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2009年4月 4日 (土)

メアリー・C・ブリントン『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』

メアリー・C・ブリントン(池村千秋訳)『失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版、2008年)

 ニート、フリーター、ひきこもり、ワーキング・プアetc.…と様々な言葉がとびかっているが、日本の若者が直面している問題をどのように捉えたらよいのか? 保守系論壇にありがちな価値観的な“べき”論に収斂させてしまう議論は現状にそぐわない。若者に意欲がないのが問題→自業自得という形でむしろ妙なスティグマを負わせてしまう。社会構造のはらむ問題として彼ら(と言うか、私自身も世代的に含まれるのだが)の立ち位置を考える必要がある。

 1990年代以降の不況→就職市場の狭まりも一因ではあるが、これだけでは説明のつかないところに本書は着目。学校→職場という「場」の単線的な経路をたどる就業形態が崩れてしまっている。社会関係資本の観点から言うと、日本は「場」の拘束が強い→ストロング・タイズ(強連結)が中心だが、職場の流動性の高いアメリカのようなウィーク・タイズ(弱連結、広く浅い人脈の広がり)に乏しい→多様な情報が入ってこないことを指摘。自分はどんな仕事をしたいのか、どんな適性があるのか、それを各自で探りとらせるにはどうすればいいのか。職場環境が流動的となっている現在、対人関係能力とウィーク・タイズを高めて社会的エクスプローラーとして様々な「場」を渡り歩けるようにする方向で社会は若者を支援していく必要があると主張している。

 本書では非進学校出身の若者に焦点を合わせているが、教育機会とステータスとの関わりについて、佐藤俊樹『不平等社会日本──さよなら総中流』(中公新書、2000年)は教育資源の親子間継承→社会的ステータスの階層的固定化傾向を指摘、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂高文社、2001年)は、将来何の役にも立たないのだから勉強しても仕方がないというあきらめが青少年の間に広がっている→インセンティヴ・ディヴァイドを指摘していた。企業が雇用調整という形で若者(フリーター)を使い捨てにしていることは玄田有史『仕事の中の曖昧な不安──揺れる若年の現在』(中公文庫、2005年)が早くから指摘、また、玄田有史『働く過剰』(NTT出版、2005年)は“即戦力”志向が若者に行き過ぎた負担をかけている問題点を指摘していた。学歴や家族構成が就業機会を左右してしまう問題は岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)でも指摘されていた。若者のワーキング・プアについては雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)などが具体的な現状をルポしている。本田由紀『若者と仕事──「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会──ハイパー・メリトクラシー化の中で』(NTT出版、2005年)は、問題意識では本書と共通するが、対人関係能力もまた各自の生育環境によって左右される(恵まれた家庭環境の方が有利)→学校等で習得可能な「専門性」をまず足場にする必要があると主張していた(そう言えば、玄田さんの「ニート」論が一人歩きしてしまっていることについて本田さんが批判していたな→本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』[光文社新書、2006年]を参照のこと)。なお、ストロング・タイズとウィーク・タイズについては金井壽宏『働くひとのためのキャリア・デザイン』(PHP新書、2002年)が経営学におけるキャリア論の観点から取り上げていた。

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