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2009年4月19日 (日)

中野正剛について

 ちょっと必要があって中野正剛について調べていた。緒方竹虎『人間中野正剛』(鱒書房、1951年→中公文庫版を持っているはずなのだが、例によって本棚の中で行方不明。近所の図書館に行ったら、古くて紙が破れそうな鱒書房版しかなかった)、猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』(黎明書房、1964年)、中野泰雄『政治家/中野正剛』(上下、新光閣書店、1971年)、中野泰雄『父・中野正剛』(恒文社、1994年)、渡邊行男『中野正剛 自決の謎』(葦書房、1996年)、室潔『東條討つべし 中野正剛評伝』(朝日新聞社、1999年)、以上をざっと通読(疲れた…)。中野泰雄は正剛の子息、猪俣敬太郎は東方会の関係者。

 中野正剛(1886~1943年)という政治家は意外とよく分からないところがある。雄弁家としてカリスマ的な人気を誇り、彼自身、大衆受けを狙っていたあたりはポピュリスティックにも思えるが、他方で、玄洋社系の人脈に属するという自覚から筋を通そうと潔癖なところもある。謎として残るのは、第一に、当初は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットである彼がなぜ熱烈なナチス礼賛者になったのか? 第二に、自殺の真相は?(人によって見解が異なる。渡邊書が資料調査を踏まえた考察を進めているが、やはり状況証拠に過ぎず、結論は出ない)

 中野は朝日新聞記者として政論に健筆をふるい(匿名論説で池辺三山と間違えられたこともあったそうだ)、『明治民権史論』で名をあげた。35歳で代議士に当選、“憲政の神様”犬養毅を崇拝していたので革新倶楽部に所属する。しかし、犬養が既成政治と妥協するのを見て訣別、憲政会(後に立憲民政党)に移る。経済、対外関係と両面での危機意識から議会の大同団結を主張、既成政党に容れられないと見るや安達謙蔵をかついで国民同盟を結成する。ナチスばりの制服をつくってはしゃいでいる中野に眉をひそめる向きもあった(親友であった緒方竹虎も、なぜ彼がナチス礼賛に走ったのかよく分からないと言葉を濁している)。ところが、安達も堕落しているとして中野は国民同盟を脱党、アジア主義の思想団体として主宰していた東方会を政治組織化し、こちらに政治活動の舞台を移す。既成政治打破の模索は続き、修猷館中学の後輩にあたる三輪寿壮を通して無産政党である社会大衆党との合同を図るが、社大党内に異論があって頓挫。近衛文麿を中心とする新体制運動にも関わるが、出来上がった大政翼賛会は中野の思惑とは全く違う代物だったためこれとも袂を分かつ。いわゆる翼賛選挙では非推薦で当選。東條英機内閣の倒閣に動いたため憲兵隊によって身柄を拘束され、自宅に戻されたものの、その夜のうちに自決する。なぜ彼が死を選んだのか、その真相はいまだに分かっていない。

 中野は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットとして政治的キャリアを始めているにもかかわらず、なぜ熱烈なナチス礼賛者となったのかが疑問として残る。当時、政軍二元体制をとる明治憲法下において軍部の独走を如何に食い止めるかが政治課題となっていた。中野は、既成政党が互いに足を引っ張り合って議会の権威が失墜しているから、政治は軍部に対して効果的なリーダーシップを発揮できないのだと考えた。彼の主張した一国一党構想はそうした問題意識に基づく。東方会は全国に支部をつくって組織網を広げようとしていたが、社会大衆党との合同構想には労働組合も取り込もうという思惑があったのだろう。中野は東條英機から睨まれていたが、大衆組織的な基盤によるリーダーシップを目論んでいた中野の存在感が目障りだったのかもしれない。なお、反東條=反軍・平和主義というわけではなく、この点では免罪符にならないことは留意しておく必要がある。

 中野はヒトラーを礼賛したが、その理由は一国一党による強力なリーダーシップの確立という政治構想に合致していたからであり、反ユダヤ主義などのナチズム思想にまで共鳴していたとは言い難い。アジア主義による対英米強硬論から戦略的にドイツと結ぶべきだという考えもあっただろう。彼はヒトラーと会見したことはあるが、その実像を知らなかった。中野は、かつて慕っていたにもかかわらず訣別した犬養についても、あるいは大塩平八郎や西郷隆盛への崇拝についても、ある人物に入れ込むと実際以上に理想化してしまう傾向がある。ヒトラーについても同様であろう。一種の英雄待望論だが、彼自身をその英雄に擬していた節もある。ただ同時に、その人物に仮託して中野自身の理想像を強調することにより、しがらみにまみれた現実の政治を批判するという論法を取っていた(東條英機をあてこすって逆鱗に触れたといわれる「戦時宰相論」はその一例)。その意味で、中野は潔癖な理想主義者であったとも言えるかもしれない。

 なお、中野は朝日新聞社を退社して初めて選挙に打って出たとき落選しており、しばらく東方時論社の主筆となっていた。第一次世界大戦後、パリ講和会議の使節団に記者として中野も随行、その際、以前にロンドンへ遊学したときに出会って肝胆相照らしたグルジア人のガンバシチという人物に再会している。1918年にグルジアはロシアから独立を宣言したが、ガンバシチはパリ講和会議の全権に任命されていた。グルジア独立の理想に燃えていた彼は大の親日派で、初めて会ったとき中野は“亀七”なる名前をつけてやり、“亀七”氏は東郷平八郎を尊敬していたので、“東郷亀七”と名乗ったそうだ。パリ講和会議で再会したとき、グルジアの独立を何とか列国に認めてもらおうと奮闘する彼の姿に中野は小国の悲哀を垣間見ている。

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