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2009年4月23日 (木)

G・K・チェスタトン『正統とは何か』

G・K・チェスタトン(安西徹雄訳)『正統とは何か』(春秋社、1995年)

 言葉というのは独自の強い運動力を持っており、普段何気なく使っているようでいて、実は扱うのにやっかいな代物だ。論理整合的にビシッと決められて、確かに正しいのかもしれないと思いつつも、それでも何かが違うと後味の悪さの残ることがある。経験的に言って直観の方が正しいと私は思っている。

 チェスタトンの立場は理性的な不可知論と言ったらいいだろうか。心の中でひっかかるわだかまりを無視して論理整合性だけでグイグイ推し進めていく進歩的思潮を彼は狂気と呼んだ。狂気とは、「根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。」

「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意思というものもあることを信じてきたのである。」…「つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。狂気の理論家はあらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを神秘不可解にしてしまう。」(39~40ページ)

「想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。」(19ページ)
「詩が正気であるのは、無限の海原に悠然として漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。」(20ページ)

 伝統について。

「伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈従することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」「民主主義と伝統──この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。」(76ページ)

 愛国心について。

「自分の愛する場所を滅ぼすおそれがいちばんあるのは、その場所を何かの理由があって理性的に愛している人間である。その場所を立ち直らせる人間は、その場所を何の理由もなく愛する人間である。」「自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。こういう連中の最悪の手合は、イギリスそのものを愛するのではなくて、自分の解釈するイギリス、自分のイギリス観を愛しているにすぎぬのである。もしイギリスを偉大な帝国であるがゆえに愛すれば、インド征服がいかに大成功であるかに得意の鼻をうごめかしかねない。しかし、もしイギリスを一つの民族として愛すれば、どんな事件にぶつかろうとも少しも動じることはない。たとえばインド人に征服されたとしたところで、イギリスが民族であることに変わりはないからだ。同じように、愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである。」(120-121ページ)

 一種の運命愛的な考え方と言ったらいいだろうか。たまたま生まれた自分の国、しかし、それを美化するのも貶めるのも、別の思惑が愛国心という衣を被っているにすぎない。いわゆる“愛国”的な言動が、実は語り手の身勝手な自己満足にすぎず、その意味で愛国心とは似て非なるものである可能性をチェスタトンは見破っている。

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