台湾旅行② 5月某日 金瓜石
・台北9:08発の自強号→瑞芳站で下車。ホームで売り子のおじさんが「べんとーーーう」と声を張り上げながら駅弁を売っていた。弁当は日本統治時代に入ってきた言葉だが、国民党政権の脱日本語政策が進められた際に、発音はそのまま、表記だけ変えて「便當」と記されるようになった。テイクアウトの食事を指す。街中の看板でよく見かける。
・瑞芳站の構内、日本語通訳という札のある机の前におじいさんが立っていた。金瓜石へ行くため、バス乗り場を尋ねた。見所を色々と教えてくれた。Oさんとおっしゃって、当年81歳。金瓜石に行くと言ったら、日本時代の家があって、それを復元した折に昔の居住者だった姉妹が久方ぶりに尋ねてきたという写真を見せてくれた。そのうちの一人はOさんの知り合いだという。中に入れるから是非行ってみなさいと勧められた。
・バスは観光客で一杯、台湾人・日本人が2:1くらいの割合か。九份でほとんどが下車したが、私はさらに金瓜石まで行く。日本人の若い女性二人組(ケバイ系)が降り遅れたらしく「どうしよう、どうしよう」と落ち着かない様子。後ろに座っていた地元の老人がその一人に日本語で教えてくれたらしく、「ねえ、ねえ、運転手さんに言えば大丈夫だってー」→不安げながらもキャピキャピした感じ。無事降りていったが、老人は、もともと無表情なのか、ああいうタイプに好感を持っていないのか、憮然とした表情のまま。
・九份を過ぎてから、坂道の勾配は一層急になる。蛇行する坂道を登りながら、海が見える。斜面には小さな家のようなものが密集している箇所があった。お墓のようだ。この風景は以前、「風を聴く〜台湾・九份物語〜」(→こちらを参照のこと)というドキュメンタリー映画で見て印象に残っていた。
・瑞芳站から20分ほどだろうか、黄金博物館前で下車。金瓜石はかつて金鉱山だったところ。日本統治時代にゴールドラッシュ、戦後も国民党政権の下で採掘は続けられたが、1970年代に閉山。たしか、呉念真監督の映画「多桑(トーサン)」(→こちらを参照のこと)の舞台はここのはずだ。博物館や坑道跡を含めた一帯は指定公園となっている。
・インフォメーションセンターで日本人観光客向けの解説ヘッドホンを借りる。無料、パスポートと引き換え。
・入ってすぐ、四棟式の日本式家屋。金鉱山勤務の日本人職員用宿舎だった。駅前で会った通訳ボランティアのおじいさんからうかがったのがこの建物だ。道を挟んだ向い側の崖下には大きな日本式家屋。こちらは鉱山長の邸宅。
・環境館ではこの近辺の自然環境について展示。
・五番坑は別料金50元で坑道内に入れる。入口でヘルメットを渡されて装着。水がしたたる坑道にトロッコの線路が続いている。所々、坑夫の人形が配置され、採掘の様子を再現。小さい頃に行った足尾銅山を思い出した。
・五番坑を出たところ、山の上へと向う坂道が続いている。行く先は黄金神社。日本統治時代、日本人がつくった神社の跡である。急な石段をのぼる。鳥居や石灯籠が風雨にさらされてボロボロになりながらも残っている。参道を登り始めて10分くらいは経ったろうか、山の中腹、かつて神社の本殿があった場所に出る。支柱だったとおぼしき石柱が何本か立っている。金瓜石の町を見下ろし、その向こうに海が望める。石柱のすき間から海を見晴るかすと、何となく地中海岸ギリシアの神殿跡のような不思議な眺望。
・黄金博物館。近辺の金鉱山の歴史や採掘方法などについて展示。ブラブラしていたら、日本人観光客から流暢な中国語で話しかけられてびっくり。
・観光コースから外れて海に向って脇道を歩く。斜面を削ってかつて軽便鉄道の線路が延びていた道。のどかな田舎道。タールのにおいが漂ってきて、なぜか懐かしい感じ。ちょうどお昼どき。道路工事のおじさん、おばさんが道端の木陰で弁当をつつきながら大声でおしゃべりしていた。脇を通り過ぎながら耳をすませた。私は中国語(北京語)の聞き取りはほとんど出来ないが、知っている基礎単語を拾いながら漠然とこれは中国語だなという見当くらいはつく。しかし、おじさん、おばさんたちのしゃべっているのはちょっと北京語とは違う感じ。これが閩南語かな。
・しばらく歩くと、公共駐車場の広場に出た。古砲台跡という標示板の前から階段道。あがると高台、海がよく見える。砲台があった痕跡はわからない。ここには金鉱山があったから、日本の守備隊がいたのか。本日、快晴。五月の台湾は気候も穏やか、歩き続けて汗ばんだ体を海から吹きつける風が通り抜け、何とも言えず心地よい。背後を振り返ると、老街の密集する盆地を挟んで、向かい側の山に金鉱山。このあたりは岩山だが、木々や草の緑ですっぽりと覆われて、青空とのコントラストがため息をつくほど美しい。なるほど、フォルモサ=美しい島だなあ、とつくづく実感した。
・駐車場広場に戻り、一般住居の並ぶ階段道を降りて、勧済宮という道教のお寺へ。この前の崖下にさらに街が広がっており、公園がある。そこを見下ろす場所に標示板。かつて日本軍が強制労働に動員した連合軍(米英豪)の捕虜収容所がこの公園にあったらしい。黄金博物館の説明で、彼ら捕虜をすべて殺害する計画があったが、日本の敗戦によって実行に移されなかったということを初めて知った。
・博物館近くへ戻る。売店で鉱夫弁当なるものを食べた。
・太子賓館は、皇太子の頃の昭和天皇がここを来訪する予定(結局、来なかったが)で建てられた迎賓館。
・それから、入口近くの四棟式日本式家屋の中を見学。瑞芳站で会ったおじいさんは、中に防空壕も掘られていたなんて最近になって初めて知ったよ、と語っていた。建物内で解説ボランティアをしている青年が日本語で丁寧に説明してくれた。この建物を復元した経緯について中で資料映像を見られるのだが、建材だけでなく地鎮祭・棟上式などもすべて日本式でとりおこなわれていた。日本統治時代も台湾史の1コマとして位置付ける意識がうかがえる。敗戦で日本人が去った後、この家屋には外省人が入居したが、彼らの生活様式を再現した一室もあった。
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