イアン・ブルマ『アムステルダムの殺人:リベラルなヨーロッパ、イスラム、そして寛容の限界』
Ian Buruma, Murder in Amsterdam: Liberal Europe, Islam, and the Limits of Tolerance, Penguin Books, 2007
ある一つの理念というのは、その置かれたコンテクストに応じて意味合いが異なってくることがある。オランダ社会の基本原則とも言うべき多文化主義。かつて左派は普遍的価値の下でマイノリティーへの寛容を説き、右派は“我らの文化・伝統”を守るべきという立場から左派を批判していた。しかし、現在、左派がマイノリティーの“彼らの文化・伝統”の擁護を訴えるのに対し、右派は普遍的価値を根拠にマイノリティーが“彼らの文化・伝統”に固執していることを批判する論陣を張っている。“普遍的価値”の基準をどこに置くかによって逆転現象が起こっている。
ポピュリスティックな政治家として脚光を浴びたピム・フォルタイン(Pim Fortuyn)はゲイである。ゲイとしての権利も擁護するのがオランダの寛容な社会なのに、イスラムは多元的な寛容に対して不寛容であると批判した。移民への悪感情も相俟って人気が出て次期首相候補とまで目されたが、動物愛護主義者によって暗殺された。
評論家・映画監督のテオ・ヴァン・ゴッホ(Theo van Gogh あのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの弟テオの子孫)の場合、事情はもっと複雑だ。彼は挑発的・偶像破壊的な言動で人を驚かすのが大好きな天邪鬼であって、もともと人種偏見的な考えは持ち合わせていなかった。かつて、寛容な社会を求める普遍的価値は既存の体制を批判する根拠となっていたが、やがてこの理念は社会の基本原則として受け容れられて体制化し、理想主義そのものが陳腐化してしまった。リベラルな理念は当たり前すぎて、もう飽きた。多文化主義がステータスを獲得してエリートがお説教するのに使う道具になっていることをテオは意図的に挑発、刺激を求めてイスラムを揶揄した。問題なのは、テオ自身はただの悪ふざけのつもりだったが、そうは受け止めない人々の存在を無視していたことである。2004年11月、モロッコ系移民のモハンメド・ボウイェリ(Mohammed Bouyeri)によって殺害されてしまう。
フォルタインとヴァン・ゴッホはヒーロー、ボウイェリはアンチ・ヒーロー、そんな単純な構図にまとめることはできない。ソマリア出身で無神論を主張し、オランダの国会議員にもなった元ムスリム女性アヤーン・ヒルシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)に対してもボウイェリは暗殺対象として狙っていたが、それは、彼女の主張の是非以前に、彼女がオランダ社会に同化した成功者であること自体にも理由が求められる。寛容な社会のはずなのに壁が高く立ちはだかり、自分の歩むべき道を見出せないという行き詰まり感がボウイェリをはじめとする移民出身の青年たちにあった。“寛容”を偽善と捉え、それへの攻撃的な憎悪がイスラムのロジックを衣としてまとっていたと言える。
異なる価値観の衝突と考えてしまってはあまりにも短絡的だろう。“寛容”という言説そのものが色褪せて説得力を失って、それでもなおかつ異なる価値観の共存を図ろうとするとき、一体どうすればいいのか。本書は、そうした問題が先鋭的に表面化したオランダで関係者を取材したノンフィクションである。著者も言うように、これは他の国でもあり得る事態であって、考えるべき貴重な問題提起をはらんでいる。
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