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2009年4月

2009年4月30日 (木)

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル、2008年)

 沖縄の問題は、私などにはちょっと居心地の悪さを感じるところがある。基地の島、つまり日本の安全保障という大義名分で様々な負担を負わせてしまっていることへの本土の人間としての後ろめたさがあるし、プラスして左や右の政治的思惑が絡んでくるので、こうした問題から距離をおきたいという気持ちは否定できない。他方で、そうした逃げの意識から「美ら島」のエキゾティックな南国イメージに寄りかかろうという気持ちも芽生え、しかし、それも表面的かなあという後味の悪さがわだかまる。

 本書の場合、そうした居心地の悪さとは視点が異なる。色々なテーマがごっちゃまぜだが、とりわけアンダーグラウンドの話が多い。沖縄戦後史を駆け巡った有名無名多彩な人々について取材を進める。暴露趣味というのではなく、正論では割り切れないドロドロとした人間模様は、時にあっけらかんとしたピカレスク小説を読むような不思議な迫力をも感じさせる。フィリピン人との混血児でヒットマンとならざるを得なかった男の生真面目さが一番印象に残った。沖縄で奄美出身者が苛酷な差別待遇を受けていたことは初めて知った。米兵によって残酷に殺された女性たちの現場写真を、捜査が続行できないため泣きながら燃やす刑事の話は忘れがたい。

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2009年4月29日 (水)

『西郷南洲遺訓』

『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波文庫、1939年)

 いまどき西郷隆盛なんてほめそやすと時代錯誤な右翼のように思われてしまいそうでイヤなんだけど、しかし先入観を捨てて読んでみると、この人はこの人なりにきちんと物事が分かっていた人なんだなあ、ってつくづく感じる。思いついた箇所から抜き書き。まず、“文明”観について。

「文明とは道の普く行はるゝを贊称せる言にして、宮室の壮厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと申せしかば、其人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」

「西洋の刑法は専ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒誡となる可き書籍を与へ、事に因りては親族朋友の面会をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡孤独を愍み、人の罪に陥るを恤ひ給ひしは深けれ共、実地手の届きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、実に文明ぢやと感ずる也。」

 “文明”を国の強弱ではなく、ある種の普遍性を持った“道理”の感覚に求めようとしている。欧米列強の植民地支配を野蛮として非難する一方で、たとえば刑罰の制度については西洋の方が道理にかなっていて優れていると認識するなど、割合と公平に考えようとする態度が窺われて興味深い。このように“文明”を捉えた上で、次のようなことを言っているあたり、福沢諭吉「瘠我慢の説」を連想させる。

「正道を踏み国を以て斃るゝの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。」

 以下は西郷の言葉として有名。

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
「幾たびか辛酸を歴て志始て堅し。丈夫玉砕甎全を愧づ。一家の遺事人知るや否や。児孫の為めに美田を買はず。」

 以下は、付録として収録された「手抄言志録」、つまり佐藤一斎『言志録』から西郷が抜き書きした箇所を、さらに私が抜き書き。幕末の志士たちは『言志録』をバイブルのように愛読していたと言われている。

「吾れ思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り、当に之を順受すべし。我れの生るゝや自然にして生る、生るゝ時未だ嘗て喜ぶことを知らず。則ち我の死するや応に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲むことを知らざるべし。天之を生みて、天之を死す、一に天に聴さんのみ、吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり、躯殻は則ち天を蔵むるの室なり。…而て吾が性の性たる所以は、恒に死生の外に在り、吾れ何ぞ畏れん。」

「自ら反みて縮きは、我無きなり。千万人と雖吾れ往かんは、物無きなり。」

 オリジナルを参照したければ、前者は佐藤一斎(川上正光訳注)『言志四録(一)言志録』(講談社学術文庫、1978年、172頁)に、後者は『同(三)言志晩録』(講談社学術文庫、1980年、125頁)にある。
 前者の箇所について私はスピノザを思い浮かべながら文字を追った。説明を求められても困るが、何となく私自身の感覚として。
 後者の箇所は『孟子』に由来するが、微妙に違う。本来は「自ら反みて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾往かざらん。自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」(『孟子(上)』小林勝人訳注、岩波文庫、1968年、116頁)。誠→私心がない→自己は天地万物に包蔵された存在という自覚→私は私であって私ではない。こうした感覚で、前者と通じている。

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2009年4月28日 (火)

萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神──福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む』

萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神──福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む』(朝日文庫、2008年)

 明治新政府に仕えた旧幕臣の勝海舟と榎本武揚。「瘠我慢の説」でこの二人の出処進退を批判して「三河武士の気概を忘れたのか!」と叱咤する福沢の苛立ちは、彼の封建主義批判と比べて違和感があるかもしれない。幕末・明治期、対外的な危機意識を抱いた日本にとって最重要な課題は、とにかく独立を維持することだった。福沢諭吉の有名なテーゼ、「一身独立して一国独立す」。一身独立とは、今風には“個の自立”とも言えようが、ニュアンスがだいぶ異なる。利害打算とは異なる次元でこれだけは絶対に譲れないという自分の中の一線を守って筋を通す、そうした毅然とした態度を福沢は「瘠我慢」と表現している。

「…自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するかは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり。即ち俗に云ふ瘠我慢なれども、強弱相対して苟も弱者の地位を保つものは、単に此瘠我慢に依らざるはなし。啻に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際に於ても、瘠我慢の一義は決して之を忘る可らず。」
「…瘠我慢の一主義は、固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときは、殆ど児戯に等しと云はるゝも、弁解に辞なきが如くなれども、世界古今の実際に於て、所謂国家なるものを目的に定めて、之を維持保存せんとする者は、此主義に由らざるはなし。」
「内に瘠我慢なきものは、外に対しても亦然らざるを得ず。」(「瘠我慢の説」)

 福沢の政府観は基本的に社会契約説に立っているが、政府が権力を恣に勝手なことをし始めたならば、それに立ち向かわねばならない。西南戦争で賊軍とされた西郷隆盛を福沢は「丁丑公論」で擁護する。出版条例があったので公にはされなかったが、「日本国民抵抗の精神を保存して、其気脈を絶つことなからしめんと欲するの微意」によって書き残した。

「凡そ人として我が思ふ所を施行せんと欲せざる者なし。即ち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性と云ふも可なり。人にして然り、政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎む可らざるなり。」「政府の専制、咎む可らずと雖も、之を放頓すれば際限あることなし。又、これを防がざる可らず。今、これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行はるゝ間は、之に対するに抵抗の精神を要す。」(「丁丑公論」)

 本書は萩原延壽と藤田省三による対談(と言っても、萩原は病床にあって、その発言は藤田の代読によるが)によって、福沢の「丁丑公論」「瘠我慢の説」の意義を語る。巻末には本文や参考資料も収録されておりとても便利。萩原は、「一身独立して一国独立す」の根幹として、「瘠我慢」→「抵抗」「独立」「私立」の精神を読み取り、藤田は「自己の尊厳」、「国の同権」を支える精神、対決の精神、指導者の責任倫理を指摘する。なお、福沢は「瘠我慢の説」を事前に勝・榎本の両名にも見せて承諾を得ているという。当時のフェアプレイ精神も興味深い(両名からの手紙の返信も本書に収録されている)。

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福沢諭吉『文明論之概略』

福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫、1995年)から抜き書き。

・欧米諸国について→「ただ一般にこれを見渡して善盛に赴くの勢あるのみにて、決して今の有様を見て直にこれを至善というべからず。今後千数百年にして、世界人民の智徳大に進み、太平安楽の極度に至ることあらば、今の西洋諸国の有様を見て、愍然たる野蛮の歎を為すこともあるべし。これに由りてこれを観れば、文明には限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足すべきにあらざるなり。」「今より数千百年の後を期して太平安楽の極度を待たんとするも、ただこれ人の想像のみ。かつ文明は死物にあらず、動て進むものなり。動て進むものは必ず順序階級を経ざるべからず。即ち野蛮は半開に進み、半開は文明に進み、その文明も今正に進歩の時なり。」

・「ある人はただ文明の外形のみを論じて、文明の精神をば捨てて問わざるものの如し。けだしその精神とは何ぞや。人民の気風、即これなり。」

・「自由の気風はただ多事争論の間にありて存するものと知るべし。」

・「都て世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり。国の文明に便利なるものなれば、政府の体裁は立君にても共和にても、その名を問わずしてその実を取るべし。」

・「…政府の失策を行う由縁は、つねにこの多勢に無勢なるものに窘めらるればなり。政府の長官その失策たるを知らざるにあらず。知てこれを行うは何ぞや。長官は無勢なり、衆論は多勢なり、これを如何ともすべからず。この衆論の由て来る所を尋るに、真にその初発の出所を詳にすべからず。あたかも天より降り来るものの如しといえども、その力よく一政府の事務を制御するに足れり。故に政府の事務の挙らざるは二、三の官員の罪にあらず、この衆論の罪なり。世上の人、誤て官員の処置を咎る勿れ。古人は先ず君心の非を正だすを以て緊要事と為したれども、余輩の説はこれに異なり。天下の急務は先ず衆論の非を正だすにあり。」

・智徳の発達→精神の自由→「世間に強暴を恣にする者あれば、道理を以てこれに応じ、理に服せざれば、衆庶の力を合してこれを制すべし。理を以て暴を制するの勢に至れば、暴威に基きたる名分もまたこれを倒すべし。故に政府といい人民というといえども、ただその名目を異にし職業を分つのみにて、その地位に上下の別あるを許さず。」「受くべからざるの私恩はこれを受けず、恐るべからざるの暴威はこれを恐れず、一毫をも借らず、ただ道理を目的として止まる処に止まらんことを勉むべし。」

・「そもそも文明の自由は他の自由を費して買うべきものにあらず。諸の権義を許し、諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ、諸の力を逞うせしめ、彼我平均の間に存するのみ。あるいは自由は不自由の際に生ずというも可なり。」

・「…日本は、古来いまだ国を成さずというも可なり。今もしこの全国を以て外国に敵対する等の事あらば、日本国中の人民にて、たとい兵器を携えて出陣せざるも、戦のことを心に関する者を戦者と名け、此戦者の数と彼のいわゆる見物人の数とを比較して、何れが多かるべきや、預めこれを計てその多少を知るべし。かつて余が説に、日本には政府ありて国民(ネーション)なしといいしもこの謂なり。」(※具体的な行動を取るかどうかは別として、国事を自分に直接関わることと受け止める人々が集まってネーション→明治維新の課題はこのネーションの確立にあったと言える)

・「自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を修め、自国の名誉を耀かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、その心を名けて報国心という。その眼目は、他国に大して自他の差別を作り、たとい他を害するの意なきも、自から厚くして他を薄くし、自国は自国にて自から独立せんとすることなり。故に報国心は一人の身に私するにはあらざれども、一国に私するの心なり。即ちこの地球を幾個に区分して、その区分に党与を結び、その党与の便利を謀て自から私する偏頗の心なり。故に報国心と偏頗心とは、名を異にして実を同うするものといわざるを得ず。この一段に至て、一視同仁、四海同胞の大義と、報国尽忠、建国独立の大義とは、互に相戻て相容れざるを覚るなり。」(※福沢はナショナリズムを偏頗心、つまり特定集団に偏った身贔屓の心性として捉えている点に注意。「瘠我慢の説」の冒頭でも「立国は私なり、公に非ざるなり」という一文から始めている。ナショナリズムという集団主義に必ずしも普遍性はない。しかし、現実としてこの心性に基づいて世の中は動いているのだから、これを所与の前提とするしかないという認識が福沢にはあった)

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2009年4月27日 (月)

マックス・ヴェーバー『宗教社会学論選』

マックス・ヴェーバー(大塚久雄・生松敬三訳)『宗教社会学論選』(みすず書房1972年)から抜き書き。なお、有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も本来は『宗教社会学論集』全三巻の中の一篇であり、以下にはその勘所ともいえる箇所もある。

◆「宗教社会学論集 序言」から
・「無制限の営利欲は決して資本主義と同じではないし、ましてや、資本主義の「精神」と同じではない。資本主義は、むしろ、そうした非合理的な衝動の抑制、少なくともその合理的な調節とまさしく同一視さるべきばあいさえありうるのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 序論」から
・「…現実の合理化過程のなかに介入してくる非合理的なものは、現世の姿から超現実的な価値がはぎとられていけばいくほど、そうした価値の所有を希求する知性主義の押さえがたい要求がますますそこへ立ち帰っていかざるをえない故郷得あった。統一的な原始的世界像のなかでは、すべてが具体的な呪術であるが、そうしたものはやがて、一方では合理的認識および合理的な自然支配へ、他方では「神秘的」な体験へという分裂の傾向を示すようになる。そして、この「神秘的」な体験のもつ言語につくしがたい内容が、神の存在しない現世のメカニズムと並立しつつ、なおも可能な唯一の彼岸として、しかも事実、そこでは個々人が神とともにいてすでに救済〔の状態〕を自己のものとしているような、そういう現世の背面に存在する捉えがたい国土として、残ることとなったのである。この結論をどこまでも押しつめていくと、個々人はみずからの救済をただ個人としてのみ求めうることになる。」

・「現世を呪術から解放することおよび、救済への道を瞑想的な「現世逃避」から行動的・禁欲的な「現世改造」へと切りかえること、この二つが残りなく達成されたのは──全世界に見出される若干の小規模な合理主義的な信団を度外視するならば──ただ西洋の禁欲的プロテスタンティズムにおける教会および信団の壮大な形成のばあいだけであった。」「宗教的達人が神の「道具」として現世に入りこみ、しかも、彼らからはあらゆる呪術的な救済手段がとり去られていて、そのために、現世の秩序の内部における自己の行為が倫理的にすぐれていることで、いや、それだけで、自分自身がすでに召されて救済の状態にあることを神の前に──つまり、事実に即していえば、自分自身の前に──「証し」しなければならぬ、そういったばあいには、「現世」そのものは、被造物的でありまた罪の容器であるとして宗教的に価値を低められ拒否されてはいるとしても、心理的には、そのことによってかえって、現世における「召命」Beruf〔すなわち、使命としての世俗的職業〕というかたちで神の欲したもう活動をおこなう、そのような舞台としてますます肯定されることになるだけであったろう。というのは、このような現世〔世俗〕内的禁欲主義は、威厳や美とか、美しい陶酔や夢とか、純世俗的な権力や純世俗的な英雄的矜持とかいった諸財を、神の国と競いあうものとして蔑視し追放してしまうという意味では、たしかに現世拒否的であるが、しかし、まさにそのゆえに、瞑想のように現世逃避的ではなくて、神の命令にしたがって現世を倫理的に合理化しようとし、したがってつねに、たとえば古代〔人〕やカトリック平信徒のあいだに見られるような砕かれていない〔生のままの〕人間性の素朴な「現世肯定」よりは、いっそう透徹した意味において、現世指向的であった。まさに日常生活のなかで、宗教的に資質ある者への恩恵と撰びが証明され〔るとし〕たのである。もちろん、日常生活のなかでといっても、それはあるがままのものではなくて、神への奉仕のために方法的に合理化された日常生活の行為においてなのであった。合理的な召命〔すなわち、使命としての職業〕にまで高められた日常生活の行為が、救済の状態にあることの証明となったのである。」

◆「世界宗教の経済倫理 中間考察」から
・神秘家と現世内的禁欲との対比→「…現世内的禁欲は…行為を通じて自己の救いの確証をえようとする。現世内的禁欲は…神の意図を──究極の意味は隠されてはいるが、聖意にしたがう被造物の合理的秩序のなかに現存している、そうした神の意図を実行しようとする。」

・「合理的な経済は、事象的な性質をおびた経営Betriebであって、市場での人間相互の利害闘争のなかから生まれてくる貨幣価格に目標を合わせることになる。貨幣価格というかたちの評価なしには、つまり、そうした利害闘争なしには、どのような計算も不可能だからである。ところで貨幣は、人間生活のなかにみられるもっとも抽象的で、「無人間的な」ものである。そのため、近代の合理的資本主義における経済の秩序は、それに内在する固有な法則性にしたがって動くようになればなるほど、およそ宗教的な同胞倫理とはいかなる関係ももちえないようなものになってくる。しかも、資本主義の経済秩序が合理的に、だから無人間的になっていけばいくほど、ますますそうならざるをえない。というのは、主人と奴隷のあいだの人間的な関係は、人間的な関係であるからこそ、余すところなく倫理的に規制することもできた。が、つぎつぎに変る不動産抵当証券の所有者と、同じようにつぎつぎに変る、だから彼らのまったく知らぬ不動産銀行の債務者との関係は、そのあいだになんらの人間的紐帯も存在しないから、それを──少なくともさきの関係と同じような意味で、また同じような成果を予期して──規制することは不可能となる。にも拘わらず、あえて規制を試みようとすれば…形式的合理性の進展を妨げることになるほかはない。なぜなら、このようなばあいには、形式的合理性と実質的合理性が互いに衝突し合うことになるからである。だからこそ、救いの宗教は…無人間的な、そして、まさにそれゆえに、とりわけ同胞倫理に対して敵対関係に立つことになるような経済的諸力の展開に対して、つねに強い不信の目を向けることになったのである。」

・「宗教と経済のあいだに見られるこうした緊張関係を原理的にかつ内面的に避けてとおる道で、首尾一貫したものは、ただ二つしか存在しなかった。その一つは、ピュウリタニズムにおける召命〔職業〕倫理のパラドックスである。これは、達人的宗教意識として、愛の普遍主義を放棄してしまうもので、現世における一切の活動をば神の聖意──その究極の意味はわれわれの理解に絶しているが、とにかく見ゆべきかたちで認識可能な神の聖意──への奉仕、また、恩恵の身分にあることの検証として合理的に事象化し、さらに進んで、現世のすべてのものとともに被造物的な堕落の状態にあるために無価値だと考えられている経済的秩序界の事象化をも、神の聖意にかなうもの、義務達成のための素材として承認した。それは究極において、根拠を知りえず、しかもつねに特殊的でしかありえないような恩恵のために、人間すべてにとって自力で到達可能な目標たりうる、そうした救いをば原理的に放棄してしまうことに他ならなかった。こうした反同胞倫理的な立場は、真実のところ、もはや本来の「救いの宗教」ではないであろう。」

・「官僚制的国家機関やそれに組み込まれている合理的な政治人は、不正の処罰をも含むその事務を国家の権力的秩序における合理的諸規則の完璧な意味にしたがって処理していくが、まさしくそうしたばあいには、経済人のばあいと同様即事象的に、つまり「人間を顧慮することなく」、「怒りも執念もなく」、憎しみも、したがって愛情もなしに事務をとりおこなう。」「政治が「即事象的」で打算的なものとなればなるほど、また激情、憤怒、愛情などを欠いたものとなればなるほど、およそ政治は、宗教的合理化の立場からすれば、ますます同胞倫理とは無縁なものと考えるほかはなくなってくるのである。」

・「合理的行為は、経済においても政治においても、それぞれの領域の自己法則性にしたがうものであるように、現世内部における他の合理的行為も、同胞関係とはおよそ無縁な現世的諸条件をば不可避的に自己の行為の手段ないし目標とするほかはないために、どのばあいにも、同胞倫理に対してなんらかの緊張関係に立つことになる。ところが、そうした合理的行為自体がまた、自己の内部に深刻な緊張関係をはらんでいる。〔というのは、こういうことである。〕合理的行為それ自体には、個々のばあいにおける行為の倫理的価値が何によって決められるべきか、成果によってか、それともその行為自体の──なんらかの倫理的規定をもつ──固有な価値によってか、そうした原初的な問題をさえ判定する手段があたえられていない。」

・「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」

・「…「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、「天職」〔「召命」〕Berufとされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目標のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命におちいらざるをえないのである。」「このような現世の価値喪失は、合理的な要求と現実との、また合理的な倫理と一部合理的で一部非合理的な諸価値との衝突の結果であり、しかもこの衝突は、現世に姿を現わしてくるすべての個別諸領域の独自な特性をそれぞれにきわ立たせることによってますます激化し、また解決不可能なものとなっていく。」「現世の「意味」に関する思索が組織的となり、現世の外的な組織が合理化され、またその非合理的内容の自覚的体験が昇華されたものとなればなるほど、宗教的なるものの独自な内容は、それとまったく並行して、ますます非現世的な性質をおび、あらゆる生の形あるものとはおよそ無縁なものになりはじめる。そして、こうした道を切り拓いたのは、現世を呪術から解放する理論的思考の力だけではなくて、まさしく現世を実践的・倫理的に合理化しようとする宗教倫理の努力にほかならなかった。」

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2009年4月26日 (日)

花田清輝『アヴァンギャルド芸術』

花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(講談社文芸文庫、1994年)

 「仮面の表情」から抜書き。日本的なるもの、西洋的なるもの。自分自身にとってしっくりくる仮面はどこにある?

「…わたしたちのほんとうの顔は、わたしたちが、おのれ以外のものに変貌しようと努め、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけることによって、むしろ、はっきりするはずであった。そのための仮面である。」「戦争中、日本主義者の繰返していたように、もしも日本的なものと西洋的なものとが、完全に対立するものなあ、日本的なものの姿は、日本的なものが、西洋的なものと断絶し、おのれのなかに閉じこもることによってではなく、かえって、正反対の極点に──西洋的なものの立場に立つことによって、はじめてあざやかに浮びあがってくるであろうが──しかし、それは、もちろん、日本的なものが、西洋的なもののなかにあって、おのれを失うことではなく、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけるということであった。そこに、わたしたちの仮面の独自の性格がある、」「そもそも仮面をかぶるという行為それ自体のなかには、自己と自己以外のものにたいするはげしい批判がふくまれているのである。」「わたしたちのほんとうの顔は、日本的なものと西洋的なものとの両極間に支えられてつくられた球面の上にあり、そこには、ほとんどまだ誰からも探検されたことのない暗黒地帯が茫々とひろがっており──それゆえ、その未知の領域を避けてとおりさえすれば、わたしたちの両極間の往復運動は容易であり、妥協も折衷も許されようが──しかし、それでは永久にわたしたちのほんとうの顔はわからない。わたしたちは、対立物を対立のまま、統一しなければならないのだ。そうして、その統一の方法が、同時にまた、仮面形成の方法でもある。」
「感情のアンヴィバレンツは…一方にだけおこるものとはかぎらない。二人の敵のあるところ、つねに二人の主人公がある。…おそらくかれは、仮面によっておのれを知り、さらにまた、敵を知ったのであろう。そのばあい、かれの仮面が、無表情なものでなかったことだけはたしかであった。」

 どうでもいいが、「笑い猫」というエッセイ、日本の化物の豊かさを考えると、日本にもアヴァンギャルド芸術の素質はしっかりあるというのは確かにそうだな。「のっぺらぼうというのはコンニャクの化物である。コンニャクから、あんな化物をおもいついたひとは、たしかに天才というほかはない。」たしかにそうだ(笑)

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花田清輝『復興期の精神』

花田清輝『復興期の精神』(講談社文芸文庫、2008年)

 戦時下において花田の中に渦巻いていた思いを、主にルネサンスを彩る群像に仮託する形で表現している。「球面三角」というエッセイではルネサンスをクラヴェリナ(ホヤの一種)なる小動物の生命力にたとえている。

「…再生が再生であるかぎり、必然にそれは死を通過している筈であり、ルネッサンスの正体を把握するためには、我々は、これを死との関連においてもう一度見なおしてみる必要があるのではなかろうか。」「当時における人間は、誰も彼も、多かれ少かれ、かれらがどん詰まりの状態に達してしまったことを知っていたのではないのか。果まできたのだ。すべてが地ひびきをたてて崩壊する。明るい未来というものは考えられない。ただ自滅あるのみだ。にも拘らず、かれらはなお存在しているのである。ここにおいて、かれらはクラヴェリナのように再生する。人間的であると同時に非人間的な、あの厖大なかれらの仕事の堆積は、すでに生きることをやめた人間の、やむにやまれぬ死からの反撃ではなかったか。」「転形期のもつ性格は無慈悲であり、必死の抵抗以外に再生の道はないのだ。」「…不幸であればこそ、理知は強靭にもなるのである。死の観念は、人間にたいして、事物の本来の在り方のいかなるものであるかを教える。絶望だけが我々を論理的にする。危機にのぞみ、必然に我々は現実にむかって接近せざるを得なくなり、これまでみえなかったものが、ありありとみえてくる。」

 幾何学つながりで妙なものだが、もう一つ「楕円幻想」というエッセイが印象に残る。円の焦点は一つだが、楕円の焦点は二つ。シンプルな円は美しく、いびつな楕円は見た目に不愉快かもしれない。しかし、二律背反、引き裂かれた魂の葛藤を矛盾したそのままに引き受け、みつめていくこと、それ以外に生きていく道はない。

「ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。…敬虔と猥雑とが──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。」「…これら二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。…しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか──人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。」

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2009年4月25日 (土)

丸山眞男『福沢諭吉の哲学』

丸山眞男(松沢弘陽編)『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫、2001年)

 丸山眞男の福沢好きは有名で、たとえば言論弾圧の厳しかった時代、福沢の論説から的確な軍国主義批判を読み取って気を晴らせていたというエピソードはよく知られている(もちろん、福沢全集は古典として発禁処分など受けていない)。

 福沢にしても、近年は丸山にしても、色々と毀誉褒貶が激しい。しかし、古典を読むとき(丸山も私の世代からすればすでに古典だ)、出された結論に目を奪われてしまうのは実に浅はかである。時代状況が変われば結論なんてものもその都度変わる。むしろ、問題意識の立て方と、それを料理する考え方(方法論)、こちらを汲み取らなくては読んだことにはならない。

 『文明論之概略』では野蛮→半開→文明という図式が示されている。これだけをピックアップすると進歩史観に立つ欧化主義者という決め付けにもなりかねないが、他方で福沢は、文明の位置関係は逆転し得る、現段階では西洋が文明の位置にあるから、日本が生き残るために学ぶのだと言う。何が必要なのかは状況に応じて変わってくる。丸山はこう記している。

福沢から単なる欧化主義乃至天賦人権論者を引出すのが誤謬であるならば、他方、国権主義者こそ彼の本質であり、文明論や自由論はもっぱら国権論の手段としての意義しかないという見方もまた彼の条件的発言を絶対視している点で前者と同じ誤謬に陥ったものといわねばならぬ。文明は国家を超えるにも拘らず国家の手段となり、国家は文明を手段とするにも拘らずつねに文明によって超越せられる。この相互性を不断に意識しつつ福沢はその時の歴史的状況に従って、或は前者の面を或は後者の面を強調したのである。要するに、こうした例に共通して見られる議論の「使い分け」が甚だしく福沢の思想の全面的把握を困難にしているのであるが、まさにそこにこそ福沢の本来の面目はあった。彼はあらゆる立論をば、一定の特殊的状況における遠近法的認識として意識したればこそ、いかなるテーゼにも絶対的無条件的妥当性を拒み、読者に対しても、自己のパースペクティヴの背後に、なお他のパースペクティヴを可能ならしめる様な無限の奥行を持った客観的存在の世界が横わっていることをつねに暗示しようとしたのである(「福沢諭吉の哲学」80ページ)。

 福沢の文章を読んでいると、たとえば儒教批判などで「古習の惑溺」という表現がよく出てくる。丸山はこう語る。

「惑溺」というのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・教育・商売、なんでも惑溺に発展する。彼がよく言うのは、「一心一向にこり固まる」という言葉で言っています。政治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精神が凝集してほかが見えなくなってしまうということ、簡単に言うとそれが惑溺です。うまく定義できませんけれども、また、定義すべきものでもありませんけれども、自分の精神の内部に、ある種のブランクなところ──その留保を残さないで、全精神をあげてパーッと一定の方向に行ってしまう、ということです(「福沢諭吉の人と思想」181~182ページ)。

 「惑溺」は何も儒学など伝統墨守の石頭に限らない。福沢は急進的な民権論に対して斜に構えた態度を取ったが、急進論にもこうした「惑溺」を見出したからだと丸山は指摘している。立場の如何に拘らず、こうした思考停止状態に陥ってしまう人がいつでもどこでもいるから困ったものである。

 むかし、『福翁自伝』を読んだとき、たとえば適塾で、赤穂浪士は義か不義か、なんてたわいない議論をする場面、福沢は「お前が義だと言うならおれは不義だと言う、お前が不義だと言うならおれは義にしてみせる、さあ、かかってきやがれ!」なんてことをやっているのが印象に残った。別にディベートの訓練なんてつまらん次元のことではない。ある一つの立論があるとして、それとは異なる立場にもそれなりに筋の通った理由があり得る、そうした配慮があってはじめて対話というものが成立する。このあたりのことを丸山は役割意識という表現で語っている。

…人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこととは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たない(「福沢諭吉の人と思想」196ページ)。

 どんな思想的立場、政治的立場を取ろうとも人それぞれの勝手だが、最低限この程度の認識を持ってもらわないと話が通じなくて困る。

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2009年4月24日 (金)

『石橋湛山評論集』『湛山回想』

 学生の頃、一時期、石橋湛山に入れ込んでいた。たしか、田中秀征の講演を聞いたのがきっかけだったように思う。たとえば、小日本主義。植民地の放棄を主張するにしても、それを単なる道義論に終わらせず、統計上の数字を示して日本側の赤字であるという具体的な根拠を示す。湛山はもともと宗教家を志して早稲田の哲学科に入ったが、大学ではプラグマティズムの田中王堂に師事した。そうしたあたりも含め、ある種の理想主義を唱えるにしても必ず具体的な裏付けを求めるという湛山のバランス感覚に感心した。

 『石橋湛山評論集』(岩波文庫、1984年)を読み返した。リベラルな個人主義が基本。若い頃に「哲学的日本を建設すべし」という論説を書いている。自己の存在意義を徹底的に究明してこれだけは譲れないという一線を把握する=哲学、個人でも国家でもこの基本線を踏まえた上で問題に対処しなければどうにもならない、という趣旨。個人主義というのは、自分にとってこれだけは譲れないという最低ラインを明確に自覚しているからこそ、他者との協調も妥協もできる、つまり交渉ができるという考え方。この考え方が湛山のその後の政論にも一貫している。だからこそ、権威にも流行にも流されない(軍部にもGHQにも屈しなかったし、金解禁論争では当初、大衆世論から孤立していた)。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という有名なテーゼのリフレインのようにも思われた。福沢の個人主義も「痩せ我慢」=意地が大前提になっている。そういえば、田中王堂は『福沢諭吉』という本を書いていたが私はまだ読んでいない。

 こうした考え方で海外を見れば、自己は自己による支配でなければ満足はできないのだから、日本の植民地支配がどんな善政を敷いたところで反抗は止まるはずがないという理解(大日本主義批判の第二の論点)につながってくる。また、『湛山回想』(岩波文庫、1985年)にはこんな話もあった。尾崎行雄が普選に反対して意外に思ったが、国民一人ひとりに訓練がなければ普選をやっても無意味だという尾崎の指摘は後になって納得できたという述懐。軍隊生活で規律を身につけた経験から、良い意味での団体主義=良い意味での個人主義という指摘。こうしたあたりにも、逆説的ではあるが、自己という主体に多くを課すリベラリズムがうかがえる。

 『湛山回想』では戦前の経済雑誌の簡単な通史が語られているのも興味を持った。お雇い外国人シャンドの机の上にイギリスの『エコノミスト』があるのを見て田口卯吉が『東京経済雑誌』を創刊。『東洋経済新報』は明治28年の創刊。大正期、大戦特需以降、石山賢吉の『ダイヤモンド』が会社記事・株式記事で売り上げを伸ばした。その頃の日本は欧米とは異なって事業報告書や会計士制度が未整備だったので、投資の参考情報として需要があったのだろうとのこと。『東洋経済新報』の記者たちは政治・社会問題志向なのでそうした私経済に興味はなかったが、それでも会社記事は載せざるを得なかった。昭和に入って、金解禁論争、世界恐慌、日本の国際的孤立といった状況で先行き不透明→経済雑誌の需要がのびた。金解禁論争は一般の人々に経済知識が普及するきっかけにはなったという。

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2009年4月23日 (木)

G・K・チェスタトン『正統とは何か』

G・K・チェスタトン(安西徹雄訳)『正統とは何か』(春秋社、1995年)

 言葉というのは独自の強い運動力を持っており、普段何気なく使っているようでいて、実は扱うのにやっかいな代物だ。論理整合的にビシッと決められて、確かに正しいのかもしれないと思いつつも、それでも何かが違うと後味の悪さの残ることがある。経験的に言って直観の方が正しいと私は思っている。

 チェスタトンの立場は理性的な不可知論と言ったらいいだろうか。心の中でひっかかるわだかまりを無視して論理整合性だけでグイグイ推し進めていく進歩的思潮を彼は狂気と呼んだ。狂気とは、「根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。」

「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意思というものもあることを信じてきたのである。」…「つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。狂気の理論家はあらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを神秘不可解にしてしまう。」(39~40ページ)

「想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。」(19ページ)
「詩が正気であるのは、無限の海原に悠然として漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。」(20ページ)

 伝統について。

「伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈従することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」「民主主義と伝統──この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。」(76ページ)

 愛国心について。

「自分の愛する場所を滅ぼすおそれがいちばんあるのは、その場所を何かの理由があって理性的に愛している人間である。その場所を立ち直らせる人間は、その場所を何の理由もなく愛する人間である。」「自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。こういう連中の最悪の手合は、イギリスそのものを愛するのではなくて、自分の解釈するイギリス、自分のイギリス観を愛しているにすぎぬのである。もしイギリスを偉大な帝国であるがゆえに愛すれば、インド征服がいかに大成功であるかに得意の鼻をうごめかしかねない。しかし、もしイギリスを一つの民族として愛すれば、どんな事件にぶつかろうとも少しも動じることはない。たとえばインド人に征服されたとしたところで、イギリスが民族であることに変わりはないからだ。同じように、愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである。」(120-121ページ)

 一種の運命愛的な考え方と言ったらいいだろうか。たまたま生まれた自分の国、しかし、それを美化するのも貶めるのも、別の思惑が愛国心という衣を被っているにすぎない。いわゆる“愛国”的な言動が、実は語り手の身勝手な自己満足にすぎず、その意味で愛国心とは似て非なるものである可能性をチェスタトンは見破っている。

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2009年4月22日 (水)

松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』、他

 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』(中央公論新社、2009年)は、高橋是清の人物論を期待するとがっかりするかもしれない。是清が大恐慌にあたって采配を振るうに到った日本経済の課題や条件は何だったのか、その背景解説が中心となる。読み物としては地味だが、近代日本財政史の堅実なテキストという感じで勉強向き。

 ここのところちょっと必要があって金解禁論争関連の本をいくつか読み漁っている。金本位制のメカニズムについて、理屈を文面ではたどっていてもなかなか得心がこないのだが、それはおいおい勉強するとして。金解禁を断行した井上準之助と再禁止をした高橋是清とが必ず対比される。岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社、2004年)や竹森俊平『世界デフレは三度来る』(上下、講談社、2006年)などを読むと、結論としては是清が正しかったということになるようだ。

 金解禁論争で井上財政を批判していたエコノミストの一人、高橋亀吉について知りたくて谷沢永一『高橋亀吉 エコノミストの気概』(東洋経済新報社、2003年)を手に取ったのだが、これはダメな本。途中で読むのをやめた。井上を指して「愚か者を罰する法律がないのが残念だ」なんて平気で書くのだが、おいおい、じゃあ血盟団事件を肯定するつもりなのか? 初期の亀吉が社会主義に関心を示している箇所に触れては感情的な左翼批判が丸出し。谷沢は元共産党員の転向者だが、近親憎悪が激しいのか極端だ。

 当時は金本位制が一つの国際スタンダードとなっていた。そうした学知的枠組み(パラダイムと言ったらいいのか)の中に井上も組み込まれていたわけで、彼個人を人格攻撃したって全く無意味だろう(現在の視点からすれば井上の政策判断は否定されるにしても、その人物像を描き出した城山三郎『男子の本懐』の方が好感が持てる)。もちろん、個人要因をどう考えるかは政治史で繰り返される議論であるにしても、政策判断の是非と個人の人格的なレベルとは切り離す、少なくとも適度に距離を置いて考えないと見損なってしまうものが多い。通俗的な議論であればあるほど人格要因べったりの本が多いな。悪玉・善玉がはっきりして馬鹿でも分るからか。

 竹森俊平『世界デフレは三度来る』や「昭和恐慌、正しかったのは高橋是清か、井上準之助か」(『中央公論』2009年1月)では、国際協調路線、財政規律→軍事費抑制といった井上の意図も指摘し、是清と井上の二人がコンビを組めばその後の大恐慌や軍拡路線を効果的に乗り切れたのではないかと嘆いていた。残念ながら、是清は二・二六事件で、井上は血盟団事件で命を落としてしまうのだが。

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2009年4月21日 (火)

長野朗というシノロジスト

 ちょっと事情があって長野朗(ながの・あきら、1888~1975年)について調べており、『動亂支那の眞相』(1931年)という戦前の本に目を通した。やはりある事情があって、評論家・宮崎正弘氏がメールマガジンで長野を取り上げているのを知った。読んでみると、「中国人はこんなにずるい奴らだ、変な奴らだ」と言わんばかりの文脈の中で長野の著作からの引用を並べているのが気にかかった。

 同じテクストを読んでも、読み手がどこにポイントを置くかによって受け止め方は大きく異なってくる。私ならば次の箇所を引用する。

「日本人は支那人を忘恩の民と云ふが、支那人に云はすれば日本人は譯の分らぬ人間だと云ふかもしれない。それは双方の考へ方が全然異つて居るからである。」「かうした双方の考へ方の相違から互に相手を誤解し悪口する例は少くない。こゝは双方が相手の国民性を理解し合ふ必要が起る。」

 長野の表現には「嘘つき」「恩知らず」など確かに乱暴な言い方も多い。そうした箇所だけをつなぎ合わせれば宮崎氏のような読み方にもなるだろう。ただし、他方で長野は中国人のプラグマティックなところ、自己主張の明瞭なところは誉めてもいる。上記の引用を踏まえて言うと、長野のどぎつい表現は、中国人の思考構造や慣習には日本人の視点からすると違和感があること、付き合いづらいのは確かであることの率直な表明ではあるが、むしろそうした違和感が相互にあることを前提とした上で向き合っていかねばならない。そこに長野の強調点があると考えるべきだろう。そのために美化も蔑視も避け、出来るだけリアルな中国認識を目指したところに長野の努力を見出せる。

 西谷紀子「長野朗の中国革命観と社会認識」『大東法政論集』第11号(2001年3月)、同「長野朗の農本自治論」、『大東法政論集』第10号(2002年3月)、同「長野朗の1920年代における中国認識」『大東法政論集』第11号(2003年3月)、劉家鑫・李蕊「「支那通」の中国認識の性格:後藤朝太郎と長野朗を中心に」『東洋史苑』第70・71号(2008年3月)といった論文に取りあえず目を通した。

 長野は陸軍士官学校の出身(石原莞爾と同期)。中国へ派遣されたのは辛亥革命後のことだが、1919年の五・四運動、1920年の第二次広東軍政府といった動向を現地で目の当たりにし、中国国民革命の進展を観察していた。1921年に中国問題に専念するため軍を辞め、共同通信、国民新聞の嘱託となったほか、『中央公論』『改造』をはじめとした雑誌に寄稿する。行地社の同人となったが、軍と結び付いてクーデターを画策する大川周明たちからは次第に離れ、農村運動に入っていく。

 1938年春に中国の戦場を視察した際には避難民の悲惨な姿に心を痛め、戦争の正当性に疑問を抱いて長期化すべきではないと考えたという。日中提携論が彼の基本だが、満州国など日本の権益を切り離した上で日中親善を唱えるあたりには難しい矛盾があったという指摘もある。

 戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)の分類に従うと、中国ナショナリズムに共感を寄せた点で長野は新「支那通」に属すると言える。ただし、戸部書で取り上げられた佐々木到一たちが国民党のイニシアチブによる近代国家形成を期待(そして幻滅)したのに対し、長野はそうした路線は外国の翻訳思想に過ぎず有効ではないと主張した点で異なる。また、戸部書によると中国には近代国家を形成する能力が欠如しているという認識が旧「支那通」の特徴だと指摘されているが、こうした認識を長野はむしろプラス面として捉えた。

 長野の基本思想は農本主義にあった。『動乱支那の真相』では社稷を「一定の土地に於ける人民の衣食住の安定を主とした自治を指す」と定義して、そうした自治体を下から積み上げて国家天下に至るとされる。外来思想翻訳的な近代国家路線をとるのではなく、中国自身の伝統に馴染んだ国づくりをすべきだと長野は主張する。ここには権藤成卿の強い影響が認められる。

 農本主義は土着性を強調するため近代主義者からは評判が悪い。しかし、権力というモメントによって秩序維持を図る国家主義とは異なり、逆に社稷という人間同士の情緒的な共感に基づく共同体を重視する点で反権力主義であって、その意味ではむしろアナキズムに近い(権藤の著作集はアナキスト系の黒色戦線社から出ている)。様々な思想背景を持つ農本主義者が集まって結成された日本村治派連盟には長野や権藤の他に橘孝三郎、武者小路実篤、下中弥三郎、室伏高信、土田杏村、加藤一夫などの名前が見える。権藤成卿橘孝三郎については以前に取り上げたことがある。

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2009年4月20日 (月)

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』

戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ、1999年)

 日本陸軍の「支那通」、つまり中国問題のスペシャリスト、彼らは主観的には日中提携を模索しながらも、結果的にはむしろ正反対の行動を取ってしまったのはなぜなのかを考察する。

 彼ら陸軍「支那通」の方が外務省よりも深く中国に潜り込んでいたため、それが場合によっては二元外交を引き起こしてしまった。世代的に旧「支那通」と新「支那通」に分けられる。中国には近代国家を形成する能力はない、という認識は内藤湖南をはじめ当時の日本のシノロジストに多く見られ、それは旧「支那通」の基本認識となっていた。対して、新「支那通」は辛亥革命以降の中国ナショナリズムの動きに共感、彼らが近代国家を作り上げるのを手助けした上で日中提携を図ろうという意図もあったようだ。

 だが、やはり日本側と中国側とでは思惑が異なる。日本の大陸侵略に対する中国側の反発は厳しい。本書で焦点の当てられる新「支那通」の佐々木到一は済南事件で暴行を受け、危うく命を落とすところだった。日本に戻れば国民党のまわし者と言われ、中国では日本陸軍のまわし者と不信感を持たれる。期待を寄せていた国民党の蒋介石が特務機関を使って反対派を弾圧、党や軍を私兵化していることも国民革命の理想を失った旧態依然たる堕落だと彼は受け止め、旧「支那通」の認識レベルに戻ってしまう。佐々木は中国に裏切られたと感じた。中国をよく知っていたからこそ欠点が目につき、体感的な憎悪から対中強硬派に転じてしまった。もちろん、現在の後知恵からは一面的な理解に過ぎないと言ってしまえるが、対外的な認識の難しさを感じさせる。

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2009年4月19日 (日)

中野正剛について

 ちょっと必要があって中野正剛について調べていた。緒方竹虎『人間中野正剛』(鱒書房、1951年→中公文庫版を持っているはずなのだが、例によって本棚の中で行方不明。近所の図書館に行ったら、古くて紙が破れそうな鱒書房版しかなかった)、猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』(黎明書房、1964年)、中野泰雄『政治家/中野正剛』(上下、新光閣書店、1971年)、中野泰雄『父・中野正剛』(恒文社、1994年)、渡邊行男『中野正剛 自決の謎』(葦書房、1996年)、室潔『東條討つべし 中野正剛評伝』(朝日新聞社、1999年)、以上をざっと通読(疲れた…)。中野泰雄は正剛の子息、猪俣敬太郎は東方会の関係者。

 中野正剛(1886~1943年)という政治家は意外とよく分からないところがある。雄弁家としてカリスマ的な人気を誇り、彼自身、大衆受けを狙っていたあたりはポピュリスティックにも思えるが、他方で、玄洋社系の人脈に属するという自覚から筋を通そうと潔癖なところもある。謎として残るのは、第一に、当初は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットである彼がなぜ熱烈なナチス礼賛者になったのか? 第二に、自殺の真相は?(人によって見解が異なる。渡邊書が資料調査を踏まえた考察を進めているが、やはり状況証拠に過ぎず、結論は出ない)

 中野は朝日新聞記者として政論に健筆をふるい(匿名論説で池辺三山と間違えられたこともあったそうだ)、『明治民権史論』で名をあげた。35歳で代議士に当選、“憲政の神様”犬養毅を崇拝していたので革新倶楽部に所属する。しかし、犬養が既成政治と妥協するのを見て訣別、憲政会(後に立憲民政党)に移る。経済、対外関係と両面での危機意識から議会の大同団結を主張、既成政党に容れられないと見るや安達謙蔵をかついで国民同盟を結成する。ナチスばりの制服をつくってはしゃいでいる中野に眉をひそめる向きもあった(親友であった緒方竹虎も、なぜ彼がナチス礼賛に走ったのかよく分からないと言葉を濁している)。ところが、安達も堕落しているとして中野は国民同盟を脱党、アジア主義の思想団体として主宰していた東方会を政治組織化し、こちらに政治活動の舞台を移す。既成政治打破の模索は続き、修猷館中学の後輩にあたる三輪寿壮を通して無産政党である社会大衆党との合同を図るが、社大党内に異論があって頓挫。近衛文麿を中心とする新体制運動にも関わるが、出来上がった大政翼賛会は中野の思惑とは全く違う代物だったためこれとも袂を分かつ。いわゆる翼賛選挙では非推薦で当選。東條英機内閣の倒閣に動いたため憲兵隊によって身柄を拘束され、自宅に戻されたものの、その夜のうちに自決する。なぜ彼が死を選んだのか、その真相はいまだに分かっていない。

 中野は憲政擁護運動で名声を得たデモクラットとして政治的キャリアを始めているにもかかわらず、なぜ熱烈なナチス礼賛者となったのかが疑問として残る。当時、政軍二元体制をとる明治憲法下において軍部の独走を如何に食い止めるかが政治課題となっていた。中野は、既成政党が互いに足を引っ張り合って議会の権威が失墜しているから、政治は軍部に対して効果的なリーダーシップを発揮できないのだと考えた。彼の主張した一国一党構想はそうした問題意識に基づく。東方会は全国に支部をつくって組織網を広げようとしていたが、社会大衆党との合同構想には労働組合も取り込もうという思惑があったのだろう。中野は東條英機から睨まれていたが、大衆組織的な基盤によるリーダーシップを目論んでいた中野の存在感が目障りだったのかもしれない。なお、反東條=反軍・平和主義というわけではなく、この点では免罪符にならないことは留意しておく必要がある。

 中野はヒトラーを礼賛したが、その理由は一国一党による強力なリーダーシップの確立という政治構想に合致していたからであり、反ユダヤ主義などのナチズム思想にまで共鳴していたとは言い難い。アジア主義による対英米強硬論から戦略的にドイツと結ぶべきだという考えもあっただろう。彼はヒトラーと会見したことはあるが、その実像を知らなかった。中野は、かつて慕っていたにもかかわらず訣別した犬養についても、あるいは大塩平八郎や西郷隆盛への崇拝についても、ある人物に入れ込むと実際以上に理想化してしまう傾向がある。ヒトラーについても同様であろう。一種の英雄待望論だが、彼自身をその英雄に擬していた節もある。ただ同時に、その人物に仮託して中野自身の理想像を強調することにより、しがらみにまみれた現実の政治を批判するという論法を取っていた(東條英機をあてこすって逆鱗に触れたといわれる「戦時宰相論」はその一例)。その意味で、中野は潔癖な理想主義者であったとも言えるかもしれない。

 なお、中野は朝日新聞社を退社して初めて選挙に打って出たとき落選しており、しばらく東方時論社の主筆となっていた。第一次世界大戦後、パリ講和会議の使節団に記者として中野も随行、その際、以前にロンドンへ遊学したときに出会って肝胆相照らしたグルジア人のガンバシチという人物に再会している。1918年にグルジアはロシアから独立を宣言したが、ガンバシチはパリ講和会議の全権に任命されていた。グルジア独立の理想に燃えていた彼は大の親日派で、初めて会ったとき中野は“亀七”なる名前をつけてやり、“亀七”氏は東郷平八郎を尊敬していたので、“東郷亀七”と名乗ったそうだ。パリ講和会議で再会したとき、グルジアの独立を何とか列国に認めてもらおうと奮闘する彼の姿に中野は小国の悲哀を垣間見ている。

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2009年4月16日 (木)

岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』

岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社、2004年)

 現在の平成不況における経済政策を考える先行事例として1920~1930年代の昭和恐慌を検討した共同研究。私は数式やグラフをみると頭が痛くなってくるので、そういう箇所はとばしながら通読(日経文化賞受賞作だから専門家の間で論拠の検証はクリアされているはず)、とりあえず読みながらとったメモを箇条書き。

・金本位制は貨幣と金(きん)の兌換を前提→金の自由な国際移動と国内における貨幣供給量とが連動→物価の自動調節機能を期待
・実際には、金流出国と金流入国とは非対称的で、教科書的にはうまくいかない
・WWⅠで各国は金本位制から離脱。戦後、徐々に復帰していたが、日本は関東大震災によるダメージなどのため復帰のタイミングが遅れていた
・浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は金解禁を断行。その背景には「金本位制心性+清算主義」イデオロギー。つまり、金解禁をすれば(グローバル・スタンダード!)、金本位制の自動調節機能によって不健全な状態にある財界の整理が進み(構造改革!)、一時的には苦しいかもしれないが我慢すれば経済の立て直しができる
・経済政策の割り当て問題。マクロ経済の安定と財界整理の問題とでは処方箋が異なる→前者を優先しつつ両方取り組む必要(石橋湛山、高橋亀吉、小汀利得、山崎靖純ら新平価解禁四人組はこの点を理解していた)→しかし、「金本位制心性+清算主義」の人々(マスメディア主流派や井上蔵相)はこの点を混同していた
・人々の経済行動はどんな予想をするかに応じて異なる結果をもたらす→予想の根拠となるゲームのルール=政策レジームを転換したことを人々に信用させる必要がある(デフレ下ではインフレ期待の形成が必要→リフレ政策)
・高橋是清蔵相が金輸出再禁止、国内の経済政策を自律的に展開可能→高橋財政は「二段階レジーム転換」という仮説を提示(金本位制離脱→国債の日銀引き受け)
・経済メディアの問題。経済の長期停滞の打開策を求める世論の期待があった。大新聞などの経済メディアの頭を縛っていた「金本位制心性+清算主義」イデオロギーが世論をあおり、井上蔵相もこれに便乗した。世間知と専門知とが乖離したとき、通俗的に分かりやすい世間知が政府の政策決定に強い影響を及ぼしてしまう問題(小泉自民党の郵政選挙を思い浮かべる)

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2009年4月15日 (水)

塩沢槙『東京ノスタルジック喫茶店』、常盤新平『東京の小さな喫茶店・再訪』

 学生の頃から折に触れて神保町など古本あさりにブラブラすることがあった。あの界隈には喫茶店が多い。古びて風格のある喫茶店の前を通りかかったし、作家などのエッセイでそうした店が出てきて気になってもいたのだが、若僧には何となく敷居が高かった。物怖じしなくなったのはようやく三十歳を過ぎてからだろうか。

 しかし、すでに喫茶店文化も様変わりしつつあった。侯孝賢監督「珈琲時光」という映画が好きなのだが、水道橋のエリカというお店がロケに使われていた。ああ、あの店かと思って行ってみたところ、閉店の貼り紙に涙をのむ。ほんの数ヶ月前に通りかかったときはまだやっていたのに…。二、三年ほど前か、知人から中野のクラシックというお店の話を聞き、行ってみたこともあった。不思議なお店だった。ほこりっぽくて薄暗い。木床のフロアが不規則に組上げられた迷宮構造。カフカの小説世界、たとえば『審判』を映像化するとしたらあの裁判所は私ならこんな感じにするかな、などと勝手にイメージをふくらませたが、とにかく物語の舞台にしたくなるような趣きだった。古時計や海外の置物みたいのがやたらと目立つ。面白い。客層も私と同世代が多く、みなアート系の感じ(私は違うが)。気に入ったので一月ほどしてもう一度行ったら、こちらも閉店の貼り紙。つい最近も、職場近くでそれなりに年月を経た良い感じの喫茶店をみつけ、一月ほどして再訪してみたら、やはり閉店していた。そんなことが続いている。

 東京の喫茶店がらみで二冊を手に取った。塩沢槙『東京ノスタルジック喫茶店』(河出書房新社、2009年)。著者は私と同年代。東京町歩き取材をしているうちに喫茶店の魅力にひかれたらしい。写真がふんだんに盛り込まれ、現在と過去を対比できるのが面白い。最初は写真主体の本に仕立てるつもりだったが、店の主人の話を聞いているうちに、店にまつわる人間模様の方が中心になったという。さもありなん。

 常盤新平『東京の小さな喫茶店・再訪』(リブロアルテ、2008年)。著者はもう七十代も後半。普段から通い慣れている喫茶店をめぐって思い出話がつづられる。やはりお店の人間模様が話題の中心となる。喫茶店エッセイではあっても、時にしんみりとした短編小説のような味わいも感じられる。昔と今の、喫茶店だけでなく人間気質の違いが窺えてくるのも面白い。

 二冊とも造本はきれい。何よりも、書き手の眼差しがあたたかいから読んでいてホッとします。

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2009年4月12日 (日)

福間良明『「戦争体験」の戦後史──世代・教養・イデオロギー』

福間良明『「戦争体験」の戦後史──世代・教養・イデオロギー』(中公新書、2009年)

 「平和への思いを新たにするために、戦争体験を語り継がなければならない」──確かに正論である。異議はない。しかし、それぞれに多様であり、また苛酷ですらあった“戦争体験”の“語りがたさ”を前にして、語り継ぎの中にはひょっとして断絶があったのではないか。本書は、“教養”の世代間ギャップという観点によって“戦争体験”の語り継ぎの変容を検討した知識社会学的な論考である。

 体験した者でなければ分からない“戦争体験”を語る戦中派の態度に(もちろん意図的ではないにしても)有無を言わせぬ威圧を戦後生まれの年少者は受け止めた。それはあたかも、彼ら戦中派自身が、大正教養主義にひたった戦前派世代から教養の欠如を蔑まれ(戦中派世代には言論統制の中で幅広い教養に接する機会がなかった)、従属を迫られたときの語り口によく似ていると本書は指摘する。

 例えば、立命館大学のキャンパスにあったわだつみ像を全共闘が破壊した事件が取り上げられる。彼らにとってわだつみ像は「反戦」のシンボルではなく、「戦後民主主義」を支えた知識人の傲慢さと映っていた(同様に、東大で丸山眞男がつるし上げられた事件にも言及される)。“戦争体験”の偶像化により、その位置付けられた脈絡がすり替わってしまっていた。そして現在においては、戦争体験の語り→「英霊」の顕彰につなげる議論と、日本の戦争責任→加害責任を問う議論という二項対立の状況を呈している。それぞれ自分たちの好みに合うように“戦争体験”を政治的に消費するばかりで、相互のコミュニケーションが断絶してしまっている。

 ここしばらく、右寄りの議論が随分と幅を利かせているように見受けられる。進歩主義的な観念論が相対化された点は歓迎できるものの、そのかわり逆方向に極端化した感情論があまりにも強すぎて私には違和感がぬぐえない。これもまた、かつて学界・言論界でヘゲモニーを握っていた“左翼”に対する反発の不健全な表面化と言うことができるだろう。地に足のついた議論を進めるためにはこうした呪縛から解き放たれねばならないわけだが、本書にはそのための示唆があるように思う。

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デイヴィッド・リーフ『死の海を泳いで──スーザン・ソンタグ最期の日々』

デイヴィッド・リーフ(上岡伸雄訳)『死の海を泳いで──スーザン・ソンタグ最期の日々』(岩波書店、2009年)

 MDS(脊髄異形成症候群)、つまり血液のガンの宣告を受けたスーザン・ソンタグ。ジャーナリストでもある息子が彼女の死までの様子をつづる。もちろん、あのソンタグのことだ、よくあるお涙ちょうだい的な闘病記とは全く異質である。人によって読み方は色々とあろうが、生き続けることへの執着が凄絶だ。

 事実を理解して対処する、そうした“理性”的な能力への自信があるからこそ、ソンタグはこれまでの人生を乗り切ってこられた。その意味で、知識=希望と言える。しかし、今回は事情が違う。ありのままの現実=死なのである。彼女はそれでも生き続けようと情報を集め、最先端の医師を探し、そしてもがく。ニュー・エイジ思想や仏教に傾倒する友人たちが“悟り”を説くが、そんなものは一切拒絶する。“理性”という次元を超えてしまった徹底した“理性”主義。逃れようのない現実にぶつかったとき、それを直視しようとする“理性”は時に過酷であり、残酷である。

 彼女の生き続けることへの執着は、マイナスの意味を帯びたいわゆる“執着”の醜さというのとはちょっと違って、そうせざるを得ない彼女自身の性(さが)なのかもしれない。スピリチュアルな慰めなんてものが所詮は現実逃避の自己正当化に過ぎないことを考え合わせると、彼女の生への執着は、変な言い方だがむしろ潔くすら感じさせる。そのもがきのよって来たるところをおそらく彼女自身はっきり理解していたであろう、そしてその苦しみを引き受けていたという点で。もちろん、どちらが良い悪いという話ではない。死をめぐる問題について、今の私には断案がつかない。

 それにしても、訳文がひどいねえ(苦笑)

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2009年4月11日 (土)

川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』

川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年)

 第一次世界大戦の結果、今後もし先進国の間で戦争が起こるとすれば、それは全国民を巻き込む激しい総力戦になるであろうという認識が一般に共有されていた。戦争抑止のため国際連盟、軍縮会議、不戦条約などの努力がなされてきたが、その効果についてはどのように考えられていたのだろうか?

 浜口雄幸は肯定的であった。国益の伸張手段を軍事力に求めるのではなく、経済的な国際競争力を強化して輸出市場の拡大を目指した。その点で、内政における金解禁政策、産業合理化政策、財政緊縮政策、そして外交面において国際協調の観点から軍縮を進める方針はすべて連動していた。中国に対しても、軍部が進める分離工作によって中国側の反感をいたずらに買うのではなく、むしろ中国の主権を尊重して輸出市場として経済的な協力を図るべきだと考えていた。

 対して、永田鉄山は国際協調に懐疑的であった。永田にしても、国際連盟・国際法の確立によって平和が実現できるのであれば本来その方が望ましいとは考えていた。しかし、そうした制度・規範を裏付ける制裁手段が現実には存在しない。もし紛争が起これば、国際規範に実効性がない以上、自力救済を図るしかない。総力戦という時代認識を踏まえ、高度国防国家構想を模索、軍事力整備のため資源を求めて満蒙・華北領有の方針を示した。

 国際関係論の分析視角で言うと、浜口はリベラリズム、永田はリアリズムと分類できるだろう。対外認識というのは、政策形成のロジックを組み立てる前提である。この前提となる認識のあり方における相違が、結論として導出される政策を大きく左右する。本書は浜口・永田という二人を、それぞれの政策形成ロジックのいわば理念型に仕立て上げることで、昭和初期における日本の政治方針の分岐点がすっきりと整理されており、興味深く読んだ。

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2009年4月10日 (金)

狩野博幸・横尾忠則『無頼の画家 曾我蕭白』

狩野博幸・横尾忠則『無頼の画家 曾我蕭白』(新潮社、2009年)

 先日、「日曜美術館」で曾我蕭白の特集をやっていた。蕭白のことは辻惟雄『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫、2004年)で彼の絵を初めて見てから気になっていた。日本画の枯淡と言ったらいいのか、ああいうのは私にはちょっと退屈に感じてしまうのだが(奥深さが私には分かりませんので)、対して、蕭白や、あるいは岩佐又兵衛にしても、視覚的に直截なインパクトは一目見たらもう忘れられない。

 蕭白の描く賢者・仙人の顔はグロテスクにゆがみ、人間が一面において抱えているドロドロとしたものをことさら誇張しているように見える。逆に、本来恐ろしい形相のはずの龍や獅子や鬼は、目がキョトンとして情けなく、ユーモラスというか、かわいらしくすら感じさせる。画題は一応、伝統的なものを踏襲してはいるのだが、コンヴェンショナルな意味づけに敢えて偶像破壊的に刃向かっていると言ったらいいのか。ただし、“反抗精神”なんてカッコいい言葉にまとめてしまうと、違う。こう描かざるを得ない何か鬱積したものが蕭白の中にドロドロと渦巻いていたのだろう。描き手の強烈な感情が絵画という媒体にモロにぶつけられていくのは近代絵画では当たり前のことだが、蕭白の場合、それが江戸時代の日本画で見られるというのが私には非常に新鮮だった。

 蕭白のような強烈な個性発露的なものを受け容れる土壌がこの時代すでにあったのではないかと狩野氏は指摘する。儒学思想では本来“中庸”を尊び、それが求められなければ次善のものとして“狂”(一本気な個性追求と言い換えてもいいだろう)を選ぶという順序である。しかし、江戸時代の日本にも入ってきた陽明学左派ではこれが逆転し、“狂”の方を“中庸”よりも重視する。考えてみれば、たとえば吉田松陰なんかも李卓吾を尊敬した“狂”の人だ。絵の話から離れてしまうけど、蕭白や松陰など、“狂”→個性発露的な感性として江戸時代の思想史を考えてみたいという興味がひかれているのだが、私の能力にはあまる。

 ところで、四月から「日曜美術館」の司会は姜尚中さん。別に彼を否定するつもりはないんだけど、陳腐なコメントはやめてくれ…。興ざめというか、イライラする…。芸術を語れるような感性じゃないよ、あの人。「日曜美術館」を見る楽しみが半減するなあ…。

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2009年4月 9日 (木)

ジョン・J・ミアシャイマー&スティーヴン・M・ウォルト『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』

ジョン・J・ミアシャイマー&スティーヴン・M・ウォルト(副島隆彦訳)『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(Ⅰ・Ⅱ、講談社、2007年)

 ミアシャイマーはシカゴ大学教授、ウォルトはハーヴァード大学教授、共に国際関係論におけるネオリアリズムの理論家として著名である。二人ともリアリズムの立場からブッシュ政権のネオコンが画策したイラク戦争を批判。アメリカはなぜ自らの国益に反する外交政策を強行してしまったのか? そうした問題意識からイスラエル・ロビーがアメリカ政治に及ぼす影響を本書は指摘する。アンチ・セミティックなキワモノ陰謀論とは違ってきちんとした政治学的分析なので、その点は誤解なきよう。

 開放的な議会制度をとるアメリカ政治において利益団体政治(ロビー活動)は一般的に行なわれているが、イスラエル・ロビーもまたこの経路を利用して影響力行使に努めている。リアリズムの観点からすれば、イスラエルが自らの国益追求のため最も効果的な手段を選ぶのは当然のことである。しかし、それが果たしてアメリカ自身の国益にかなうのかどうかが問題である。

 イスラエルへの過度の支援が中東諸国からの激しい反米感情をもたらす一因となっており、戦略的観点からすればアメリカにとって明らかにマイナスである。ホロコーストへと至った反ユダヤ主義→ユダヤ人たちの自前の国を持ちたいという願いは当然のことであるが、しかしながら、パレスチナ問題の実際を見れば、人道的根拠から現在のイスラエルの行動を正当化することはできない。イスラエルだって普通の国である。正しいこともすれば、間違うこともある。同情すべきところ、賞賛すべきところは素直に認め、同時に間違ったことをすれば非難するのは当然のことである。

 ウォルトの提唱するオフショア・バランシング(他地域の問題にアメリカは過度に関与すべきではない、アメリカがパワーを行使するのはその地域におけるパワー・バランスが崩れそうな時にだけ限定すべきという戦略論)の観点では、アメリカはイスラエルからもアラブ諸国からも一定の距離を置く必要があるのに、イスラエルはアメリカを中東情勢へ意図的に巻き込み、結果としてアメリカの国益が大きく損なわれていると考える。そればかりでなく、アメリカがシリアやイランと敵対関係になければ、これらの国とイスラエルとの仲介役を果たすこともできたはずで(カーターがエジプト・イスラエル平和条約の締結に尽力したように)、そうした可能性を奪ってしまっている点で長期的にはイスラエル自身の国益にも反している。カーターがパレスチナ問題でイスラエルを批判すると、イスラエル批判→反ユダヤ主義者とロジックをすりかえた中傷キャンペーンがカーターに対して行なわれたらしい。こうしたやり方が、選挙を気にするアメリカの政治家にとってイスラエル批判をしづらい空気をつくっている。国益を基準とした利害計算に徹する→合理性のない政策決定がもたらす無用な混乱を避ける、というところに本書の眼目がある。

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2009年4月 8日 (水)

エブー・パテル『アクツ・オブ・フェイス:あるアメリカ人ムスリムの物語、ある世代の魂を求める闘い』

Eboo Patel, Acts of Faith: The Story of an American Muslim, the Struggle for the Soul of a Generation, Beacon Press, 2007

 Acts of Faithというタイトルは、「信仰の原則」(act→法令だと日本語にするとそぐわないな)とすべきか、それとも「信仰の実践」、「信念の行動」か。全部の意味がかけあわされているのだろうな。著者はインド系アメリカ人のムスリム。彼自身、アメリカ社会に育ちながら、自分は一体何者なのか?というアイデンティティの分裂に苦しんでいた。しかし、ボンベイ(ムンバイ)でムスリムとしての慈善活動に取り組む祖母をはじめ、異なる宗教の信者も含め様々な人々と間近に接した体験を通して、ムスリムとしての自覚で克服する。自分と同世代の若者たちが宗教的過激主義に走っている現状について、心の拠り所を持たない彼らを過激主義が利用していると危機意識を持ち、Interfaith Youth Coreを設立した。彼の言う宗教的アイデンティティの確立は決して排他的なものではない。歓待、寛容、同情、慈悲などの価値観は宗教が異なってもあるはずで、異なる宗教の若者たちが互いにそうした共通の価値観について語り合うことによって宗教上の多元性を目指そうとしている。

 こうした活動は一定の知的水準を持つ人たち相手なら通用するだろうが、どこまで広がりが持てるのか私にはよく分からない。しかし、そんな私のようなシニカルな懸念には惑わされず、実地にひたむきに活動しているところはやはり貴重だと思う。

 ガンジーが、“真理”というのはどの宗教もちゃんと説いている、自分はヒンドゥー教徒だからバガバット・ギーターを読むし、キリスト教徒なら聖書を読めばいいし、ムスリムならコーランを読めばいい、そんな趣旨のことを言っていたのを思い出した。一にして多、多にして一。山の頂は一つだが、登り口はたくさんあり得る、そんなイメージ。何年か前、あれは紀伊国屋セミナーのシンポジウムだったか、今言ったような趣旨でインド研究の中島岳志さんが、ナショナルな自覚を持ちつつナショナリズムを克服する方向性としてガンジーと井筒俊彦の思想に関心を持っていると発言していたのも思い出した。当然、本書Acts of Faithでもガンジーに言及されているし、ムスリムとしてはアブドゥル・ガファル・カン(Abdul Ghaffar Khan。もしくは、バドシャー・カン Badshah Khan)の名前も挙げていた。パシュトゥン人出身、ガンジーに呼応して現在のパキスタン北部あたりでムスリムの非暴力運動を指導した人物。“辺境のガンジー”と呼ばれている。彼については私も以前から関心があって、文献も2冊ほど入手してあるのだが、怠惰なもので勉強が進みません…。

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2009年4月 7日 (火)

黄俊傑『台湾意識と台湾文化──台湾におけるアイデンティティーの歴史的変遷』

黄俊傑(臼井進訳)『台湾意識と台湾文化──台湾におけるアイデンティティーの歴史的変遷』(東方書店、2008年)

 台湾アイデンティティーの変遷を通史的に整理した論文集。簡にして要を得た見取り図を提供してくれる。時代区分でみると、
①明清時期(鄭成功~日清戦争):中国大陸から移民→大陸での出身地別の帰属意識→互いに抗争しており、まとまった台湾意識は乏しかった。
②日本統治期:日本による支配・差別→被支配者としてのまとまり→民族意識及び階級意識としての「台湾意識」が現われる。
③光復期(1945~1987年):50年にわたる大陸との断絶、国民党の腐敗、外省人側の優越感→台湾人/外省人=被支配者/支配者という二分法の中で台湾意識(いわゆる、省籍矛盾)。
④ポスト戒厳令期(1987年~現在):閩南人、外省人、客家、原住民をひっくるめて長年同じ島に暮らしてきた事実、大陸との相対的関係→「新台湾人意識」。

 日本統治期において、特に知識人には文化的アイデンティティーとして中国への「祖国意識」を持つ傾向が見られた。そこには日本人による抑圧への反発という契機もあった。しかし、見たことのない「祖国」→抽象的な理想化→現実を知ると幻滅、とりわけ二・二八事件が決定的となった。日本人もしくは外省人の優越的地位→抑圧された側の抗争論述として「台湾意識」が形成された点に大きな特徴があると言える。

 現代台湾については、①農業社会→工業社会への急激な転換、②教育の普及、③戒厳令解除以降の政治的民主化、こうした点を背景に、華人社会としては初めて「個体性」の覚醒(良い意味でも悪い意味でも個人主義)が見られるとも指摘される。

 空白の主体としての「新台湾人意識」という指摘に興味を持った。「新台湾人」と言っても実質的な内容はない。しかし、空疎なスローガンだからこそ、中台統一派も台湾独立派もそれぞれの解釈から異なる意味を読み込んでこの言葉を使っているという。異なる読みの余地を残しながら同じ言葉を使っているという点で、前回取り上げた林初梅『「郷土」としての台湾──郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』(東信堂、2009年)の指摘を思い出した(→こちらを参照のこと)。実質のないスローガンというのは本来なら否定すべきものとは思うが、考え方を切り替えれば、言葉のシンボルとしての機能が対立する立場を曖昧なままに統合していける、少なくともその可能性があり得るというところが非常に面白い。

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2009年4月 6日 (月)

山﨑直也『戦後台湾教育とナショナル・アイデンティティ』、林初梅『「郷土」としての台湾──郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』

 NHKスペシャル「シリーズ・日本デビュー」の第一回「アジアの“一等国”」のテーマは台湾。新興帝国主義・日本が“一等国”としての体面を立てるために初の植民地・台湾で行なった統治政策のマイナス面、とりわけ皇民化教育に焦点を合わせていた。

 たまたま読んでいた台湾アイデンティティをめぐる研究書を二冊。日本の植民地支配が押し付けた「日本人」アイデンティティにせよ、国民党が押し付けた「中華民族」アイデンティティにせよ(番組の最後に蒋介石の姿がチラリと映ったが、彼による弾圧は日本に劣らない)、台湾土着の人々にとっては外来思想にすぎなかった。自前の国を持てなかった悲哀。自分たちの生活感覚にフィットしたアイデンティティ意識をどこに求めるのかという問いかけが台湾現代史には一貫して見えてくる。

山﨑直也『戦後台湾教育とナショナル・アイデンティティ』東信堂、2009年

 本書は戦後台湾における国定教科書の分析を通して、台湾アイデンティティのゆらぎと教育との関わりを検討する。国家発展という至上目標のため人的資源開発→教育は手段として国家に従属、進学熱→「悪性補習」(詰め込み教育や健康を害するほどの受験負担。ツァイ・ミンリャン監督「青春神話」の鬱屈した少年の姿を思い出した)、教育先進国のモデルへの過度の依存といった特徴は一貫してみられるという。

 一方で、1994年(李登輝政権の頃)の「国民中学課程標準」を分岐点として以下の変化が指摘される。かつての国民党による中国化教育期においては「忠勇愛国」の美徳が強調され、その忠誠の対象は国家=中華民族とされていた。94年以降は政治における「本土化」の流れを受け、重層的なアイデンティティ意識(四大族群の共存としての台湾イメージ:例えば、アミ<台湾人<中華民族<アジア人という同心円モデル)や三民主義教育の相対的縮小→脱「中国」化の傾向が見られる。『認識台湾』において「中国」(清)の統治と日本の統治とを同列に並べる→日本の植民地支配の客観的認識も連動している。ただし、族群政治がまだ進行中の現在、中台関係を横ににらみながら、「中国」化教育と「本土化」教育が並存しており(ピンインをめぐる論争などが挙げられる)、今後どのような方向に進むかは流動的である。(本書の奥付発行日は2月28日となっているが、意図してつけたのだろうか)

林初梅『「郷土」としての台湾──郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』東信堂、2009年

 本書は1990年代以降の郷土教育(具体的には歴史と言語に関わる)に着目して台湾アイデンティティのゆらぎを考察する。その前段階として日本の植民地統治期及び国民党による中国化教育期におけるそれぞれの郷土教育観が取り上げられる。台湾という「郷土」→「日本」もしくは「中国」という上位レベルへ結び付けられる同心円構造を持っていた点で両者は共通するが、日本時代は身近な生活領域としての郷土性が意識されていたのに対し、中国化教育期は郷土としての台湾の特殊性への言及がほとんどなかった点で異なるという。

 郷土教育はそうした中国化教育内容の画一性から脱却しようという動きとして表われたが、同時に、台湾内のエスニック集団の多様性という問題に直面することになる。閩南語文化=台湾文化としてしまうと、客家系や原住民、さらには外省人も無視されてしまう。このとき、「台湾」ではなく「郷土」という曖昧な表現が、こうした台湾内部の多元性を統合する機能として働いたという指摘が興味深い。政治レベルにおいては、「郷土(台湾と読み替え可能)→中華民国→世界」(国民党など)と「郷土→台湾→世界(中国を含む)」(民進党など)という二つのナショナル・アイデンティティがせめぎあっているが、「郷土」という表現の両義性によって教育現場は政治的対立を回避、むしろ郷土教育の内容の多様性を生み出せたのだという。多文化主義の台湾=単一の中華民族ではない、という形で今後の台湾におけるナショナル・アイデンティティの方向性を本書は見出している。

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三上章『象は鼻が長い』

 街の語学者、三上章(1903~1971年)。金谷武洋『主語を抹殺した男 評伝三上章』(講談社、2006年)で著者は三上文法と出会った衝撃をつづっている。たとえば、「好きです」→「I love you」→「私はあなたを好きです」。この不自然さは一体何なのだ! 英語の基本文型はSVOであり、必ず主語がないと文は成立しない。だから、たとえば「10時です」→「It is ten o’clock」というふうに意味のないitが要求されたりする。だけど、そんなのあくまでも英語側の事情にすぎない。問題は、日本語を説明するのに、西欧語的なSVO式の文法理論を借用して不自然な日本語文法をつくってしまったこと。三上の結論──日本語に主語はない。「主語専制の外国式よりも補語の共和制」。

 三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版、第10版、1979年)をひもとく。「象は」というのは西欧語的な主語ではなく、題目の提示、つまりこれからこんなテーマについて言いますよという態度を表わす。この着想を軸にして日本語文法を説明していく。西欧語文法理論をそのまま移入して事足れりとしてきた学界本流に対する闘争心だけでなく、漢文口調が日本語の自然な流れを阻害しているという問題意識も目に付いた。いま自然に使っている日本語のありようを、妙な借物理論なんかで汚さずにありのままに見つめていこう、そうした点で三上は国学の系譜を受け継いでいるようにもうかがわれた。

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2009年4月 5日 (日)

ケント・E・カルダー『日米同盟の静かなる危機』、孫崎享『日米同盟の正体──迷走する安全保障』

ケント・E・カルダー(渡辺将人訳)『日米同盟の静かなる危機』(ウェッジ、2008年)

 歴史的・文化的・経済的な背景も政策意思決定のあり方も全く異なる日本とアメリカ。ダレスのつくった非対称的な性格を持つ日米同盟は安全保障と経済とをいわば取引して成立してきたと言えるが、1990年代以降、グローバリゼーションの進展によって弱体化しつつあるという問題意識を本書は示す。本書は“同盟”概念の比較政治史的な考察を踏まえ(イギリス・ポルトガル同盟が600年以上も続いていることは初めて知った)、そのケース・スタディとして日米同盟を検討していると読むこともできる。

 かつて、同盟とはパワー均衡のための戦略的手段にすぎず、用が済めば解消されてしまう程度の短命なものだったが、現代においては経済繁栄や相互依存などを保障する制度的枠組みとしての新たらしい意味も持つようになり長期化している。その長期化の要因について本書は“同盟の自己資本”という分析概念を提示する。9・11以降、日米同盟における軍事協力は強まったが、同盟を包括的に支える経済的基盤や人的な政策ネットワークは弱まり、両国内におけるコンセンサス(日本では安全保障の問題について国内世論の反発が強い)は同盟の当初から欠いたままであることを指摘、具体的な提言へとつなげる。著者はジョンズ・ホプキンス大学エドウィン・ライシャワー東アジア研究所長である。

孫崎享『日米同盟の正体──迷走する安全保障』(講談社現代新書、2009年)

 日米同盟は非対称的と言われるが、アメリカの世界戦略にとって重要な拠点を日本は提供して利益をもたらしており、互いにないものを補い合ってウィン・ウィン関係にもっていくという点では取引は十分に成立していると本書は指摘。近年、日米同盟のあり方が対米追随の方向で変質しつつあり、日本の自衛隊はアメリカの世界戦略の下で応分の危険な負担を強いられることになるだろう、その傾向はオバマ政権になっても変わらないという現状認識を示し、日本独自の道を考えるべきことを主張する。

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2009年4月 4日 (土)

『昭和の東京──路上観察者の記録』

路上観察学会(赤瀬川原平・藤森照信・南伸坊・林丈二・松田哲夫)『昭和の東京──路上観察者の記録』(ビジネス社、2009年)

 街をブラブラ歩きながら、何気ない佇まいに情緒を感じて一人勝手に感動したりするのが私は好き。古い建物、キッチュな看板、変なんだけど妙に気持ちがひかれるものが、目を凝らせば街には結構ある。本書は、街歩きの達人たちが撮り集めた、東京に残る昭和の“古き良き”変なものの写真集。こういう本は大好き。

 路上観察学というのはなかなか奥が深い。必要とされるのは、第一に、着眼点。第二に、その背景を説明する博識。第三に、写真につけるキャプションでオチをつけるユーモアあふれる機知。とりあえず、赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987年)、藤森照信『建築探偵の冒険 東京篇』(ちくま文庫、1989年)、赤瀬川原平他『路上観察学入門』(ちくま文庫、1993年)、『トマソン大図鑑』(無の巻、空の巻、ちくま文庫、1996年)、藤森照信・荒俣宏『東京路上博物誌』(鹿島出版会、1987年)といったあたりはどれもオススメ。

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メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』

メアリー・C・ブリントン(池村千秋訳)『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版、2008年)

 ニート、フリーター、ひきこもり、ワーキング・プアetc.…と様々な言葉がとびかっているが、日本の若者が直面している問題をどのように捉えたらよいのか? 保守系論壇にありがちな価値観的な“べき”論に収斂させてしまう議論は現状にそぐわない。若者に意欲がないのが問題→自業自得という形でむしろ妙なスティグマを負わせてしまう。社会構造のはらむ問題として彼ら(と言うか、私自身も世代的に含まれるのだが)の立ち位置を考える必要がある。

 1990年代以降の不況→就職市場の狭まりも一因ではあるが、これだけでは説明のつかないところに本書は着目。学校→職場という「場」の単線的な経路をたどる就業形態が崩れてしまっている。社会関係資本の観点から言うと、日本は「場」の拘束が強い→ストロング・タイズ(強連結)が中心だが、職場の流動性の高いアメリカのようなウィーク・タイズ(弱連結、広く浅い人脈の広がり)に乏しい→多様な情報が入ってこないことを指摘。自分はどんな仕事をしたいのか、どんな適性があるのか、それを各自で探りとらせるにはどうすればいいのか。職場環境が流動的となっている現在、対人関係能力とウィーク・タイズを高めて社会的エクスプローラーとして様々な「場」を渡り歩けるようにする方向で社会は若者を支援していく必要があると主張している。

 本書では非進学校出身の若者に焦点を合わせているが、教育機会とステータスとの関わりについて、佐藤俊樹『不平等社会日本──さよなら総中流』(中公新書、2000年)は教育資源の親子間継承→社会的ステータスの階層的固定化傾向を指摘、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂高文社、2001年)は、将来何の役にも立たないのだから勉強しても仕方がないというあきらめが青少年の間に広がっている→インセンティヴ・ディヴァイドを指摘していた。企業が雇用調整という形で若者(フリーター)を使い捨てにしていることは玄田有史『仕事の中の曖昧な不安──揺れる若年の現在』(中公文庫、2005年)が早くから指摘、また、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)は“即戦力”志向が若者に行き過ぎた負担をかけている問題点を指摘していた。学歴や家族構成が就業機会を左右してしまう問題は岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)でも指摘されていた。若者のワーキング・プアについては雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)などが具体的な現状をルポしている。本田由紀『若者と仕事──「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会──ハイパー・メリトクラシー化の中で』(NTT出版、2005年)は、問題意識では本書と共通するが、対人関係能力もまた各自の生育環境によって左右される(恵まれた家庭環境の方が有利)→学校等で習得可能な「専門性」をまず足場にする必要があると主張していた(そう言えば、玄田さんの「ニート」論が一人歩きしてしまっていることについて本田さんが批判していたな→本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』[光文社新書、2006年]を参照のこと)。なお、ストロング・タイズとウィーク・タイズについては金井壽宏『働くひとのためのキャリア・デザイン』(PHP新書、2002年)が経営学におけるキャリア論の観点から取り上げていた。

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2009年4月 3日 (金)

イアン・ブルマ『アムステルダムの殺人:リベラルなヨーロッパ、イスラム、そして寛容の限界』

Ian Buruma, Murder in Amsterdam: Liberal Europe, Islam, and the Limits of Tolerance, Penguin Books, 2007

 ある一つの理念というのは、その置かれたコンテクストに応じて意味合いが異なってくることがある。オランダ社会の基本原則とも言うべき多文化主義。かつて左派は普遍的価値の下でマイノリティーへの寛容を説き、右派は“我らの文化・伝統”を守るべきという立場から左派を批判していた。しかし、現在、左派がマイノリティーの“彼らの文化・伝統”の擁護を訴えるのに対し、右派は普遍的価値を根拠にマイノリティーが“彼らの文化・伝統”に固執していることを批判する論陣を張っている。“普遍的価値”の基準をどこに置くかによって逆転現象が起こっている。

 ポピュリスティックな政治家として脚光を浴びたピム・フォルタイン(Pim Fortuyn)はゲイである。ゲイとしての権利も擁護するのがオランダの寛容な社会なのに、イスラムは多元的な寛容に対して不寛容であると批判した。移民への悪感情も相俟って人気が出て次期首相候補とまで目されたが、動物愛護主義者によって暗殺された。

 評論家・映画監督のテオ・ヴァン・ゴッホ(Theo van Gogh あのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの弟テオの子孫)の場合、事情はもっと複雑だ。彼は挑発的・偶像破壊的な言動で人を驚かすのが大好きな天邪鬼であって、もともと人種偏見的な考えは持ち合わせていなかった。かつて、寛容な社会を求める普遍的価値は既存の体制を批判する根拠となっていたが、やがてこの理念は社会の基本原則として受け容れられて体制化し、理想主義そのものが陳腐化してしまった。リベラルな理念は当たり前すぎて、もう飽きた。多文化主義がステータスを獲得してエリートがお説教するのに使う道具になっていることをテオは意図的に挑発、刺激を求めてイスラムを揶揄した。問題なのは、テオ自身はただの悪ふざけのつもりだったが、そうは受け止めない人々の存在を無視していたことである。2004年11月、モロッコ系移民のモハンメド・ボウイェリ(Mohammed Bouyeri)によって殺害されてしまう。

 フォルタインとヴァン・ゴッホはヒーロー、ボウイェリはアンチ・ヒーロー、そんな単純な構図にまとめることはできない。ソマリア出身で無神論を主張し、オランダの国会議員にもなった元ムスリム女性アヤーン・ヒルシ・アリ(Ayaan Hirsi Ali)に対してもボウイェリは暗殺対象として狙っていたが、それは、彼女の主張の是非以前に、彼女がオランダ社会に同化した成功者であること自体にも理由が求められる。寛容な社会のはずなのに壁が高く立ちはだかり、自分の歩むべき道を見出せないという行き詰まり感がボウイェリをはじめとする移民出身の青年たちにあった。“寛容”を偽善と捉え、それへの攻撃的な憎悪がイスラムのロジックを衣としてまとっていたと言える。

 異なる価値観の衝突と考えてしまってはあまりにも短絡的だろう。“寛容”という言説そのものが色褪せて説得力を失って、それでもなおかつ異なる価値観の共存を図ろうとするとき、一体どうすればいいのか。本書は、そうした問題が先鋭的に表面化したオランダで関係者を取材したノンフィクションである。著者も言うように、これは他の国でもあり得る事態であって、考えるべき貴重な問題提起をはらんでいる。

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2009年4月 2日 (木)

小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』

小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』(三元社、2009年)

 第一次世界大戦後、バルト三国は独立したものの、1939年の独ソ不可侵条約(モロトフ・リッベントロップ協定)に基づき、1940年、ソ連に併合された。1991年に再び独立を果たしたが、誰を以てエストニア国民とみなすのかという微妙な問題に直面した。かつてはエストニア人の占める割合が九割と同質性が高かったが、ソ連時代にロシア人の移住者が増えていた。ソ連時代のエストニア社会主義共和国を継承すると考えれば、彼らもまたエストニア国民とみなすべきである。しかし、ソ連時代を不法な占領をみなし、1940年以前のエストニア共和国との連続性を強調するロジックをとって、彼らロシア人の存在は不当だとする考え方が強まったという。

 多文化主義を建前としつつ、エストニア語の話者を以てエストニア国民と規定する法制化が行なわれ、この場合、ロシア人もエストニア語を習得すれば国民とみなされる(かつてはロシア語優位でエストニア語と共存→今度はこれを逆転させるという構図)。しかし、独立後の政治過程を考察すると、こうした法制上の問題にかかわらず、実際にはロシア人の存在そのものを不当と考え、この立場を正当化する歴史認識が背景にあると指摘される。

 EU加盟についての国民投票をみると、賛成派も反対派もロシアの脅威を意識しているという。賛成派は、ロシアの脅威→EU加盟という考え方。反対派は、かつて独立を失った経緯を踏まえてロシアと協調すべきという考え方。EU加盟を果たして、ではヨーロッパ化が順調に進んだか。まず、マイノリティーとしてのロシア人の扱いが問題として残っている。それから、第二次世界大戦において、ナチス側に立ってソ連軍と戦った人々のモニュメントの問題→エストニアではユダヤ人が少なかったこともあって、ホロコーストの問題に鈍感→ヨーロッパと歴史認識を共有できるかどうかという問題も表面化したと指摘される。歴史認識のあり方とナショナル・アイデンティティーとが絡み合って現在の政治動向を左右しているのを描き出しているところが興味深い。

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「中原淳一展」

「中原淳一展」

 先週、「新・日曜美術館」で中原淳一の特集をやっていた。中原は戦前から少女雑誌のいわば牽引役を務めてきた。彼の描く少女たちの姿は、昭和前半期のレトロなイメージの代表格として誰しも思い浮かべられる点で、一つの時代の文化的雰囲気を作ったと言ってもいいくらいだろう。おめめパッチリ、瞳の中でお星様キラキラ。少女マンガの源流は中原のイラストにある。明朝体風の乙女チックなロゴデザインも印象に残っている。時代がくだるにつれて少女のアゴのラインが細くなっていることを番組中で井上章一さんが指摘していたが、かわいい女の子→カッコいい女の子という変遷が見える。中原の描く少女は、たまに見る分には結構嫌いじゃない。柏木博さんは、イラストというだけでなく、雑誌編集者として評価していた。

 銀座松屋で「中原淳一展」をやっていた。彼が初めて個展を開いたゆかりの場所らしい。職場から近いのでちょっと抜け出して見てきた。ビアズレーを思わせる影絵風の絵は意外だったけど、これはなかなか好きだな。来場者の九割以上はおばさん、おばあさんで占められていて、私はちょっと浮いていたかもしれない…。

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2009年4月 1日 (水)

スティーヴン・M・ウォルト『米国世界戦略の核心──世界は「アメリカン・パワー」を制御できるか?』

スティーヴン・M・ウォルト(奥山真司訳)『米国世界戦略の核心──世界は「アメリカン・パワー」を制御できるか?』(五月書房、2008年)

 スティーヴン・ウォルトはハーヴァード大学ケネディ行政学院教授、国際関係論におけるネオリアリズムの理論家として知られる。ブッシュ政権によるイラク攻撃を批判してネオコンとは対立した。リアリズムでは国益優先が議論の大前提だが、未熟な大国という自己認識を踏まえ、アメリカの単独優位を長期的に保つためにこそ、過剰なレトリックに走らず自己抑制が必要だと指摘する。

 アメリカという単独優位のスーパーパワーの存在自体が、友好国であれ敵対国であれ、脅威と受け止められる。他国は、圧倒的に不利な状況下であってもアメリカの足を引っ張る手段を持っている。アメリカはやりたい放題できるかもしれないが、そのかわりコストが高くつき、結果として国益を大きく損ねてしまう。たとえアメリカ自身は主観的には善意だとしても、原則のないパワーの行使は不信感や警戒心を招き、他国は手を組んでアメリカのパワーを抑制する行動に出るだろう。こうした不信感をなくすことによって単独優位の現状を維持するのが長期的にはアメリカの国益にかなう。世界覇権を目指して何でもかんでも口を挟もうとするのではなく、アメリカにとって死活的な局面だけにパワーの行使を限定するオフショア・バランシングの戦略を取るべきだというのが本書の結論である。

 脅威を感じた他国はアメリカのパワーを抑制するためにどのような行動を取るか? 様々な手段があり得るが、アメリカの正当性を否認→孤立させることが基本的な方向性となるだろう。
・バランシング:外的バランシング(古典的なパワー・ポリティクスの考え方)と内的バランシング(自分たちの強みとなる手段を活用してパワーのギャップを埋めようとする。例えば、テロリズム)
・ソフト・バランシング:弱小国が手を組んでアメリカの正当性を否認(例えば、イラク戦争でアメリカは国連決議を得られなかった→大きな制約を課す)
・ボーキング:対立はしないまでも、要求を受け容れない
・バインディング(拘束):国際制度上の枠組みを通してアメリカの正統性を否認
・ブラックメール(恐喝):例えば、北朝鮮

 アメリカのパワーを如何に利用するかという観点から、弱小国側の態度を整理すると、
・バンドワゴニング(追従政策):アメリカが圧倒的な力を見せつけることで弱小国に言うことをきかせる→ネオコンはこれで失敗
・地域バランシング:アメリカのパワーを後ろ盾に地域的な影響力を確保する。例えば、日米同盟
・ボンディング(絆):アメリカとの密接な関係をアピールすることで広い影響力を確保する。例えば、英米同盟
・国内政治への浸透(penetration):アメリカの国内政治は開放的→ロビー活動(例えば、イスラエル・アルメニアなど→アメリカの国益に反する外交政策まで決めてしまうとして本書は批判的)。本書では取り上げられていないが、ボスニア政府がPR会社を使ってアメリカの国内世論を動かしたケースも挙げられるだろう(高木徹『戦争広告代理店』→こちらを参照のこと)

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