花田清輝『アヴァンギャルド芸術』
花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(講談社文芸文庫、1994年)
「仮面の表情」から抜書き。日本的なるもの、西洋的なるもの。自分自身にとってしっくりくる仮面はどこにある?
「…わたしたちのほんとうの顔は、わたしたちが、おのれ以外のものに変貌しようと努め、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけることによって、むしろ、はっきりするはずであった。そのための仮面である。」「戦争中、日本主義者の繰返していたように、もしも日本的なものと西洋的なものとが、完全に対立するものなあ、日本的なものの姿は、日本的なものが、西洋的なものと断絶し、おのれのなかに閉じこもることによってではなく、かえって、正反対の極点に──西洋的なものの立場に立つことによって、はじめてあざやかに浮びあがってくるであろうが──しかし、それは、もちろん、日本的なものが、西洋的なもののなかにあって、おのれを失うことではなく、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけるということであった。そこに、わたしたちの仮面の独自の性格がある、」「そもそも仮面をかぶるという行為それ自体のなかには、自己と自己以外のものにたいするはげしい批判がふくまれているのである。」「わたしたちのほんとうの顔は、日本的なものと西洋的なものとの両極間に支えられてつくられた球面の上にあり、そこには、ほとんどまだ誰からも探検されたことのない暗黒地帯が茫々とひろがっており──それゆえ、その未知の領域を避けてとおりさえすれば、わたしたちの両極間の往復運動は容易であり、妥協も折衷も許されようが──しかし、それでは永久にわたしたちのほんとうの顔はわからない。わたしたちは、対立物を対立のまま、統一しなければならないのだ。そうして、その統一の方法が、同時にまた、仮面形成の方法でもある。」
「感情のアンヴィバレンツは…一方にだけおこるものとはかぎらない。二人の敵のあるところ、つねに二人の主人公がある。…おそらくかれは、仮面によっておのれを知り、さらにまた、敵を知ったのであろう。そのばあい、かれの仮面が、無表情なものでなかったことだけはたしかであった。」
どうでもいいが、「笑い猫」というエッセイ、日本の化物の豊かさを考えると、日本にもアヴァンギャルド芸術の素質はしっかりあるというのは確かにそうだな。「のっぺらぼうというのはコンニャクの化物である。コンニャクから、あんな化物をおもいついたひとは、たしかに天才というほかはない。」たしかにそうだ(笑)
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