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2009年4月10日 (金)

狩野博幸・横尾忠則『無頼の画家 曾我蕭白』

狩野博幸・横尾忠則『無頼の画家 曾我蕭白』(新潮社、2009年)

 先日、「日曜美術館」で曾我蕭白の特集をやっていた。蕭白のことは辻惟雄『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫、2004年)で彼の絵を初めて見てから気になっていた。日本画の枯淡と言ったらいいのか、ああいうのは私にはちょっと退屈に感じてしまうのだが(奥深さが私には分かりませんので)、対して、蕭白や、あるいは岩佐又兵衛にしても、視覚的に直截なインパクトは一目見たらもう忘れられない。

 蕭白の描く賢者・仙人の顔はグロテスクにゆがみ、人間が一面において抱えているドロドロとしたものをことさら誇張しているように見える。逆に、本来恐ろしい形相のはずの龍や獅子や鬼は、目がキョトンとして情けなく、ユーモラスというか、かわいらしくすら感じさせる。画題は一応、伝統的なものを踏襲してはいるのだが、コンヴェンショナルな意味づけに敢えて偶像破壊的に刃向かっていると言ったらいいのか。ただし、“反抗精神”なんてカッコいい言葉にまとめてしまうと、違う。こう描かざるを得ない何か鬱積したものが蕭白の中にドロドロと渦巻いていたのだろう。描き手の強烈な感情が絵画という媒体にモロにぶつけられていくのは近代絵画では当たり前のことだが、蕭白の場合、それが江戸時代の日本画で見られるというのが私には非常に新鮮だった。

 蕭白のような強烈な個性発露的なものを受け容れる土壌がこの時代すでにあったのではないかと狩野氏は指摘する。儒学思想では本来“中庸”を尊び、それが求められなければ次善のものとして“狂”(一本気な個性追求と言い換えてもいいだろう)を選ぶという順序である。しかし、江戸時代の日本にも入ってきた陽明学左派ではこれが逆転し、“狂”の方を“中庸”よりも重視する。考えてみれば、たとえば吉田松陰なんかも李卓吾を尊敬した“狂”の人だ。絵の話から離れてしまうけど、蕭白や松陰など、“狂”→個性発露的な感性として江戸時代の思想史を考えてみたいという興味がひかれているのだが、私の能力にはあまる。

 ところで、四月から「日曜美術館」の司会は姜尚中さん。別に彼を否定するつもりはないんだけど、陳腐なコメントはやめてくれ…。興ざめというか、イライラする…。芸術を語れるような感性じゃないよ、あの人。「日曜美術館」を見る楽しみが半減するなあ…。

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