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2009年4月26日 (日)

花田清輝『復興期の精神』

花田清輝『復興期の精神』(講談社文芸文庫、2008年)

 戦時下において花田の中に渦巻いていた思いを、主にルネサンスを彩る群像に仮託する形で表現している。「球面三角」というエッセイではルネサンスをクラヴェリナ(ホヤの一種)なる小動物の生命力にたとえている。

「…再生が再生であるかぎり、必然にそれは死を通過している筈であり、ルネッサンスの正体を把握するためには、我々は、これを死との関連においてもう一度見なおしてみる必要があるのではなかろうか。」「当時における人間は、誰も彼も、多かれ少かれ、かれらがどん詰まりの状態に達してしまったことを知っていたのではないのか。果まできたのだ。すべてが地ひびきをたてて崩壊する。明るい未来というものは考えられない。ただ自滅あるのみだ。にも拘らず、かれらはなお存在しているのである。ここにおいて、かれらはクラヴェリナのように再生する。人間的であると同時に非人間的な、あの厖大なかれらの仕事の堆積は、すでに生きることをやめた人間の、やむにやまれぬ死からの反撃ではなかったか。」「転形期のもつ性格は無慈悲であり、必死の抵抗以外に再生の道はないのだ。」「…不幸であればこそ、理知は強靭にもなるのである。死の観念は、人間にたいして、事物の本来の在り方のいかなるものであるかを教える。絶望だけが我々を論理的にする。危機にのぞみ、必然に我々は現実にむかって接近せざるを得なくなり、これまでみえなかったものが、ありありとみえてくる。」

 幾何学つながりで妙なものだが、もう一つ「楕円幻想」というエッセイが印象に残る。円の焦点は一つだが、楕円の焦点は二つ。シンプルな円は美しく、いびつな楕円は見た目に不愉快かもしれない。しかし、二律背反、引き裂かれた魂の葛藤を矛盾したそのままに引き受け、みつめていくこと、それ以外に生きていく道はない。

「ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。…敬虔と猥雑とが──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。」「…これら二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。…しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか──人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。」

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