテールを映し出すカメラ・アングルが私は好きだし、七緒が留学前日、からっぽになった部屋でたたずむシーンがとりわけ印象的だ。室内の情感が映像によく表われているからこそ、音というモチーフが活きている。

 岡田准一のカメラマン役も様になっているが、何よりも麻生久美子の抑えた表情の動きが実に良い(正直に言うと、麻生久美子ファンだから観に行ったわけだが)。

【データ】
監督:熊澤尚人
脚本:まなべゆきこ
出演:麻生久美子、岡田准一、谷村美月、池内博之、市川実日子、とよた真帆、平田満、森本レオ、他
2009年/119分
(2009年5月17日、恵比寿ガーデンシネマにて)

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「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア リアリズムから印象主義へ」

「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア リアリズムから印象主義へ」

 19世紀から革命前の20世紀初頭までのロシア絵画の展覧会。風景画が印象に残った。画面内の奥行きの広がりからはロシアの大地の大きさを想像して圧倒されるし、針葉樹林の風景には一種の清涼感があって観ていて心地よい。たとえば、シーシキン「ぺテルホフのモルドヴィノワ伯爵夫人の森で」の鬱蒼とした木立には穏やかな美しさがある。レーピンが草原にいる家族を描いた「あぜ道にて」のやさしげな陽光にはほっとする。アルヒーポフ「帰り道」、地平線の夕焼け以外には何も見えない荒涼たる平野を馬車が進む、そのたたずまいからは独特な哀愁が漂っていて、ムソルグスキー「展覧会の絵」の「ビドロ」のメロディーが何となく頭の中で流れた。

 肖像画も多いが、目玉はポスターにも用いられているクラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」だろう。この絵は昔から様々にイマジネーションをふくらまされてきたらしい。プライドの高そうな気品があって、そこが何とも言えずひきつけるものがあるけれど、私には冷たそうな印象もある。私はむしろ同じくクラムスコイ「髪をほどいた少女」の方が好きだ。けだるげに憂鬱そうな眼差しにはほうっておけない魅力があって見入ってしまった。
(渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアム、2009年6月7日まで)

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夏目漱石『私の個人主義』、他

夏目漱石『私の個人主義』(講談社学術文庫、1978年)

 “外発的開化”と“自己本位”──近代思想史というコンテクストで夏目漱石を取り上げる場合には必ず引き合いに出されるキーワードである。西洋との関係における日本と、その日本における個人一人ひとりと、この両方の次元で相通ずるテーマと言えようか。

 いわゆる翻訳学問について、漱石はたとえば当時の日本でも流行していたベルグソンやオイケンを引き合いに出し、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んで貰って、彼からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」と言う。西洋人が良いと言うことと、日本人自身が読んで腑に落ちるかどうかとは必ずしも直結するとは限らない。そこにはズレがあるかもしれない。その矛盾が仮に埋められないものだとしても、それではなぜ感じ方にズレがあるのか、その説明はできるはずだと漱石は言う。こうした彼の態度が現在で言う比較文化論の萌芽である。

 ロンドンに留学した漱石が神経衰弱に悩んだことは有名である。もちろん彼自身の気質的な問題もあろうが、それ以上に、西洋的なものの感じ方に自分自身をはめ込もうとする不自然さに彼自身が対処できなかったところに原因があった。その葛藤に呻吟する中から漱石は“自己本位”の四文字に安心立命を得たと語る。ここで、“外発的開化”と“自己本位”とが結び付く。漱石はこのテーマについて考え続けることを自分の終生の仕事だと割り切った。自己本位であろうとしても実際にはそれが難しいという矛盾、しかし、そうした矛盾が厳然としてあることをはっきりと自覚化して見つめようとする視点を持つことが、より高い次元で“自己本位”を保障できる──という言い方で果たして分かってもらえるだろうか。漱石は続けて語る。「ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。」 迷いつつ、もがきつつ、その混迷の中から何かをつかみ得た人ならではの発言である。

 漱石の言う“自己本位”は、その後の煩悶青年たちのうわっつらに流れやすい“自我の主張”とはだいぶ異なる。“自我の主張”は、実は借り物の議論を使ってもできるし、むしろその自己欺瞞に気づかないケースが多い。そこの相違を明快に言語化する能力が今の私にはないので何とももどかしい限りだが。ただし、漱石はそのような青年たちに対しても同情的ではある(たとえば、「思い出す事など」79ページ)。

 『硝子戸の中』(岩波文庫、改版1990年)や『思い出す事など 他七篇』(岩波文庫、1986年)にもざっと目を通した。身辺雑記的なエッセーである。微妙な心理の揺れ動きを文章化する漱石の筆致は現在の私が読んでも違和感なく馴染む。時代背景はこうだから云々といちいち“翻訳”する必要を全く感じないで、同時代の人が書いたもののようにごく自然に。日本近代文学の父、なんて大仰な言い方はイヤだが、久しぶりに読むと素直に実感。

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2009年5月16日 (土)

「チェイサー」

「チェイサー」

 元刑事のジュンホはデリヘル嬢斡旋をなりわいとしている。ある客から電話があった。番号に見覚えがある。働いていた女性が前に姿を消してしまったのだが、その客の所へ行った時のことだった。「くそっ、こいつか、女を売り飛ばしてやがるのは」 客の家へ行ったミジンに場所を教えろと連絡を入れたのだが、返信はない…。

 猟奇的な連続殺人事件をめぐるサスペンス・ドラマ。映画の早い段階で犯人はいったん捕まるのだが、証拠不十分で釈放される。チェイサー=追跡者というタイトルには、釈放されて家に戻る犯人、彼の心に巣食う闇、この両方をたどるという意味が重ねあわされているのだろう。映画の全編を通して夜もしくは雨。緊張感のあるカメラ・アングルは、このダークな雰囲気に観客をグイグイと引き込んでいく。ミジンが何とか逃げ出した時だけ真夏のけだるい陽光がふりそそぐ。結末を考えると、このシーンの静かな明るさがいっそうやりきれない気持ちにさせてしまう。監禁された被害者の逃げられない絶望的な恐怖を浮び上らせようとしているようだ。サスペンス・ドラマとしての完成度は高くて見ごたえはあるが、だいぶ後味の悪さも残った。

【データ】
監督・脚本:ナ・ホンジン
出演:キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ソ・ヨンヒ
2008年/韓国/125分
(2009年5月16日、新宿・シネマスクエアとうきゅうにて)

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早川孝太郎『花祭』

早川孝太郎『花祭』(講談社学術文庫、2009年)

 三河・信濃・遠江の祭事は日本芸能の縮図的存在として民間信仰史・芸能史では重要らしい。早川孝太郎が自身の故郷・奥三河の花祭を記録した本書はそのことを知らしめた古典とされているらしい。早川は宮本常一などと同様に渋沢敬三・柳田國男によって引き立てられた民俗学者である。

 何となく気になっているのだが読まないままの本がいくつかある。早川『花祭』も私にとってそうした一冊だった。高校生の頃、学校の図書館に岩崎美術社の民俗学シリーズがそろっていて(深い水色のハードカバーが記憶に鮮やかだ)、適当に引っ張り出しては、読むともなくパラパラめくって眺めることがよくあった。『花祭』もその中にあった。民俗学への興味がうすれて久しいのだが、なつかしい感じがしてついつい買ってしまった。講談社学術文庫版は岩崎美術社版の復刊だが、これ自体が縮刷版である。大部なオリジナルは岡書院から出されていたということは今回初めて知った。岡書院の岡茂雄についてはこちらを参照のこと(→岡茂雄『本屋風情』

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2009年5月15日 (金)

奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』、高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』

 近現代の沖縄には「アメリカ世(ユ)」や「ヤマト世(ユ)」はあっても「沖縄世(ウチナーユ)」はないといわれる。しかし、戦後間もなくのカオティックな数年間こそ「沖縄世」だったのではないか、この時に沖縄人は秘めていたエネルギーを密貿易という形で爆発させたのではないか。そうした問題意識から奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋、2005年)は金城夏子という女傑の生き様を追いかける。高木凛『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』(小学館、2007年)もやはり同様にバイタリティーあふれる女性の軌跡をたどる。

 帰属のはっきりしない混沌とした状況の中、当時の沖縄がある意味ボーダーレスの活況を呈していたことは、最近では佐野眞一『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル、2008年)でも読んだ。佐野書でも魅力的な群像が描かれているが、金城夏子、照屋敏子、この二人の迫力もちょっと並ではない。密貿易に義侠心の厚さとくると女海賊のようなイメージにもなりかねないが、アメリカ軍政の厳しい施策で実際問題として食うことができないという背景があった。女性の活躍という点が目立つが、漁師として遠洋に出る夫が海難で命を落とすことも珍しくなかったので、女性も自活できるよう商売をして自前の貯えをするのは当然という考え方が沖縄にはあったという。金城夏子は若くして亡くなったが、彼女の建てたビルを照屋敏子が買ったという形で二人の接点もあった。白団の関連で旧陸軍の根本博が沖縄経由で台湾に渡ったことが二人の周辺でちらつくのも当時の世相がうかがわれて興味深い。

 ただし、二冊とも取材はしっかりしているが、彼女たちの人物的魅力に読者をのめりこませていけるほどの筆力がないのが残念。二人とも題材としては非常に興味深いだけにもったいない。

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2009年5月14日 (木)

台湾旅行⑥ 5月某日 書店にて

・花蓮より台北に戻った夜は、誠品書店信義店へ行ってまた書棚をじっくり眺め、何冊か買い込んでから宿舎に戻った。
・宿舎に戻る途中、道端の露天商が女性用の靴を広げている横を通りかかったところ、たかっていた地元の女の子たちから「カワイイ!」と黄色い声が聞こえてきた。台湾のテレビのバラエティー番組を眺めていたら、説明的に話す際には「可愛=クーアイ」という発音が聴き取れたが、若い女の子のタレントが間投詞的に「カワイイ!」と叫ぶシーンも見かけた。中国語の「可愛=クーアイ」と日本語由来の「カワイイ」、それぞれシチュエーションに応じて使い分けられているのだろうか。
・翌朝、誠品書店敦南店へ行った。こちらは24時間営業、早朝だと時折居眠りしている客も見かける。ここでも何冊か買い込んだのだが、レジに行ったら、「アー・ユー・ジャパニーズ?」と英語で尋ねられた。えっ、なんでばれたの?(って、別にスパイじゃないからいいんだけど) 要するに、外国人が同一店で1,000元以上の買い物をした場合には免税の対象となるからパスポートを見せてください、とのこと。他の書店でも1,000元以上の買物を何度もしているが、日本人だとばれたことはない(って、いばるなよ)。私は中国語はよく聴き取れないが、レジの人から何か言われても、雰囲気から「袋に入れますか?」と言ってるんだなと分ったので、適当にうなずいていたら何となくその通りにやってくれていた。実は以前台北へ来たときにもこの誠品書店敦南店で、日本人ならパスポート見せてください、と英語で言われたことがあって、今回は二度目。なぜこの店でだけ日本人だとばれるんだろうか。いずれも口をきく前だから、中国語ができない→日本人観光客という判断ではないと思う。些細なことだが、不思議。
・今回の旅行中で買い込んだ本は以下の通り(中国語は苦手なのでちゃんと読むかどうかは分かりませんが)。
『蒋渭水全集』(上下、海峡学術出版社、2005年)
『林献堂先生年譜・追思録』(海峡学術出版社、2005年)
李筱峰『林茂生・陳炘和他們的時代』(玉山社、1996年)
『1930年代絶版臺語流行歌』(台北市政府文化局、2009年→当時の台北の都市風景の写真も掲載されているほか、CDつき。中国風、当時の日本の歌謡曲風など色々なメロディーが面白い。1930年代も後半になると、皇民化運動が始まっておおっぴらには台湾語で歌うことができなくなる)
唐徳剛『張学良口述歴史』(遠流出版、2009年)
薛仁明『胡蘭成・天地之始』(大雁文化、2009年→胡蘭成の評伝。なお、元妻であった張愛玲『小團圓』が新刊ベストセラーの一位のところに積んであった。中国語文化圏で張愛玲の人気はいまだに根強い)
唯色・王力雄『聴説西蔵』(大塊文化、2009年)
王力雄『天葬:西蔵之運命』(大塊文化、2009年→新装版のようだ)
唯色『鼠年雪獅子吼:2008年西蔵事件大事記』(允晨文化、2009年)
(※以上、チベット関連3冊は誠品書店やPAGE ONEの新刊平台にまとめて積まれていた)
王力雄『逓進民主』(大塊文化、2006年)
朱天文『最好的時光』(印刻出版、2008年→侯孝賢映画などのシナリオ集)
王柯・王智新『安倍晋三伝』(中央編訳出版社、2007年→これは大陸の簡体字本。誠品書店信義店の簡体字コーナーで購入。王柯といえば『東トルキスタン共和国研究』でサントリー学芸賞をとっているが、なんで安倍晋三なんだ? 話のネタ程度のつもりで買った)。
・他に、新刊棚に積んであった小説・評論・絵本など5冊を適当に購入。
・誠品書店信義店の台湾史の棚で『蒋渭水全集』を小脇に抱えながら何冊かパラパラ立ち読みしていたら、同じ棚を眺めていたおじさんから話しかけられた。繰り返すけど私は中国語の聴き取りはほとんどダメなので「対不起、我是日本人、我不懂中文…」と言ってやりすごしたのだが、じゃあ、お前はなんでそんなに熱心に本を探しているんだ?と怪訝に思われたろうな。はあ、中国語ちゃんと勉強しよ…。

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2009年5月13日 (水)

台湾旅行⑤ 5月某日 花蓮

・12:03分宜蘭発の自強号(タロコ号)→花蓮到着は13:00頃。緑に覆われた山並みと海とに挟まれた路線、車窓に流れる風景を見ていると飽きない。2度ほど大きな河口を渡ったが、峻険な渓谷にすぐつながっているのが見えてなかなか雄大な眺望。この先にタロコ峡谷があるのか。時折、セメント工場が見える。
・花蓮站では外国人観光客が多数降りた。みんなタロコ峡谷へ行くようだ。私は取りあえず帰りの列車の切符を買い、発車時間を確認してから、市内をブラブラ歩き。
・花蓮は旧市街と新市街が離れている。台鉄の花蓮站前は戦後の街並み、繁華街は旧市街。
・地図を見ながら忠烈祠を目指す。忠烈祠はたいてい日本時代の神社をつぶして建てられている(台北も宜蘭もそうだった)。こちらも花蓮神社があったらしいのだが、その痕跡は分らない。小高い丘の上から町を見下ろす位置関係からすると神社があったとしてもおかしくない。Karen1
・ちょっと道に迷ったが、気ままに歩く。いくつか日本式家屋を見かけた。そのたびにデジカメで撮影。台湾の東海岸は漢族系のパーセンテージが低く、その分、原住民系と日本人が多かった。花蓮の場合、市街地の人口のうち半分くらいは日本人だったらしい。田舎町なので開発が遅れていることもあり、歩いていて日本式家屋に出くわす確率が他の町に比べるとかなり高い。以前、「花蓮の夏」という映画(→こちらを参照のこと)を観たことがあるが、主人公の実家が日本式家屋だったのを覚えている。
・忠烈祠に行く途中、大きな川岸を歩いたのだが、近くの高校生が清掃作業に駆り出されて行列を連ねているのとすれ違った。ジャージ姿の高校生の多くは漢族系だが、時折、原住民系だろうか、眼のパッチリした南方系の顔立ちも見かけた。
・旧市街の中心地に向けて歩く。鉄道公園の前に出た。日本統治時代に作られた鉄道の駅はもともとこちらにあって、繁華街は今でもこちらの方になっている。
・海岸に出る。何やら工事中でわさわさと慌しい。道路も殺風景。砂浜のあるところまではちょっと遠そう。海を実感できるところまで移動したかったが、時計と相談して断念。
・東海岸にはセメント工場や大理石の切り出し場があるせいか、トラックやミキサー車が埃を巻き上げながら走っている。市街地の海に近い方には空地が目立つ。おそらく、日本式家屋が補修不可能なほど古びてきたので更地にして、再開発を予定しているのだろう。
・旧市街バスターミナルの前、旧駅跡の鉄道公園に入る。戦前の建物や機関車が保存もしくは復元されている。防空壕もあった。戦前の古い日本式駅舎は崩れかかりつつも、その上に大きな屋根を設けて保存の努力がされていた。
・展示資料室に入ると、監視員だろうか、60歳前後のおじさんが話しかけてきた。私は中国語が苦手なので何と返事すればよいものやら迷って口をモゴモゴさせていたら、「ひょっとして、日本人ですか?」「はい、そうです。」「やあ、日本の方が前に来たのは一週間前だったかな。どちらから来たのですか?」という具合に日本語で雑談。日本語世代に比べると明らかに若い。自分で日本語を勉強しているらしく、机の上には日本語のテキストがちょうど開かれていた。親切に、鉄道に詳しい別の解説ボランティアを呼んでくれたのだが、この人は日本語が分らない、私は中国語が分らない、お互いにちょっと様子がおかしいなという感じになって、「中国語は分るのか?」という趣旨のことを聞かれ、私は「対不起、不会…」、気まずい空気が流れてしまった。それでも一通り見せてもらったのはありがたい。Karen2
・旧市街、旧駅と海辺に近いあたり、密集した日本式家屋の屋根が見えたので、そちらの路地に入り込む。日本式家屋がまとまって残っている一画だった。いずれも大きいおうちだが、人が住んでいる気配はない。とりわけ大きな邸宅の横の空地に築山があって、そこに登って覗き込んだ。庭には池と石橋なんかも配置されている。テラスがあるのはコロニアル風。総督府の高級職員官舎か、それとも貿易関係者の家か。空地が目立つのは、老朽化して取り壊された跡なのだろう。近い将来、大規模に再開発されるのかもしれない。
・この一画の空地にも防空壕が残っていた。宜蘭で見かけたのと同じタイプ。覗き込んでみると、中にはゴミが棄てられて酸っぱい腐臭が漂っている。Karen3
・花蓮旧市街の繁華街を歩く。日本式家屋を改造したカフェをいくつか見かけた(下の写真)。むかし線路が引かれていた跡が遊歩道になり、屋台風の店もあって、地元の若者が行きかっている。Karen4
・時間の按配が分らなかったので、歩いて早めに台鉄の花蓮站まで戻った。30分ほど時間があったので、駅近くの大衆食堂にもぐりこみ牛肉麺をかきこんで空腹を満たす。花蓮市立図書館もちょっとのぞく。
・花蓮17:40発の自強号(タロコ号)に乗車→台北到着は20:00頃。

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台湾旅行④ 5月某日 宜蘭

・朝8:30台北站発の自強号(タロコ号)に乗り、宜蘭站には10:00ちょっと前に到着。途中、海に亀山島が見えた。
・12:03発の列車に乗るつもりなので、まず時間のかかりそうな所から先に回ってしまうことにした。駅前でタクシーを拾い、員山公園まで行く。車で片道10分くらいか。タクシーにはちょっと待ってもらって、公園内に入る。
・急な石階段を登る。現在は忠烈祠となっているが、日本統治時代には宜蘭神社があった。忠烈祠というのは国民党軍の戦死者を祀る施設で、中華民国版護国神社と言ったらいいだろうか。忠烈祠を取り囲むようにガラス製の展示スペースがあり、宜蘭神社の成り立ちを中心に宜蘭の町の歴史が写真入りで解説されている。日本統治期を否定するでも肯定するでもなく淡々と叙述しているのが興味深い。
・忠烈祠の前から宜蘭平野を望む。この一帯は穀倉地帯だったらしい。Giran1
・石階段の麓に、何やら石柱のようなものが転がっている。宜蘭神社の頃の鳥居、石灯籠、狛犬など。やはり中華民国の忠烈祠だから日本時代を否定せねばならないわけだが、鉄パイプを交えて現代アート風にデザインを意識した転がし方になっているのが面白い。横には戦車が展示されている。忠烈祠=護国神社、つまりwar shrineだから。
・待ってもらっていたタクシーに乗り込み、宜蘭站へ戻る。運転手さんに「我要去宜蘭station」と言ったら、「チャザン、チャザン?」と念を押された。チャザンって何だろう?と思ったが、北京語で車站はchezhanであり、chもzhも舌を丸めてノドの奥の方に押し込む感じに発音するが、台湾の人はこれが苦手なようで、舌を上の歯の裏につけるように発音しているからチャザンと聞こえたようだ。同様に数字の十もshi→si、おいしい好吃もhaochi→haociという具合。ちなみに、偉そうに講釈してますが、私、中国語は苦手。旅行中、中途半端に中国語を使って、私は中国語が分るものと先方に思われてワヤワヤとまくしたてられ困ってしまったことが何回かある。基本はメモ用紙で筆談、あとは表情とジェスチャー。
・駅まで戻って、次の行き先である花蓮行き列車の切符を買い、発車時間を確認してから再び宜蘭市内を歩き始める。
・日本統治期に清代の城壁を崩して街路にしたらしく、市の中心部では円形を描くように道路が走っている。
・日本統治期の食糧検査所の建物→現在は土産物屋になっている。
・市役所・台湾銀行支行のあった辺りは道路がきれいに舗装され、歩道脇には宜蘭の歴史を紹介する表示板が設置されている。監獄歩哨塔や防空壕が残っている。Giran1_1
・防空壕は半地下の筒型、両方の出口の前にコンクリート壁でふさぐがっちりした形式。中には向かい合わせになって座るベンチが設けられている。このタイプの防空壕は台湾ではポピュラーだったのかもしれないが、日本では見たことがない。ここ宜蘭の役所街のほか、花蓮の旧駅、花蓮の日本人邸宅区域でも見かけた。特権階層たる日本人向けにがっちしりとした壕をつくったということなのかな。説明標を読むと、中国語では防空洞というようだ。
・戦前の役所が集まっていた区域には、現在、真新しいショッピングモールがそびえたち、スターバックス、モスバーガー、ミスタードーナツ、ダイソーなど日本でもおなじみのテナントが入っていて、日本の地方都市を歩いているような奇妙な錯覚に陥る。
・日本式家屋(戦前の農林高校校長官舎)を改造したレストランや、同様に宜蘭県庁庶務課長官舎をそのまま利用した音楽ホールなどがある。その横には清代の赤レンガ城壁が移築されている。
・宜蘭設治紀念館は宜蘭県長官舎を改修した建物内で宜蘭の歴史を紹介するパネル展示をしている。畳敷き。入口で犬がのどかに寝ていて、入る時に驚かせてしまった(ゴメンネ)。Giran2
・観光マップで監獄跡というのを見つけて探していたら、先ほどの大型ショッピングモールの横にあった。途中、日本式民家を見つけてそれもデジカメでパシャリ。
・戦前から続く酒工場。現在は台湾菸酒股份有限公司。建物は戦前からずっと使われている。中は見学可能で、展示室や土産物屋などもある。
・文昌宮。道教のお寺。入口の屋台でジャージ姿の高校生が昼飯を食っていた。宜蘭神社のご神体であった馬の銅像がこちらに祀られている。
・宜蘭站に戻る。戦前の駅附属倉庫群も古跡として保存されている。
・駅に戻ったのはギリギリのタイミング。駅弁を探す時間もなかったので、慌てて駅構内のセブンイレブンでミネラルウォーターとクリームパンだけ買った。列車に乗ったら、隣に座ったおばさんがセブンイレブンのおでんを食べていた。具入りのスープという感じの食べ方だった。ちなみに、台湾ではおでんを関東煮という。また、夜市の屋台で甜不辣(てんぷら)というのを見かけるが、さつまあげのような感じ。いずれも、呼び方が関西風というのが面白い。
・今回は行けなかったが、宜蘭平野には戦争中に空港があって、特攻隊も出撃したらしい。

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台湾旅行③ 5月某日 九份、平渓線、他

Kyufun1 ・バスに乗って九份の入口で下車。九份は金瓜石など近くの金鉱山の労働者などがもうけを散財した繁華街である。とりわけゴールドラッシュで賑わい、一時は小上海とか小香港とか呼ばれたという。侯孝賢監督の映画「悲情城市」の舞台となったことや、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」の風景のヒントとなったことで知られる。
・九份は台北から日帰りできる距離なので、台湾でも人気の観光地。台湾人観光客がひしめく中、時折日本語も聞こえてくる。
・昇平戯院という昔の映画館がある。侯孝賢監督「恋恋風塵」の看板画がかかっていて、なかなか風情を感じさせはするが、現在は使われていない。中は水溜りがあって不快な廃墟、前には台湾名物?スクーター違法駐車。台風で崩れかかってから、改修されないまま放っておかれているようだ。Kyufun2
・九份には軽食や土産物の店がひしめいており、それがここの見所とされている。夜市にしてもそうだが、台湾の人にとって観光地=屋台で買い食いというパターンが当然なのか。私は買い食いにあまり興味ないのでさっさと歩いていたら、30分もしないで通り抜けてしまった。
・こんなこと言うと申し訳ないが、正直、九份は私には期待はずれ。観光ガイドブックでは九份が主で金瓜石は時間があったらついでに行けという程度の扱いだが、歴史的経緯を考えれば、むしろ金瓜石が主で九份は従ではないか。
・帰りのバスはいつ来るのか分らなかったので、タクシーで瑞芳站に戻る。180元。
・瑞芳站で日本語ボランティアのOさんにまた会ったので少しお話をうかがった。途中、別のおじいさんが近寄ってきて、「やあ、やあ、Oさん、このあいだはどうもありがとう」と日本語で挨拶してからOさんと中国語で話し始めた。地元の人らしい。Oさんが私を指して日本人観光客だと紹介したら、「なに、あなた、日本人か? 私はむかし霞ヶ浦の海軍航空隊にいて…」とまくし立て始め、私があっけにとられているのも気にとめず、再びOさんと二言三言かわして、疾風のように去っていった。

・平渓線に乗るつもりだが、次の列車は15時過ぎ。1時間以上待たねばならない。時間があまったら、取りあえず街を歩く。
・平渓線は瑞芳始発の列車が、東南方向へ進み、三貂嶺で分岐するローカル路線。こちらの方向にも鉱山が点在していたので鉱石運搬用の路線だったのだろう。基隆河沿いの渓谷を走る。緑豊かで車窓に流れる風景が美しい。Heikei1
・十份站で途中下車。このあたりは、線路に迫るように商店街が並んでいる。たとえて言うと江ノ電の一部区間のような感じか。列車本数は少ないので、みんな平気で線路をまたいで歩いている。
・十份の名物は天燈。紙で作った小型の熱気球に願い事などを書いて空にとばす。他に台湾では有名な滝が近くにあるそうなのだが、時間がなかったのでそちらはパス。
・再び乗車して、終着駅の菁桐站まで行った。無人駅。駅舎は戦前のものを保存しながらそのまま利用している。
・線路はさらに延びている気配があるので、駅を出て、広い道路沿いに歩く。二坑というバス停を過ぎ、深い渓谷を道路が迂回するようにうねっている箇所に、使われていない橋脚を見つけた。かつてはこの先にも鉱山があったから、そちらの方までトロッコ列車が続いていたのだろう。Heikei2
・平渓線に乗って帰る。瑞芳まで片道1時間弱といったところか。車中、観光客のおばさんグループ三人(一人が観光マップを持っていた)と地元の一人で乗っていたおばさんとが話し始めた。さらに次の駅で野菜をかついたおばあさん二人組みが乗ってくると、その野菜をめぐって話題が広がり、観光客のおばさんがたけのこを買い、料理方法をめぐってみんなでにぎやかに議論していた。台湾の人は初めて会った人にも気軽に話しかける。横で見ていると最初から知り合いだったのではないかと錯覚してしまうくらいにフランクだ。たとえば、私が道で地図を広げていると、「どこに行くんだい」という感じに気軽に声をかけられたことも何度かあった。
・瑞芳站で自強号に乗り換えて台北に戻るつもりだが、乗り換えのタイミングが合わなくてまた1時間ほど待たねばならない。外に出て夜の瑞芳を歩く。屋台が出ている。美食街なる屋内式屋台街をブラブラ歩く。19:30頃発の自強号に乗車。台北到着は20時過ぎ。

・夜の台北市内を歩く。アメリカ総領事館だった建物をカフェや文化施設として再利用した台北之家へ行った。誠品書店城市之光店をひやかす。映画のDVDと美術書を中心とした品揃え。その隣は光.點台北というミニシアター。侯孝賢が理事長らしい。是枝裕和監督「歩いても歩いても」(台湾でのタイトルは「横山家之味」)を上映中だった。昨日、書店でノベライズの中国語訳が新刊棚に積んであるのを見かけ、こちらも買ってあった。
・京豊鼎で小籠包を平らげてから宿舎に戻る。テレビをつけたら、海峡交流基金会の江丙坤董事長が辞意を表明し、国民党幹部が必死になって慰留しているというニュースをやっていた。台湾のテレビ番組には字幕がつくので、中国語が聞き取れなくても便利。

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2009年5月12日 (火)

台湾旅行② 5月某日 金瓜石

・台北9:08発の自強号→瑞芳站で下車。ホームで売り子のおじさんが「べんとーーーう」と声を張り上げながら駅弁を売っていた。弁当は日本統治時代に入ってきた言葉だが、国民党政権の脱日本語政策が進められた際に、発音はそのまま、表記だけ変えて「便當」と記されるようになった。テイクアウトの食事を指す。街中の看板でよく見かける。
・瑞芳站の構内、日本語通訳という札のある机の前におじいさんが立っていた。金瓜石へ行くため、バス乗り場を尋ねた。見所を色々と教えてくれた。Oさんとおっしゃって、当年81歳。金瓜石に行くと言ったら、日本時代の家があって、それを復元した折に昔の居住者だった姉妹が久方ぶりに尋ねてきたという写真を見せてくれた。そのうちの一人はOさんの知り合いだという。中に入れるから是非行ってみなさいと勧められた。Kinkaseki1_2
・バスは観光客で一杯、台湾人・日本人が2:1くらいの割合か。九份でほとんどが下車したが、私はさらに金瓜石まで行く。日本人の若い女性二人組(ケバイ系)が降り遅れたらしく「どうしよう、どうしよう」と落ち着かない様子。後ろに座っていた地元の老人がその一人に日本語で教えてくれたらしく、「ねえ、ねえ、運転手さんに言えば大丈夫だってー」→不安げながらもキャピキャピした感じ。無事降りていったが、老人は、もともと無表情なのか、ああいうタイプに好感を持っていないのか、憮然とした表情のまま。
・九份を過ぎてから、坂道の勾配は一層急になる。蛇行する坂道を登りながら、海が見える。斜面には小さな家のようなものが密集している箇所があった。お墓のようだ。この風景は以前、「風を聴く〜台湾・九份物語〜」(→こちらを参照のこと)というドキュメンタリー映画で見て印象に残っていた。
・瑞芳站から20分ほどだろうか、黄金博物館前で下車。金瓜石はかつて金鉱山だったところ。日本統治時代にゴールドラッシュ、戦後も国民党政権の下で採掘は続けられたが、1970年代に閉山。たしか、呉念真監督の映画「多桑(トーサン)」(→こちらを参照のこと)の舞台はここのはずだ。博物館や坑道跡を含めた一帯は指定公園となっている。
・インフォメーションセンターで日本人観光客向けの解説ヘッドホンを借りる。無料、パスポートと引き換え。 Kinkaseki7
・入ってすぐ、四棟式の日本式家屋。金鉱山勤務の日本人職員用宿舎だった。駅前で会った通訳ボランティアのおじいさんからうかがったのがこの建物だ。道を挟んだ向い側の崖下には大きな日本式家屋。こちらは鉱山長の邸宅。
・環境館ではこの近辺の自然環境について展示。
・五番坑は別料金50元で坑道内に入れる。入口でヘルメットを渡されて装着。水がしたたる坑道にトロッコの線路が続いている。所々、坑夫の人形が配置され、採掘の様子を再現。小さい頃に行った足尾銅山を思い出した。Kinkaseki2_2
・五番坑を出たところ、山の上へと向う坂道が続いている。行く先は黄金神社。日本統治時代、日本人がつくった神社の跡である。急な石段をのぼる。鳥居や石灯籠が風雨にさらされてボロボロになりながらも残っている。参道を登り始めて10分くらいは経ったろうか、山の中腹、かつて神社の本殿があった場所に出る。支柱だったとおぼしき石柱が何本か立っている。金瓜石の町を見下ろし、その向こうに海が望める。石柱のすき間から海を見晴るかすと、何となく地中海岸ギリシアの神殿跡のような不思議な眺望。Kinkaseki3 Kinkaseki4
・黄金博物館。近辺の金鉱山の歴史や採掘方法などについて展示。ブラブラしていたら、日本人観光客から流暢な中国語で話しかけられてびっくり。
・観光コースから外れて海に向って脇道を歩く。斜面を削ってかつて軽便鉄道の線路が延びていた道。のどかな田舎道。タールのにおいが漂ってきて、なぜか懐かしい感じ。ちょうどお昼どき。道路工事のおじさん、おばさんが道端の木陰で弁当をつつきながら大声でおしゃべりしていた。脇を通り過ぎながら耳をすませた。私は中国語(北京語)の聞き取りはほとんど出来ないが、知っている基礎単語を拾いながら漠然とこれは中国語だなという見当くらいはつく。しかし、おじさん、おばさんたちのしゃべっているのはちょっと北京語とは違う感じ。これが閩南語かな。Kinkaseki5
・しばらく歩くと、公共駐車場の広場に出た。古砲台跡という標示板の前から階段道。あがると高台、海がよく見える。砲台があった痕跡はわからない。ここには金鉱山があったから、日本の守備隊がいたのか。本日、快晴。五月の台湾は気候も穏やか、歩き続けて汗ばんだ体を海から吹きつける風が通り抜け、何とも言えず心地よい。背後を振り返ると、老街の密集する盆地を挟んで、向かい側の山に金鉱山。このあたりは岩山だが、木々や草の緑ですっぽりと覆われて、青空とのコントラストがため息をつくほど美しい。なるほど、フォルモサ=美しい島だなあ、とつくづく実感した。
・駐車場広場に戻り、一般住居の並ぶ階段道を降りて、勧済宮という道教のお寺へ。この前の崖下にさらに街が広がっており、公園がある。そこを見下ろす場所に標示板。かつて日本軍が強制労働に動員した連合軍(米英豪)の捕虜収容所がこの公園にあったらしい。黄金博物館の説明で、彼ら捕虜をすべて殺害する計画があったが、日本の敗戦によって実行に移されなかったということを初めて知った。
・博物館近くへ戻る。売店で鉱夫弁当なるものを食べた。
・太子賓館は、皇太子の頃の昭和天皇がここを来訪する予定(結局、来なかったが)で建てられた迎賓館。Kinkaseki6
・それから、入口近くの四棟式日本式家屋の中を見学。瑞芳站で会ったおじいさんは、中に防空壕も掘られていたなんて最近になって初めて知ったよ、と語っていた。建物内で解説ボランティアをしている青年が日本語で丁寧に説明してくれた。この建物を復元した経緯について中で資料映像を見られるのだが、建材だけでなく地鎮祭・棟上式などもすべて日本式でとりおこなわれていた。日本統治時代も台湾史の1コマとして位置付ける意識がうかがえる。敗戦で日本人が去った後、この家屋には外省人が入居したが、彼らの生活様式を再現した一室もあった。

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台湾旅行① 5月某日 台北

・チャイナエアラインで現地時間12時過ぎに桃園国際空港着(どうでもいいが、チャン・ツーイー似のきれいなスチュワーデスさんがいて見とれてしまった)。
・台北站行きのバスに乗っていたら、高速道路を降りてすぐのところの警察署前に報道陣がたかっていた。夜、宿舎でテレビをつけたら、保母さんが預かっていた子供を殺して遺体を棄てたというニュースをやっていたから、この事件がらみかもしれない。
・宿舎に荷物を置いて外出したのが15時過ぎ→台北市内の寺院等をまわる。
・MRT圓山站で下車→大龍峒保安宮へ。道教のお寺で、保正大帝、天上聖母、関聖帝君など色々な神様が祭られている。建物はくまなくびっしりと歴史的なエピソードを示す装飾で埋め尽くされている。大正年間に建物が建てられたことを示すレリーフもあった。保正大帝祭なるお祭りが近々あるようだった。
・この近辺は宗教的な施設が集まっていて、孔子廟がすぐ近くにある他、「南無阿弥陀仏」という幟を立てて仏具を売っている店もあった。Taipei1_3
・圓山站前まで戻り、次は臨済護国禅寺へ。日本統治期に建立されたお寺。保安宮のゴテゴテ華やかな装飾とは異なり、木造のすっきりした堂宇。境内のはずれには小塔がひっそりと佇んでいるが、奉献者を示す「台北在住岐阜県出身~」という部分は削られていた(写真を参照)。裏手には古いお地蔵さんもあった。
・MRTに乗って西門站で下車。この一帯は若者が闊歩する繁華街で、東京でたとえると原宿・渋谷のような雰囲気。
・西門紅楼は戦前に市場として作られた建物。現在は古跡として保存されており、1階は展示スペース+カフェ、2階は小劇場として利用されている。展示スペースでは台北の歴史に絡めて西門紅楼の成り立ちを紹介、古い道具類や説明パネルが置かれていた。ブリキの看板(たとえば、森永ミルク、資生堂化粧品、仁丹、蜂ブドー酒など)がレトロでいい感じ。日本統治期もひっくるめて台北の歴史として捉え、当時の雰囲気に台北市民もレトロ趣味を感じているようだ。Taipei2_2 Taipei3_2
・歩いて5分くらいのところに天后宮。道教のお寺で保安宮と同様に色々な神様が祭られているが、その中に弘法大師も混じっているのが面白い。日本由来のものでも平気で取り込んでしまう。シンクレティズムの根強さ。
・今回は足を運ばなかったが、近くには他に西本願寺別院跡が公園として保存されている。また、西門町の繁華街にはかつて東本願寺別院もあったが、戦後は国民党の特務が接収、さらに取り壊されて跡地はデパートになっている。
・暗くなってから、MRT市政府站で下車、信義新天地へ。
・台北101の4階にあるページワンに行く。シンガポール資本の書店。店舗面積はそこそこの広さで店内はきれい。ただ、夜8:00頃だったが、客はそれほど入ってはいなかった。2冊ほど買った。
・この4階はレストラン・フロア。なぜか日系のお店が多かった。中国語の呼び込みを無視したら、日本語で声をかけられた。中国語が分らない→日本人観光客とみなされたのか。私のすぐ後ろを地元の若者グループが歩いていたのだが、彼らに向っても日本語で呼び込みをしていた。
・次に、誠品書店信義旗艦店。ここは私のお気に入りで、台北を訪れるたびに必ず寄る(→こちらを参照のこと)。ここでも何冊か買い込んだ。

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2009年5月10日 (日)

福沢諭吉『学問のすゝめ』

福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、改版1978年)

 英語のrightという言葉を辞書で引くと、「正しさ」「権利」などの意味がある。「権利」という意味をピックアップすると、対義語的に「義務」という言葉とペアとして捉え、「権利」は個人の要求を正当化する根拠、「義務」は公との関係性、通俗的にはそのようなイメージがあるように思う。しかし、本来、right=“正しさ”の感覚の中で「権利」も「義務」も混然一体不可分のものであって、「権利」と「義務」と概念を区分けするのはあくまでも説明上の便宜に過ぎないのではないか。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』でrightに「権理通義」という訳語をあてている。4字は長いので「権理」「権義」など2字に縮めた箇所もあるが、「権利」という表現は見当たらない。

「人の生るるは天の然らしむるところにて人力に非ず。この人々互いに相敬愛して各々その職分を尽し互いに相妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にして共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。」「故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富強弱智愚の差あること甚だしく、或いは大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、或いは人足とて裏店に借屋して今日の衣食に差支うる者もあり、或いは才知逞しうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、或いは智恵分別なくして生涯飴やおこしを売る者もあり、或いは強き相撲取あり、或いは弱き御姫様あり、いわゆる雲と泥との相違なれども、また一方より見て、その人々持前の権理通義をもって論ずるときは、如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、何らの事あるも人力をもってこれを害すべからず。」

 人は生まれ落ちた立場境遇も、持って生まれた才覚も異なるかもしれない。しかし、人それぞれ持前の天分に応じて、自分のなすべき職分を果たすべきだし、また、その職分を果たそうにも、いわれのない圧迫を受けたときには敢然と立ち向かうこと、それが福沢の考える個人主義である。ある種の“正しさ”=道理の感覚の中に自身を位置付けたとき、自分のなすべきと思うこと(それは人それぞれだが、「したい」というのとはニュアンスが異なる)を誰から何と言われようともなすべきなのは当然のことで、その際に能動的には「権利」、受動的には「義務」と概念整理できるという程度の違いに過ぎない。

(※「義務」→「天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人なる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。」→「自由は不自由の際に存す」という『文明論之概略』の言葉と通ずる)

・「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」
・「天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」
・「天理人情にさえ叶う事ならば、一命をも抛て争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すなり。」「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。」
・「道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり。」
・「正理を守って身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘めらるるも、その苦痛を忍びて我志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。」
(※「マルチルドム」martyrdom→「痩我慢の説」と通ずる→萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神──福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む』を参照のこと)

 天賦人権説、「一身独立して一国独立す」、「痩我慢」、これら福沢の著作に見られるキーワードはright=「権理通義」という考え方を媒介としてすべて一つにつながっている。

 言論の自由を強調した箇所では、「古今に暗殺の例少なからずと雖ども、余常に言えることあり、もし好機会ありてその殺すものと殺さるる者とをして数日の間同処に置き、互いに隠すところなくしてその実の心情を吐かしむることあらば、如何なる讐敵にても必ず相和するのみならず、或いは無二の朋友たることもあるべしと。」と記している。ここにも、本当に道理のある意見であれば、立場の違いを超えて理解しあえるはずだという福沢の確信がうかがえる。

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2009年5月 4日 (月)

『イラストレーション』No.177(2009年5月号)

 書店をふらついていたら、『イラストレーション』No.177(2009年5月号)の表紙が目についた。黒い色調をベースに、ぼやーっとした輪郭。酒井駒子さんの絵だ(→これ)。パラパラめくると「個人特集 酒井駒子 私と絵本と黒と」。買った。今回は前編で、後編は次号らしい。

 前にも書いたけど(→『酒井駒子 小さな世界』)、私は酒井さんの絵のファン。書店の新刊棚で彼女の装丁した本が目に入ると、(買うかどうかは別にして)必ず手に取る。人物やキャラクターを描く輪郭の線はやわらかく、ほのかな叙情を感じさせるんだけど、黒の色調が雰囲気をひきしめてあまったるさに流れない、その独特なところが何とも言えない。まとまった画集はないので、雑誌でこうした特集が組まれていたらこまめに買っている。

 インタビューでは、最初から黒をねらったわけではない、と語る。白をベースにすると黒の出方が汚くなったので、逆に黒をベースにしたらやりやすかったからという。黒を使い始めて、そうか、自分は黒が好きなんだなあ、と後から気付いたらしい。

 ついでに図書館に寄って、『くさはら』(福音館書店、2008年)、『ビロードのうさぎ』(ブロンズ新社、2007年)を借りて眺めた。

 もうひとつ、「嶽本野ばらが選んだ装画/挿絵50」も面白い(嶽本野ばらって確か大麻で逮捕されたはずだが、いつの間にか復活してる)。テニエルのアリス、中原淳一、高橋真琴、アルフォンス・ミュシャといったあたりはいかにも嶽本らしいと思いつつ、角川文庫・横溝正史シリーズの杉本一文、春陽堂・江戸川乱歩シリーズの多賀新といったあたりは私も気になる。写真で取り上げられている乱歩の『偉大なる夢』は戦時下に書かれた大いなる駄作(笑) それはともかく、胡散臭い感じがいいなあ。

 それから、山口晃も気になっている。今回載っているのはサラッとおとなしめの絵。あの緻密だけど微妙にキッチュな時代絵?みたいな大作はついつい見入ってしまう。

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2009年5月 3日 (日)

五十嵐真子・三尾裕子編『戦後台湾における〈日本〉──植民地経験の連続・変貌・利用』

五十嵐真子・三尾裕子編『戦後台湾における〈日本〉──植民地経験の連続・変貌・利用』(風響社、2006年)

 以前、台北の二二八紀念館を訪れたとき、ガイドをしてくださった日本語世代の老人から日本への親しみを語られて、どのように受け止めたらいいのか戸惑ってしまったことがある。否定するのも肯定するのも、どちらも不自然だというもどかしさを感じた。

 本書は台湾における日本認識をテーマとした日台国際ワークショップの研究成果をまとめた論文集。日本統治期世代の高齢者へのインタビューを踏まえた歴史学もしくは文化人類学の論考が中心。日本語世代の台湾人の親日感情の背景としては、日本人教師や警官が概ね公正であったこと、戦後の国民党政権があまりにもひどかったため、そのイメージ的反転として日本統治期への郷愁が強まったことなども考えられるが、本書を読むと、そう簡単には一般化できない様々な事情が絡まりあっていることがうかがえる。

 植民地統治において日本人絶対優位の階層構造。その中で、台湾人に対する偏見に対抗しながら社会的ステータスの上昇を目指して日本的なものを受容したケースが目立つ。たとえば、高等女学校で身に着けた礼儀作法。あるいは、志願兵(実際には必ずしも自発的ではなかったようだ)→選ばれた台湾人は優秀だが、徴兵された日本人にはバカも多い→横並びの軍隊生活の中で理想化された“日本人”イメージとは異なることに気付いたというケースが興味深い。また、原住民や客家→共通語として日本語を用いただけでなく、福佬系からの差別→反転して日本的なものへ積極的にコミットする傾向もあったらしい。同じ日本語を話すにしても、高学歴者は日本語のレベルで公学校(台湾人向け小学校)出身者とは違うという自覚→ステータスの差異化という指摘もあった。朝鮮半島出身者は日本語を話したがらない→日本>台湾>朝鮮半島という序列化意識を持つケースもあったらしい。日本語を媒介して近代文明を受容→最新技術の吸収手段。また、文化的教養、とりわけ自己表現手段として日本語を用いるケースもあった。

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五十嵐真子『現代台湾宗教の諸相──台湾漢族に関する文化人類学的研究』、尾崎保子『保生大帝──台北大龍峒保安宮の世界』

五十嵐真子『現代台湾宗教の諸相──台湾漢族に関する文化人類学的研究』(人文書院、2006年)

 戦後台湾における宗教現象についての研究書。民俗宗教というのは、儒・仏・道教のように一定の教義体系を持って制度化された宗教も混ざり合いながら、(ご利益宗教と言ってしまうと語弊があるかもしれないが)生活的・社会的な困難の解決もしくは理解に資する信仰世界と言えるだろうか。信仰世界と現実の社会関係との関わり方(たとえば風水など)を内在的ロジックに応じて把握していくのが文化人類学だが、そこに見られる世界観はもちろん閉じた体系ではない。たとえば、本書で取り上げられる王母娘娘信仰は大陸起源→中華文明の正統性という政治的言説と必ずしも無縁ではないという。また、日本は台湾に明確な宗教的影響を残したわけではないが(たとえば欧米→キリスト教というような)、布教方法や組織原理の面では日本仏教の借用が見られるらしい。漢族社会は父系の血縁組織とされるが、宗教現象では女性の役割が大きいというのも興味深い。

尾崎保子『保生大帝──台北大龍峒保安宮の世界』(春風社、2007年)

 保生大帝とは唐もしくは宋代の名医に由来する神様らしい(台湾で祭られている神様は寺廟数の順番で言うと、王爺、観音仏祖、釈迦仏、天上聖母=媽祖、福徳正神=土地公、玄天上帝、関聖帝君=関羽、保生大帝などがある。上掲五十嵐書を参照)。台北にある大龍峒保安宮の装飾画を紹介。『史記』や『三国志』のエピソードが多い。

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2009年5月 2日 (土)

中川仁『戦後台湾の言語政策──北京語同化政策と多言語主義』

中川仁『戦後台湾の言語政策──北京語同化政策と多言語主義』(東方書店、2009年)

 台湾はすぐお隣であるにもかかわらず日本ではあまり認識されていないが、台湾社会の第一の特徴として、原住民諸言語、閩南語(狭義の台湾語)、客家語、外省人の中国語(第一世代は出身地別に大陸各地の方言を話した)、残留日本語(本省人・原住民の高齢者のみ)によって織り成された多言語状況が挙げられる。宗主国による政治統合のため、戦前は日本語が、戦後は国民党政権によって“国語”(=北京語)が強制された(日本も国民党も方言札を用いたという類似性が目を引く)。本書は戦後台湾における言語政策を整理し、北京語による同化主義から現在の多言語主義への変遷を概観する。

 日本語話者の存在から台湾の親日的傾向を強調する向きもあるが、二二八事件・白色テロなど国民党による弾圧政策→北京語への反感→当時の台湾人は対抗意識として意図的に日本語を使用したという心理的契機が働いていた点を見逃してはならない。台湾ナショナリズムは、日本語でも北京語でもなく、自分たちの生活に馴染んだ母語を如何に確立させるかという問題意識と密接に結びついた。日本に亡命して台湾語(閩南語)の言語学的研究の先駆者となった王育徳を取り上げているのも本書の特色である。

 近代国家においては程度の差こそあれ、領域内におけるコミュニケーション手段として単一言語による同質化が目指される(史上初めて国民国家を登場させたフランス革命が、フランス語によって方言の抑圧へと向かったことは周知の通り→たとえば、田中克彦『ことばと国家』を参照のこと)。多言語主義とは原理的に衝突せざるを得ない。

 戦後台湾においては半世紀にわたる“国語”(=北京語)教育のため、これが共通語としての実質を持ち、かつ正書法の体系化された唯一の言語である。ただし、台湾で用いられている北京語は発音や語彙の面で台湾独自の特徴を帯びている(児er化の欠如、zhi・chi・shi・riの捲舌音とzi・ci・siの舌歯音との混同など)。これを“台北標準国語”、つまり台湾の共通語として制定した上で(見方を変えれば、中国語文化圏に属すると同時に、大陸とは一定の距離をとる台湾アイデンティティーにつながる)、他の諸語の地位向上によって共存を図るという本書の提案が現実的な落とし所と言えるだろう。

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2009年5月 1日 (金)

ニーチェ『善悪の彼岸』

ニーチェ(中山元訳)『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫、2009年)

 書店の新刊売場に積んであるのを見かけて衝動買いしてしまった。木場深定訳の岩波文庫版、信太正三訳のちくま学芸文庫版とも持っているのだが、ニーチェ好きなんで気になる。以下、適当に抜き書き。

・思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではない。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉(エス)が考えるのである。(※エスes→フロイトの議論を想起させる)

・「意志の自由」と呼ばれるものは本質において、服従を強いられる者に対する優越感の情動なのである。「わたしは自由である。しかし〈彼〉は服従しなければならない」というわけだ。──すべての意志にはこの意識がひそんでいるのだ。

・生そのものは本質において、他者や弱者をわがものとして、傷つけ、制圧することである。抑圧すること、過酷になることであり、自分の形式を[他者に]強要することであり、[他者を]自己に同化させることであり、少なくとも、穏やかに表現しても、他者を搾取することである。

・同じ書物であっても、低き魂が、低劣な生命力の人が読むか、それとも高き魂が、強い生命力の人が読むかで、魂と健康に正反対の価値をもたらすことがあるのだ。低き魂の場合には、その書物は魂と健康にとって危険で、破壊と解体をもたらす書物となる。高き魂の場合には、その書物はもっとも勇敢な人々に、みずからの勇敢さをさらに高めさせる伝令の叫びとなる。万人向きの書物とは、つねに悪臭を放つものだ。矮人のような臭気がこびりついているのだ。大衆が飲み食いする場所は臭う。礼拝をする場所までがそうである。きれいな空気を吸いたいときには、教会に入ってはならない。

・真理が仮象よりも高い価値があると考えることは、もはや道徳的な先入観にすぎない。それはこの世のうちでもっとも根拠のない仮説にすぎない。わたしが認めてほしいと考えているのは、すべての生が遠近法に基づいた評価や仮象に依拠しているということである。…そもそも「真なるもの」と「偽なるもの」という本質的な対立が存在することを、わたしたちに想定させるものは何なのだろうか? 仮象にはさまざまな段階があると想定するだけで十分ではないか。仮象にはあるところは明るく、あるところは暗い影があり、全体の調子があると考えるだけで──画家の言葉では異なる色調があると考えるだけで、十分ではないか? わたしたちに何らかのかかわりのあるこの世界が、──虚構であってならないわけがあるだろうか?

・誤って「自由な精神」と呼ばれている者は、要するに厳しく言えば水平化する者たちなのである。──民主主義的な趣味とその「近代的理念」とかいうものに仕える、能弁で筆の立つ奴隷にほかならないのである。どれもこれも孤独を知らぬ人間であり、みずからの孤独を知らぬ人間であり、愚かで健気が若者たちである。勇気やまともな礼儀を知らぬわけではないとしても、自由というものを知らず、笑いたくなるほどに表面的な人間なのだ。こうした人々にみられる根本的な傾向は、人間のすべての悲惨と失敗の原因が、おおむねこれまでのさまざまな形式の古き社会のうちにあると考える傾向である。こうして、真理が幸いにも逆立ちすることになる!
 彼らが全力を尽して手にいれようとしているすべてのものは、あらゆる家畜の群れが望む緑の牧場である。すなわちすべての人が安全で、危険がなく、快適に、そして安楽に暮らせることである。彼らが朗々と歌いあげる歌と教説は二つだけ、「権利の平等」と「すべての苦しめる者たちへの同情」である。──そして彼らのうちから苦悩そのものが除去されねばならないと考えているのである。
 彼らと反対にわたしたちは、人間が高みに成長するのはつねに、これとは反対の条件のもとであったと考えてきたのである。そして、そのために必要なのは、人間の状況が法外なまでに危険なものとなることであり、長きにわたる圧力と強制のために人間の独創力と偽装力が(人間の「精神」のことだ──)、巧みに、大胆なまでに発達し、生の意志が無条件の力への意志にまで高まることだと考えてきたのである。

・…道徳の呪縛と妄想に捉えられてではなく、善悪の彼岸において──、そのような人間であれば、そうした営みによってほんらい望んでいたことでなかったとしても、逆の理想への眼が開かれたことだろう。そしてもっとも不遜で、生命力にあふれ、世界を肯定する人間がもつ理想への眼が開かれたことだろう。こうした人間は、かつて存在し、今も存在するものと和解し、耐えていくことを学んだだけでなく、なおそれを、かつてそうであり、今もそうであるように、繰り返し所有したいと欲するのである。しかも自分に向かってだけでなく、この人生のあらゆる劇と芝居に向かって、永遠にわたって飽くことなく、もう一度(ダ・カーポ)と叫びながらである。

・道徳的な判断を下すこと、判決を下すこと、それは精神的な狭さをもつ人間が、そうでない人々に加える復讐、お気に入りの復讐である。

・奴隷の道徳は本質的に有用性の道徳である。ここに「善」と「悪」の有名な対立を生み出す根源がある。

・快楽主義であろうが、ペシミズムであろうが、功利主義であろうが、幸福主義であろうが、これらはすべて、快楽と苦痛によって事物の価値を測ろうとする思考方法である。すなわち、事物の価値をその随伴的な状態や副次的なものによって測ろうとし、前景だけを重視する素朴な思考方法なのである。…君たちはできるならば──これほど愚劣な「できるなら」もないものだが──苦悩というものをなくしたいと望んでいる。それではわたしたちが望むのは何か?──わたしたちが望むのは、むしろこれまでになかったほどに苦悩を強く、辛いものにすることだ! 君たちが考えるような無事息災というものは、──それは目的などではない、それはわたしたちには終わりのように思えるのだ! 人間がたちまち笑うべき存在、軽蔑すべき存在となり変わる状態である!

・認識する者は、自分の精神の傾向に逆らって、またしばしば自分の心の願望に逆らってでも認識することを自分の精神に強いるのである──すなわち、彼が肯定し、愛し、崇拝したいと思うときに、ノーと言うことを強いるのであり、そのときに認識者は、残酷さの芸術家として、残酷さを浄化する者としてふるまっているのである。すべてものごとを深く、そして根本的につきつめるということは、精神の根本的な意志に暴力をふるうことであり、虐待しようと望むことである。精神は絶えず仮象へと、表面へと向かうことを望むものなのだ。──認識しようとするすべての意志のうちには、わずかな残酷さが含まれているのだ。

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