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2009年4月27日 (月)

マックス・ヴェーバー『宗教社会学論選』

マックス・ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』(みすず書房1972年)から抜き書き。なお、有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も本来は『宗教社会学論集』全三巻の中の一篇であり、以下にはその勘所ともいえる箇所もある。

◆「宗教社会学論集 序言」から
・「無制限の営利欲は決して資本主義と同じではないし、ましてや、資本主義の「精神」と同じではない。資本主義は、むしろ、そうした非合理的な衝動の抑制、少なくともその合理的な調節とまさしく同一視さるべきばあいさえありうるのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 序論」から
・「…現実の合理化過程のなかに介入してくる非合理的なものは、現世の姿から超現実的な価値がはぎとられていけばいくほど、そうした価値の所有を希求する知性主義の押さえがたい要求がますますそこへ立ち帰っていかざるをえない故郷得あった。統一的な原始的世界像のなかでは、すべてが具体的な呪術であるが、そうしたものはやがて、一方では合理的認識および合理的な自然支配へ、他方では「神秘的」な体験へという分裂の傾向を示すようになる。そして、この「神秘的」な体験のもつ言語につくしがたい内容が、神の存在しない現世のメカニズムと並立しつつ、なおも可能な唯一の彼岸として、しかも事実、そこでは個々人が神とともにいてすでに救済〔の状態〕を自己のものとしているような、そういう現世の背面に存在する捉えがたい国土として、残ることとなったのである。この結論をどこまでも押しつめていくと、個々人はみずからの救済をただ個人としてのみ求めうることになる。」

・「現世を呪術から解放することおよび、救済への道を瞑想的な「現世逃避」から行動的・禁欲的な「現世改造」へと切りかえること、この二つが残りなく達成されたのは──全世界に見出される若干の小規模な合理主義的な信団を度外視するならば──ただ西洋の禁欲的プロテスタンティズムにおける教会および信団の壮大な形成のばあいだけであった。」「宗教的達人が神の「道具」として現世に入りこみ、しかも、彼らからはあらゆる呪術的な救済手段がとり去られていて、そのために、現世の秩序の内部における自己の行為が倫理的にすぐれていることで、いや、それだけで、自分自身がすでに召されて救済の状態にあることを神の前に──つまり、事実に即していえば、自分自身の前に──「証し」しなければならぬ、そういったばあいには、「現世」そのものは、被造物的でありまた罪の容器であるとして宗教的に価値を低められ拒否されてはいるとしても、心理的には、そのことによってかえって、現世における「召命」Beruf〔すなわち、使命としての世俗的職業〕というかたちで神の欲したもう活動をおこなう、そのような舞台としてますます肯定されることになるだけであったろう。というのは、このような現世〔世俗〕内的禁欲主義は、威厳や美とか、美しい陶酔や夢とか、純世俗的な権力や純世俗的な英雄的矜持とかいった諸財を、神の国と競いあうものとして蔑視し追放してしまうという意味では、たしかに現世拒否的であるが、しかし、まさにそのゆえに、瞑想のように現世逃避的ではなくて、神の命令にしたがって現世を倫理的に合理化しようとし、したがってつねに、たとえば古代〔人〕やカトリック平信徒のあいだに見られるような砕かれていない〔生のままの〕人間性の素朴な「現世肯定」よりは、いっそう透徹した意味において、現世指向的であった。まさに日常生活のなかで、宗教的に資質ある者への恩恵と撰びが証明され〔るとし〕たのである。もちろん、日常生活のなかでといっても、それはあるがままのものではなくて、神への奉仕のために方法的に合理化された日常生活の行為においてなのであった。合理的な召命〔すなわち、使命としての職業〕にまで高められた日常生活の行為が、救済の状態にあることの証明となったのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 中間考察」から
・神秘家と現世内的禁欲との対比→「…現世内的禁欲は…行為を通じて自己の救いの確証をえようとする。現世内的禁欲は…神の意図を──究極の意味は隠されてはいるが、聖意にしたがう被造物の合理的秩序のなかに現存している、そうした神の意図を実行しようとする。」

・「合理的な経済は、事象的な性質をおびた経営Betriebであって、市場での人間相互の利害闘争のなかから生まれてくる貨幣価格に目標を合わせることになる。貨幣価格というかたちの評価なしには、つまり、そうした利害闘争なしには、どのような計算も不可能だからである。ところで貨幣は、人間生活のなかにみられるもっとも抽象的で、「無人間的な」ものである。そのため、近代の合理的資本主義における経済の秩序は、それに内在する固有な法則性にしたがって動くようになればなるほど、およそ宗教的な同胞倫理とはいかなる関係ももちえないようなものになってくる。しかも、資本主義の経済秩序が合理的に、だから無人間的になっていけばいくほど、ますますそうならざるをえない。というのは、主人と奴隷のあいだの人間的な関係は、人間的な関係であるからこそ、余すところなく倫理的に規制することもできた。が、つぎつぎに変る不動産抵当証券の所有者と、同じようにつぎつぎに変る、だから彼らのまったく知らぬ不動産銀行の債務者との関係は、そのあいだになんらの人間的紐帯も存在しないから、それを──少なくともさきの関係と同じような意味で、また同じような成果を予期して──規制することは不可能となる。にも拘わらず、あえて規制を試みようとすれば…形式的合理性の進展を妨げることになるほかはない。なぜなら、このようなばあいには、形式的合理性と実質的合理性が互いに衝突し合うことになるからである。だからこそ、救いの宗教は…無人間的な、そして、まさにそれゆえに、とりわけ同胞倫理に対して敵対関係に立つことになるような経済的諸力の展開に対して、つねに強い不信の目を向けることになったのである。」

・「宗教と経済のあいだに見られるこうした緊張関係を原理的にかつ内面的に避けてとおる道で、首尾一貫したものは、ただ二つしか存在しなかった。その一つは、ピュウリタニズムにおける召命〔職業〕倫理のパラドックスである。これは、達人的宗教意識として、愛の普遍主義を放棄してしまうもので、現世における一切の活動をば神の聖意──その究極の意味はわれわれの理解に絶しているが、とにかく見ゆべきかたちで認識可能な神の聖意──への奉仕、また、恩恵の身分にあることの検証として合理的に事象化し、さらに進んで、現世のすべてのものとともに被造物的な堕落の状態にあるために無価値だと考えられている経済的秩序界の事象化をも、神の聖意にかなうもの、義務達成のための素材として承認した。それは究極において、根拠を知りえず、しかもつねに特殊的でしかありえないような恩恵のために、人間すべてにとって自力で到達可能な目標たりうる、そうした救いをば原理的に放棄してしまうことに他ならなかった。こうした反同胞倫理的な立場は、真実のところ、もはや本来の「救いの宗教」ではないであろう。」

・「官僚制的国家機関やそれに組み込まれている合理的な政治人は、不正の処罰をも含むその事務を国家の権力的秩序における合理的諸規則の完璧な意味にしたがって処理していくが、まさしくそうしたばあいには、経済人のばあいと同様即事象的に、つまり「人間を顧慮することなく」、「怒りも執念もなく」、憎しみも、したがって愛情もなしに事務をとりおこなう。」「政治が「即事象的」で打算的なものとなればなるほど、また激情、憤怒、愛情などを欠いたものとなればなるほど、およそ政治は、宗教的合理化の立場からすれば、ますます同胞倫理とは無縁なものと考えるほかはなくなってくるのである。」

・「合理的行為は、経済においても政治においても、それぞれの領域の自己法則性にしたがうものであるように、現世内部における他の合理的行為も、同胞関係とはおよそ無縁な現世的諸条件をば不可避的に自己の行為の手段ないし目標とするほかはないために、どのばあいにも、同胞倫理に対してなんらかの緊張関係に立つことになる。ところが、そうした合理的行為自体がまた、自己の内部に深刻な緊張関係をはらんでいる。〔というのは、こういうことである。〕合理的行為それ自体には、個々のばあいにおける行為の倫理的価値が何によって決められるべきか、成果によってか、それともその行為自体の──なんらかの倫理的規定をもつ──固有な価値によってか、そうした原初的な問題をさえ判定する手段があたえられていない。」

・「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」

・「…「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、「天職」〔「召命」〕Berufとされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目標のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命におちいらざるをえないのである。」「このような現世の価値喪失は、合理的な要求と現実との、また合理的な倫理と一部合理的で一部非合理的な諸価値との衝突の結果であり、しかもこの衝突は、現世に姿を現わしてくるすべての個別諸領域の独自な特性をそれぞれにきわ立たせることによってますます激化し、また解決不可能なものとなっていく。」「現世の「意味」に関する思索が組織的となり、現世の外的な組織が合理化され、またその非合理的内容の自覚的体験が昇華されたものとなればなるほど、宗教的なるものの独自な内容は、それとまったく並行して、ますます非現世的な性質をおび、あらゆる生の形あるものとはおよそ無縁なものになりはじめる。そして、こうした道を切り拓いたのは、現世を呪術から解放する理論的思考の力だけではなくて、まさしく現世を実践的・倫理的に合理化しようとする宗教倫理の努力にほかならなかった。」

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